管理部のジョージ・ゴードンはこの日、朝から不吉な出来事の連続だった。
 早朝、庭に群れで来たカラスの鳴き声に起こされ、ヒビひとつなかった愛用のコーヒーカップが突然割れ、買ったばかりの革靴の紐が切れた。
 とどめは彼の妻が夫を送り出す際に言った言葉──。
「今朝、嫌な夢を見たの。今日は早くお帰りになって」
 馬鹿馬鹿しいと思いつつ、家を出ると車庫の前で近所の黒猫が彼の前を横切った。
「……偶然に決まってる」
 フンと鼻で笑うも胸にもやもや感は残った。だが職場に着けば、あの嫌な男のせいで度重なる不幸の兆しは彼の頭からすっかり消えていたのである。
 ゴードンはあの男、ハリー・ブライアント少佐が嫌いだった。
 ハリー・ブライアントは自分より年長のゴードンをまったく敬わない。協調性というものが皆無である。愛想だとか可愛げだとか人当たりの良さというものは1ミリも持ち合わせていない。仕事は出来るが経費の使い方が荒い。そして何より、ハリーもまた彼を嫌っていた。二人とも自分の職務に真面目であるが故の衝突ではあるが、仕事上の対立も感情が高ぶればいつしか人間性を咎める罵り合いに発展してしまう。出来ればお互いのために関わりたくない相手である。
 だが、朝一番でハリーから回ってきた膨大な経費の精算書を見たゴードンは、今日という今日は勘弁ならぬと、アポをとった後彼のオフィスに向かった。


 オフィスには小柄な青年が一人居るだけだった。
「君だけか?ボスはどうした」
「あ、ゴードンさん。少佐は今資料室に行ってます。すぐ戻りますので掛けてお待ちください」
 その青年、クリストファー・ローレンは部屋の真ん中に脚立を置いているところだった。
「すみません、バタバタしてて。今コーヒーをお入れします」
「何をやってるんだ?」
 ゴードンは脚立を眺め言う。それは1メートル50センチほどもあろうかという無駄に高い脚立であった。
「蛍光灯がひとつ切れてしまって、交換するとこなんです」
「天井のか?危ないな、業者に任せればいいだろう」
「付け替えるだけですし、僕にも簡単に出来るんで」
 へらへらと笑いつつどこかおどおどとした物腰で、ローレンが手を拭きながらコーヒーの用意をし始め、ゴードンは大人しくソファに掛けた。
「他のメンバーは?」
「みんな外勤してます。ヨーロッパに出張している人もいますけど」
「君は留守番か?」
「はい。僕はまだ新米ですから」
 そう言ってローレンは照れ笑いを浮かべる。ぎこちない手つきでコーヒーを入れる様子を見ながらゴードンは秘かに、なかなかの好青年だなと思った。
 ローレンに限らずハリーの部下には真面目で謙虚な者が多い。意外であるが考えてみれば尤もな話である。上司の性格がああだからこそ常識ある部下がフォローし何とか上手くバランスが取れているのだろう。
 まてよ、とゴードンは考え込んだ。たった今、好青年と評価したこの男に何か引っかかるものがある。得体の知れない嫌な予感……。
「新しい豆なんですが、口に合えばいいんですけど」
 コーヒーをカップに注ぎソーサーに乗せる。ぎこちない手つきでカップがカチカチと音を立てた。その時、ゴードンに忌まわしい記憶が蘇った。
「待て!持ってこなくていい!そこに置け!」
「は?」
「私が取りに行く!」
 あれは今から数ヶ月前。此処ではない部署で彼はローレンに会っていた。ソファに座る彼にローレンがコーヒーを出そうとしてつまずいた。胸から膝にかけてコーヒーをぶちまかれ、新調したばかりのアルマーニが台無しになった。
──あの時の男かっ!
 怪訝そうに首をかしげるローレンを無視して自分でコーヒーカップを取り上げ来客用テーブルに置く。自分でやれば何ごとも起こらない。ゴードンは安堵の息を吐いた。
「すみません。じゃ、ちょっと作業させてもらいます」
 ローレンはそう断って脚立を登り始めた。蛍光管に手を掛け、押したり引いたりするがそれはなかなか外れない。
「あれ?きついな……。外れ……ない……」
 ローレンは実に要領が悪かった。力のかけ方が違うし持つ位置も違う。黙って見ていたゴードンは次第にイライラしてきた。
「ああ、そうじゃない。もっと引っ張るように端に寄せるんだ」
「あ、はい。……よっ!……くっ……うぅ、やっぱり外れません」
 とうとうゴードンは立ち上がった。
「どけ!私がやる!」
 ローレンの代わりにゴードンが脚立に上がった。そして蛍光管に手を伸ばしたところで、思い出して言う。
「スイッチは切ってあるんだろうな?」
「はい、切ってます」
 切れた蛍光管の交換など自宅で何度もやっている。ゴードンはいつもの要領で端に手を掛け、端子ピンに触れた瞬間──。
 突然肩に激しい痛みが走った。後ろから鈍器で力いっぱい殴られたような衝撃である。頭の中で「バン!」という音が聞こえた気がした。あまりの激しい衝撃で脚立から転がり落ちた彼は、この時自分が感電した事を悟った。
 不幸はそれだけで終わらなかった。
 床に仰向けに倒れたゴードンの目に、中途半端に外れた蛍光管が自分目がけて真っ逆さまに落ちてくるのが映った。
「ゴードンさん!」
 ローレンが悲鳴を上げる。ゴードンは咄嗟にごろごろと床を転がって蛍光灯の直撃を回避した。傍らで蛍光管が割れ破片が飛ぶ。
 悲劇の波状攻撃はまだ続く。床を転がった際、彼の足が脚立をなぎ倒したのだ。1メートル50センチのアルミ製の脚立がゆっくり彼に向かって倒れてきた。来客用ローテーブルのきわに倒れるゴードンに、もう逃げ場はなかった。
 もはやこれまで!と、腕で顔を庇った。だが、脚立は彼に当たらずローテーブルにぶつかって止まった。代わりにテーブル上のコーヒーカップが直撃され、テーブルに零れたコーヒーが仰向けになったゴードンの顔に、首に、胸に流れ落ちる。
 大統領御用達のテーラーでオーダーメイドしたワイシャツと、結婚記念日に妻から贈られたヴィトンのネクタイが犠牲になった……。
「ゴードンさん……お怪我は……?」
「君、スイッチが……切れてないようだが?」
 ひっくり返ったまま、どこか優しげな声色でゴードンが呟く。その声はうわずって2オクターブほど高かった。言われてローレンは天井を仰ぎ、しばらくの沈黙の後泣き出しそうな声で言った。
「すみません……!ごめんなさい!僕が切ったのは隣の列のスイッチだったみたいです」
 ああ、電気入ったままかい、そりゃ感電して当たり前だね。と、心の中でゴードンは呟く。放心して何故か笑顔になった。その時、彼はある噂を思い出した。

 かつて、二人の人間を殺しかけた小柄な男が居た。一人を撃ち殺しそうになり、もう一人を高度4,000メートル上空から突き落とすところだったという。その男に関わると必ず何かが破壊され犠牲者が出るため人々は陰で囁くようになった。
『歩く地雷』
『人間核弾頭』
『対人兵器L』
──ペンタゴンの都市伝説だと思っていたが、こいつがそうだったのか……!

「何してんだ?あんた」

 唐突にドアが開く音と呆れたような声が耳に入り、ゴードンがドアの方を見る。そこにはこの殺人マシーンの上司が立っていた。
 脚立が倒れ、蛍光管の破片が床に飛び散り、コーヒーが零れる、そんな部屋の中の惨状にハリーが顔をしかめた。
「私のオフィスを散らかすな」
 軽蔑の籠った眼差しを向けられ、ゴードンの頭が沸騰した。
「起きられますか?」
 心配そうにローレンが手を差し伸べるが、ゴードンはその手を払い除け自力で立ち上がった。怒りに震える声でハリーに詰め寄る。
「我々は、外部の……他国の脅威からこの合衆国を守っている。此処はそういう組織だ。それが……それなのに……!」
 感電のショックで未だブルブルと震える右手でローレンを指差す。
「こんな……こんな危険なモノをどうして国防省内部に置いてるんだ!」
「はあ?」
 まったく意味がわからないと言いたげなハリーに、ありったけの罵詈雑言を浴びせてやりたいと思っても、怒りのボルテージが高過ぎてゴードンは口をわななかせるばかりだった。
「どけ。帰る……」
 感電、そして極限の恐怖と怒りの連続でゴードンの精神はもう限界だった。ふらふらと部屋を出て行くゴードンにハリーが声をかける。
「おい、何か話があったんじゃないのか?」
「もういい……」
 経費の無駄使いをするなとか、口のきき方を改めろとか、そんな文句などゴードンにはもうどうでもよかった。それより命が惜しかった。
「……一体何があったんだ?ローレン」
「えーと……ゴードンさんが蛍光灯の交換を手伝ってくれまして……」
「あの男がか?めずらしいな。雷でも落ちるんじゃないか?」
 背後のそんな二人のやり取りもゴードンの耳を無意味に通り過ぎるだけだった。


 結局、ゴードンは右手に軽いやけどを負っただけで済んだ。だが、彼は午前中で早退し、彼の妻を安心させる事になったのである。



END

拍手お礼SS再録。「青年は荒野を夢みる」から繋がる話。
感電シーンは管理人の実話を元にしています(笑)蛍光管を交換する時は必ず電源を切りましょう。とくに濡れた手で触るのはだめ!ゼッタイ!

[2012年 5月 17日]