「離せ……」 目の前の金髪美人が剣呑な眼差しで俺を見上げた。 「だめ」 痩身に回した腕を解く気はない。再び細い首筋に唇を押し当てる。 「あんたが欲しい……」 耳を舐めながら低い声でそう囁くと腕の中の身体が微かに震えた。 今日ハリーがパリに来た。 おとつい、出張で行くから一晩泊めてほしいと電話で告げられ、数ヶ月ぶりの逢瀬に俺はすっかり舞い上がっていたけれど……。 仕事は明日からで、到着した今日はゆっくり出来るんじゃなかったっけ? つい30分ほど前ハリーの携帯に一本の電話がかかってきて、会話を終えるなり彼はスーツに着替え始めた。明日会うはずだった人物の予定が一日早まって今日これから会うのだという。 午後の便でやって来たハリーを空港まで迎えに行き、途中で昼飯を食べ、俺のアパートに着いて一息入れた矢先の電話だった。 たしかに俺も今夜は店に出なきゃならない。でもまだ少し時間がある。 キスすらしていないというのにこの展開はどうしても納得出来ない。 「時間がないんだ。離せ、アクセル」 ズボンの上から腰を撫でまわす手を阻止しながらハリーがイラついた声で言う。 黒スーツというどこかストイックないでたちにそそられる。その身体をまさぐる手を止められない。首筋に這わせた舌の動きが次第に忙しなくなっていく。 「抱かせろよ」 ハリーのイラついた声色にこっちもつい乱暴な言葉を吐く。 「わがまま言うな!離せ、馬鹿」 ハリーは手のひらで俺の口と顎を押え腕を突っ張らせた。頭を無理やり引きはがされる。 面白くねェ……めちゃめちゃ面白くねェ! 「俺と仕事、どっちが大事なのさ!」 アホか俺は! 「仕事だ」 即答され傷付いた。 “私と仕事のどっちが大事なの?”なんて馬鹿な女がよく言う常套文句を口にする俺も俺だけど、即答はないんじゃねェ……? 下半身に集まっていた血が一気に頭に上った。 「ああそうかよ!じゃあ行けばいいだろ!だがな……」 俺の苛立ちは最高潮に達する。 「行くなら俺を倒して行け!」 ああ、本当に俺はアホだ……。 ハリーが目を丸くしている。怒るでも笑うでもなく、ただただ呆気にとられている。 しばらくの沈黙の後、ハリーは諦めたように大きなため息をついた。 「……わかった」 そしてキスを強請るように俺の首に両手を回し、うっとりするほど綺麗に微笑んだ。 「お前が悪いんだからな?」 えっ? この時、思い直してくれたのかとか、キスしてくれと言ってるのかとか、そんな事を一瞬でも考えた自分は本当に浅はかでめでたい奴だと思う。 ドカッ! 次の瞬間、ハリーの左膝が俺のみぞおちにめり込んでいた。 「が、はッ……!」 呼吸が止まる。目の前が真っ暗になる。俺は腹を押さえて床の上に崩れ落ちた。 息が出来なくて呻き声も出ない。身体をくの字に曲げて悶絶する。周囲の仄暗さを感じてゆっくり見上げると、明かりを遮って俺の傍らでハリーが仁王立ちになっていた。 「客商売だから顔は勘弁してやったぞ、色男」 動揺の欠片もない声。逆光の中で冷たい目が俺を見下ろす。 「……そりゃ、ども……ご親切に……」 やっと戻ってきた呼吸で絶え絶えに呟けば、無情なほど潔い身のこなしでスタスタと去っていく恋人。 ハリーが部屋から出て行き、ドアが閉まる音を聞きながら思い出した。 自分の綺麗な恋人は特殊部隊出身の軍人であった、と。 そして、今食らったあの左膝は以前大男のジャンの顎を砕いた膝であった、と。 首に両手を回したのは抱き付くためではなく、膝の攻撃力を逃さずみぞおちに集中させるためだったらしい。少ないエネルギーで敵に最大限のダメージを与える戦闘のプロ……。 ……俺たちの間にはたして愛はあるんだろうか!?「元気ないわね、どうしたの?」 カウンター席の馴染みの客にそう言われて目を上げた。 彼女の名はコレット。現在28歳の大人の女。俺がここでバーテンダーをやり始めた頃からの古い常連客だ。 彼女は某高級ブティックに勤める堅気の女で、美人で頭が良く、つまりはとびきりのイイ女だ。コレットが客でなかったら俺はとっくに彼女をモノにしていた。 だが俺は客とは寝ない主義だ。しかも今の俺はそれ以上の美人に惚れている。 それに彼女にはいつも男が居た。 ひとつの恋が終わってもまた次の恋へ。ここに飲みに来てくれる時はいつもひとりだけど、たまに男とやってきて俺にその彼氏を紹介してくれる。今まで何人の男を連れてきただろう。 ここ最近はいつもひとりで来るコレット。訊けば、今とびきりイイ男と関係を築きつつあり今が正念場なのだと言う。そのイイ男を連れて来るのも遠い先の話ではないだろう。 「恋人が冷たくてさあ……」 と、つい愚痴を漏らしたのは、コレットが恋愛のベテランと見込んだからかもしれない。 「ああ、年上の遠距離恋愛の人?」 でも、その人が男だって事は彼女には言ってない。 「それなりに好かれているとは思うわけよ。パリに来る時は真っ先に連絡くれるし、俺んちに泊まるって言ってくれるし、会えば嬉しそうに笑ってくれるし。けど……」 「あんまりヤらせてくれない?」 「なんでわかるの?」 「顔に“溜まってます”って書いてある」 マジ!? 「さっきも思い切り拒否られて蹴りを食らいました……」 元特殊部隊の殺しのプロに。 「アクセルはね、いつも間が悪いんだと思うの」 と言われた。 「だよな。実は蹴り食らったのも、これから仕事に行くとこ捕まえてヤろうとして……」 「馬鹿ねえ。当たり前じゃない」 それについては俺が悪い。全面的に非を認める。蹴られたのも自業自得だ。少しもハリーを恨んではいない。 だが、それとは別に彼はクール過ぎではないか?出会った時からクールだったのだからそれがハリーの性分なのだろうけど、俺がいつも無理に彼を引きずってはいないか? 俺と違ってハリーは大人だから? 仕方なく俺に付き合ってくれている? 実はただの友達にしか思われていない? そんな不安を正直にコレットに告げてみた。 「ねえ、もしかしたらその人クールというより凄く恥ずかしがりやなんじゃない?だって、あなたの話を聞いていると真面目できちんとしてて可憐な人に思えるもの」 可憐という言葉に思わず仰け反りそうになる。 だが、真面目できちんとしててというのはたしかにその通りだ。おまけにハリーは何に対しても超が付くくらい淡白だ。 「もしくはね、あなたとのセックスに罪悪感を持っているか、よ」 これにはどきりときた。 ノンケの男が男と寝る……。俺も最初は躊躇いがなかったわけではない。でもそれより愛しくて触れたい気持ちの方が勝り、今では完全に吹っ切れている。 だけどハリーは? 初めて身体を繋いだのも俺が強く求めたからだ。まして彼は受け入れさせられる側だ。未だに違和感や躊躇いは絶対あるはずだ。 「ああコレット、君の言う通りだわ。あの人絶対罪悪感持っているよ……」 だけど、この俺がどうやってその罪悪感や躊躇いを取り除いてやれるってんだろう。 「そんな顔しないでよ。あなたはちゃんと愛されていると思うわ」 「なんで?」 「だって、忙しい仕事の合間をぬってでも一緒に居てくれるんでしょ?その人だってアクセルの傍に居たいのよ。でなきゃわざわざ外国から来て時間のやりくりなんかしないわ」 ちゃんと愛されている……。 その言葉はどんより曇った俺の心に差し込む一筋の光のようだった。 サイドカーとビトウィーン・ザ・シーツを作ってくれとコレットが言った。 一度に二杯もかい?と訊く俺に彼女はいいからいいからと言う。 「恋の伝道師コレット様がひとつ極意を授けてあげるわ」 シェーカーに材料を調合していると彼女が囁いてきた。 「罪悪感は快楽が忘れさせてくれる。快楽は羞恥心が増幅させる」 俺は手を止めて胸の中で何度もその言葉を反芻させた。 罪悪感には快楽、快楽には羞恥心……。 「でも忘れないでアクセル。そこには愛がないと意味ないのよ」 わかった、と答えてシェーカーを振った。 「あなたってカッコいいと思うわ。とくに仕事しているそんな姿がね」 「惚れた?」 「私以外の誰かに夢中になっている男に興味はないわよ」 ウインクひとつで素気無く切り返され苦笑した。 「ちょっとちょっと、話に割って入って悪いんだけどさ」 突然カウンターの反対側の端から声がかかって振り返った。 こちらも何度も来てくれている若いカップルだ。女の方が手まねきしていた。 どうやらコレットとの話が聞こえていたらしい。 「あのね、あんたの恋人は本心ではあんたと抱き合いたいんだよ。でも理性が邪魔してる」 まさにハリーは理性の塊みたいな男だ。 「どうしたらいい?」 「まるごとさらってしまえばいいよ!常識がなんだ!プライドがなんだ!って強引に奪うの。女は強引で危険な男に弱いものだよ」 いや……てか、恋人は男なんだけどさ。しかも俺より危険なんだけど……。 「あんたの恋人にはとくに強引に出た方がいいよ。なんでかわかる?」 「いや、わかんねぇ」 「真面目でプライドの高い人はね、自分の行動に理由が必要なの。『だってアクセルが強引だったから〜』って言い訳を用意してあげたら安心して素直になるよ」 なんだかウチの店のキャンディも言いそうだ。たしかにわからないでもない。 「おいアクセル」 と今度はその子の連れの男が声をかけてきた。 「気持ちイイ事が嫌いな人間は居ねぇって」 違いない。 いつもは俺が客たちの話の聞き手になるんだが、たまにはこんな風に客たちに慰められる夜があってもいいだろう。 そんな話をしながら出来上がったニ種類のカクテルをコレットの前に滑らせた。 だが、彼女はサイドカーを取り上げ、もうひとつを俺の方に押しやった。 「こっちは私からの奢りよ」 ビトウィーン・ザ・シーツ――。 彼女の意図にようやく気が付いた。 「これ飲んで、今夜は大好きな人とベッドに入って、シーツに包まって、たくさんの愛をあげなさいな」 「……乾杯しよ?」 「あなたの不器用な愛に」 「君の新しい恋にもね」 チン!とグラスを鳴らした。 俺はこの恋にアグレッシブで小粋なパリジェンヌが大好きだった。