教会の鐘の音が風に運ばれて聞こえてきた。
耳元で唸る風の音にも負けないその音色に、思わずスロットルをいっぱいに開く。
夜通しバイクを飛ばして、ついに国境を超えた。
身体は長時間の振動でガタガタ、気分は地獄のど真ん中。なのに空はうんざりするような晴天。まさに新しい門出にふさわしい。
ああ、間に合ってくれよ。お願いだ、神様!
急がないとあの人が他の誰かのものになっちまう。


Long Road


『普通の恋愛がしてぇよ』

あの時、何故そんな事を言っちまったんだろう。
きっかけはほんの些細な事だった。
俺と同じバーテンダーをやっている友達が結婚し子供が出来た。よせばいいのに彼らの家に遊びに行って、幸せそうな夫婦の姿を見て、俺はすっかり羨ましくなってしまったんだ。
愛し合う男女の、当たり前の幸せのかたち……。
それにひきかえ俺とハリーは……。
たまにしか会えないもどかしさ、好きな人を堂々と紹介出来ない苛立ち、馬鹿な俺はハリーにそんな不満を漏らした。
『こんな関係はお前のためにならない』
俺の話をじっと聞いた後、そう言った時のハリーは妙に落ち着いていて、それが何を意味する言葉か全然わからなかった。
だから数ヶ月後ハリーが結婚するという話を聞いた時、俺は心底びっくりしてしまった。

ハリーが別の人を選んだ。
ハリーは俺を捨てた。

それからの俺は毎日浴びるように酒を飲んで、裏切り者の恋人を忘れようとした。
最初は悲しみ、そして憎しみ、だがやがて、こうなってよかったんだと考える。
そもそもノンケ同士の俺たちには無理があったんだ。俺のためと彼は言ったけど、俺よりハリーのためにならない。俺の存在は彼の仕事の邪魔になっているはずだ。
これからは優しくて気立てのいい女が傍に居て、仕事で疲れたハリーを支えるだろう。男に抱かれるんじゃなく、普通の男として妻とセックスをして、子供を作って……。
本当に必要なのは男の俺じゃない。
“さようなら”という最もつらい言葉を今度こそ言う時が来たんだ。そして“ありがとう”を言おう。お祝いの言葉はまだ言えそうにないけれど。
……だが昨日、そんな大人的思考で踏ん張る強がりが180度ひっくり返った。


行きつけのヘアサロン。俺の髪を切りながら、友人でもある美容師のレミーが言った。
「明日、行くんだろ?元カレの結婚式。よく割り切れたなぁ」
なんでコイツが知ってるんだと首をかしげる。明日……だって?
そんな疑問が顔に出ていたらしく、レミーは呆れて笑った。
「なんだ、知らなかった?ゴシップ雑誌やネットで騒がれている話だぜ。“犠牲婚”とか“逆玉婚”って」
レミーの話はこうだった。
ハリーの結婚相手はフランスでも有名な軍人一族の名門。おまけに母親は映画女優。その娘が妻子ある映画監督と不倫の恋に落ちた。こんなおいしいゴシップ、マスコミがほっとくわけがない。かくして週刊誌は連日このスキャンダルを書きたてた。それに激怒した父親である将軍は娘の不名誉をもみ消すため、結婚させようと画策する。
白羽の矢が立ったのがハリーだった。昔からフランスにゆかりの深いハリーが、同じ軍人として将軍と知り合いだったという事は容易に想像がつく。
噂では、当事者同士はほとんど面識がないという。家の体面のために結婚させられるなど、自由主義の国で本当にあるんだろうか。厳格な父の命令に従う娘はまだわかる。
では、ハリーはどうして?

『こんな関係はお前のためにならない』

ハリーの感情を押し殺した声が頭の中にこだました。
いつだって若い俺の将来を気にかけてくれた人に、どうして俺は責任のすべてを負わせようとしたのだろう。たとえいっときでもどうして恨んだんだろう。
犠牲婚?――あの馬鹿!
だが、ハリーをそんな風に追い詰めた自分は一体……!
この時、俺は自分が人生のとんでもなく重要な局面に立ってるんだと気付いた。

行かなければ!

教会の場所と挙式の時間はレミーが教えてくれた。マスコミを避けた極秘の挙式だが、レミーが知っていたのは参列者のヘアカットを何人か手がけたからだ。
まだカット途中!と叫ぶレミーの声を背に、俺はサロンを飛び出していた。


白亜の教会から讃美歌が聞こえていた。
正門の前にバイクを停め、エンジンを切らずに敷地内に駆け込んだ。窓から中の様子を覗くと祭壇の前に純白の衣装に身を包んだ一組の男女と数十人の参列者。
普段ハリーのブラックスーツ姿に見慣れている目に、白い花婿の衣装を着た彼は見知らぬ人みたいに映った。そして彼の隣に立つ、俺の知らない若くて美しい花嫁。そんな光景を目の当たりにして、本当にハリーは結婚するんだという焦りが湧いてくる。
歌とオルガンの演奏が終わると牧師がよく通る声で厳かに言う。
「今日これより、神の御前においてこの男女の結婚の儀を執り行なうものとする。この結婚に異議がある者は今すぐ述べよ。さもなくば永遠に沈黙を守りなさい」

大変だ……ハリーが結婚してしまう!

しばしの沈黙の後、式を進行させようと牧師が聖書を開いた時、俺は聖堂のドアを開け放った。
「異議ならあるぜ!」
聖堂に響く俺の声に、一斉に視線が向けられた。神聖な教会に不似合いの、全身ブラックレザーに身を包んだ俺の姿にざわめきが起こる。
「何者だ、お前は!」
立ち上がった恰幅のいい男。勲章でゴテゴテ飾り立てた派手な式典用軍服……これが花嫁の父の将軍か。
「誰でもねえよ、名前も金も名声もないただのチンピラだ」
痛いほどの視線の中、俺はつかつかと祭壇に歩み寄った。
ハリーはいつものクールっぷりも何処へやら、ひたすら呆気にとられて茫然としている。無理もない、式の日取りも場所も教えられてない俺が現れたんだから。しかもここはフランスの隣とはいえ外国だ。
参列者たちはひそひそ声で俺を罵り、気の毒な花嫁は怯えた様子で母親と牧師の顔を交互に見つめていた。
「チンピラめ、娘の晴れの日にケチをつけるつもりか」
「式をぶち壊して悪ィけど、こっちも後には引けない事情があってね」
将軍と向き合うと牧師が厳しい声色で割って入った。
「此処は神聖な神の家だ、部外者は出て行きなさい」
だが俺は牧師を無視し、全員に聞こえるように声を張り上げる。
「この結婚は無効だぜ!何故なら花婿が惚れているのはこの俺だからな!」
その途端、聖堂はどよめきに包まれた。花嫁の母親は今にも気絶しそうだ。牧師は口をあんぐり開けたまま固まっている。
俺は花嫁を見下ろして静かに言った。
「ごめんね、こんな事して。俺の大事な人を返してほしいんだ」
間近で見る花嫁は本当に美人だった。だが、たくさん泣いたんだろう。瞼の腫れが痛々しい。彼女もつらい恋愛の末、この場に居るんだ。
そして俺はハリーの肩を掴んでこちらに向かせた。
「ごめんよ、ハリー。俺が間違っていた。俺は家庭や安定が欲しいんじゃない、あんただけが欲しいんだ」
「馬鹿か、お前は」
やっと口を開いたハリーの声は微かに震えていた。
「そうだよ、馬鹿だ。あんたの気持ちに気付けないであんたを傷付けた。本当に大切なものを永遠に失うところだった。けどもう離さない。一緒に帰ろう、やり直させてくれ!」
手から零れ落ちそうな宝石を必死に掴む気分だった。きっと、きっと、彼を取り戻す事が出来たなら俺はもう何も怖いものなどない。
けど、ハリーの言葉は厳しかった。
「ふざけるな。いい加減自分の将来を考えろ。もうお前に関わるのはごめんなんだよ。此処はお前が来るべき所じゃない、さっさと失せろ!」
「ハリー……」
ああ、本心じゃないのはわかってる。俺の気持ちはハリーに届かない。
「フラれたようだな、坊や。さあ、出て行くんだ」
その言葉とともに両側からごつい男二人が俺の両腕を掴み、ハリーから引き離された。そのまま後ろに引きずられる。
「離せよっ!」
「あんまり騒ぐと警察に突き出すぞ!」
このまま愛のない結婚をして、一体誰が幸せになる?ハリーは、結婚して手の届かない所に行ってしまえば俺が諦めて普通の恋愛をするとでも思っているんだろうか。今さら他の人を愛せないって、どうして信じてくれないんだろう。
そう考えたら猛烈に腹が立った。
「どうして諦めるんだ!この意気地なし!俺の諦めの悪さは全部あんたが教えてくれたんじゃないか!結婚するなら俺としろよっ!」
俺は渾身の力を振り絞って男たちを振りほどき、ハリーに向かって走り寄ろうとした。だが、男の腕が伸びてきて手首を掴まれる。そして振り返った俺の頬に拳が飛んできた。
「この負け犬が!」
「思い知れ、クズ!」
目の奥がチカチカする。堪らず床に片膝を付いた。男たちに引きずり起こされて顔を上げて、ハリーを見た。
ハリーは無表情で、俺の方を睨みつけたまま燃えるような殺気を纏っていた。この凶悪なオーラは、いつか二人のマフィアを一瞬で病院送りにした時のあの殺気と同じだ……。
「そいつに手を出すな……」
トラが唸るような低い声に、その場の全員が凍りつく。
将軍が祭壇へと促すように彼の肩に手をかけた。だが、ハリーは腕を大きく振り上げ、もの凄い勢いでその手を払いのけた。

「ハリーっ!」

俺が叫ぶとハリーは弾かれたように駆けだした。しかし、彼の身体は俺に届く前に親族たちに押さえられる。
「くそっ、離せ!」
その時、今まで沈黙を守っていた花嫁が声を上げた。
「やめて!その人を行かせてあげて!」
花嫁の意外な反旗に驚いてハリーを取り押さえていた人々が固まる。その隙にハリーは彼らの手をすり抜け、俺の元へと駆け寄った。
「ハリー」
「この馬鹿が……」
言葉とは裏腹に、奴らに殴られた頬に当てた彼の手は優しかった。
「気はたしかか、ハリー君!」
「……結婚式は中止だ、将軍」
「君まで我が家の家紋に泥を塗る気か?許さん……断じて許さんぞ!」
名門家の家長として、こんな茶番劇は死にたくなるほどの恥だろう。将軍は真っ赤になって声を震わせていた。
だが、花嫁が俺たちを背後にかくまうように父親の前に立ちはだかった。
「もうやめて、お父様!こんな結婚間違っているわ!」
「お前まで何を言い出す!」
「結婚相手は自分で決めます。この人たちには関係ないわ!」
そして勇敢な花嫁は俺たちに向き直り口早に告げる。
「ごめんなさい、私たちを許して。行ってください。私のためにもお願い、行って!」
彼女にかけてやりたい言葉が山ほどある。だが俺もハリーも短く一言“ありがとう”とだけ言って走り出した。
結婚式を押し通そうとする将軍と、止めようとする花嫁。参列者たちは二人の狭間でおろおろするばかり。
そんな人々の間をくぐり抜けて、俺たちは聖堂のドアから外に飛び出した。眩しい午後の日差しの中、正門目指して全力で走る。
「何をしている!花婿を捕まえろ!」
将軍の叫びが背後から聞こえた。


正門前に停めてあったバイクに跨る。後ろにハリーが飛び乗ると俺はバイクををフルスピードで発進させた。ちょうど教会から息せき切って出てきた男たちが、悔しそうに俺たちを見送った。
「飛ばせ!アクセル!あの様子じゃあいつら、車で追ってくるぞ!」
「オーケイ!まかせろ!」
フルスロットルでバイクは加速する。このスピードに車が追いつくのは無理だ。
ハリーが振り落とされないよう俺の身体に両腕をきつく巻きつける。めちゃめちゃいい気分だ。

話したい事はたくさんあるんだ、ハリー。
あんたがどんなに深く俺を想ってくれているか俺はちゃんと知っているとか。
教会で大暴れして花婿のあんたをさらうほど俺はあんたに惚れてるんだとか。
俺が誰かに傷付けられるたびブチ切れるあんたがどんなにおっかないかとか。
そして、今この瞬間どんなに俺が幸せかとか……。
ああ、後でたくさん話そう。今は何を言っても風にかき消されてしまう。
バイクのカーンという高音が耳に刺さるようだ。

市街地を抜けて、辺りはいつの間にか郊外の農村風景に変わっていた。バックミラーにはとうとう追跡車は映らなかった。
ホッとした気分で、のどかな直線道路をひた走る。
「お客さん、どこまでー?」
そんな風にふざけて後ろに声をかけてみた。
「私がいいと言うまでずっとだ」
「なんなら地球の裏側まで行ってみる?」
俺が笑ってそう言うと、少しの沈黙のあと、ハリーが言った。
「……長い旅路になるぞ?お前はそれでいいのか?」
冗談など微塵も含まないその真摯な声色に、俺は胸が締め付けられた。熱い何かが自分の内側をゆっくり流れていく。そうして彼が預けてくれた心を俺はどれだけ真っ直ぐ受け止められるだろう。
声が震えないようにと祈りながら、心をこめて俺は答えた。
「……行くさ、あんたと一緒なら何処へでも」

死が二人を分かつまで。




fin

ハリーが結婚しようとするなどぶっ飛び設定なので、本編ともパラレルとも言い難い小話。
花婿奪還のイラストから生まれた、ジューンブライドにちなんだラブストーリーでした。

[2011年 6月 1日]