あれから二日後――。
死ぬほどブルーな気分でも、店もお客も俺を静かに落ち込ませてはくれない。
その夜も俺はカウンターの内側でカクテルを作り、客の話に耳を傾け、店のオカマたちと漫才みたいなやり取りを交わす。
そうやって感情を押し殺して仕事に没頭していたけど、閉店近くになってコレットが店にやってきた途端、もうぐだぐだになって彼女に泣き付いてしまった。
他に客が居ない事もあって、俺はあの日の出来事をコレットに打ち明けた。
「何時に帰ったのかわからないけど、すぐ携帯に電話したわけよ。そしたら電源を切ってるらしくて……。飛行機の中かもしれないと思って夜にもう一度電話したけど、やっぱり繋がらないんだ。……これって避けられてるんじゃねえ?」
そう思うともう電話出来なくなった。もちろんハリーからの着信はない。
「そう結論を出すのはまだ早いわよ。よほど急いでいたんじゃない?飛行機の時間に遅れそうとか」
考えてみれば、ハリーは何時の飛行機に乗るかなんて確認はまったくしていなかった。
「俺のエッチに相当腹を立てたんかな……」
「相手が怒るくらいの特殊プレイだったわけ?」
「いや、全然。俺的には普通にアリ……の範疇だと……」
「まあ、あなたの“普通”がどんなものか、あなたと寝た事ないからわからないけど……」
「いずれにしても愛されてる実感がないのにそんな事されたら嫌だよね」
俺は順番を間違えたんだろう。セックスなんてもっと後から考える問題で、お互いの気持ちを確認する事が先決だったのに。
俺の気持ちはハリーに届いてなかった。
ハリーの気持ちも、それは果たして愛なのかわからなくなってきた。もしかすると全部俺の一人相撲だったのかもしれない。
俺はハリーから身体を求められた事など一度もないんだ。
俺たちはもっとゆっくり関係を築かなきゃならないのに、俺はノンケの男に強引に迫った。男の生理現象を逆手にとって彼の大人の男としてのプライドを傷付けてしまったんだ。
その結果がこれだ。
「黙って居なくなるなんて……」
初めてハリーと身体を繋いだ時の事を思い出した。
さよならも告げず、初雪と共に消えたハリー。
あの言いようのない喪失感……。
「俺はまた失うのかなあ……」
そんな言葉を口にすると驚くほど自分の声が震えていた。
コレットは黙って、そして励ますように力強く俺の手を握ってくれた。
「ごめんねコレット。本当はバーテンダーが話の聞き役なのに……。カッコ悪ィな、俺」
このままじゃ涙腺がヤバくなりそうで、俺が笑ってこう言うと、
「日頃陽気な男がちらっと見せる弱味って女にはグッとくるものよ」
なんて微笑んでくれた。
……彼女はこんなふうにいつも優しい。




コレットがマルガリータを注文してくれたが、レモンジュースが底をついていた。
たしか地下の空き店舗のキャビネットにストックがあったはずだ。コレットに少し待つよう声をかけて俺は外に出た。
地下に降りる階段は真っ暗だ。手探りで電気のスイッチを入れたが天井の電球は一瞬またたいたと思ったら再び闇に包まれた。
「ありゃ、切れちまった」
店に戻って懐中電灯を持ってこようと思ったけど、閉店も近くなっているしお客を待たせたくない。それに倉庫代わりの地下店舗は一日に何度も往復してどこに何があるか目をつぶっていてもわかる。
俺は闇の中を進む事にした。馬鹿な判断だ。
階段を一歩踏み出した瞬間、足が何かに引っかかったんだ。
空の酒瓶がぎっしり詰まった、かなりの重量のコンテナ。

ああ?誰だ、こんな所に置いたのは!
……そっか、俺か。

俺の身体が宙に浮く。足が着地するはずの階段に着かない。ふんわりと闇の中を滞空する感覚が妙に気持ち良かった。

――ハリーの顔が瞼の裏に浮かんだ。

スローモーションで閉じた瞼がゆっくり開けられる。睫毛のカーブが綺麗だ。ゆっくりとこちらを向く端正な顔。頬から顎にかけて、なだらかでシャープなライン。

ああ、触りてェな。

そして微笑んだ唇が声なく動く。“馬鹿”と……。

ハリー、それだけで俺はイチコロだ……。

こんな綺麗で可愛い人を失うなんて。
失うなんて……。
失うなんて……!

「チューしてえぇ―――っ!」

それが、俺がこの世に残したたったひとつの未練で、そして最期の言葉だった。








最初に目に映ったのは白い天井だった。
天国ってやっぱ白いんだなと思った。言い伝えの通りだ。最初に言い出した奴は実際行って見て帰ってきたのかもしれない。
けど、待てよ。俺は天国に行ける人間だったっけか?それともここは天国の入り口の待合室で、これから入国出来るかどうかの審査があるのかもしれない。
「アクセル!」
その時、いきなり視界いっぱいにサタンの顔がどアップで迫ってきてビビった。
「うわああぁぁ!」
「うるさい!」
悲鳴を上げたら超至近距離でサタンに怒鳴られた。
「人が心配してやってるのに開口一番悲鳴かい!失礼なヤツだね!」
「レ、レディ・ジョー?」
化粧が剥げかかった必死のオカマの形相は、悪魔か鬼かゴブリンの親玉みたいで怖かった。マジで。
「目が覚めてよかったわ。ここは病院よ、わかる?」
「コレット」
どうやら俺は死ななかったらしい。
俺は階段ぎわでコンテナにつまずいて、そのまま下まで転げ落ちたらしい。店の中まで大きな音が響いたという事は、よほど派手な落ち方をしたんだろう。
覚えてない?とコレットに訊かれたけど、つまずいた事まではわかる。そのあとはハリーの色っぽい顔しか思い出せません、と言ったら怒られそうなので笑って誤魔化した。
レディ・ジョーが言うには、コレットがおたおたするオカマたちを宥めて救急車を手配し、今まで付き添ってくれたらしい。コレットに、ごめんと寝たまま頭を下げるのは苦労した。
とにかく頭を打ってる可能性があるので検査したが脳には異常はなかったそうだ。ただ、足を捻挫し、全身打撲。今日いっぱいはこのまま病院でおとなしく寝ているように、との事だった。
そんな話を聞いたら今になって身体のあちこちが痛くなってきた。
「それより、もう朝じゃん!コレット、仕事は?」
「今日は非番だから大丈夫。……私こそごめんなさい。私の注文が原因で……」
そんな、コレットのとんでもない罪悪感に俺が猛然と否定しようとしたその時――。
バタバタ、というよりドカドカという足音が廊下から聞こえてきた。
ああ、誰かわからないけど病院内を走っちゃだめだ、と思った時、開け放たれた病室の戸口から現れたのは……。
「アクセル!」
黒いスーツに黒いコート、額に薄っすら汗を滲ませて、息をきらして、最期にチューしたいと切望した当人が目の前にズカズカとやって来る。
「ハ、ハリー!なんで!?」
「意識が戻ったのか!?」
酷く慌てた様子でハリーが俺に詰め寄る。
二日前、いや三日前に帰国したはずのハリーがなぜここに居るか……。やっぱり頭を打って幻覚でも見てるのかと思ったが、伸ばした手を握るハリーの荒れた手の感触は幻じゃなかった。
その時、彼のスーツの中からブーンという振動音。携帯を取り出しハリーが舌打ちする。
「ちょっと待ってろ、すぐ戻る。いいか、そこを動くなよ!」
……いや、動きたくても動けませんから。
ブライアントだ、と電話に出ながらハリーは慌ただしく病室を出て行った。
津波の如くやって来て引き潮のように居なくなったハリーに、俺たち三人は声もなく茫然と彼が出て行った方を見つめる。
「……まあ、何はともあれ……すっごく心配してくれてるみたいね」
コレットは廊下に目を向けたままそう呟いた。




電話を終えたハリーが戻ってくる前に、レディ・ジョーは買い物を理由に席を外しコレットはそのまま帰った。二人とも気をきかせたらしい。
「打撲と捻挫で済んで良かったじゃないか」
怪我の状態を説明すると、ハリーはようやく落ち着きを取り戻したようだ。
「ごめん、心配かけて。おまけにわざわざ来てくれるなんて。……ワシントンから?」
「まさか。ロンドンだ」
ロンドン……?え、イギリス!?アメリカに帰ったんじゃなかったのか?海峡を挟んですぐ隣の国じゃないか!
ハリーの格好を見れば仕事だったらしいのは一目瞭然で。着替える間も惜しんで駆けつけたんだろう。

俺は愛想尽かされたわけじゃなかったらしい……。

そう思った途端、安心して全身から一気に力が抜けた。
「それにしても、黙って居なくなるから俺の方こそ心配した」
「声かけたぞ?」
「は?」
「時間がないから行くからな、ってニ、三度声をかけた」
「ええ!?ぜんっぜん知らなかった!」
「爆睡しているお前が悪い」
そうだ!携帯の件はどうなんだ?
「会議中だ。私は電話に出られない事が多いと言っただろ?」
次々明らかになる真相に悶絶していると、この人にまで言われてしまった。
「お前はいつも間が悪いんだよ」
……だそうだ。
「俺、てっきりあんたに嫌われたんだと思ってた……」
情けない声色でそう言えば、ハリーはきょとんとした顔をした。
「嫌われる?私にか?どうしてだ?」
演技でもなんでもなく、素でまったくわかっていないハリー。
「いや、だってさ……」

言って……いいものだろうか……?
	
「だって……」
「……なんだよ、早く言え!」
怒らないかなという躊躇いよりも、ハリーの声に苛立ちが滲んできて、そっちの方が怖かった。
「あの晩あんたにあんな事やこんな事をしてこういう体位でヤったりこんな格好にもして恥ずかしいって言われても無視しておまけに超絶技法の愛撫でアンアン言わせて何回イカせたかわからないし俺のオヤジじみた言葉責めにあんたも可愛い声で応じてくれるもんだから調子に乗ってエンドレスで虐めちゃってだからアクセルとセックスするのはもう嫌だそれどころか顔も見たくないって嫌われ……って、うあああああぁぁ!?」
気がつけばハリーは立ち上がって、ひっ掴んだ枕を大きく振り上げていた。
今ハリーの頭にヤカンを乗せたらお湯が沸くんじゃないか?ってくらい彼は真っ赤になって、やり場のない“思い出し恥じらい”を全部枕に込め……。
「そうだっ!お前が全部悪い!」
怪我人だってのに容赦なく、俺は嫌ってほど枕で叩きのめされた。
そんな子供みたいな八つ当たりを可愛いとか嬉しいとか思うなんて、俺も相当イカれてる。

それにしても……。
ハリーは俺の怪我の事、どうやって知ったんだろ。



「私が彼に電話したの」 翌々日、店に復帰した俺はコレットの告白に危うくグラスを落っことすとこだった。 「レディ・ジョーからアクセルの恋人の名前を聞き出して、あなたの携帯から。男の名前みたいとは思ったけど、声聞いて本当に男の人だったからびっくりしたわ」 「君、彼になんて言ったの……?」 あのハリーの慌てぶりから察すると……。 「アクセルが階段から転落して意識不明の重体だと」 やっぱり! 事実には違いないけど、ニュアンスとしては俺はそのまま帰らぬ人だ。普通に受け取ると。 ああ、ハリー……本当にゴメン! 「それにしてもあなたの恋人が男だったなんて、考えてもいなかったわ。言ってくれたら良かったのに」 ハリーには悪いけど、俺は男と恋愛するって事に完全には吹っ切れてなかったかもしれない。ハリーは自慢の恋人だけど、男に惚れてるなんてわざわざ宣伝する事ではない。 俺はたぶん心のどこかで女の子に対していいカッコしたかったんだと思う。 八方美人だろうか。身体に染み付いた水商売魂だろうか。 でも、今回ハリーの事をコレットに知られて俺はどこかホッとしていた。 「ところで、君が入れ知恵した『罪悪感には快楽、快楽には羞恥心』ってさあ……」 「人聞き悪いわね、極意と言って」 「あれって間違いではなかったかもね」 「そうよ、あれはれっきとした性欲のメカニズムなの」 ハリーだって普通の人間で人並みの性欲くらいあるだろう。あの時感じていたのはたしかだった。真面目で照れ屋な男には効果てきめんだったわけだ。 もしかしたらハリー自身、意地っ張りな自分を持て余しているかも、と思った。 だとしたら、たまにはこんなふうにハリーの理性をさらってあげた方が彼にとっては都合がいいのかもしれない。 それともうひとつわかった事。 ハリーは俺が思っている以上に忙しい身だった。彼が仕事モードになっている時は色恋など入り込む隙間もない。彼の仕事を尊重してオンとオフのスイッチが切り替わるまで待つ事が彼との付き合いの鉄則だろうと、遅ればせながら俺は学んだ。 「あの人さ、ロンドンの仕事が終わったら帰国する前にここに寄るって。明日また店に来ない?ハリーも君にお礼を言いたいって言ってた」 あの後、ハリーはロンドンにとんぼ返りしたのだ。 「私の前でイチャイチャしないって約束してくれたらいいわよ」 あれ? 「ね、ちょっとは妬いてくれた?」 そう訊いてみたのはほんのイタズラ心。 「妬かないわよ!相手は男よ?しかもあんな綺麗な人。勝負なんて御免だわ!」 でもすぐその後に、 「相手が女だったら戦ったかも」 なんて……。 ハリーごめん、俺は正直言ってちょっとだけ気分がイイ。 「次は君の番だな」 ビトウィーン・ザ・シーツを、今度は俺からこの恋の伝道師に贈る事にする。 俺はコレットのためにシェーカーを振った。
Fin

「君花」を書く前に書いた駄文を大幅に削ってリメイク。元はエロのネタ帳でした(笑)
ハリーとの関係が始まって日が浅く、彼の扱い方がわからずぐるぐるするアクセル。
でもそれより、女友達との友情が主題になりましたネ(苦笑)

[2010年 11月 30日]