最初に“それ”が現れたのは新月の夜だった。

 微かな夜気がひたひたと頬を撫で、夜特有の濡れた草木の匂いが鼻腔に届く。決して不快な匂いではない。だが、ふと湧いた疑問。寝る前に窓は閉めたはずだ。
 薄く目を開ける。月のない暗い夜、目が闇に慣れるまで時間を要した。

──誰か居るのか?

 開け放たれた窓辺に何者かが立っていた。星明かりがバルコニーの手すりを白く照らし、何者かの影を浮き上がらせる。

──鳥?

 翼を広げた大きな黒い鳥。
 ……いや、違う。翼を持った男の姿。それは音もなくベッドに近寄って来た。
 誰だ、と言おうとしたが声が出なかった。
 鋭い爪の指先で頬をなぞられる。そして唇、次に首筋。やがて男は顔を近付け、耳元で囁いた。

「俺を待っていたろう?」




「いらっしゃい!」
 ドアを開けると弾むような明るい声に迎えられた。ランチタイムのカフェは今日も常連客で賑わっている。いつものように壁際の席に座ったところで、他のテーブルに料理を届けた店主が戻りがてら俺の元に来た。
「“本日の定食”?」
「ああ」
「今日はいい鱒が入ったんだ。香草焼き、絶対美味いよ」
 笑顔で「絶対!」と念を押し、店主はカウンターへと戻っていった。

 このカフェが此処にオープンしたのは一年前。職場から目と鼻の先という事もあって、俺が此処に通うようになって数ヶ月が経つ。それまでは馴染みのカフェに行っていたが、そこが他所に移転してからはほぼ毎日このカフェにランチを食べに来ていた。
 まず、この店は居心地が良かった。そして料理も美味くて安い。他の常連客も思いは同じらしく、みんな我が家のように寛いでいた。
「ああ、すっかり遅くなっちまった! “本日の定食”まだあるかい?」
「いらっしゃい。危なかったな、あんたの分で最後だよ。さあ、早いとこ座った!」
 次々に客が来る。常連客の大半は日替わりの定食を注文した。
「お前さんの料理はうちのおふくろ以上だね。まったく、女房に見習わせたいよ」
 他の客が店主に声をかけると、彼は笑いながら釘を刺す。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、そんな事言われたらあんたの奥さんに恨まれちまうよ」
 周囲で笑いが起こった。

 地域の人々に愛されるカフェ、そして気さくな店主。常連客に対して家族のように接し、だが初顔の客にもオープンで入りやすい店だった。
 店主はまだ20代前半の若さだが料理の腕はたしかだ。おそらく何処かのレストランできっちり下積みをしてきたんだろう。料理の腕だけでない。彼はカフェのオーナーにしておくのは惜しいほどの美男子だった。
 漆黒の髪、とび色の瞳、少年のような笑顔。彼を見ていると何故か懐かしい、そしてあたたかな気持ちになった。
 自分も常連客ではあるが、彼とは注文をする時以外まともに話をした事はない。だが、初めてこの店を訪れた時から、彼の明るさと人柄に惹かれていた。
 俺はいつもこの若い店主の姿を目で追っていた。

 やがて来た鱒の香草焼きを食べながら、俺は昨夜の夢の事を思い出していた。
 いやにリアルな夢だった。
 夢、だったのだ。起きた時、窓はたしかに閉まって内側から鍵がかかっていた。だが、あの時耳に吹きかけられた熱い息が生々しく思い出される。
 薄気味悪い夢だったが、俺はそれ以上気にするのをやめた。




 ぎしり──

 足元の方でベッドがきしんだ音をたて、俺は目を開けた。
 部屋の中は闇に包まれ、開け放たれた窓から冷えた空気が流れ込んできている。いつの間にかシーツが捲られていた。
 ベッドの上、足元に蹲る黒い影……。その影が足首を触っている。
 やがて、その手はゆっくりふくらはぎを這い上がり、膝を通って太腿に達し、ついに股間に辿り着くとそこを撫でまわし始めた。
 いよいよ尋常ではない事態に、俺はかすれながらも声を出した。
「何を、する……。お前は……誰、だ……」
 蹲っていた黒い影が動きを止め、ゆらりと半身を起した。ばさり、と音をたててその背から翼が広がる。そしてゆっくりと覆いかぶさるように足元から這い進み、俺の顔を見下ろした。
 血のように赤く輝く目、尖った耳、長い爪、頭から生えた鋭い2本の角。明らかに人ではない異形の魔物……。
 魔物は何も答えず、長い舌を出して俺の顔をゆっくり舐めた。熱く濡れた舌に身震いする。このままこの魔物に食われるのではないかと恐怖を感じた。
 だが、そいつは俺の身体から退き再び足元まで移動すると、寝巻のズボンに手をかけ下着ごと一気に膝まで下げた。
 あまりにも一瞬の、そして唐突過ぎる事に、俺は茫然とするばかりで抵抗も出来なかった。急所が外気に晒されて、自分が無防備な弱い立場になったと思い知る。次の瞬間、魔物の口に性器が飲み込まれた。
「やめろ……っ!」
 ようやく口にした拒絶の言葉に耳を貸さず、そいつは舌を動かし始めた。熱い口内に圧迫され、勃ち上がってしまったそれを吸い上げられる。長い舌がくびれに絡みつき尖った舌先が鈴口をこじ開ける。
 食いちぎられるかもしれないという恐怖より早く快感の波が押し寄せてきた。抗う暇もなく絶頂に押し上げられ、魔物の口の中で果てた。喉を鳴らしてそれを飲み込んだ魔物は、最後にきつく吸い上げるとようやく身を起こす。
 俺は、目を閉じたまま息を弾ませていた。
 こんな得体の知れない化け物に口淫され、無抵抗のままあっさり達してしまった。これが夢であってもこんな淫らな夢を見る自分を恥じた。
 魔物の姿も下半身を晒した自分の姿も直視出来ずきつく目を閉じていると、また耳に熱い息がかかった。
「明日から裸で待っていろ……」
 そこで俺の意識は途絶えた。




 次に目を開けた時、眩しい朝日が部屋に満ちていた。
 目覚めた時、やはり窓は閉まって内側から鍵がかかっていた。下ろされた寝巻のズボンもきちんと穿いていた。吐精の名残は微塵もない。つまり、昨夜の行為の物的証拠は何もないのだ。
 ただ、記憶だけは生々しく残っていた。あの魔物の舌の動きを、せり上がってくる射精感を、囁く声色を。──だが、それらは夢なのだ。現実であるはずがない。

「“本日の定食”お待たせ!」
 目の前に皿が置かれ、俺はハッと我に返った。
「今日はラム肉のローストと茸のソテーよ。ゆっくり召し上がれ」
 カフェの女性店員が笑みを湛えて言う。俺は小さくありがとうと返した。
 午前中の会議が長引き、今日はいつもより遅いランチになった。ランチタイムのラッシュはひと波引いたらしく、カフェの客はまばらだ。
 ラム肉を堪能しながらふと小さな疑問が湧いた。“本日の定食”は、いつも早々に売り切れとなってしまうはずだ。この時間まで定食用の食材が残っていたのだろうか──。
 料理を食べ終わる頃コーヒーを持ってきた店主にその事を訊いてみる。
「この時間まで定食があるなんて、今日はそんなに混まなかったのか?」
 注文以外のやり取りをするなど初めてかもしれない。まして自分から話しかけるなど。
「おかげさんで今日も盛況だったよ。それはさ、あんたのために取ってあったんだ」
 意外な言葉に驚いて顔を上げると、店主は照れ笑いを浮かべて言う。
「いつも来てくれるから今日も来ると思ってさ。こんなに遅い事初めてだからどうしたのかなぁって気になっていた」
 そんな風に考えてくれていたなど想像した事もなかった。俺は返す言葉が見つからず黙って目を逸らした。こんな無愛想な男など、一体誰が気にかけるというのか。
 顔が熱い……。動揺を悟られてない事を俺は祈った。
 この店主は、喋らない俺にいつも会話のきっかけを投げかけてくれる。だが、俺は他の常連客のように気安く会話を楽しむ事が出来なかった。この特別な感情のせいで……。
 彼は若いながらも妻帯者だった。妻はさっき料理を運んできた店員だ。おそらく彼よりもいくつか年上だろう、しっかり者でよく働く妻だ。二人はいつも仲睦ましくこのカフェを切り盛りしている。
 そして彼らには子供が一人居た。3歳か4歳の、母親に似た愛くるしい娘だ。時折、奥から顔を出して客に構われているのを何度か目にしている。
 優しい妻と可愛い子供。絵に描いたような幸せな家族の姿。

──まるで、数年前の自分を見ているようだ……。

 家族を養い真面目に人生を送るこの店主に、自分の気持ちを決して気付かれてはならない。男が男に恋愛感情を抱くなど異常な事だ。自分の不埒な想いはこの男を汚してしまうような気がした。これはただの憧れなのだと自分に言い聞かせた。




 また夜が来る。
 夜が来ればまたあの夢を見てしまうかもしれない。
 眠るのが怖い……。




 気が付けば、魔物が俺に馬乗りになってシャツのボタンを外していた。
「こういうのは無駄な抵抗だ」
 ボタンを外す手を止めず、そんな勝手な事を言う。その手を、身体を、払い除けようと思ったが何故か身動き出来なかった。
「裸で待っていろと言ったろう?」
 また夢を見るのが怖くて、朝まで起きていようと服を着たままだった。だが人間は眠らないわけにはいかない。魔物の言う通り無駄な事だとわかってはいたが……。案の定、俺はいつの間にかベッドの上で寝落ちていた。
「お前は一体何者なんだ。何故こんな事をする……!」
 すると、はだけた胸元を舐めていた魔物は顔を上げ、俺の唇に触れそうなほど唇を寄せて囁く。
「何故かって?俺はあんたのために来たんだ。あんたの欲望を満たすためにな」
「こんな事望んではいない!」
「いや、あんたは俺に抱かれたくて堪らないのさ、ハリー」
 魔物は身を起してジーンズと下着を脱がしにかかった。
「よせ!やめろっ!」
 夢だからか、それとも魔物が不思議な力を使っているのか、抵抗したくても身をよじる事しか出来ない。魔物は、そんな無力な俺から着ているものをすべて剥ぎ取ると容易く身体をうつ伏せにした。膝を立て、腰を高く上げさせられる。
「嫌だ!」
 魔物の目の前に局部のすべてを晒す格好にさせられ、羞恥に震えた。そして尻を手で割開かれ、谷間に熱い息がかかったと思った途端、そこに舌が入ってきた。
 人間のものではない長い舌がどんどん奥深く入り込んで、まるで生き物のように動き回り内部をくまなく舐めていく。俺自身知らなかった性感帯を何度も突かれ、じくじくと快感が湧いてきた。あられもない声が上がってしまいそうでシーツを咥えて堪える。
 やがて気が済んだのか舌が出ていきホッとして息をつく。が、そいつはまだ尻から手を離さなかった。舌の代わりに何かもっと硬いものが押し当てられる……。

──まさか!

「う……ああぁぁぁっ!」
 舌よりももっと太い塊が一気に奥まで押し入ってきて、俺は悲鳴を上げ仰け反った。
「これが欲しかったんだろう?ハリー」
 そう言うと魔物は腰を前後に動かし始めた。
「い、やだ……嫌だ……嫌だ!あぁぁ……」
 狭い道を魔物の陰茎が行き来する。堪らない異物感、そして鈍い痛み。全身を激しく揺さぶられ感覚が麻痺していく。
「最後にセックスしたのはいつだ?いや、それ以前に他人に触れられるのは何年ぶりだ?」
 魔物の言葉はまるで呪文のように頭の中にこだました。
「女房と腹の子供が事故で死んで以来、あんたはずっと寂しかったのさ」

──黙れ!

「死んだ者に遠慮か?口に出さない分あんたの身体は、ほら、『寂しい』って言ってる」

──黙れ!黙れ黙れ黙れ!

 最も聞きたくない話を最も聞きたくない時にされ、こいつを心底殺したくなった。
 だがそんな最中、異物感が新たな感覚を呼び起こし、痛みから快感が湧いてきた。その快感はどんどん膨れ上がり下腹から身体の隅々まで広がっていく。得も言われぬ快楽に鳥肌が立ち身体が震える。俺は完全に勃起していた。
「さあ、イけよ」
 自分が上げる叫び声を遠くで聞いた。
 そして──。

 意識が闇に包まれていった。




 翌日、仕事が終わると図書館に足を運んだ。
「これくらいでいいかしら?」
 机まで数冊の本を持ってきてくれた司書に礼を言って読書灯を点けた。
 自分の曖昧な記憶を頼りに揃えた宗教関係と民俗学の研究書。古い革の表紙を開く。

 【夢魔】
『キリスト教の下級悪魔のひとつ。人間の夢に現れて性交する。男性型のインキュバスと女性型のサキュバスがある。その人間が理想とする異性の姿で現れ誘惑するため、誘惑を拒むのは困難とされる。自ら繁殖能力がないため、人間の精を奪って、または精を植え付けて子孫を増やす。』

 銅版画や油絵で描かれた挿絵も載っていた。しどけない寝姿の女に圧し掛かる小鬼やコウモリのような羽を持った男。または半裸で妖艶な女の姿をした悪魔。
 くだらない、と頭では思う。でも、“くだらない”で片付けられなくなっていた。あの夢を見るのは毎日だ。必ず現れる魔物、そして性行為。それらはあまりにもリアルで、昼間の日常と夜の淫らな行為と、どちらが夢なのかわからなくなる時がある。心理学の本を読んでも、夢占いの本を読んでも、今ひとつ腑に落ちなかった。
 出来れば科学的根拠が知りたい。カウンセラーの所に行く事も考えた。だが、カウンセラーはそれが仕事だとしても、どうしてもあの夢を人に言う気にはなれない。与えられるアドバイスも予想がついてしまう。はたして俺はそれに納得出来るだろうか……。
 それにしても──と、本を閉じ俺は思った。
 男である自分の元に何故男の夢魔が現れるのか。俺は男で妊娠する事はない。夢魔の繁殖には何の役にも立たないはずなのに……。

 図書館の帰りにいつものカフェの近くを通りかかった。
 店主が外からウインドウを拭いていた。夜はバーへと変わるため、今はその準備時間らしい。俺は足を止め、その光景を気付かれぬよう陰から窺った。
 その時、店主の元に小さな女の子が駆け寄ってきた。彼はその子を抱き上げ蕩けるような笑顔で話しかける。
「歯医者さんはどうだった?」
「ちっともこわくなかった」
「そうか、偉いぞ」
 そして子供と一緒に居た母親と笑いながら言葉を交わす。
 幸せそうな家族の姿に居たたまれなくなって、俺はそっとその場を離れた。




 湯船から上がり鏡の前に立つ。湯気で曇った鏡を手のひらで拭うと、青白い顔をした男が映っていた。精気のないやつれた顔……。ぐっすり眠ってないせいか、ここ数日で痩せたのが自分でもわかる。
 それは他人が見ても同じらしい。今日、カフェの店主が俺の顔を見るなり一言「大丈夫?」と言った。俺は、何でもないと答えるしかなかった。

 今夜もあいつが来る。
 そしてまた俺を抱くだろう。
 どんなに抵抗しようが犯される。
 それは、全身が溶けてしまうような快楽で……。

「どうせあれは夢なんだ。夢だから気にする事はない。気にする事は……」
 鏡に額を預けて、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。




「今日は言い付けを守ったようだな」
 俺からシーツを剥ぎ取った魔物は嬉しそうに口元を歪ませた。
「抗っても無駄だと諦めたか?」
 俺はそれに答えず、きつく目を閉じて顔を背けた。一糸まとわぬ身体をすみずみまで魔物の手が這う。抵抗はしなかった。
「いや、違うな」
 問いかけに、魔物は自分で答えを見つけた。
「“期待”だ。諦めどころか、男の味を知ったあんたは貪欲に快楽を貪る気になったんだ」

 こいつの言う通りだ……。俺は求めている。心では嫌悪しても、身体はあの蕩けるような快楽をあさましく待ち焦がれていた。その証拠に、まだ触れられてもいない下半身が激しく脈打って痛いくらいだ。

「そんなに俺が欲しかったか?」
 魔物が喉の奥で笑いながら俺の脈動を弄び始める。直接の刺激に思わず呻いた。
「ち……がう……!」
「まだ意地を張るのか?俺にこうされたいんだろ?」
「お前なんかじゃない……!」
 一瞬、魔物がぴたりと手を止めた。「へぇー」と言って楽しそうに目を見開く。俺はハッと我に返って口をつぐんだ。
「じゃあ誰だ?俺ではないなら誰なんだ?」
「……」
「名前を言えよ。本当は誰に抱かれたい?」
 あの店主の名を知らないわけではない。他のお客たちが彼の名を呼んでいるのを何度も聞いている。だが、俺はその名を自分の心の中で唱える事すら避けていた。
 名前というのは呼ぶ人間の心を奪う。口に出してしまうと一層想いが募る。引き返せなくなると自分がつらい。ましてこんな場面でなど……。
 頑なに無言を貫く俺に諦めたのか、魔物は不敵に笑って俺の脚を抱え上げ、開かせた中心に顔を埋めた。
 前も後ろも口で蕩かされ、すっかり出来上がった俺の身体は難なく魔物の欲望を受け入れる。奴は何度も体位を変えて様々な角度で俺の身体を突き上げた。
 本来性器ではない器官に不自然な行為。まだ2度目だというのに、何故自分の身体はこう容易く慣れてしまうのか。そればかりでなく、そうされる事が気持ちよくて堪らないとは……。
 後ろから貫いていた魔物が繋がったまま俺の上体を引き起こした。咄嗟に足に力を入れ体重を逃がそうとしたが、腰を強く掴まれて魔物の上に座らされてしまった。結合部分にまともに自重がかかり、一気に奥まで貫かれて息が詰まる。
「深……苦し……」
 魔物の胸に背中を預け肩口で仰け反る。
「目を開けて俺を見ろ」
 後ろから俺を抱き締め、奴は囁いた。
 それには耳を貸さずきつく目を閉じて顔を背けると、大きな手に顎を掴まれ引き寄せられる。やむなく、少しずつゆっくりと、瞼を持ち上げた。
 今までは俺に覆いかぶさり逆光で闇に紛れていたため、よく見えなかった魔物の顔……。星明かりに照らされた今、俺ははっきりとその顔を見た。
 愕然とした──。
「まさ……か……」
 魔物は、あのカフェの店主の顔にそっくりだった。
 目の前の男を認識した途端、ざわり──と、侵入されている内壁が収縮した。無意識に中に居る魔物を締めつける。
「そいつの名を言えば代わりに “愛してる”って言ってやるぜ」
 魔物はどこか勝ち誇ったように笑うと、俺の口に噛み付くように口づけた。
 下腹の奥から得体の知れない大きな波が押し寄せてくる。逃げ場のない俺の、胸に、脳天に、四肢の先まで波が打ち寄せ、途方もない快感に理性が砕け散った。

「んんっ!……ンン──ッ!」

 魔物の唇に口を封じられ出口を奪われた嬌声は喉の奥で悲鳴になった。硬直する身体を押さえ込まれたまま、俺は何度も何度も快楽の波にさらわれた。




 次の日から俺はあのカフェに行くのをやめた。
 あの魔物の顔が店主にそっくりだと知った時、俺は今までにないほどの快感を覚えた。あのあたたかな笑顔の店主を、俺は快楽の材料にしてしまった。自分が望んだ事ではないし言わなければわからない。まして夢の中の話だ。だが、あれは願望の現れなのだろう。
 もう彼の顔をまともに見る事が出来ない。この罪悪感に押し潰されてしまいそうだ。

 職場からかなり遠回りして大手チェーン店でランチを食べる。可もなく不可もない味。若いアルバイト店員はマニュアルにのっとった型通りの接客。客は観光客がほとんどのようだ。この店は毎日来れる所ではない。値段が高いし、何より職場から遠過ぎだ。明日はファーストフードをテイクアウトして自分のデスクで食べる事にした。
 今頃は──と、食後の薄いコーヒーを飲みながらあのカフェの事を想う。
 店主はこの間のように、なかなか来ない俺を来ると信じて“本日の定食”の材料を残してあっただろう。もう来ないなど思いもせずに……。
 大勢の客の一人にすぎない俺を、無愛想でほとんど喋らないこんな男を、彼はいつも気にかけてくれていた。店主の優しい気持ちを裏切る事に胸が痛くてしょうがなかった。




 それからも毎晩あの魔物は夢に現れる。
 夢の中の俺は魔物に抱かれる事にもう何の躊躇もなかった。魔物の肩にしがみ付き、腰に脚を巻き付け、恥も外聞もなく女のような高い声で啼いた。
 夜ごと月は満ちていく。次第に輝きを増す月光に照らされた魔物の顔は見れば見るほど店主そっくりで、俺は馬乗りになってその顔を見下ろしながら快楽に耽った。
 きっとこれが自分の本性なのだろう──。
 昼間はきっちりスーツを着て余計な事など考えず仕事をする。周りから“真面目で硬い人”と言われ、自分もその通りだと思っていた。こんな夢を見るまでは……。
 魔物が言っていた通り、俺はあいつを待っていたのだ。長い間抑圧されていた俺は、家族を失った寂しさで本来の自分を取り戻してしまったのだろう。
 今となっては魔物の下で喘いでいる自分の方が自然に思える。

 夢を見ずに眠りたい。
 見るのなら覚めなければいい。

 夜は夢の中で悦びに身悶え、朝が来ると俺はそんな自分に吐き気がした。




 日曜日の昼下がり、俺は家の近くのショッピングセンターに買い物に来ていた。
 平日は帰りが遅いため、日曜日になると一週間分の食料を買いに行く。一人きりで買い物をする習慣も2年くらい続いている。かつては最愛の女と此処に来ていた。買い物をする、それだけで幸せだった時代があった。
 日曜日の大型ショッピングセンターは家族連れで賑わっていた。以前は家族連れを見るだけでつらかったが、もうそれにも慣れた。
 買い物が終わり、買った物を車のトランクに積んでいる時──。

「あれっ?あんた、うちのカフェに来ていた……」

 その声に振り返った俺は心臓が飛び出しそうだった。そこにはあのカフェの店主が立っていた。
「あ、やっぱり!こんな所で奇遇だね。買い物?」
 咄嗟にどうすべきか迷う。
 自分が避けようとしていた相手が目の前に居る。無視して車に乗り込み彼を振り切って逃げる事も考えた。だが、それは出来なかった。嫌いで避けているわけではないのだ。嫌いどころか、本心では会いたかった人物。それに、無視して逃げ出すと彼は傷付くだろう。
「……ああ」
「そっか、俺も買い物に来てこれから帰るとこだったんだ」
 思わず頷いた俺に彼はホッとした顔をする。そして、少し緊張した面持ちで俺に言った。
「あの、もし時間があるなら……そこでちょっとコーヒー飲んでかない?」

 ショッピングセンターの一画にあるコーヒールーム。外のテラス席で俺たちは向かい合って座った。
「心配してたんだ、急に来なくなったから……。あの、何か失礼な事あったんなら……」
「いや、違う。そんなんじゃない」
 店主に最後まで言わせず否定したものの言い訳に悩む。咄嗟に思い付いた無難な理由を言った。
「仕事の環境が少し変わっただけだ。お前のせいでも店のせいでもない」
「ホント?ならよかった!来れる時があったらまた来てよ。あ、商売とか儲けとかそういう意味じゃないから!」
 そんな風に考えた事などないというのに。不器用で誠実な人柄に少し和む。
「ところで、家族と来てるんだろう?いいのか?ほっといてこんな所で」
 日曜日のショッピングセンターはだいたい家族連ればかりだ。彼も例外ではあるまい。まして、あんなに仲がいい夫婦なら尚の事。
「家族?いや、俺一人だよ」
「いつも店に居る女性と子供は?今日は一緒じゃないのか?」
「ああ、今日は旦那の実家に食事に招かれてるって言ってたな」

──旦那!?

「お前たち、夫婦じゃなかったのか!?」
 思わぬ言葉に、俺は思わず身を乗り出していた。
「違うよ、彼女は俺の姉貴なんだ。で、あの子は俺の姪っ子。……あれ?知らなかった?」
 常連客はみな知っているそうだが、ほとんど話をした事がない俺だけがまったく知らなかったらしい……。ひたすら驚く俺に、彼は照れて笑いながら付け加えた。
「俺、結婚どころか恋人も居ねえよ。仕事に追われて恋愛する暇もなかったな」
 フリーだったと知った途端、身体から力が抜けた。正直に言うと安堵した。この男が誰のものでもないという事で自分の罪悪感が薄らぐ。そして、同じく家族を持たない自分と少しだけ距離が近くなったような気がした。
「──俺さ、前からこんな風にあんたと話がしてみたかったんだ。毎日来てくれるけどいつも一人で他の誰とも馴染まないし、話かけても反応薄いし、ガードが堅いなあって思っていた」
 店主はうっとりするような目で俺を見つめて言う。ドキンと心臓が鳴った。
「でもさ、俺の方からあんまりうるさく話かけるとナンパしてるみたいだろ?自分の店でお客さんを口説くのは絶対しちゃいけないから。だから今日こうして会えて嬉しかったな。今は店主とお客じゃないから」
 “口説く”という言葉に俺は顔が熱くなった。自分が思っていた以上に彼が好意を持ってくれているようで……。

──素直に喜んでも、本当にいいのか?

「今度さ、差し支えない範囲でいいから、あんたの事いろいろ聞かせて?」

──差し出してくれるその手を取っても、本当に……。

「……近いうちにまたランチを食べに行く」
「え、本当に?」
「多分また行けるようになると……思う」
 それを聞いて店主は喜びを隠そうとせず満面の笑みになった。
「よかった!待ってるよ!えーと……」
 そこで言葉を詰まらせると、店主は頭をかいて苦笑する。
「あんたの名前、まだ知らなかった」
「──ハリーだ。ハリー・ブライアント」
「ハリーか……。あ、俺は……」
「知っている。常連客がいつもお前を呼んでるの聞いてるから」
 だよね、と言って彼はまた頭をかいた。

 コーヒールームを出た俺たちは駐車場で手を振って別れた。自分の車に向かう俺の足取りは軽かった。
 カフェの店主と過ごしたほんのわずかな時間はこの上もなく楽しいひと時だった。楽しい……嬉しい……。そんな気分になったのは何年ぶりだろうか。久しぶりに笑った気がする。ある意味、笑い方を覚えていた自分に驚く。
 彼が自分に好意を持ってくれている。それを素直に嬉しいと思う。何も悩まず自由に会い、想い、接していいのだと教えてくれた。
 俺を縛るものは俺自身だったのだろう。でも、そろそろ死んだ妻への想いから一歩自分の人生を踏み出していいのかもしれない。そう思うと目に映る風景も昨日とは違って見えた。

──明日、あのカフェに行こう。

 あの夢はまだしばらく見るかもしれない。でも、気持ちや生活が変化すればやがて見なくなるだろう。夢の中の淫らな行為も魔物も、俺の暗い心が作り出した幻影に違いない。
 恋愛でも友情でもいい。彼とは少しずつ信頼関係を築けるよう大切に歩んでいきたい。
 そんな風に思いながら車のドアに手をかけたその時──。
 突如、悲鳴のような鋭いブレーキ音が聞こえた。そして耳をつんざく激しい衝撃音。周りに居た女性が悲鳴を上げる。
「事故だ!」
「トラックがあの車に突っ込んだ!」
「人がそこに立っていたぞ!」
 広い駐車場の中を人々が、衝撃音がした方に向かって走っていく。傍らを走り過ぎていく人々につられるように俺もそちらに向かう。その方角は、さっき店主と別れた時、彼が向かった先だった。

 言いようのない胸騒ぎがした……。

「間に男性が!」
「誰か救急車呼んでくれ!」
 一瞬にしてショッピングセンターの駐車場はパニックになった。壮絶な事故現場を目の当たりにしてショックで受け顔を覆う者、茫然と佇む者、大声で何かを指図する者。

 胸に立ち込める不吉な予感……。

 商品を搬入しに来たらしい、かなり大型のトラックが目に入った。駐車した車列に突っ込み、フロント部分が大破している。横から突っ込まれた乗用車の方は原型を留めてなかった。その様子からスピードと衝撃の激しさが伝わる。
「私見たのよ……!車に乗ろうとしていた男の人の後ろから、あのトラックが……!」
 若い女性が連れらしい男の胸にすがって泣いていた。

 一歩トラックに近づくにつれ自分の心臓の音が大きく聞こえてくる。

 トラック周辺には続々と人が集まっていた。居合わせた男数人が大破した車に群がっている。巻き込まれたという男性を救出しようとしているらしい。
「とても人の力では無理だ……」
「これは酷い……」
「レスキューに電話!早く!」
 車の間からオイルではなく人間の体液が流れ落ち、アスファルトに広がっていく。わずかな隙間もないトラックと乗用車の間から、だらりと垂れさがった人の腕が見えた。
 その腕が着ているのは、先ほど別れたばかりの男が着ていた茶色いジャケットに間違いなかった。
 思わずその場に膝をついた。
「何故……」
 ほんの数分前だ、この男が笑っていたのは。
「こんな馬鹿な事が……」

『前からこんな風にあんたと話がしてみたかったんだ』
『今日こうして会えて嬉しかったな』
『よかった!待ってるよ!』

 愛した者すべてが俺の前から消えていく。
「ア……ク……」
 一度も呼んだ事のない彼の名を、震える喉から絞り出すように叫んだ。

「アクセル!」


 

 闇……。闇だ。  何処だ、此処は。  俺の兵たちは何処だ。  アクセルは何処に居る。俺の傍から離れるなと、あれほど……。  夜の闇の中、寝室のベッドに俺は全裸で横たわっていた。 「ミカエルめ……あの男……!」  真っ先に胸に去来したのは、最後に刃を交えていた男への憎悪。感情のまま思わず声帯を震わせると、自分の声は淀みなく低く耳に届いた。  刃を打ち鳴らす金属音、飛び散る火花。  雲の切れ間から押し寄せてくる白い羽の群れ。  白い光と暗黒が混じり合う、そこは戦場。  敬愛、裏切り、失望、渇望……。  憎悪、憎悪、憎悪──。  まるで薄い膜を一枚剥いだように、五感のすべてがクリアだった。しっかりと冴えた意識に鮮明なビジョンが、まるでボトルに注がれるワインのように空っぽだった俺の頭を一気に満たしていく。  足元の方に目を向ければ、満月を背に翼を持った黒い影が蹲って俺を見ていた。 「月が満ちるまで、お前はずっとそこに居たんだな……」  そう声をかけると奴は嬉しそうに目を細め言う。 「思い出したか?」  俺はフンと鼻を鳴らし上体を起こした。 「この俺から記憶を奪ってあんなふざけた夢を見せるとは、神もなかなか下衆な真似をする」  あの時、墜落する俺に言い放たれた声が脳裏に蘇る。 『永遠に失い続け孤独に彷徨うがよい!』 「──お前の名前が記憶の鍵だったとはな、アクセル」 「封印が完成される直前、俺の顔と名前をあんたの記憶に放り込んだ」  何故この男にそっくりな店主に惹かれたか。初めてのはずの同性愛行為に身体が簡単に慣れたか。そして、繁殖を望めない行為をインキュバスは仕掛けてきたか。すべてを思い出した今となっては何もかも当然の事だ。  この夢魔は俺が拾い、育て、片時も離さず腹心として傍に置いた。気の遠くなるほどの長い時間の中で、何度この男と情を交わし身体を繋いだか。自分が何者かを忘れても、身体にしみ込んだ快楽の記憶だけは失わなかった。  俺にそれを思い出させる事が出来るのはこの夢魔だけだ。 「苦労かけたな」 「大した事ねぇよ」  そう言ってアクセルは鼻で笑う。  いや、大した事なのだ──。満月まで俺が夢から覚めなければ、神の封印に介入したこの下級悪魔は消滅する運命だった。俺はアクセルの頭を引き寄せ、命を賭して俺を迎えに来たその忠誠心に褒美の口づけを与えた。  ベッドから身を起こして床に立つ。白いシーツを剥いで全裸の身体にまとった。 「行くかい?」 「今回の礼にミカエルの首を神に届けてくれよう」    再び光と闇の混沌たる戦場へ──。  万物の真の支配者は誰なのか。  最後に天上の玉座につくのは誰なのか。  それはこの俺だと知らしめる。  自分が向かうべき場所を思い浮かべると、全身に強大な力が戻ってきた。 「ついて来るな?」  その言葉にアクセルは目を輝かせた。 「勿論何処までも、ハリー。いや……」  アクセルは俺の足元にひれ伏しつま先に口づけると、恍惚とした顔で畏れ崇拝する己の“神”を見上げた。 「──我が王、ルシファー」
満月

Darkness

Fin

2011年に描いたイラスト「Nightmare」を元に生まれた話。
一人称ならではの展開かなと思います。

[2013年11月 16日]