「あのね、言葉って大事なものなのよ」
 洗濯物をたたむ手を止め、キャンディは真剣なまなざしで言った。

 日曜日の昼下がり。一週間分の洗濯物を抱えコインランドリーに行ったアクセルは、そこで偶然キャンディに会った。
 職場も住居も同じ彼らは休日の行動パターンも似通ったものだ。偶然というより、二人がコインランドリーで一緒になるのは毎度のことだった。
 二人がいつものようにくだらない冗談や世間話で盛り上がっているとキャンディの携帯が鳴った。電話に出たキャンディはいつもの勝気なオカマの女王様から少しだけしおらしいお姫様の声になる。その様子から電話の相手は恋人のセルジュである事はたしかだ。デートの打ち合わせをしているんだな、とアクセルは聞くともなしに聞いていた。
 そして短い会話の締めくくりの言葉──。
「それじゃ今夜。……うん、あたしも愛してる。じゃあね」
 さらりと言ってのけたその一言にアクセルはいささか驚く。
「お前らって普段から『愛してる』なんて言ってんの? しょっちゅう会ってるくせに」
 呆れるような感心するような気持ちでアクセルがそう問いかけると、それに返ってきた答えが先の「言葉は大事」という話だ。

「そりゃまぁ、人間は言葉で意思疎通する生き物ではあるけどさ……」
 理解はしているが今ひとつ同意しきれない思いでアクセルは語尾を濁す。なんでも言葉にすればいいというものでもないだろう。言葉の選び方によっては誤解を招くこともある。恋愛においては尚のこと。
 しかしキャンディの恋愛哲学によると「コミュニケーションに言語を用いることは高度な恋愛テクニック」なのだと言う。
「あんたはハリーに『愛してる』って言わないの?」
「言わない」
「ハリーは?」
「ンなこと、あの人が言うと思う?」
「あんた、本当は愛されてないんじゃない?」
 アクセルはそれにハハッと笑って否定しかけ、だが、途中で言葉が止まった。
──そんなはずはない、と断言できるのか? 俺……。
 引きつった笑顔で固まったアクセルにキャンディは苦笑した。
「言わなくてもわかっているだろうだなんて、そんなのは幻想よ。いい? 恋人たちが破局する原因第一位は話し合い不足なのよ。愛し合っているのに気持ちを伝える努力を怠るから、結局は気持ちのすれ違いとか誤解が生まれるの。で、みんな別れてから気付くわけ。ああ、あの時もっと自分の気持ちを正直に伝えていたらこんなことには、って」
 その統計のソースはどこだよ、と内心ツッコミを入れるがキャンディの話には妙な説得力がある。アクセルは次第に、そんなものかもしれないと思い始めていた。
「たしかにそんなセリフ、ハリーに言われてみたいけど。でも俺たち上手くやってるし」
「今は良くてもこういうのは積み重ねなの。後で後悔しても知らないわよ」
「うっ……あんま不安煽るなよー」
 キャンディはたたんだ洗濯物をすべて紙袋に入れると思い出したように付け加える。
「恋愛ばかりじゃないわよ。言葉には力があるの」
「ちから?」
「こうなりたいと思ったことを口に出して言うと本当になるの。試してみなさいよ」
 荒唐無稽な話にアクセルは苦笑って肩をすくめた。
「もう行くわ。これからハリーを迎えに行くんでしょ? 彼によろしくね」
 不安顔のアクセルに手を振り、キャンディはコインランドリーを出て行った。
「力、ねぇ……」

※ ※ ※
 日曜日の夕方、シャルル・ド・ゴール空港は大勢の旅行客で混雑していた。  パリを去る者、訪れる者。それを迎え、見送る者たち。再会の笑顔、惜別の抱擁。アクセルにとってそれはすっかり見慣れた光景だ。  到着口付近の柱にもたれエールフランスの到着を待つ。ハリーがこの街に来るたびアクセルはいつもここで彼が現れるのを待った。わざわざ迎えに来なくてもいいのに、とハリーは言うが、会いたかった人の到着をその場で待つ喜びなどハリーにはわからない。それはアクセルにとって幸せな儀式のようなものだった。  やがて到着口から乗客が続々と姿を現し始めた。アクセルの周りに居た迎えの人々が笑顔でそれぞれの待ち人の元へと駆け寄っていく。そしてしばらく待った後、ようやくハリーが到着口に姿を現した。  ハリーの視線は迷わずいつもの柱へと向けられる。アクセルは彼と目が合うと満面の笑顔で、しかし控えめにヒラヒラと手を振った。 「お疲れ。元気だった?」 「まあまあだ」  いつもの挨拶ももう何度目だろうか。そしてまた、いつものように周囲から“友達同士”に見えるよう再会のハグをした。  空港からレ・アールに出るため、二人は地下鉄乗り場で列車を待つ。その時、一人の若い女がアクセルの目に留まった。  一人旅らしいいでたちで大きなリュックを背負っている。彼女は手元のガイドブックと地下鉄案内板を交互に見つめ、不安そうに周囲を見渡していた。 ──なんか、困ってる……?  彼女がきょろきょろしているのは誰かに助けを求めているのだと判断し、アクセルは声をかけてみる。 「どうかした? 手を貸そうか?」  その言葉に彼女が振り返る。そしてすがるような顔で言った。 「エイゴ、ハナセマスカ?」  その、おそろしくたどたどしいフランス語にアクセルは引きつる。 「あー……」  その時、アクセルの後ろからハリーが彼女の前に進み出た。 「私はアメリカ人だ。困ったことがあるなら聞こう」  その途端、彼女は安堵したように胸を押さえ弾けるような笑顔になった。 「よかった! あの、リュクサンブールに行きたいんだけど、どこからなにに乗ればいいのかわからなくて」 「ああ、それならわかりやすいぞ。ここを真っ直ぐ進んだら……」  ハリーが指をさしながら丁寧に説明をし、彼女がひとつひとつ頷く。 「助かったわ、本当にありがとう」  彼女は何度もサンキューとメルシーを言い、教えられた方向に去って行った。  ハリーがそれを見届けアクセルに向き直ると、アクセルは目を見開き茫然とした顔でハリーを見つめていた。 「ハリー、すげぇ!」  唾を飛ばさんばかりに興奮したアクセルの声に、周りに居た人々がこちらを振り返る。ハリーは嫌そうに顔をしかめた。 「なにが凄いんだよ」  その問いにアクセルは──。 「あんたってめっちゃ英語上手い!」 「はあっ?」  目を輝かせて本気で感心しているらしいアクセルに、馬鹿かお前は……とハリーは呟いて頭を抱えた。 『ネオ・トリアノン』の地下にある空き店舗は上階が定休日なこともあり静かだった。  オーナーのレディ・ジョーは将来的にここをバーとしてオープンさせるつもりだが、今はまだ手付かずの状態である。  空っぽのカウンター、積み上げられた椅子とテーブル、上階の店舗に置ききれなかった備品や酒瓶の入ったコンテナ。ここは物置兼、従業員の休憩場所、そしてアクセルの遊び場になっていた。  部屋の中央に置かれたビリヤード台で彼らは玉突きに興じていた。最近美味いと評判のビストロにディナーの予約を入れてある。それまでの時間つぶしだ。  ハリーがパリを訪れるたび、二人はここでビリヤード勝負をしてきた。今回でもう5回目になる。だが、アクセルは一度もハリーに勝ったためしがない。今日は3本勝負で一勝一敗。これから最後の勝負に入ろうとしていた。 「俺は勝つ、今日こそ勝つ、絶対勝つ」  アクセルはキューの先にチョークを塗りながら、そんなことを繰り返し呟く。 「なんの呪文だ?」  ハリーは9個の的球をひし形に組み興味なさげに訊いた。 「今日さ、キャンディが言ってたんだよ。言葉には力があるから望むことを口に出して言ったら本当になるって」  キャンディの話を本気にしているわけではない。さすがにそんなのは子供だましの迷信だろう、とアクセルは思った。当然ハリーもくだらないと言うと思っていたが……。 「それは言霊ってやつだ」 「ことだま?」  ハリーは選んだキューを確認し、チョークを塗りながら言葉を続ける。 「日本に伝わる古い信仰さ。言葉には霊力が宿っていて、言葉を口にすることによって言葉通りのことが現実になると信じられていたんだ。良い言葉を言うと良いことが、悪い言葉を言うと悪いことが起こる。たしかそんな話だ」 「キャンディの作り話じゃなかったのか……。てか、あんた本当にもの知りなのね」  実際にある日本の信仰という事実に驚いたが、キャンディとハリーがそんな話を知っていることにも驚く。アクセルは以前付き合っていた女が日本通だったにもかかわらず、そんな話はまったく聞いたことがなかった。 「本当にそんなことが起こると思う?」 「起こるわけないだろ、ばかばかしい」  即答したハリーはキューを構え、狙いをつける。 「だいたい、すべての人間が自分勝手な望みを口にしてそれが全部叶ったら世界は崩壊するだろ」  アクセルはそれに、だよなぁ、と笑った。  パンッ! ハリーのブレイクで的球が四方に散った。早速4と5がポケットされる。さらに彼は台を回って1に狙いをつけ、それも難なくポケットした。 「あー、また嫌な展開……」  波に乗るハリーは好調に球を落としていく。以前ハリーはノーミスで、最後の一球まで一人でポケットした事がある。アクセルは、一度も自分に順番が回らずゲーム終了された悔しさを思い出した。 「お前と違って私は言霊なんか必要ないぞ」  ハリーは余裕の笑みを浮かべ、2をコーナーポケットに沈めた。 「そういえば言葉で思い出したけど、空港でのあれ、本当にびっくりしたぜ」  自分の知らない誰かと英語で会話するハリー。淀みなく、早口で、当たり前のように異国の言語を操るハリーは、アクセルにとって別人のように思えた。 「母国語だから当たり前だろ。私はアメリカ人なんだぞ」 「いつも俺と完璧なフランス語で喋っているからあんたが外国人だってこと忘れてたよ。英語とフランス語、どっちが話しやすい?」  手球をワンクッションさせ3を落としてハリーは少し考える。 「同じくらいかな。いや、どちらかと言うとやっぱり英語だろうな」  アメリカで生まれ、フランスで幼少期を過ごし、その後もアメリカとフランスを行ったり来たり。おまけに両親がそれぞれアメリカ人とフランス人であるハリーにとって、どちらも母国語と言えるかもしれない。 「フランス語は発音が独特だから、しばらく話さないと英語の訛りが出そうだよ」  言ってハリーは手球を6に当て8を落とす。アクセルが俺の分も残しておいてよー、とぼやいた。 「そういや、フランス語以外に何か国語も話せるんだっけ?」 「まあな」 「じゃ、Je t'aimeはスペイン語ではどう言うの?」  思わずハリーはアクセルを振り返る。 「なんだよ、スペイン美女でも口説くつもりか?」  ハリーのからかいにアクセルは顔をしかめた。 「ンなわけないだろ。たんなる例えだよ。普遍的な言葉だし」 「Te Amo、だ」 「ドイツ語は?」 「Ich liebe dich」 「ロシア語では?」  ハリーは一拍置いて考え……。 「я тебя люблю」 「アラビア語」 「○▽▲×」 「うっわ、さっぱりわかんねえ!」 「中東に行っても絶対使わないだろうな、こんな言葉」  自分が主に赴く地は銃声と硝煙に満ちた街だ。不似合いな言葉にハリーは笑った。 「英語では?」 「ああ?」  次の的球を狙っていたハリーは驚いて顔を上げた。 「英語も知らないのかよ」 「だって、言う機会なんか全然ないから」 「そのくらい覚えろよ。I Love Youだろ」 「あー、アイ……なんだって?」 「I Love You、だ」  やれやれとため息をつき、ハリーはもう一度キューを構えるが……。 「早くてよく聞き取れないって。もっとゆっくり言ってよ」  ハリーはもう一度深々とため息をつく。そして身を起こしアクセルに向き合うと、苦労してイライラを押し殺した。 「I ……Love…… You……。今度はわかっただろ?」  一語一語ゆっくり言い、今度こそ、とキューを構え直して6の球に狙いをつける。 「まったく、こんな言葉は普通映画や音楽から自然に耳に入って……」 ──まてよ。 そこでハリーはようやく気付く。 ──I Love Youを知らない奴が居るだろうか。  ショットする一瞬、そんな雑念がよぎった。  まずい! と思った時には遅く、キューの先端が手球の上っ面を滑ってカチンと軽い音をたてた。手球を6に当て7をサイドポケットに落とすはずが、勢いが足りない。6はどの球にもぶつからずのろのろと止まった。 「お前のせいで……」  ハリーは恨みを込めて振り返ると、アクセルはとろけるような顔でハリーを見つめていた。 「ねえ、もう一回言ってよ」 「……このやろ、謀ったな?」  ハリーのドスの効いた唸り声に、アクセルは涼し気な顔で、なんのこと? とばかりに肩をすくめる。そして台を回りキューを構えた。手球と6と9とコーナーポケットが一直線上に並んでいた。  パン!  力強いショットは球の芯をとらえた。手球は6を押し出し、6は9を押し出し、それは目にもとまらぬ速さでポケットに消えた。 「望んだら叶っちゃったよ、いろいろと」  アクセルはのんびりした口調でそう言うと、キューをおろし、ハリーにウインクする。  ゴロゴロと台の中を伝ってレシーブボックスに9の球が落ちてきた。アクセルはそれを拾い上げ、「はい」とハリーの手のひらに置いた。  ハリーは呆気にとられたまま茫然と固まっている。 「俺はやっぱフランス語が一番好きだけど、英語の発音もいいね。あんたの愛の告白、うっとりしたぜ」  そしてアクセルは、ハリーのぽかんと開いた口の端に音をたててキスをし、笑って「Me too」と囁いた。
fin

ハリーからレアな告白とゲームの勝利をもぎとったアクセル。多少手段が汚くても勝ちは勝ち(笑)
ちなみに、アラビア語を表示させるのは無理でした・・・。

[2016年 4月 30日]