未来はすでに始まっている。
by.ロベルト・ユンク



 初めてあの人を見たのは、俺が中学2年生になった新学期の朝だった。
 
 午前7時半――。
 地下鉄駅は通勤のサラリーマンと学生で混雑していた。と言っても、車両にぎゅうぎゅう詰めになるほどの混み方じゃない。大きな都市の一部ではあるけれど、此処は“洗練”とはかけ離れた市民が慎ましく生活している平和で退屈な街。
 普通の学生が普通のサラリーマンに混じって普通に学校に行こうとしている、そんな普通の朝だった。

 その日、ホームで列車を待つ俺は、少し離れて横に立つ男子学生に目を奪われた。
“目に飛び込んできた”……そんな表現がぴったりで……。

――綺麗な男だなぁ。

 それが彼に対する第一印象。
 ブロンドの長い髪が印象的だった。そしてスラリとした細身の身体。顔も、形のいい唇とか鼻筋とかシャープな頬とか、嫌になるほどパーツの一個一個が整っていた。列車を待つ横顔がきりっとして賢そうだ。
 賢そう、じゃなくて実際賢いに違いない。グリーンのブレーザーに赤黒チェックのネクタイは有名な進学校の制服だ。つまりその人は頭のいい奴しか入れない高校の生徒なわけだ。
 靴も鞄もピカピカ、制服なんかシワひとつない。頭のてっぺんからつま先まで新品に身を包んだ格好で、間違いなく彼は入学したての1年生だと確信した。
『一番ホームに列車が入ります。ご注意ください』
 アナウンスの後に列車がやって来た。その時生じた風に彼は目を細め、長い髪がなびく。

 その瞬間、彼が世界の中心になった。

 列車の窓ガラスに反射した光が彼を照らす。
 髪の一本一本が流れる様が、伏せがちな瞼の動きが、まつ毛のカーブの微妙な揺れが、コマ送りのようにゆっくり、ゆっくり、俺の目に焼き付いた。
 まるで古いヨーロッパ映画のワンシーン――。
 まだ中坊のこんなガキにとってもそれは夢みたいな光景で、その間俺は茫然と口を開けていたと思う。そのくらい綺麗なものを見てしまったんだ。

 その日から彼の姿を毎朝ホームで見るようになった。彼がこの街に住んでいるのは間違いないだろう。
 いつからなのか。家はどの辺なのか。
 この街にこんな人が住んでいたんだ――と思うと、それまで平凡で退屈だった街は途端にすべてが華やいで見えた。

 その人は俺と同じ車両に乗り込み、高校がある三つ目の駅で降りる。俺は吊り革に掴まり立つ彼の姿を、いつも気付かれないようにこっそり盗み見ていた。
 同じ空間に居る事が嬉しくて、この時間が一分でも長く続く事を祈った。列車が何らかのトラブルで立ち往生しないだろうか、とさえ思った。
 そして三つ目の駅に到着し、俺は溜め息と共に車内に取り残される。何度自分も途中下車して彼の背中を追おうと思ったか。

 毎朝会ううちに彼の存在は俺の中でどんどん膨らんでいった。俺はいつしか見ているだけでは我慢が出来なくなった。
 話しかけたいと思ったが、かける言葉が見つからない。それに知らない男にいきなり声をかけられたら彼はどう思うだろう。拒絶されるかもしれない。不快に顔を歪ませるかもしれない。それを考えると怖くて何も言い出せなかった。
 そんな、一言も言葉を交わす事なく、毎朝繰り返される小さな再会と別れ。

 あの人は誰なんだろう。
 何て名前なんだろう。
 話をしてみたい。
 同じ学校に入りたい!

 正直言って学校の勉強は嫌いだった。将来にこれといった夢もなし、二度とない青春時代はちゃんと遊ばないと後悔すると思っていたから、勉強なんていい加減にしかやらなかった。おかげで1年生の時の成績は中の下、いや、下の中だったかもしれない。
 だから担任にあの進学校を目指すと宣言した時は職員室中がぶっ飛んだ。誰もが俺の決意を無理だと笑ったけど、目標が出来てからの俺はもうそれまでの俺とは違う。素行の良くない遊び仲間と手を切り、死にもの狂いで勉強した。
 ただひたすらあの彼に近付きたい一心で……。近付いてどうするかなんて事までは考えられなかったけれど、一発で合格出来なかったら年上のあの人とはすれ違ってしまう。
 とにかく俺は最初で最後のチャンスに挑戦したんだ。

 努力すれば報われるって事を、俺は生まれて初めて経験した。運命の女神が微笑むってこういう事なんだろうか。微笑むというより俺の足掻きに呆れての苦笑だったかもしれないけれど。
 地下鉄駅のホームであの人に出会って2年後、俺はめでたく希望校に合格し彼の居る高校に入学した。

 こんなふうに名前も知らない一人の男を追いかけて、俺は自分の未来に向けて舵をきった。