金曜日の夜、ネオ・トリアノンはいつものように賑わっていた。
 初夏は観光シーズンである。ルーブル美術館やオペラ座を観光した人々はシャンゼリゼでショッピングを満喫した後、洒落たレストランで夕食をし、食後の一杯を求めてレ・アールに流れる。
 深夜0時を回った頃、観光客の波が引くのを待っていたように常連客が次々にやって来た。
 今、カウンターに座ってアクセルの目の前でマティーニを飲んでいる男もそんな常連客の一人だった。
「やっぱりアクセルの作る酒はいいね。特にジンベースのカクテルは絶品だな」
「そりゃどうも。あんたにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」
 仕事柄、アクセルには飲食業界の友人が多い。マティーニに舌鼓を打つこのセバスチャンも、長年シェフとしてパリで活躍し数年前には国際コンクールで入賞している。
「でも、久しぶりじゃね? 半年ぶり? もっと来てよ。一杯おごるからさ」
 アクセルがそう言うとセバスチャンは申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめん、実はミレーヌがちょっと入院してたんだ。あ、今はすっかり良くなって退院したけどね。俺も大忙しだったのさ」
「そうだったの!? 知らなかったよ……。大変だったんだね。でも治って良かった」
 セバスチャンには長い付き合いの恋人がいる。彼が25、彼女が16の時に出会い、もう15年になる。結婚はしていない。
 彼女、ミレーヌはパリで花屋を営むフローリストだった。セバスチャンのレストランは、ミレーヌが仕入れてアレンジした花々で飾られている。またセバスチャンも、ミレーヌが定期的に開催するテーブルセッティングと花のイベントに料理を提供していた。
 料理家と花屋、まったく異なる職種でそれぞれ自立したカップル。しかし彼らは自分の職業を生かしてお互いの仕事に協力していた。
 夫婦という形を敢えて選ばなかった二人。だが、いつも寄り添う二人は強い信頼と愛情で結ばれたパートナーだとアクセルは感じていた。
「それにしても、ミレーヌとは長いよね。15年……だっけ?」
「そのくらいになるかな。彼女は人生の半分をこんな冴えないオジサンと過ごしている事になる」
 自虐的な言葉とは裏腹にセバスチャンは幸せそうな顔で笑った。
「二人を何年も見ているけどさ、いつも仲いいよなぁ」
 アクセルの胸にほんのり湧いたのは妬みの感情。そんな、らしくもない思いを振り払うように笑ってシェーカーを振る。しかし、そんなうわべの笑顔も長くは続かなかった。アクセルはシェーカーの酒をグラスに注ぎながら呟くように問いかけた。
 マティーニが好きなもう一人の男の顔が脳裏によぎる……。
「ねぇ……好きな人と長く続くコツって何?」
 問われて顔を上げたセバスチャンはアクセルの顔を見て少々驚く。いつも陽気なバーテンダーは意外なほど真剣な表情だった。思いつめる何かを秘めているのは明白だが、彼は敢えてそれに触れてこなかった。そして、俺たちの場合は……と前置きして言う。
「笑顔で側にいる事」


 閉店後のネオ・トリアノン──。アクセルはグラスを洗いながらセバスチャンとの話を思い出していた。
 自分とハリーの関係と、セバスチャンとミレーヌの関係について考える。9歳という年の差、非婚の選択、それぞれが独立した異業種の恋人。彼らとはそんな共通点があるが決定的な相違点もある。こちらは男同士であるのも勿論だが、それ以上に相手が遠い外国の地の人だという事だ。
──笑顔で側にいる事……。
 側にいられたらどんなにいいだろう、とアクセルは思う。しかし、それは自分たちにはどうしても叶えられない望みだ。
 パリに来たハリーが帰国する時、空港で彼を見送るたび毎度感じる切なさ。別れなど何とも思っていなさそうなハリーの手前、アクセルも冷静を装うが心の中では不満と不安と焦りと悲しみが渦巻いている。

 ハリーが疲れている時はこの胸に抱き寄せたいのに、その身体がここにない。
 仕事で支えたくても、バーテンダーと外国の軍人では何の接点もないし役にも立たない。
 離れている間にハリーが手近な人に心移りするかもしれない。

「なんで外国人を好きになっちゃったんだろ……」

「……まだそんな事でウジウジしてるのかい」

 思わず口に出てしまった嘆きに返事があって、アクセルは驚いて顔を上げた。
「相変わらず進歩のない男だねぇ、あんたは」
 店には自分一人じゃなかった事をアクセルは思い出した。隅のテーブルでレディ・ジョーが売り上げの計算をしている。老眼鏡をかけ、わき目もふらず電卓を叩いていた。
「すみませんね、全然成長しないヤツで」
 情けない呟きを聞かれてしまったが、レディ・ジョーには今まで数えきれないほど情けない姿を晒しているので今さらではある。相手がレディ・ジョーという事に少し安堵して、アクセルは今さらついでにもうひとつ情けない質問をしてみた。
「なぁ、遠距離恋愛を上手くやる秘訣って何だと思う?」
 セバスチャンへの質問にもう一歩踏み込んで、同じ質問をしてみた。
 するとレディ・ジョーは手を止めて、眼鏡をズリ下げ上目遣いで暫し睨んだ後……。
「知らないよ、そんなの。あたしはそんな経験ないからね」
 素っ気ない返事をしつつも眼鏡を外してテーブルに置いたところを見て、作業を中断して話に付き合ってくれるつもりらしいとアクセルは判断し、遠慮なくそれに甘える事にした。
「俺とハリーがどんなに愛を深めても会わない時間が長いとさ、ハリーが地元でいい人に出会ったら俺への気持ちもその人で上書きされるんじゃないかな」

『すまないアクセル、やっぱり遠くの男より近くの女の方がいい。別れてくれ』

 無表情でそんな言葉を淡々と言うハリーを想像した。最悪の未来図である。
「つまり、ハリーは簡単に心変わりするような男って事だね?」
「あ、いや、全然そういうタイプには思えないんだけどさ……」
「じゃあ、心配ないじゃないか」
 レディ・ジョーにさっさと問題解決されるも、アクセルは今ひとつ釈然としない。
「ハリーは忙しい人なんだから、愛だの恋だのって暇はないだろうし、あんた一人で手一杯だろうさ」
 たしかに、ハリーは恋愛に関して驚くほど反応が薄い。そんな男が誰かに甘い言葉を囁いている姿など想像できない。尤も、残念な事に彼はアクセルにも囁かないのだが。
「俺は会えない事が寂しいだけなのかな……」
 ポツリと呟くとレディ・ジョーは再び眼鏡をかけ、伝票をめくりながらめんどくさそうに言った。
「ハリーだって同じだろうよ」

──同じ? ハリーも俺と会えない事が寂しいって?

 アクセルにはとてもそうは思えないが、それでもレディ・ジョーと少し話した事によって何故か最悪の未来図のイメージは遠のいていった。

※ ※ ※
 翌日の土曜日。アクセルは昼近くに起き、いつもより早めに出かける準備をした。  最近本格的な夏の気配が続き、カクテルの注文も夏らしいトロピカル系が増えてきている。ネオ・トリアノンは今夜も忙しくなるはずだ。店にストックしてあるフルーツを思い浮かべ、今夜の分が不足するのは間違いないとアクセルは踏んでいた。  フルーツとその他の材料を買うため、彼はサントノレの市場に向かった。  市場は買い物客で賑わっていた。閉店時間が早い土曜日でもあり駆け込み客が多い。もっと近場にも市場はあるが、ここは週に二日しかやらないため今日はいい機会だった。それにフルーツに関してここはとりわけ新鮮で種類が豊富だ。とりあえず、何種類かのフルーツとナッツ類やミントなどカクテルの材料を買い込む。  オリーブも残り少なかった。気温が高めのせいですっきりした飲み口が求められるのか、最近マティーニがよく出る。いつものサイズより大きな瓶の物を買った。これだけあればマティーニ好きのハリーを酔い潰せる、と考えると可笑しくなって笑いがこみ上げた。尤も、彼がパリに来る予定は今のところ聞いてない。  それにしても、土曜日とはいえいつもより人が多い。行き交う人々を見ていて、アクセルは観光客が多い事に気が付いた。 「あ、もうバカンスのシーズンなのか」  そういえばアメリカにはバカンスの習慣ってないんだろうか、とアクセルは思う。  冬にクリスマス休暇があるなら夏はどうなんだろう。ハリーは夏にまとまった休みって取れないんだろうか。人混みが苦手だと言っていたけど、また夏のパリに来ればいいのに……。  一通り買い物は終わったが、仕事の時間にはまだ早い。ここまで来たついでに新しいシャツでも買おうと思い立ち、アクセルは表通りに出た。といっても、この界隈は高級ブランドばかりだ。この先の仲通りには手頃な価格のブティックが何軒か並んでいる。アクセルは仲通りの方へブラブラと歩いていった。  ふと、角を曲がろうとした足が一軒のブティックの前で止まった。シックな店構えの高級紳士服店。ショーウインドウの中のトルソーが着ているスーツに目を奪われる。  落ち着いたチャコールグレーの生地は適度な光沢を持ったウール地。実に丁寧な縫製は手仕事のはずだ。程よくシェイプされたラインは男性の身体が美しく見えるよう計算されている。袖に縫い付けられたタグにはユニオンジャックが描かれていた。案の定、英国製である。 「ハリーに似合いそうだなぁ」  今まで何度かスーツ姿のハリーを見た事があるが、ファッションにうるさいと自負しているアクセルから見ても、彼の着るスーツは生地も仕立も上質である事は間違いない。  いつかこんなスーツをプレゼントしたい、と思ってもアクセルには手の出ない値段だ。 「ネクタイなら頑張れば買えるかな。これなんか似合いそうな色……」  そんな独り言を口にした途端、アクセルは気付く。さっきからハリーの事ばかり考えていた。 ──会いたいよ、ハリー。凄く、凄く会いたい……。  会いたい気持ちは、こんな何気ない日常の中でことさら強く募る。自分にとって当たり前の風景の中に、いてほしい大切なその人はいない。「当たり前」を共有できないのはつらい。  自分と会っていない間、相手が心変わりしてしまうのは怖い。でもそれ以上に自分がその人のいない日常に慣れてしまうのはもっと怖い。そうなれば、この恋は静かに終わりを迎えるのだろう。セバスチャンとミレーヌのようにいつも側にいなければ愛はいつか死んでしまうのだろうか。  会う事がままならないならば、せめて声が聞きたいとアクセルは思った。 ──今、電話してみようか。  不安の渦に飲み込まれそうな気持ちに抗うように、すがる思いでアクセルは携帯を取り出した。しかし、ハリーの電話番号が画面に表示されたところで指が止まる。  以前、ハリーはあまり電話してくるなと言った。彼は忙しくて電話に出られない事が多い。そして時差を考えろとも言った。迷惑かけるかも、と思うと電話ひとつかけるのもためらう。  最後に話をしたのは2週間前。電話をかけたのはハリーからだった。  午前6時、携帯の音がアクセルを夢から引き戻す。 「はい……誰……?」  朦朧としながらしゃがれた声で電話に出ると、ハリーの妙に爽やかな声が返ってきた。 『私だ。今何してる?』 「何って、寝てたよ。因みにベッドに入ったのは2時間前なんですけど」 『起こしたか? 悪いな。でももう起きろよ。こっちは月がきれいだ』  夜の仕事のアクセルに早朝電話をする事の意味を、ハリーは深くは考えない。 ──時差を考えろって言ったのあんたでしょうが……。  そんな言葉が喉まで出かかったが言う勇気はなかった。 「ところで今どこにいるの?」  ワシントンD.Cだと今頃は深夜0時のはずである。自宅ではなさそうだった。ハリーの周りでは大勢の人の気配がした。 『ハワイだ』 「ハワイ!? 旅行?」 『旅行のわけないだろ。仕事だよ』 「ハワイで一体どんな仕事さ」 『ゴルフだ』 「はあっ!?」 『冗談だよ。ちょっと大事な会議があったんだ』  一瞬、アクセルの脳裏にハーフパンツにアロハシャツを着たハリーがパターを構える姿の画像が浮かんだが、不正解のブザーと共にその画像にバツ印が付いた。  ハワイはアクセルにとってはリゾート地というイメージしかない。青い空、白い砂浜、マリンスポーツを楽しむ人々、街を歩けば高級ブランドのショッピングバッグを手にぶら下げ買い物する観光客。そんなリゾート地にハリーがいるなどピンとこなかったが、考えてみればハワイにはかなり大きな軍事基地がある。 「ハワイかぁ……。たとえ仕事でも羨ましいぜ。俺も行きてぇよ」 『お前、前からハワイに行きたいって言ってたよな』 「そうだよ! せめてハワイの空気だけでも吸いたい!」 『じゃあ、ちょっと待ってろ。始まるようだ』 ──始まる? 何が?  アクセルがそれについて訊く間もなく電話口からハリーの息づかいが遠のいた。それと入れ替わりにフェードインしてきた音楽。肩から脱力するような、のどかなギターとウクレレのリズム。男性歌手が甘い声でうねるように歌い始めた。  最初の10秒をアクセルは真顔で聴き、残り10秒は頭を抱えて聴いた。きっちり20秒、音源に向かって携帯を掲げていたハリーがようやく電話口に戻る。 『空気を吸わせるのは無理だからハワイの音を届けてやったぞ。嬉しいだろ?』  そう言うハリーが誰よりも嬉しそうである。“ハワイ・テンション”という言葉があるかは定かではない。 「何、今の音楽」 『“カイマナヒラ”だ』 「カイ……何だって?」 『“カイマナヒラ”。伝統的なハワイアンミュージックさ』 「あんたがハワイアンミュージック……」  アクセルにとってまだ真夜中とも言える時間に叩き起こされ、突然聴かされるウクレレの音色。いい曲だが調子が狂う。しかも発信者は堅物な男だ。 『泊っているホテルの中庭でたまたまハワイアンのライブをやっていて、たまにはこういうのもいいかなと思って見に来たんだ』  そう言うハリーの声はいつもより早口で実に楽しそうである。 ──思いっきりハワイを満喫してやがるな……。 『そういうわけだから。じゃ、これからディナーだからもう切る』 「え、もう!? おい、ちょっと待てよ! おいって! ちょ……切るな!」  額に汗して夜通し働いたバーテンダーを早朝に叩き起こし、さんざん羨ましがらせた後電話を切られるとは、まるでセックスで一人だけ満足して寝られるような置いてきぼり感だ。 「あんた、本当に仕事かよ!」  ツー、ツー、ツー……  アクセルの叫びを蹴るように電話は無情に切られた。 ──あの後、結局眠れなくて一日中寝不足だったっけ。  電話をかけてくるタイミングも話題も、ハリーはいつもマイペースだ。そしてハリーの居場所はいつも思いもよらない所だった。  遡る事、今年の1月。その時も思いもよらないような電話だった。  日曜の夜──。仕事が休みとあってアクセルはビールを飲みながらのんびりテレビで深夜映画を観ていた。そんな時間に突然携帯が鳴った。 『もしもし、まだ起きてたか?』 「ハリー? 起きてたよ」 『今何してる?』 「今? 何も。テレビ観てた。ハリーは?」 『あまりにも寒くてベッドに潜ってる』  ハリーの声は暗い。 「……あー、今回はどちらに?」 『サンクトペテルブルク』 「えっと、ロシアだっけ? そりゃまた寒そうな国に」  サンクトペテルブルクはパリより3時間遅れである。まだ寝るような時間ではない。 『実はな』 「はい」 『急な出張でホテルはどこも満室で、ようやく一軒安ホテルが取れたけど安いだけあってオンボロで暖房が壊れていた。因みに外の気温はマイナス22度だ』  実に気の毒な話だが、何と言えばいいのかアクセルは返事に詰まる。 「えーと……風邪ひかないでね?」  ようやくそう労わりの言葉をかけたが、ハリーは難易度の高い注文をしてきた。 『お前、何か身体が温まるような話をしろよ』 「ええ!?」  ハリーは冗談みたいな事を本気で言う男である。そして、この時の彼の声は大真面目だった。  温まるような話……。遠い所に貰われていった犬が何千キロも旅をして元の飼い主の所に帰ってきた話でもしたらいいのだろうか。それとも余命いくばくもない老夫婦に起こったクリスマスの奇跡の話がいいか。  しかし、あのハリーがそんな話に素直に温まってくれるだろうか。それに心が温まっても仕方ない。ハリーは身体を温めろと言っているのだ。 「オーケー、じゃあ目を閉じて俺の声に集中してくれ」 『……わかった』  こういう事ならアクセルの得意分野である。 「俺の手は今あんたのパジャマのボタンを外して直接胸に触っている。──はい、俺が言う通りに自分で触って」 『あぁ?』 「両方の乳首を摘まむ。……あっさり硬くなっちまった。はは、いやらしいな」 『アクセル』 「もっと弄ってほしいかもしれないけど先に進むぜ。俺の手は脇腹を撫で、ズボンの中に入る。まだソコには触らない。太ももの付け根をゆっくりなぞって──」 『おい、アクセル』 「何? 我慢できないって? じゃあ握ってやるよ……。凄いな、もうこんなになってるじゃないか」 『お前、馬鹿か?』  ハリーの声は温まるどころか氷点下の冷たさだった。 「……なんだよ、ノリが悪ィな!」 『当たり前だろ! 一体私に何させる気だ!』 「電話で温まるって言ったらテレフォン・セックスしかねぇだろ」 『寒くてそんな気分になれるか!』  遠隔操作でハリーをその気にさせるのは失敗に終わり、アクセルは落胆のため息をついた。そして、ハリーの身体を温めるはずが自分の身体が熱くなった事にアクセルは気付く。 「ねぇ、このまま続きしねえ? こんな事言ってるうちになんかムラムラしてきちゃった」 『一人でやれ』  氷点下の声はそう言い放ち、中途半端なテレフォン・セックスで自爆したアクセルを残して電話は切れた。  そんな電話を思い出し、自分の馬鹿さ加減にアクセルは思わず声を上げて笑ってしまった。が、ここが人の多い通りだという事を思い出して慌てて口をつぐむ。  サンクトペテルブルクからの電話の後はブラジルのサンパウロからだった。 『今、三重の虹が出ている!』 “もしもし”も省略し、開口一番でハリーは言った。早く見ないと消えてしまうぞと言いたげに早口だったが、あいにく虹を見に行くにはブラジルは遠すぎる。 『二重の虹は珍しくないが、さすがに三重の虹は初めて見た』 「へぇー! 消えないうちに写真に撮って送ってよ」 『もう撮ったよ。さっきまで土砂降りだったけどやっと晴れた。蒸し暑くてしょうがない』 「仕事?」 『まあな』 「そうだ、サンバのカーニバル! この時期じゃねえ? 仕事の合間に写真撮ってきてよ!」  興奮気味に言うアクセルにハリーはひとつ大きくため息をついた。 『あれはリオデジャネイロ。ここはサンパウロだ、馬鹿』  電話を切った後メールで写真が送られてきたが、3つ目の虹はかなり薄っすらとしたものでなんとも微妙ではある。それでもアクセルはその写真を大切に保存した。珍しいものを一緒に見ようとしてくれたハリーの気持ちが嬉しくてたまらなかった。  こんな風に、世界中を飛び回るハリーは行く先々からアクセルに電話をしていた。重要な話でも、急を要する話でもない。ただ時間が空いた時にアクセルを思い出し、用はないのに声を聞く。時に大人げない話で笑う。 「電話をかけるのはいつもハリーからだったんだな……」  今さら気付いた事。だが、ハリーはそれについて不満を漏らした事は一度もなかった。  本当はどう思っているのだろうか。自分はいつも会いたいだの好きだの言っているが、口ばかりで電話もかけて寄越さない薄情な奴と思われてはいないだろうか。それを寂しいと思ってはいないだろうか。 『ハリーだって同じだろうよ』  自分は会えない事が寂しいのかも、と言った時のレディ・ジョーの言葉を思い出す。 「ああ……そうなのかな」  性格がクールだから寂しいという感情を持ち合わせていないなど、一体何の根拠があるというのか。  重要なのは言葉ではなく行動なのだ。 ──やっぱり電話しよう。  握りしめたままだった携帯。もう一度ハリーの電話番号を表示させた瞬間、突然着信を知らせる振動が起きてアクセルは驚く。画面に表示された発信者の名前は案の定──。 「ハリー!?」 『……ずいぶん出るのが早いな』  ハリーの声は呆れたように笑っていてアクセルはホッとした。 「今あんたに電話しようと思ってたとこだよ」 『また適当な事を……。ピザ屋の出前じゃあるまいし』 「本当だってー!」  ハリーが疑うのは無理もない。しかし、電話するところだったのは事実なので、ムキになっても仕方ないが証明できないのは悔しかった。 『じゃあそういう事にしてやるよ。それよりこれから仕事だろ? 今大丈夫だったか?』 「まだ仕事には早いんだ。店の買い出しで市場に来てた。それより、今どこ?」 『自分のオフィスだ』  アクセルは少し驚く。ハリーがペンタゴンのオフィスから電話をしてくるのは初めてだ。 「今日は土曜日だけど仕事なの?」 『なかなか自分の仕事が進まなくて、今日は自分だけ休日出勤だ。おかげで書類整理が捗るよ』  なるほど、とアクセルは納得する。真面目なハリーはオフィスからプライベートの電話をかけるという事はまずない。周りに他の職員もいれば尚更である。だが、こんな風に休日オフィスに一人きりの場合は気兼ねする必要はない。  ワシントンD.Cは今頃午前10時過ぎ。おそらくコーヒーでも入れて一息ついているのだろう。そんなハリーの姿が見えるようだった。 「休日出勤とは仕事熱心なんだな。デキる男はやっぱ違うね」 『何言ってんだ、出来ないからこうして休日出勤してるんだろ。本当にデキる男なら就業時間内に仕事を片付けられるさ』  ハリーはため息混じりにしみじみと言う。アクセルにとっては謙遜にしか思えないがハリーは大真面目だ。 「それはさ、あんたがデキないんじゃなくて自分の仕事に手を付けられないくらい忙しいからじゃないの? 絶対キャパ超えてるだろ」 『まあ、私の部署は万年人員不足だからな。仕方ない』  完全に諦めているようにハリーは苦笑した。 「でもさあ、いつも出張先から電話くれるけど、自分のオフィスからって逆に新鮮だな」 『そうか? かけられる時にかけているだけだ。普通だろ』  アクセルがなぜ新鮮に感じるのかハリーにはわからない。しかしアクセルにしてみればハリーの言う「普通」がわからなかった。 「ヨーロッパにいると思ったらその何週間後には南米だし、電話の度にあちこちの国にいるだろ? あんたがどこの国の人で普通に生活する場所はどこなのか、時々わからなくなるよ」  そうは言っても、自分が行く事のできない様々な国の空気を伝えてくれるハリーからの電話は楽しくてたまらないのだが。 『普通に生活する場所? 家も職場もアメリカだが、仕事で海外に行くのも日常の一部さ』 「世界を飛び回るのが日常って凄いなぁ」 『何が凄いんだよ。どんなに飛び回っても所詮同じ地球上だろ』  突然、アクセルの胸に「答え」が降ってきた。  ヨーロッパの片隅で、恋人との距離に思い悩む自分。だが、相手は違った。 「……フランスは遠いって思わない?」 『思わないな』  アクセルの問いにハリーは即答する。 『フランス行きは直行便だし、機内で寝て起きてしばらくしたらもう到着だ。断然近い』  旅慣れているというのもあるだろう。フランスは半分故郷というのもあるだろう。いずれにしてもハリーの思う距離は、アクセルの感覚とはまったく違うという事である。 「俺たちって遠距離恋愛じゃない……?」 『遠距離恋愛? そんな風に考えた事なかったな』  たまにいるワシントンの自宅。たまに行くロシア。たまに行く中南米。そして、たまに行くパリ。どれも等しくハリーの日常に違いなく、という事は、彼にとってワシントンもパリも同等なのだろう。 ──俺が一人でハリーとの距離を遠くしていたのか……。 「ハリー、ごめん……」 『何がだ?』 「いや、何でもナイ」  ハリーが外国人なのを恨んだ事も。  遠い遠いと勝手に悩んだ事も。  心変わりを疑った事も。  こちらからあまり電話をしなかった事も。 「何でもないけどさ、俺たち電話のある便利な世の中に生まれて良かったなって」  誤魔化すようにそう言えば、そのしみじみとした言い方にハリーは笑った。 『便利って、このインターネット時代に電話にかよ』  恋愛を長く続けるコツは笑顔で側にいる事──とセバスチャンは言った。それは恋人と生活を共にする彼らのやり方。しかし、世の中には彼らのようにいつも側にいられない恋人たちは大勢いる。そのすべてのカップルが破局するかといえば、否であろう。  そして、離れていても電話の度にいつも自分たちは笑顔だとアクセルは気が付いた。現に今もハリーが笑い、アクセルもつられて笑いだす。 「やっぱ電話がいいんだって。メールで文字のやり取りするよかあんただって俺のセクシーボイスが聞きたいじゃん?」 『セクシーボイスはともかく、お前のメールはスペル間違いが酷いから電話の方がマシかもな』 「ひでェ……」  またハリーが笑った。その笑い声で今彼は子供のような顔をしているのだと、見なくてもわかる。  アクセルはパリの曇り空を見上げた。ハリーにとって狭い世界もアクセルには広い。それでも、ハリーに彼のまだ知らない世界を教え、自分も知らない国々を学べば、いつかその距離感は縮まるだろうか。 「ああ……話したい事がたくさんあるよ、ハリー」  言いながら雑踏の中へとアクセルは歩き出す。往来ですれ違う人々、その一人一人がそれぞれの愛を抱えているのだと意識しながら。  世界には人の数だけ愛の形があるのだ。 「今夜電話してもいい?」  彼らは一本のラインに想いを乗せる。
fin

アメリカを守るハリーが国を離れる事はできず、街と共に生きるアクセルもまたパリを捨てられない。でもいつかは一緒に……。
あと、二人の電話は結構くだらない(^^;

[2017年 11月 14日]