パリ1区。今日も花の都には観光客が通りを闊歩していた。グルメやファッションを求め、ガイドブックを片手にどの顔も楽しげだ。此処は文化の発信地。いつもと変わらないレ・アールの風景。 夜の住人たちが現れるにはまだ早い午後4時。それでも一見そうとわからない若者がちらほらと通りに立っている。イヤホンで音楽を聴きながら、まるで誰かと待ち合わせをしている素振り。あの男は売人だ。露出控え目ではあるが、煙草を吸っている二人組の若い女はストリートガール。 彼らもまた間違いなくこの街のもうひとつの“顔”なのだ。 あたしは自分の店へと急いでいた。曇り空を見上げる。最近のパリは大気が不安定だ。今にも雨が降り出しそうだった。 店のシャッターに鍵を差し込んだ時、このビルの横手から何かが倒れるような派手な音が聞こえた。争うような何かを引きずるような物音。そして何人かの男の声。そこはちょうど店のゴミ置き場だった。やがて三人の若い男たちが狭い路地から出てきた。けらけらと笑い声をあげ、あたしに気が付くとじろりと一瞥し、地面に唾を吐いて去って行った。 格好からすると素行がいいとは到底思えない。この街のギャング団だろうか。とにかく、チンピラたちがうちの店のゴミ置き場で何をしていたのか気になる。あたしは路地に足を踏み入れた。 子供が居た――。ゴミ箱にもたれかかって足を投げ出し座り込んでいる。座っている、というよりもたれかかったまま気を失っているようだった。服ははだけ、鼻と口から血を流し、顔は赤く腫れていた。あの三人組に殴られたのだろう。 「ちょっとあんた、坊や」 しゃがみ込んで声をかけるが返事がない。 「しっかりおし。大丈夫かい?」 10代前半だろう。ひょろっと背丈はありそうだが頬がふっくらしていてあどけない顔をしている。もともと可愛らしい顔立ちに、酷い暴力を受けた跡が余計に痛々しかった。 「ああ……おまわりは呼ばないでくれよ……。おまわりは……」 うわ言のような子供の声に、かなり意識が混濁しているように思えた。頭を打っているかもしれない。傷を調べようと頭に手を触れた途端、子供は勢いよく飛び起きた。 「だ、誰だよ、てめえは!何しやがる!」 子供はあたしの姿を見て怯えた目で後ずさろうとした。殴られると思ったのだろうか。まるで人間の手を怖がる野良犬みたいだ。 「心配いらないよ。見せてごらん、血が出てるじゃないか」 もう一度頭に手を伸ばしたところ、その手を払い除けられた。 「俺に触んな!クソババァ!」 真っ直ぐあたしの目を見上げて、口を精一杯大きく開けて、小さいくせにサイレンみたいな声量でそいつは怒鳴った。とても喧嘩に負けた野良犬とは思えない威勢の良さで正直驚く。と同時に可笑しさが込み上げる。 ――何がそんなに怖いんだか……。 だが、いつまでも此処でこうしてはいられない。今にも雨が落ちてきそうな空をもう一度見上げた。 「そんな元気があるんなら大丈夫そうだね。とりあえず立ちな」 あたしはその子の腕を掴んで引き起こした。 「いてェっ!何すんだよ、離せ!」 「こっちは客商売やってるんだ。こんな所に居られちゃ迷惑なんだよ。いいから来な」 「自分で歩ける!ちくしょー、離せよ馬鹿野郎!いてててて!」 子供は店に連れて行かれる間ずっと、クソババァだの死ねだの口汚く罵り続けていた。 開店にはまだ3時間くらいはある。従業員がまだ誰も来ない早い時間から、あたしはいつも先に来て経営者としての仕事に取りかかっていた。 今夜の予約の確認、酒屋や市場への電話注文、その日来た郵便物のチェック、厨房内の材料や食器の確認。時間が許す限り新聞にも目を通す。やる事はいくらでもある。まして今日は土曜日だ。忙しくなるだろう。だが、今はまず拾ってきた子犬をどうにかするのが先決だ。 店の隅の席にその子を座らせ傷の手当てをしてやる。 「いてっ!いてーよ、ちくしょう!」 「大人しくしな!動いたら薬が塗れないじゃないか!」 ぎゃあぎゃあ喚く子供の頭を押さえ付けて傷の消毒をする。しみる!という訴えは無視した。傷の深さを調べるが縫うほどのものではない。 「……1対3かい?」 20歳は超えているであろういい大人たちだった。苦々しく呟くと子供は舌打ちした。 「あいつら俺を見張ってたんだ。ルカと別れて一人になったとこに突然現れやがった。奴らは一人じゃ何にも出来ねえ腰ぬけどもだ」 「で、あんたは何をやったんだい」 「何もやっちゃいねえよ!奴らは俺が嫌い、ただそれだけだ!」 理由がないはずはない。話から察するに、この子も小さいながら街のギャングなのだろう。大人をまるで信用していない、カッとしやすい、そしてどう考えても暴力に慣らされている。殴られる事などおそらく日常茶飯事だろう。年端もいかない子供のストリートギャングなどこの街には掃いて捨てるほど居る。 情けをかけても仕方ないのだ。あまり深く関わらない方がいい、と思った。――思ったのに、あたしは自分でも意外な言葉を口にしていた。 「あんた、お腹減ってるかい?」 その子の食べっぷりは本当に野良犬みたいだった。次々と口に食べ物を放り込む様につい見惚れた。毎日ちゃんと食事しているのだろうか。 何度もスプーンにふうふうと息を吹きかけシチューを冷ますのだが、スパイスが口内の傷にしみるのだろう。一口ごとにしかめる顔がまさに小さな子供だ。 「あんた、幾つだい?」 「13……」 「家は?」 「んなもんねえよ」 「ないって……。おっかさんは?」 「とっくに死んだ」 「親父さんは?」 「最初からいねえよ」 矢継ぎ早の質問に、夢中で食べながら子供は律義に答えていく。 「俺は施設暮らしだ。もっとも何日か戻ってねえけどな。――おばさん、これもっとある?」 あたしはクソババァからおばさんに格上げしたらしい。エサをくれる人間はとりあえず悪いヤツじゃないと思っているようだ。 おかわりを寄越せ、と差し出された皿を受け取り、仕方なく二杯目をよそってやる。昨日の残り物のシチューが底をついた。 「おばさんじゃなくて、あたしはレディ・ジョーってんだ」 皿を手にあたしは言った。 「あんたの名は?」 「……アクセル」 名乗らないとくれないと思ったのか、上目遣いであたしを見上げてもごもごと答える。 「本名かい?」 「当たり前だ!かあちゃんが付けてくれたんだぞ!」 語気を荒げるその顔を見てあたしは笑った。この子は母親が好きなのだ。それは親から愛情を貰ったという事だ。どうして母親は死んだのかわからないが、今こんなふうに粋がっていても愛をもって育てられたんだなと思うと何だか微笑ましくなった。 「そうかい、いい名前を貰ったじゃないか」 あたしがシチュー皿を目の前に置いてそう言うと、嬉しそうな、そして照れたような顔で初めてアクセルは笑った。 途端に邪気のない子供らしい顔になって、あたしは少々面食らった。どんな悪ガキも生まれつきのワルなど居ない。アクセルが日頃どんな悪さをしているかわからないが、本当は人懐っこいお人好しなのではないかと思った。 「ここさ、バーだろ?」 当のアクセルはそんなあたしの視線に気付かず、皿を舐めんばかりの勢いでシチューを食べながら言う。 「おばさんの店?」 「レディ・ジョー」 「レディ・ジョーの店?」 「そうだよ、此処は大人が酒を飲みに来る所だ。あんたは食べたらお帰り」 勿論、悪い仲間の所ではなく施設へだ。だが、あたしの言う事などまるで耳に入っていないかのようにアクセルは言葉を続けた。 「あれ何?すげぇ綺麗だな」 指差す方を見ると、カウンター内のボトル棚。その中に青や緑の液体が入った装飾的なボトルが並んでいた。 「あれはリキュールだ」 「リキュールって?」 「カクテルを作る材料のひとつさ。ガキのあんたが飲めるものじゃないよ」 「ガキじゃねえよ!」 二杯目のシチューを平らげたアクセルは袖で口元をごしごしと擦り、勢い余って傷も擦ってしまったんだろう――しばらく痛みに絶句したあと続きを言う。 「俺はまだ若いだけだ。ガキじゃない!」 どうしても子供と思われるのが気に入らないらしい。 「あのね、アクセル。人に心配かけないように配慮するのが大人なんだよ。あんたが何日も帰らないで、帰ったと思ったらそんな傷だらけで、毎日あんたが世話になっている施設の人たちはどんな気持ちでいると思う?」 あたしは何を言ってるんだろう、と思った。たまたまその場に居合わせただけで、怪我した子供に手当てと食べ物を与えただけだというのに。この子はそこらへんにいくらでも居る不良少年の一人にすぎない。無駄な説教などせず、さっさと追い出すべきだ。――そう思ってはいるのだけれど。 「それはわかっちゃいるけど……。でもガキじゃない……」 アクセルは口をとがらせて不服そうだが、興奮は落ち着いたらしい。 「ガキだよ。認めたくなくたってまだガキなんだ。それは事実だよ」 その言葉にアクセルはゆっくり顔を上げて、真正面からあたしを見据え、妙に穏やかな声で言った。 「俺が本当はどうかよりさ、あんたがガキだと思い込みたいだけなんじゃねえの……?」 『僕の気持ちが愛なんかじゃないって、君は思い込みたいだけなんじゃないかい?』 ――遠い昔に言われた言葉が突然蘇った。 こんな形でその言葉と再会する事にあたしは愕然とする。見上げてくるアクセルの眼差しが、あの人の困ったような、悲しそうな、それでいて優しい目を彷彿とさせた。 あたしは一言も何も言えなくなり、真っ直ぐ見つめてくるアクセルの顔から視線も反らせず茫然としていた。 その時、そんな沈黙を破ってドアが鳴った。途中まで下ろしてあるシャッターをくぐるように入って来たのはマリーとコニーだ。 「おはよう、レディ・ジョー」 「あら?もうお客さま?」 いつの間にか従業員が来る時間になっていた。二人はアクセルに近寄って物珍しそうに顔を覗き込む。 「レディ・ジョー、この子どうしたの?知り合い?」 「可愛い子ねえ。こんにちは。あら、顔どうしたの?喧嘩?」 マリーとコニーは微笑んで話しかけるが、アクセルは微笑むどころではなかった。間近に寄せられる二人の顔とあたしの顔を交互に見比べ、目が段々大きく見開いていく。口が茫然と開けられる。 「おと……こ……?」 小さな掠れた声でそう問うと、マリーとコニーは顔を見合わせて苦笑しアクセルに頷いた。 50近いあたしの顔は男っぽい顔立ちの“おばさん”に見えるかもしれない。だが、至近距離で見る薄化粧のマリーとコニーは、若い事もあって明らかに男性的特徴を隠しきれない。そこに、この子は初めて気が付いたのだ。 アクセルは椅子を倒す勢いで立ち上がった。 「あんたも、男だったのか……?」 あたしの顔を凝視して驚愕に震えるアクセルを、ただ黙って見つめた。 「あんた……男なのにそんな格好してるのか!」 「……そうだよ。此処はオカマバーだ。あたしを含めてスタッフ全員男さ」 注がれる嫌悪の視線にあたしはゆっくり答えると、アクセルはゆるゆると首を振って後ずさった。 「オカマかよっ!気持ち悪ィだろ、普通!」 そう叫ぶとアクセルはドアへと駈け出す。 「あんたらみんなバケモノだ!」 そして、一言吐き捨てると外へと飛び出して行った。 降り出していた雨がアクセルの足音を消す。そしてドアが閉まり、沈黙が残った。