夢から覚める夢。一番怖い事は、大切なものが実は最初からなかったという事だと思うのです。
[2010年 9月 5日]
寄せては返す波の音を聞いていた。 開け放たれた窓から吹き込んでくる潮の香り。カモメの鳴き声。あたたかな陽射し。ふいに強い風が吹き込んできてレースのカーテンを揺らし、自分の髪が頬をくすぐる。 音、匂い、温度、光……。全身の五感すべてで認識している。たとえ目隠しをされて連れてこられたとしても、俺は此処が何処なのかがわかる。身体に馴染みきった、この西の果ての海――。 この岬の別荘で俺たちは何度夏を過ごしただろう。 「キリマンジャロとマンデリン、どっちがいい?」 キッチンから何やら楽しげな声が飛んできてソファから身を起こした。 今まで奴は俺のために何度コーヒーを淹れただろうか。好きな豆、好みの濃さ、飲みたくなるタイミング、奴はすっかり俺の好みを把握している。あとはその時の気分で決まる豆の種類。数ある豆からすでに二種類まで絞り込まれている。 マンデリンと答えるとアクセルは、そう言うと思った――と言って微笑んだ。 コーヒーを片手にバルコニーへと出た。 三方を海に囲まれたバルコニーで海を見下ろしながら淹れたてのコーヒーを飲む。ミスマッチでいて贅沢な趣向。 「此処いいよなあ。この別荘に住みてーなー」 そのセリフも何度聞いたことか。毎年此処に来る度に呟かれる言葉。その都度俺も決まったセリフを返す。 「だから買えばいいじゃないか、そんなに気に入ったんなら」 「叔父さんの持ち物なのに、あんたがそんな簡単な事言っていいのかよ」 「じゃあ叔父を説得するんだな。その前に金を貯める事が先決だろう?さすがの叔父もタダではくれないぞ」 そう言ってやるとアクセルは苦笑って頭をかいた。 いつか、都会育ちのお前にはこんな田舎は退屈だろう、と言った事がある。その時アクセルは笑ってこう答えた。 「俺はパリで生まれてパリで育ったけど、それは俺が望んだ事じゃない。パリは大好きだけど、今までずっと都会の汚れた空気を吸ってきたんだ。……もう充分さ」 この男はその明るさと優しさからは想像もつかないような暴力と犯罪にまみれて生きてきた。毎日犯している罪の意味もわからぬ少年は、大人に殴られ警官から逃れ、汚泥の中を這って生きてきた。華やかなパリの暗部に溶け込んで育ったのだ。 そして俺の目を覗き込みながら夢見るように言う。 「空と海とカモメしかない風景の中にあんたが居る……。これ以上望むものなんてねえよ」 ――胸が締め付けられるようだ。 「なあなあ、金が貯まったとしてさ、あんたの叔父さんに何て言えばいいかなあ」 隣を仰ぎ見ればアクセルは真剣な顔で考え込んでいた。 「あなたの甥っ子さんと一緒に住むためにあの家を売ってください……とか?ハリーさんを一生幸せにします、って付け加えたら安くしてくれっかな?」 危うくコーヒーを噴くところだった。 「お前な……ある日突然男が訪ねてきてそんな事言われてみろ、叔父は腰抜かすぞ!」 ――いや待てよ……。そうは言ったが俺も馬鹿げた想像をしてみた。 「もしかしたらお前に嫉妬して逆効果かもしれないな」 途端に奴は目を大きく見開き、酷く慌てた顔になる。 「ええーっ!……叔父さんって、実の甥っ子に恋愛感情持ってるの?ライバルかよ!」 ちょっとからかったつもりだったが期待以上のアクセルのリアクションに可笑しさが込み上げた。 「お前には負けるだろうさ」 調子に乗ってつい口を滑らせた。はっと我に返ってアクセルを振り返ると意味深に細められた目と合う。奴はこの言葉を聞き逃しはしなかった。 「それはさ、叔父さんよりも俺の想いの方が深いって意味?」 「……」 「俺に愛されてる自覚があるって事だよな?」 ああ……まったく余計な事を言った。 アクセルの追及に無視を決め込み、無言で煙草を咥える。だが、横から手が伸びてきて唇から煙草を奪われた。 「おい、こら!」 「なあ、どうなのさ」 どうあっても逃がさないつもりらしい。アクセルは顔を寄せて俺に返答を迫る。期待と確信に満ちて目をキラキラさせているところが癪に障る。 「言えよ。愛されて嬉しい、って」 「……別に、嬉しくもないさ」 「嘘ばっかり。顔が赤いぜ?ハリー」 勝ち誇ったようにアクセルは笑うが、そう言う自分の顔も赤いという事にこいつは気付いていない。 「馬鹿、あれを見ろ」 海を指差す――。水平線の上に赤々と燃える太陽が浮かんでいた。 「――す……っげ……真っ赤……!」 青かった空がいつの間にかオレンジに染まり、赤く膨らんだ太陽が海の向こうに還ろうとしていた。徐々に大気は赤味を増し、長かった昼が終わりを告げる。 アクセルは俺を追及する事も忘れ、呆けたように夕陽に見惚れていた。頬がオレンジ色に染まっている。おそらく、自分の顔も同じ色に染まっているだろう。 「――ヨーロッパで一番綺麗な夕陽だろう?」 「違うよ、ハリー。世界で一番綺麗な夕陽だ」 この岬には何もない。 ネオンサインも三ツ星レストランも、流行りの音楽もキオスクもない。若者が求めるような刺激や娯楽は一切ない。 「ハリー……俺、あんたを待ってるよ」 夕陽を見つめたままアクセルが呟いた。 「あんたを縛るすべてのものからあんたが解放されて、あんたが『もういい』と思える日が来るのを、俺は待っている。いつかそんな日が来たら……一緒に暮らそう」 それきりアクセルは再び黙った。 俺たちは何も言わず並んで水平線を見つめる。空の色が刻々と変わりゆく様子を見守った。 「嬉しくないわけがない……」 ややしばらくの後、先程のアクセルの追及に俺は小さな声で回答を出す。 アクセルは驚くでもなく小さく笑って、知っているよ――と言った。 ふいに目の前が暗くなる。隣の男は上体を捻って覆い被さってきた。 ――俺は静かに目を閉じた。 此処は世界の果て。 太陽が還ってくる場所。 この岬には何もない。 空と、海と、カモメと……世界で一番美しい夕陽。 ――そして、お前が居る。しょうさ 誰かが呼んでいる……。タタタン……タタタン…… 規則的な振動に身体を揺られている。しょうさ! ああ……誰だ……?「少佐……!」 目を開けた。 「目が覚めましたか?あと30分でブダペストです」 ロバート・ブラウンだった。その隣にはローレンも居る。 「ああ……眠っていたのか?」 「はい、ぐっすりと」 列車の中だった――。俺たちは任務の途中でヨーロッパを移動していた。 俺は夢を見ていたらしい。 二人で過ごす岬の別荘も、美しい夕陽も、マンデリンの香りも……。 すべてたんなる夢。 任務の途中で何故あんな夢を見たのだろうか。そういえばしばらくあいつに会ってない。最後にパリで会ったのは一体何ヶ月前の事だろう。夢は願望の現れというが、そろそろ顔を見たいという気持ちはたしかに否定出来ない。 完全に目が覚めてないみたいだ。頭の芯がモヤモヤと霞がかった感じ。よほど深い眠りだったのだろうか。 「……フランスに居る夢を見ていた」 「少佐、まるで死んだように眠ってました。列車に乗り込んでからすぐ寝ちゃいましたよ」 ローレンが笑って言う。 「お前たちにいつか話したパリのバーテンダーが出てきた。まったく変な夢を見た……」 「誰です?それ」 ブラウンが微笑んで問いかけてくる。 「レ・アールにあるオカマ・バーの若いバーテンダーだ。話した事があるだろう。もう忘れたのか?」 美味いカクテルを飲ませるバーがあるから仕事でパリに行く機会があったら連れて行ってやる、と二人に言った事がある。どうやらそんな事は忘れているらしい部下にやれやれと思ったが、意外な言葉が返ってきた。 「私は初耳ですが?」 ブラウンに同調してローレンも自分もだと頷いた。 俺は眉をひそめた。 この二人が揃って覚えてないとは妙だ。とくにブラウンは頭の回転が速く記憶力もいい。自分はこの男に頼る部分が多く、秘書のような事をさせる時があるくらいだ。 『少佐がオカマ・バーだなんて意外ですね』 『楽しみだなあ。近々パリ出張の予定はないんですか?』 そんな風に、話に対して彼らも言葉を返していたのだ。 俺はよほど茫然としていたらしい。ブラウンが困惑した顔で言う。 「少佐はあまりプライベートな話をされませんし、私が知っているフランスの話といえば、少佐のお母さんがパリ大学の教授だという事くらいです」 たしかに自分の事をあまり話した事はない。 だが……。 「だいぶお疲れになっているんじゃないですか?まとまった休暇を取ったらどうです?フランスにももう3年も帰ってないじゃないですか」 3年……だと……? おととしの事だ、あいつと初めて会ったのは。晩秋のシャルル・ド・ゴール空港……。『悪いけど、火ィ貸してくんね?』 やたら背の高い黒髪の若者。今どきの流行りのファッションに身を包んだ、どこか軽薄そうなチンピラ……。 3年だと!? 「……おととしの11月、10日も休暇を取ってパリに行った。ブラウン、お前も知っているはずだぞ!」 自然と声が大きくなる。だが、ブラウンは怯む事なく毅然と言いきった。 「ええ……休暇の申請をされていましたが、ちょうどその頃退役軍人によるスパイ容疑の案件が出てきて申請は取り消されたでしょう?はっきり覚えています」 そう……そうだった。あの案件のせいで何日も自宅に帰れない程の忙しさが続いた。休暇どころではなくなったんだ。 ――では、パリで過ごしたあの一週間は何処に行ってしまった? 「夢を見ていたんですね……?」 ちょっと、待て……。どういう事だ……。 あいつと現実を繋ぐものが見当たらない。 そんな男は最初から存在しなかったというのか? 空と、海と、カモメと、お前……。 二人で見た風景が徐々に薄れていく。 あいつとの日々はすべて幻だったのか? 夢?……だとしたら俺は、一体いつから夢を見ているんだ……? 俺は酷く混乱していた。全身から力が抜けてシートに深く身体を預ける。 「……どういう事なんだ……!」 「大丈夫ですか?少佐」 手を額に当てて目を閉じれば、心配そうな部下の声がいやに遠く聞こえた。 俺は、ひとつ気付いてしまった。『ハリー……俺、あんたを待ってるよ』 ――お前の名前がどうしても思い出せなかった。――ハリーが眠っている。 空が明るくなり始めた頃、店が終わって部屋に帰るとソファにハリーが横たわっていた。 点けっぱなしのスタンド、カップにたっぷり入った飲みかけのコーヒー。起きて俺の帰りを待っているつもりだったんだろう。 長旅で疲れているんだから起きてなくていいものを……。 無心に眠る顔が可愛いと思った。つい口元が綻んでしまう。いつまでも寝顔を見ていたい。 だが、その時……。 何かを言おうとしているようにハリーの口が小さく開いた。 その途端、可愛いとしか思ってなかった顔に言いようのない翳りを感じる。……心がざわつく。 “連れ戻せ”――と心が命じるまま彼の顔に口を寄せて囁いた。 「おはよう、ハリー。もう朝だよ――」fin
夢から覚める夢。一番怖い事は、大切なものが実は最初からなかったという事だと思うのです。
[2010年 9月 5日]