乾いた風が硝煙の臭いを運んできた。
時折聞こえる銃声。
だが、それは決して遠くからではない。
確実に敵の包囲網は我々が潜むこの廃墟に迫りつつある。
もうじき砂漠の街の夜が明ける。
明るくなってしまえばもう闇に紛れて動く事は出来ない。

「ダンスホールだったらしいな」

久しぶりに発せられたその声に振り返ると、男が瓦礫の山を乗り越えて戻って来るところだった。
ダンスホール――この廃墟から自分はその名残りを感じ取る事は出来ない。
今にも崩れそうなコンクリートの壁と屋根の骨組みで、ようやくここが建物だったとわかるくらいだ。
看板があった、と男が言った。


昨夜、上司のハリー・ブライアント少佐と二人で敵陣に潜入した。
二人だけのミッション。国防情報局(DIA)の極秘任務。陸軍すら関知していない。したがって援軍はない。
たった二人きり。しかも軽装備。ボディアーマーどころか上着すら着ていない。
頼りはコンパクトマシンガンと腰の拳銃、DIAのバックアップ・メンバーとを繋ぐ無線機。そして相棒となるお互いの戦闘能力だけ。
闇に紛れて音もなく敵の司令部に忍び込み、そして敵の行動計画ファイルを盗み出した。
抜き出されたファイルはディスクにコピーされ少佐のポケットへ。
そこまではよかった。
だが、撤退時に敵に見つかり銃撃戦になってしまった。
バックアップの仲間との合流地点も完全に包囲され、さらには通信も途絶え、退路を断たれた我々は命からがらこのダンスホールに辿り着いた。


「無線は相変わらず反応なしか?」
「はい、故障ではないんですが……」
ヘッドホンからは雑音ひとつ聞こえてこない。無線機本体は無傷だがバッテリーがあとわずかだ。少佐の無線機は銃撃戦の際に破損してしまった。
「弾はあとどれくらいある?」
「MP7A1はマガジン二個です。ベレッタはまだたっぷりありますけど。ああ、あと手榴弾が三個。少佐は?」
「こっちはマガジン一個だ。ブローニングの方は充分残っている。あとはナイフか……役に立たんな」
おそらく、この状況で実際役に立つのはコンパクトマシンガンくらいだろう。
弾は残りわずか、無線も瀕死の状態、迎えもなし。ここに敵兵が踏み込んで来るのは時間の問題。
万事休す、とはこの事か……。

自分はここで死ぬかもしれない。

だが、不思議なほど死の実感は湧かなかった。
壁にもたれて銃の点検をしている男をそっと見る。
自分より一回り華奢な身体。戦場において不似合いな――いわゆる美人顔……。
そんな外見に騙されそうになるが、少佐は自分とは比較にならないくらい強靭で冷酷だ。
熊のような体格の屈強な兵士たちは、この華奢で綺麗な顔の指揮官を本気で怖がる。
引き金を引くだけでない、人の殺し方を知っているのだ。
首の骨をへし折る音を、筋肉の束を切断するナイフ越しの感触を、噴き出す血の臭いを、この人は全身の五感で知っている。そして、それらを眉ひとつ動かさず躊躇なく実行する。
銃に至っては左右両方の手で呆れるほど射撃の練習を繰り返す。
その姿を見て思う。おそらくこの人は人一倍生きる事への執着が強いのだろうと。
そんな男と一緒に居るから死ぬ気がしないのかもしれない。

傍らでは当の凶暴な美人が鷹のように周囲を警戒しながら、ああ冷えたビールが飲みたいと呟いて、思わず笑った。


この廃墟に逃げ込んで15分が経つ。
時間が経てば経つほど戦況は不利になっていく。
少佐はさっきから沈黙したまま彼方の敵陣の動きを窺っている。たぶん退路をも考えているに違いない。
ここに来るまでの間、何人も殺して来た。敵は我々の追跡を決して諦めはしないだろう。
足元に目を落とすと、瓦礫の隙間からこの場の中で違和感を覚える色彩を見つけた。
コンクリートの下から引きずり出すと、ピンクの服を着た人形……。
きっと、ここに子供が居たのだ。
その子はどうなったのだろう……。
この国に入ってから手足を失った子供を何人も見た。
親を失った子供はその100倍は居るだろう。
街を歩いている時に自分たちに向けられた、子供たちの怯えた目を思い出す。
どんな大義名分があろうとも、戦争でいつの世も一番酷い目に遭うのは……。

「ブラウン、それを捨てろ!」

突然厳しい声が飛んできて、慌てて人形から手を離した。
叱られてハッと気が付く。
敵兵の興味を引く物、ついうっかり手に取ってしまうような、例えば可愛らしい人形やぬいぐるみ。持ち上げた途端、それは爆発する。
ぽとりと落ちた人形は爆発などせず、「ママァ」と鳴いただけだった。
だが、トラップだったとしても不思議ではなかったはずだ。
不自然な物に手を触れる危険性は、この時まったく頭になかった。
「すみません……」
「余計な事を考えるな」
険しい眼差しを外に向けたまま少佐は言う。
「この戦争はなぜ始まったのかとか、自分はこれでいいのかとか、そんな事は今考えるな」
驚愕した。心を読まれたとしか思えない。
「考える事自体は悪い事ではない。そんな話がしたいならいくらでも付き合ってやる。だが今はだめだ。生きて還りたいならそんな迷いは邪魔だ」
この人は生きる事に厳しいのだ。今、厳しくならざるを得ない状況なのだ。
それでも、どうしても訊いてみたかった。
「ひとつだけ教えてください」
無言を許可と受け取って言葉を続けた。
「この戦争はどうすれば終わるでしょうか……」
「終わらないさ」
間髪入れずに絶望的な答えが返ってきた。
人間にはいろんな民族があって、それぞれ違う神を信じ、違う価値観、違う正義を持っている。当然意見は食い違い喧嘩になる。やがて相手を傷付ける。やられた方はやった奴を憎み仕返しする。仕返しされた方も憎しみからやり返す。その繰り返し――。
少佐は面倒臭そうに、淡々と語った。
「……第三者の介入は功を奏しませんか?」
「近代の戦争を振り返ってみろ。憎しみの連鎖はそう簡単に断ち切れはしない」
「単純な構造ですね……」
「単純さ。子供の遊びと同じだ。ぐるぐると輪になって廻り続ける。サークル・ゲームだ。終わりがない」
「……そんなゲーム、人間はいつまで続けるんでしょう」
「そりゃ勿論、人類が滅びるまでに決まっているだろう」

やりきれない気持ちで、思わず目を閉じた……。
父母と妹と恋人のアニーの笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
この国の人々に未来はあるのか。
自分が愛する人たちの未来は?
いつか生まれてくる自分の子供の未来は?

「それでも……」
静かに呟いた少佐の声に目を開ける。
「心のどこかで信じたい気持ちがある。やり方が正しいかどうかはわからない。この馬鹿げたゲームが終わる時が来るなら、それを見届けたい。だからまだ死ぬわけにいかない」
「少佐……」
「私を守れ、ブラウン」
真っ直ぐに見つめてくるダークなブルー・アイを見つめ返した。
正直驚く。「守る」ではなく「守れ」と、自分よりはるかに強いこの男がそう言うのだ。
「勿論、死んでも貴方を守ります」
咥えた煙草に火を点けようとして、少佐は不機嫌そうに顔を顰めた。
「馬鹿かお前は。死んだらどうやって守るんだ」

ああ、そういう事なのか。

戦場で死んでヒーローになれるわけじゃない。美しいわけでもない。
生きろ!と。みっともなく這って、弾の雨の中をかいくぐって、どんなに絶体絶命になっても生き延びろと。生きて還るまでが仕事なのだ。
誰かを守るという事は、自分を含めた二つの命を守るという事だ。
それを今さらだがこの人に教えられた。
「訂正します。貴方を守るためにも絶対死にません」
「当たり前だ、馬鹿」
また馬鹿と言われてしまって苦笑した。


耳元で、ザザザ……とノイズが聞こえてくる。
今まで死んだように沈黙していた無線機からよく知っている男の声が呼び掛けてきた。
「少佐!マグリットです!」
帰還の望みが繋がる。
待ちに待った仲間からの連絡に、けれどもこの男は「チッ!」と舌うちをした。
理由は、
「煙草ぐらいゆっくり吸わせろってんだ……」
声をあげて笑ってしまった。
ヘッドホンの片方を耳に当てるなり短気な上司が怒鳴る。
「遅い!」
『すみません少佐、ご無事で何よりです』
上司に怒鳴られた事が嬉しいらしく、マグリットは笑いながら理不尽な癇癪を受け止めた。
『今、ヘリで向っています。どこで拾ったらいいっスか?』
「プランDでいく。『砂漠の花ホテル』だ」
『了解。きっかり20分で屋上に到着します。遅刻しないでくださいよ?』
「無線のバッテリーが虫の息だ。この後は不通になる。到着した時に我々が来ていなかったらすぐ撤退しろ。わかったな?」
『わかりました。けど、実は内緒でビール持って来ちゃったんですよね。まだ冷たいですよ。お二人とも飲みたいでしょ?これ無駄にしないでくださいね』
その言葉を最後についに無線機が息絶えた。
「あの野郎、そんなもんで釣りやがって。私を何だと思ってるんだ……」
軍律も無視して上司の弱みにつけ込む大胆かつ無邪気な部下に、少佐は力なく毒づいた。
だが、ふざけた笑いで誤魔化された「どうしても貴方を連れて帰りたい」というマグリットの祈りは、痛いほど少佐に届いていたはずだ……。


だいぶ前に閉鎖され廃屋と化した『砂漠の花ホテル』はここから目視出来る。10階まであるそのホテルはこの街では高い建物だ。だが周囲に敵兵の姿も見られる。
中に入ってしまえばどうにかなるだろう。階段から追っ手の中に手榴弾を投げ込めばしばらく敵の足を止める事が出来そうだ。
最大の問題は敵兵の中央を突破してホテルに辿り着く事だ。その距離およそ70ヤード。
「走るしかないだろう、70ヤード」
「ですね」
覚悟はとうに出来ている。
走って、ホテルの中に飛び込んで、屋上まで上がればいいだけだ。
制限時間は20分――。
「大切な女がお前の帰りを待っているんだろう?」
「……はい」
ずいぶん前にアニーの話を少佐に打ち明けた事がある。それを覚えていてくれたようだ。
「無事に帰って今度は彼女を守ってやれ」
「はい!」
「今思い出したが今日はアメリカの独立記念日だったな」
「そういえば7月4日ですね」
「まあ、どうでもいいか……。それよりさっきの命令、忘れるなよ?」
この人を最後まで守りきるためにも自分は絶対に死んではならない。
「忘れるもんですか」
そう答えると少佐の口の端が上がった。

大丈夫だ……。
我々は無事に帰還出来る。大丈夫だ。
死の実感がないままに、だが間違いなく今の二人の傍らには鮮明な死がある。
戦場の真っ只中のこんな厳しい状況で、それでもなお大丈夫と、生を確信出来る。

なぜなら、この人が笑っている。

「還るぞ」
「了解。冷えたビールも待ってます」
MP7A1を構え直す。
少佐が最後に一口深く煙を吸い、指先の煙草を弾いた。
それを合図に二人で朝日の中へと飛び出した。



END

ささやかな話ですが、実は『君という名の花』の伏線になっていたり・・・。
脱稿月日がアメリカの独立記念日だったのは偶然でした。

[2008年 7月 4日]