身体が動かなかった……。強い法力を持つ師にとってこんな小さな身体の動きを封じるなど容易い事だろう。幼く未熟な自分はそれを解く事が出来ない。
 夜半押し入ってきた妖怪が今ここに居るというのに。武器を持たない師に向かって刃を振りかざしているというのに。

『後は任せましたよ、玄奘三蔵』

 そして、一閃の後に目の前が赤く染まった……。


 一瞬の呼吸のひきつれと共に目を開けた。夢を見ていたんだと自分に言い聞かせ安堵の息をつく。手のひらで顔を覆うと酷い汗をかいていた。悪夢のせいばかりでもない不快な身体の湿りは、おそらくこの天候のせいでもあるだろう。
 この山道を走り続けてもう3日が経つ。さほど厳しい山道ではないと高を括っていたが、連日予期せぬ雨に祟られた。身体が濡れるだけならまだいい。だがぬかるんだ道では大したスピードも出せず、思うように先に進めなかった。昨夜は何とか雨をしのげる岩の窪みにジープを停めたが、身体が休まるはずもない。野宿で疲れた身体にイライラが募る。
 外を振り仰ぐと空は青みがかり、夜明けが近い事を知る。雨はあがっていた。


 朝食を済ませた頃になると気温はだいぶ上昇していた。後片付けをしている八戒に、煙草を吸ってくる、と短く告げ俺は一人谷沿いを歩いていった。
 空がぬけるように青い。太陽はじりじりと肌を焦がすように照りつける。昨夜まで続いた3日間の雨が嘘のようだ。この分なら、今日は結構先に進めそうだ。
 直射日光を避け、雑木林の中に踏み込んで行く。陽が当たらない林の中は草木がまだ雨に濡れていた。法衣が濡れないよう藪を避けながら木にもたれ、煙草を咥えて火を点ける。昇っていく紫煙を目で追いながら、俺は昨夜見た夢の事を考えた。
 昔は悪夢をよく見た。目の前で師が自分をかばい殺される。何も出来なかった無力な自分。悲しみ、憎しみ、歯痒さ、自責の念……。それらの感情は目を背けても夢という形で時折付きまとう。夢は己の弱さが見せる幻だ。今はもう夢を見ない。
――疲れていたんだ、きっと……。
もう見るまいと思っていた夢に、未だ感情を乱される自分の弱さに腹立たしさを感じた。

「おー、いたいた」

 突然、呑気な声が背後からかかる。次いでザワザワと笹藪をかき分けて声の主がこちらに近づいて来た。
「ジッポがオイル切れでよ……探したぜ」
 何をしに来たと問われる前に、悟浄は口早にそう言うと「ちょっくらごめん」と俺の指から煙草を奪った。
 結構短くなった先端の火に自分の煙草の先を押し当てて、スパスパと数度息を吸い込む。もうひとつの紫煙が立ち上ると、用が済んだ煙草は再び指に戻された。
「ありがとさん」
「……ちっ!」
 一連の早技に呆気にとられて罵倒する期を逃し、俺はせめてもの舌打ちをした。
 用が済んだ後も悟浄は立ち去る事なく、隣に並んで煙草をふかす。
「――もう5月だってのによ、北側の斜面見た?まだ雪が残っていたぜ」
「……平地じゃねえんだ。それだけここは高い山だって事だ」
 二人の眼前の雑木林は南に面した斜面だ。日当たりが良く、北側に生えている草木より緑が濃い。笹藪に混じって名も知れぬ低木があちこちに生え、それより背の高い木立がそびえる。青空との境界を緑が分ける。

『待って下さいよ、お師匠さま!』

――遥か昔、こんな風景を自分は知っていた。

「なあ、どっか具合悪いのか?」
 唐突にかけられた問いに意識を戻され、思わず隣を見た。
「夕べ、うなされてたぜ。その前の晩もな」
「……てめえには関係ない」
 それに対し悟浄はクククと笑い、まあねと言った。
「別に心配しているわけじゃねーけどよ、キツイ時はたまには手を貸してやるぜ?」
 悟浄は俺を心配するような男ではないしそれを口に出すような奴でもない。おまけに俺が人に気遣われる事が死ぬほど嫌いだというのも知っている。なのにこんな事を言い出すという事は「隠しているつもりの体調不良は周りに気付かれているからもっと上手く隠せ」というお節介な警告なのかもしれない。
「ほー、どんな風に手を貸すってんだ?」
 訊かない方がいいに決まっているが、敢えて話に乗ってやるのは警告への礼だ。
「悟空と席代わってよ、後部座席で横になれ。で、俺サマが膝枕してやるからよ……」
 頭に血が上りきる前に手が動いた。法衣の袂から出したそれを悟浄の頭めがけて力いっぱい振り下ろす。ハリセンをまともに食らい、悟浄は悲鳴をあげて蹲った。
「いってぇー!久々出やがったな、それ!チキショー!」
「てめえが気色悪ィ事ぬかすからだ!」
「冗談の通じないヤローだな、こっちだって気色悪ィっての!」
 とりあえず一発殴って気が済み視線を前へ戻した時、目に飛び込んできたそれに俺はハッとなった。自分の真正面にあったのに、今頃気付いた。
 横枝を持たない幹は鋭い棘で覆われている。ゆうに2メートルは超える垂直に伸びた低木。中には3メートルくらいのものもあるだろうか。一度意識するとそれらはいたる所に生えていた。それぞれの先端には膨らんだ茶色い外皮から黄緑の新芽が顔を覗かせている。
「たらの芽だ……」
 は?と間の抜けた声で悟浄が俺の視線を追う。
「たらのめ?……あの棘だらけの枝のやつ?変な木だな。なによ、食えんの?」
「たらの芽を知らねえのか?無知な奴だな。春の山菜だろうが。あの先端の芽は天ぷらにすると美味いんだ。……おい、錫杖を貸せ」
「ちょっ……!採る気かよ」
 悟浄は俺の思い付きに驚きながらも右手に錫杖を召喚した。
「要するに、あの先っぽの芽を取りゃあいいんだろ?任せな!」
 制止の言葉も間に合わず、悟浄は錫杖を振りかざした。鎖が伸びて三日月の刃が密集したたらの芽を先端付近の枝ごとなぎ払った。
「この馬鹿!なぎ払ってどうすんだ!貸せ、こうやるんだ」
 悟浄から錫杖を取り上げ、棘の低木の先端に刃を引っ掛けて引き寄せた。細い幹は簡単にしなり、自分の目前まで引き寄せられた芽を手でむしり取る。
 一度手本を見せてやって、そこからは悟浄にも手伝わせた。悟浄が枝を手繰り寄せ、俺が芽をむしる。3メートルになるものは、たとえ錫杖を使っても地上からは届かなかった。斜面がきつく、おまけに藪に阻まれて近寄れないのだ。
「おい、肩車しろ」
「……そこまでして頑張って採りたいのかよ……」
 呆れる悟浄を屈ませ、その肩に跨る。
「三蔵サマよ」
「なんだ」
「首の後ろに硬いモノが当たってるぜ?」
「……ぶっ殺されてえか?」
「だから、冗談だっつーの!」
 錫杖の刃を悟浄の腹に向けるとヤツの語尾が悲鳴混じりになった。
「それにしても、労働嫌いのオマエがこんな事するなんて意外っつーか……。よく山菜の事なんて知ってんな」
「……もともと俺が好きだったわけじゃねえ。山菜採りは……小さい頃から師匠の供をさせられていたからな」


『お師匠さま、どこへ行くんです?僧正さまが探していましたよ』
『ああ、江流。あなたも一緒に来て下さい。たらの芽を採りに行きますから手伝ってくれますか?』
『たらの芽……ですか?』
『ウドも、ワラビも採れるでしょう。雨の後こんないい天気になったんですから、きっと今日は丁度いいくらいに伸びているでしょうね』

 俺の師である光明三蔵は、寺の公務を放り投げてでも季節が来ると近隣の山に出掛けた。春には春の山菜を、秋には秋の山菜を。山の恵みを収穫し、それを肴に月を見ながら酒を飲む事をこよなく愛した。
 まだ小さい俺を伴って山を歩く事自体を何より楽しんでいた。

『待って下さい、お師匠さま!』
『大丈夫ですか?歩くのが早過ぎましたかね?』
『藪が深くて、なかなか前に進めなくて……』
『私が踏んで道を作りますから、すぐ後ろをついてらっしゃい』

 息をきらし汗をかき、はぐれないよう見失わないよう、大きな背中の後を追った。


「いい思い出持ってるんじゃん」
 思いがけない言葉に、思わず自分を担いでいる男の顔を見下ろす。
「ガキに楽しい思い出作ってやれるってのは親ならではだよな。俺にはそんな思い出ねえからなー。ま、兄貴はよく遊んでくれたけどよ」
 この幼い日の記憶を“いい思い出”としてあらためて考えた事などなかった。
「いい親に育ててもらって幸せだな。な?三蔵」
「……わかったような事言ってんじゃねえよ」
 吐き捨てるようにそう言えば、悟浄が「素直じゃねえ」と苦笑った。

――俺は、幸せな子供だったのかもしれない。


「ウドも生えてる、掘れ」
「はあぁ!?まだやんのかよ!掘れって……俺は犬じゃねーぞ」
 去年の分の枯れたウドを目印に、その根元を錫杖で掘らせた。
「根は残せ。根が残れば来年またそこから生える。……って、引っこ抜くな!今言ったばかりだろうが!」
「人にやらせといてうっせーな!雨で土が柔らかいからちょっと引っ張ったら抜けちまうんだよ!」
「不器用な手だな、てめえの手は!」
「あのな、俺はお前と違って街育ちなの!この手はカードを華麗にさばくためか、綺麗なおねーちゃんをアンアン言わせるためにだな……」

『根は少し残しておきましょうね。人は自然の恵みに感謝して少し頂くのですから、出来るだけ在るがまま自然に返してあげるんです。植物も人も、命はこうして引き継がれて形を変えて繋がっていくんですよ』

 気が付けば、悟浄は肩を震わせて笑っていた。
「ああ?何だ?」
「――50年後のお前を想像したらよ、今とあんま変わんねえのよ。ジジイになったら暇になって、山菜採りやら家庭菜園やらに励んじゃって、よぼよぼのくせに山菜にうんちく垂れる頑固ジジイ……ぷっ、くくく……」
 三蔵法師だろうが最高僧だろうが、こいつにかかっては年をとればみんなただのジジイだ。そういう自分はどうなんだ、と一歳違いの悟浄に言ってやりたいが、それも何だかばかばかしい。
「言ってろ、馬鹿」
――悟浄の笑いが俺にまで伝染る。


「二人とも、一体どこまで煙草を吸いに行ってたんです?あんまり遅いからさすがに心配に……って、何です?それ!」
 戻る道の途中で、俺たちを探しに来た八戒と悟空に会った。八戒が俺たちの格好を見て目を丸くする。
 夢中で採っているうちに二人とも服は露に濡れ、泥と枯葉にまみれていた。悟浄にいたっては上半身裸だ。思い付きで始まった山菜採りに、それを入れる袋など用意しているはずもなく、悟浄の服を脱がせてウドとたらの芽を包んだ。
「まったく!この生臭坊主の気まぐれに付き合ってひでぇ目に遭ったぜ。こき使われるわ、服ははぎ取られるわ、さんざんよ!見てみ?この虫さされ!」
 悟浄が脇腹の虫さされ跡を八戒に見せながら愚痴を言う。
「山菜ですか……?」
「それ、食いものなのかっ!?」
 悟空がすかさず反応した。
「たらの芽は天ぷらにすると美味い。ウドは酢みそ和えにしてもいける」
「俺こんなの食うの初めてだぜ!いっただきっ!」
 食いものを手にしたら最後、口に入れる前に悟空を止めるのは不可能だ。声をあげる間もなく、悟空はウドに齧り付いていた。
「▲※◎☆■〜〜〜〜!!」
 言葉にならない悲鳴をあげ悶絶する悟空に俺はため息をつく。
「灰汁抜きもしてねえ山菜をそのまま食うやつがあるか!」
「だからおめーは馬鹿猿っつーんだよ。そいつのせいで俺の手なんかギットギト!」
「……でも三蔵、これどうするんです?」
 八戒が一人深刻な顔で言う。
「せっかく採ってもこんな野宿じゃ満足に調理も出来ませんよ……?」
 それには一同言葉をなくした。言われてみればたしかに野宿での食事は缶詰がせいぜいで、天ぷらだの灰汁抜きだの微妙な調理など出来るわけがない。
 そんな重苦しい沈黙を破ったのは悟空だった。
「じゃあさ、早くこの山を下りて宿に行けばいいだろ!?」
 早く山を下りる――。当然過ぎて、前向き過ぎて、なぜか誰も思い付かなかった。
「三蔵が美味いって言うんだからよっぽど美味いんだろ?俺どーしても食いてーし!宿に行けば料理も出来るじゃんか!だから急ごうぜ、なあ三蔵!」
「そうですねえ……地図によるとたしかに山を下りると町があります。実際行って町が消えてなければいいのですが……」
「……よし、先を急ぐぞ。遅れを取り戻す」
「やたっ!そうこなくっちゃ!」
 俺のGOサインに悟空はもはや走り出す。
 その後ろ姿を眺めていると、八戒が隣に並んで静かに笑った。
「――あなたが法衣を汚してまで山菜採りだなんて、どうしたんです?」
「……俺たちの邪魔をした雨のおかげで山菜が伸びたんだ。その山菜を食う事が雨への仕返しってやつだろ」
「転んでもただでは起きないって事ですか?歪んでますよ?三蔵」
「てめえにだけは言われたくねえ……」
 食えない男はふふ、と笑いを残し、悟空の元に足を速めていった。
「――命はな、形を変えてもすべて繋がっていくんだよ……」
 前を行く二人の後ろ姿に呟いた。
「あ?何が繋がるって?」
 後ろから悟浄が俺に問う。
「……何でもねえよ」
 隣に寄って来た悟浄は、火のない煙草を唇にぶらぶらさせ、手を額にかざして悟空たちを目で追う。
「あーあ、胃袋猿に完全に火が点いちまったぜ?でもよ、あいつのモチベーションをあんだけ上げたんだから苦労してコレ採った甲斐もあるわな」

 俺には成すべき事がある。立ち止まるわけにはいかない。――だが、時には振り返ってみるのも悪くないと思う。そこには見落としていた何かの知恵を見つけ出す事もあるのだと。その成すべき事のためにも……。

 一陣のぬるい風が吹いた。足を止めて風を避け煙草に火を点ける。すかさず悟浄が顔を寄せ、その火に便乗した。裸にまでなったせめてもの労いに、完全に着火するまで灯していてやる。
「――さっきの、お前の老後の話だけどよ」
「ああ?」
「よぼよぼのジジイ一人じゃ山歩きは酷だからよ、俺も一緒に行ってやるぜ……」
 このお人好しは50年後も付き合うつもりらしい。その頃にはコイツもよぼよぼだ。
「足手まといにならなきゃ考えておいてやる」
「けっ!どこまでも可愛くねえクソ坊主だぜ!」
 言葉のわりに悟浄は楽しそうに笑った。
 遥か前を行く悟空が焦れて俺の名を呼ぶ。
――風が吹いて俺の背中を押した。


                                              

END

ハイ!山菜採り53でした♪まだ恋人未満の二人みたいですね。・・・いや待て、ALLか?それとも、お師匠様×江流!?
この季節はちょうど山菜のシーズンなので「ウドの酢みそ和えが食いてー!」と思った次第でして・・・。
性欲ならぬ食欲に素直に従ったら、こんな萌えからななめ後方を行くような話が出来上がりました(汗)

[2010年 4月 30日]