世界で最も裕福な国のひとつ、アメリカ合衆国。
その首都たるワシントンDCから、川を挟んで向かい側にハリーの勤務地がある。


川向こうのペンタゴン方面と時折通り過ぎるジョガーをぼんやりと眺めながら、ハリーは珍しくオフの安息日を過ごしていた。
朝8時、ポトマック川と公園に面した古いコーヒーハウス。
夏の休暇シーズンも終わり、観光客もめっきり減った。
東欧でのミッションを終え合衆国に戻ってきたハリーは、朝食を取りながらつかの間の休日を楽しもうとしていた。




店内にはハリーの他に、早朝ミサの帰りと思われる老夫婦がのんびりとパンケーキを頬張っている。
この時間にサーブされるメニューは一種類だけである。
サワーミルク入りの伝統的なパンケーキに、たっぷりとかかったメープルシロップ。店主が尋ねもしないのに教えてくれたところによると、ノースダコタ産の最高級品だそうだ。アメリカ風のビッグブレックファストには、カリカリに焼いた(ほとんど消し炭の)ベーコンとソーセージも欠かせない。
普段朝食をほとんど取らないハリーには多すぎる食事だが、にこにこと自慢のプレートを勧めてくる老店主の気分を害したくなかった。


プレートを半分ほどつついて新聞を読み始めたハリーに、店主がコーヒーのリフィルを持ってやってきた。
短く礼を言い、湯気の立つカップに口をつける。
アメリカのコーヒーというものを旨いと思ったことはなかったが、この店のコーヒーは別だった。フレンチローストの、舌がしびれるように熱く苦いコーヒーは、ヨーロッパに縁の深いハリーの味覚にしっくりと馴染んだ。




ふと、パリで飲むコーヒーを思い出す。
もはやパリのステロタイプともいうべきオープンカフェで飲むものではなく、ホテルのラウンジで出されるものでもない。
古びたアパートメントの一室。小さな窓の外には申し訳程度のバルコニー。
磨いたことなど一度もないであろう窓ガラスを、室内の湿気が曇らせる。


鼻孔に鮮やかによみがえる、アクセルのコーヒーの匂い。
いつの間にか、ハリーの心の中にしっかりと居場所を確保してしまった彼が入れるコーヒー。


彼は元気だろうか。
最後に会ったのはいつだったろう。
パリで一緒に買い物に出かけた。あまり着る物に頓着しないハリーに、洋服を選んでくれた。
そうだ、今着ているこの服。
涼やかなブルーグレーのコットンニットの柔らかな感触に、知らず頬が緩む。




(あんたみたいなブロンドにはさ、こんな色が似合うんだって)


そう言って、メインストリートを外れた小さなセレクトショップにハリーを連れて行ったアクセルは、迷いなく何枚かを手に取った。


(ほら、な)


パリジャンらしくこなれたセンスの持ち主である彼は、このニットをハリーの首元に当て、にっこり微笑んだ。




突然鳴り響いた電子音に、ハリーはパリの裏通りから??彼のそばから、DCの小さなコーヒーハウスに引き戻される。携帯電話の表示を一瞥して軽く舌打ちすると、通話ボタンを押して短く名乗った。


『し、少佐!』


クリストファー・ローレンの慌てた声に、軽くため息をつく。どうやら、早くも休日が終わってしまうようだ。


「どうした」
『A国関連で不穏な動きがありました。明日の月曜付で、在米大使が更迭されるそうです』
「どこから出た話だ」
『DoS(国務省)の例の次官補です。明朝1000に公示と』


冷静なハリーに、うわずっていたローレンの声が徐々に落ち着いていく。
煙草を取り出したハリーは、それでも老夫婦の存在を思い出し、しかめ面でまた胸ポケットに仕舞った。そもそもこの店は禁煙ではなかったか。


「本国の保守派が宣戦布告か。一波乱あるな」
『おそらく』
「わかった。とにかくオフィスに向かう」


恐縮するローレンをあっさり無視して通話を終えると、新聞を手に立ち上がる。
結局食事の半分は手つかずだ。立ったままコーヒーを飲み干すと、勘定と多めのチップを置きハリーは店を出た。




初秋のさわやかな風が、ポトマック川の水面をさざめかせる。
地下鉄の駅に足早に向かいながら、ハリーは携帯電話に登録してあるアクセルの番号を眺めていた。パリは夕方、彼は出勤準備をしているころだろうか。


少し迷い、結局電話はかけなかった。


あと数ヶ月もすれば、クリスマスシーズンだ。有給もたまっていることだし、少し長めのホリデイを過ごせるだろう。


(ゴードンを締め上げて、さっさとチケットを押さえるか)


その前におそらく、内戦の気配濃厚な彼の地で一仕事しなければならないだろう。
あの古ぼけたアパートメントと、これから向かうであろう戦場とのあまりの差に眩暈を覚える。
あのアパートメントには、暖かなコーヒーと年下のバーテンダー。
以前のハリーであれば一笑に付したかもしれない、日常の温もり。
今はそれが、ハリーを強くする。そして世界につなぎ止める。




地下鉄の階段を降りながら、ハリーはすでに気持ちを切り替えていた。
ローレンからもたらされた情報を整理し戦略を練りはじめる。
まずはDoSのソースに当たって裏を取るべきだろう。ペンタゴン内でも足並みを揃えるべきだし、できるならリベラルでならした大使とも送還前に話しておきたい。


改札に向かう通路から一瞬地上を振り仰ぐ。
柔らかな秋の陽光が通路の埃を照らし、光の道筋を作っていた。
なぜかそれがアクセルのアパートメントで迎える朝を思い起こさせ、自分に軽く呆れる。


息を吐き出し、小さく悪態をつくと、くるりと踵を返し再び歩き出す。
DCにいようが、アーリントンにいようが、どこぞの紛争地域で瓦礫に這い蹲っていようが、結局思うことはいつも一緒なのだ。


アクセル、お前のコーヒーが飲みたい。




アクセル、お前に会いたい。



FIN

※この小話はフィクションであり、実在の組織・事件には一切関係ありません。











地元ワシントンD.Cにおけるハリーの日常のワンシーン。まるで彼が飲む深煎りコーヒーの香りがしてくるようです。
厳しさと柔らかさを抱えるハリーの姿がとても彼らしく、つかの間の休息にアクセルを想う気持ちがなんだかあたたかい・・・。
ナオ様、凄く素敵なお話でした・・・。本当にありがとうございました!

[2010年 9月 24日]