53歳のステファンと31歳のハリー。『Knowing』の流れですが単発のお話です。
突然、このCPにしかない大人の雰囲気が書きたくなって。
[2011年 1月 19日]
『金メダルおめでとう。会いたい――H・B』 その電報を受け取ったのはオリンピック閉会式後のパーティの席だった。 発信場所はワシントンD・C。 鳥の声――。 雨に濡れた緑の中、黒いコートの後ろ姿。 振り向きざまに細められるダークブルー……。 次の瞬間、居ても立ってもいられずその場から国際電話をかけた。 だが、求める相手の不在を彼の屋敷の管理人に告げられ、では、と職場に電話するが出張中との返事で……。 行き先を訊くが、お答えする事は出来ないと丁重に断られた。 こんなそっけない恋文ひとつで私は胸を焦がされる。 この広い世界の何処に彼が居るのか、皆目見当がつかない。 ――君は背を向けて、手を伸ばしても逃げ水のように遠ざかるばかり。
からん、とグラスの中で氷が鳴った。 琥珀色の水面が揺れて、その瞬間それは濃厚な香りを辺りに漂わせる。 客は奥の席に一組の男女が居るだけ。 目の前でグラスを拭く初老のバーテンダーも、静かに奏でられるジャズのレコードも、その存在を主張しない。 静かな通りの一角にあるレンガ造りのホテルのバー。 ブリュッセル――午前0時。 「いいのか?あなたのような忙しい人間がこんな所で」 カウンターの隣で、そんなふうに彼は言う。 微笑んで、だが気遣いなどはしていないだろう口ぶりは、どこか揶揄するようだ。 「モンティエ商会の社長でありベストセラー作家、おまけにオリンピックの金メダリストとくれば、もし俺がパパラッチだったら絶対あなたをつけまわしている」 どこか子供じみた言い方に思わず笑った。 「忙しいのは君の方だろう?ハリー・ブライアント少佐。世界中を飛びまわる君を追いかけてやっと捕まえた。このニヶ月間、どんなに私が苦労したか知っているかい?」 いや、私が彼を捕まえたのではない。 捕獲出来ない鳥は、ある日突然この手の中に自ら舞い降りてきた。 外出から社に戻ると秘書が一枚の紙切れを手渡してきた。 電話の伝言メモの文面は 『来週土曜日、ブリュッセルに居る』 伝言までそっけないんだな、君は――と、恨みごとと、それを上回る胸の高鳴り。 その日すべての予定をキャンセルし、私はブリュッセル行きのTGVに飛び乗った。 「しばらくこっちでゆっくり出来るのかい?」 「いや、明日はボンだ。午後から人に会う」 「相変わらず仕事人間だな、君は……」 苦笑って隣を見るとハリーはにこりともせずグラスを傾けていた。 彼と私の間には椅子ひとつ。 遠い距離に感じた。 今ここに居る男はもう18歳の無力な少年ではない。 無邪気な可愛らしさに取って代わったのは凄味すら感じる美貌。 そのぞっとするほどの美しさに誰もが触れたいと思うことだろう。 だが、彼は誰をも寄せ付けない空気を漂わせている。 力強い存在感と静かな迫力……。 隙がなく、厳しく、近寄りがたい。 これが13年の年月なのだろうか。 「同じ物をもう一杯」 ハリーはバーテンダーにそう告げ、煙草に火を点けた。 照明を落とした店内に紫煙が燻る。 赤茶けたレンガと漆喰と古材の壁に、レトロなブランケットの灯り。 壁に掛かる額装された写真は往年のジャズプレーヤーのスナップ写真で、写っている場所がまさにこの店である事に気付いて驚く。 レコードがコルトレーンのバラードに変わった頃、バーテンダーがハリーの前にグラスを置いた。 「見事な騎乗だった……」 グラスを持つ細い指に見惚れていると彼がそう言った。 馬の才能に恵まれ、多くの幸運が重なってオリンピックの総合馬術で金メダルを獲得した。 見事な騎乗?彼は中継を見ていたのだろうか。 「見ていたよ、職場で。俺が熱心にテレビを見ているのがよほど珍しかったらしい。まわりの連中が露骨に驚いていたな。叔父だと言うともっと驚かれた」 「祝電ありがとう。嬉しかったよ……」 「嬉しかったのは俺の方だ。嬉しくて、誇らしくて……。表彰台に立つステファンを見て、どうしても会いたくなったんだ……」 「ハリー……」 「……凄く」 今でも変わらず君を愛していると知ったとしても。 今でも君を抱きたいのだと知ったとしても。 それでも君は同じ言葉をくれるだろうか。 もう一度君と始めたいのだ――と、そう言葉に出したとしても。 夜が深くなるにつれ、我々の口数もしだいに減っていった。 沈黙は悪くない。 だが、本当に話したい事を自分は何も言ってはいないのだ。 ハリーの心を知りたい。 13年前のあの夏の日々は、君にとって何だっただろうか。 そして、今でも私を愛してくれているだろうか。 だが知るのが怖い。 失うことへの恐怖にすくみ上がって、たった椅子ひとつの距離も詰められないでいる。 腕を伸ばして彼の肩に指一本触れることすら出来ない。 「あなたは幸せだな、ステファン」 唐突なその言葉に振り向くと、紫煙の向こうに私を見つめる穏やかな目があった。 「会社は順調、著書はロングセラー、馬術ではついに頂点を極めた。誰もが羨む順風満帆な人生じゃないか」 「……順風満帆だから満たされているとは限らない」 自然と口を突いて出た言葉に彼は笑みをこぼす。 「欲張りなんだな。これ以上他に何が欲しいというんだ?」 「ハリー、私は……!」 「ステファン、人は変わる。人の心も変わるものだ」 ハリーはすべて見抜いていた。 私の想いに気付いていたからこそこうして釘を刺す。 ――戻ってはいけないのだと。 それは君の本心かい? 「……君の言うとおりだ。人の気持ちは移ろいやすい。だが、“深くなる”という変わり方もあるとは思わないか?」 一瞬、ハリーの瞳が揺れた。 嵐の中で怯えていた少年の、あの眼差しを思い出す。 そして彼は、何も言わず目を伏せた。 いつの間にか客は我々だけになっていた。 気が付けば音楽は止み、バーテンダーは静かに片付けを始めている。 「そろそろ出ようか」 ハリーは言ってコートを手に取った。 いつの間にか、音もなく雨が降っていた。 橙色したバーの外灯にライトアップされるレンガの壁。 そこにきらめく針のような銀の雨。 煙るような霧雨に通りの街灯も酷くぼんやり霞んでいた。 コートの襟を立てて暗い夜空を仰ぐ。 「今夜は会えてよかった」 そんな、ハリーの別れの言葉を聞いていた。 このまま、此処で別れるのは簡単な事だ。 仲のいい叔父と甥が久しぶりに会って美味い酒を飲んだ、それだけ。 お互い忙しい身の上、それぞれ明日のために来た道を戻ればいい。 それじゃまた、と言って手を振ればいい。 ……それで、本当にいいのだろうか。 どうにもならないこの胸の内を見透かされて釘を刺された。 だが、彼は同時に自分自身にも釘を刺したのだ。 私に“愛している”と言わせなかったハリー。 私が怯えていた時、彼もまた怯えていた。 「――じゃステファン、また会おう」 “会いたい”と、衝動的な電文を恥じるように、あんな理由付けをして、君は君自身を守ろうとして。 すべてを封印してしまえる君は強い。 だが……。 ……君はそれで本当にいいのか? 「ハリー!」 ――私の中で、ケルトの火の馬が火の粉を散らして空に駆け上がる。 咄嗟に、彼の腕を掴んだ。 濡れたトレンチコートの袖。 その下の硬い腕。 あの夏の森で――、何度この腕を押さえ付け、そして何度しがみ付かれたことだろう。 「……人の心はたしかに変わる。では、君は都合よく変われたのか?」 こんな、灯りも届かない夜の片隅で。 誰も知らない街の裏通りで。 闇と雨に紛れて。 我々は過去ではなく『今』に怯える。 「……君は今、幸せか?」 ハリーがその言葉にゆっくり振り返った。 彼のダークブルーを見て言葉を失う。 思わず掴んだ腕を引き寄せた。 ――この夜、私はもう一度恋に落ちた。夜の片隅で
fin
53歳のステファンと31歳のハリー。『Knowing』の流れですが単発のお話です。
突然、このCPにしかない大人の雰囲気が書きたくなって。
[2011年 1月 19日]