アクセルとの再会は意外に早く訪れた。 次の日の日曜日。昼頃、あたしは惣菜を買うために近所のデリカテッセンに居た。丁度ランチ時とあって店内は混み合っている。自分の順番が来るまで何気に外を眺めていたあたしは思わず視線を止めた。街灯にもたれるように、昨日の子供が立っていた。 帽子を深く被っていたが、口元の絆創膏は昨日あたしが貼ってやったものだ。アクセルは両手をポケットに突っ込み何かを待っているようだった。 ――何をしているんだ?あの子……。 そんな様子を見守っていると、アクセルの傍に一人の男が近寄って来た。何か会話を交わしている。男は通りに背を向け、尻のポケットから紙幣を出した。アクセルがそれを受け取り確認する。そして通りの向こうを指差しながら何かを言っていた。 男がアクセルから離れた。あたしは順番待ちを放棄してデリカテッセンから出て男のあとを追う。 男はそう長くは歩かなかった。道路を渡り角を曲がるとカフェの横道に入っていく。建物脇に置かれた空き瓶のコンテナの陰から、小さな赤い包みを拾い上げた。男はそれを手のひらの上でポンと弾ませ、ポケットにしまうとそのまま歩き出す。 あたしはそれ以上男のあとを追わなかった。そしてさっきの場所まで戻ると、もうアクセルの姿はなかった。 ――アクセルは“商売”をしていたのだ……。 翌日の夕方――。あたしはいつものように店に来て伝票整理をやっていた。 と、そこへ小さくドアが鳴って顔を上げる。訪問者が誰なのか、何故か判っていた。此処に再び来るような、そんな気がしていたのだ。 案の定、アクセルの黒い頭が戸口から覗く。おそるおそる、という様子で中を窺っていたが、あたしの姿を見つけると躊躇しながら店内に入って来た。 「――来たね?」 何処か居心地悪そうにポケットに手を突っ込んで落ち着かないアクセルに、そう声をかけてやる。 「座んな。今何か入れてやる」 「あ……なあ!」 カウンターに行きかけたあたしをアクセルが引き止めた。 「こないだ……ひでぇ事言っちまった……」 アクセルは視線を合わさずそっぽを向きながらぼそぼそと言う。 「悪ィ……」 あたしはアクセルに見えないようにそっと笑った。わざわざ謝りに来るなんて意外に律義な子チンピラだ。だが、短い時間だったがあたしが感じたこの子の素直さを思えば、近いうちにまた現れるような、そんな気がしていたのだ。そしてその通りにやって来た事に嬉しいと感じる自分が居た。 「……いいさ、びっくりしただけなんだろ?いいからおかけ」 そう言うとアクセルはやっと破顔して、だがすぐに笑顔を噛み殺して取って付けたようなクールを装った。 「学校は」 カクテルに使うグレープフルーツジュースを注いでやり訊いてみる。 「終わった」 意外な返事が返ってきた。こんな生活をしているくせに真面目に学校に通っているというのだろうか。 「かあちゃんが必死に学費稼いでいたの知ってっからな。行かねえと」 「いい子じゃないか」 「いい子って言うな!またガキ扱い」 先日と同じ言い争いになるのが面倒で、それ以上アクセルをからかうのはやめた。その代わり言う事が幾つかある。 「……昨日、街であんたを見かけたよ」 その言葉にアクセルは顔を上げた。 「ヤクを売ってたね」 途端にアクセルが視線を逸らす。その目が泳いでいた。 「……何の話だがわかんねえな」 「とぼけるのはおよし。あたしが何年このパリのど真ん中を見てきたと思ってるんだい」 「……」 「あれはヤクの取引きだった」 売人は普通ヤクを持ち歩かない。警察に呼び止められ、調べられても所持していなければどうにでも逃れられるからだ。事前に確かな紹介のもとにコンタクトを取って来た人物にだけ会う。そして金を受け取りブツの隠し場所を教える。実際そんな現場は何度か目にしてきた。他にも方法はあるのかもしれないが、アクセルの行動は間違いない。 「売人なんかやるもんじゃないよ」 「だったとしてもよ、あんたには関係ねえだろ」 その言葉にあたしはひとつ溜め息をついた。 「……ああ、確かに関係ないよ」 アクセルは相変わらず目を背けたままだったが、あたしは先を続けた。 「だが、ひとつ忠告してやる。あんたがヤクを売ろうが売るまいがジャンキーが減るわけじゃない。ただ、そのおかげであんたがいつか誰かに殴られたり殺されたりしたら、死んだおっかさんが悲しむだろうよ。そのために必死で学費稼いでいたわけじゃないだろうが」 そこまで言って、不穏な疑念が頭をよぎる。 「あんた、まさか自分もヤクやってるわけじゃないだろうね」 「やってねえよ!」 アクセルが声を荒げた。 「売人自身がジャンキーになったらそいつはただの馬鹿だから、絶対やるなってゾーイからも言われてんだ!」 思わぬ人物の名前が出てさすがに驚いた。このチビは本物のマフィアになるつもりなのだろうか。まさかあのゾーイが本当にこんな子供を正式に組織の一員にするとは考えられないが。 「あんた、ゾーイがどういう人か知ってるのかい?」 「マフィアのボスだろ?すげえ力のある。俺とルカは直接そのゾーイに声をかけられたんだぜ?」 何処か得意気なアクセルに、あたしは大きく溜め息をついた。こんな馬鹿なチビを使いっ走りにして小遣いやるとは、あのジジイの考える事がわからない。今でこそ泣く子も黙る“白ふくろう”がどうやって組織の頂点までのし上がったか、アクセルは知るまい。 「あたしはもう20年も前からゾーイを知っているんだ。優しい年寄りだと思ったら大間違いだよ。とにかくやめな。悪い事言わないから」 「でも俺は!……俺は他に何も出来ねえんだ。これしか知らねえんだよ……」 唇を噛んで俯くアクセルを見て、これ以上何も言えなかった。あたしは赤の他人なのだ。お節介な助言でアクセルが売人を辞めたとして、代わりの道をこの子に示してやる事など出来ない。 ――あたしは三度目の溜め息をついた。 「……身体だけは大事にしな」 それだけ言って、励ましのつもりで軽く頭をポンポンと叩くと思いのほか力が強かったらしい。 「いってぇ!何すんだよ、クソオカマ!」 涙目で罵ってくるアクセルの顔に笑えた。 ずっとアクセルの相手をしているわけにはいかず、あたしは開店の準備を始めた。それでもアクセルは居続けた。酒の補充をしている様子を、カウンター席に座って飽きずに眺めている。 「なあ、俺にカクテルの事教えてくれよ」 唐突な言葉に思わず振り返った。 「そのインク溶いたみたいなすげー色のキュラソーってやつがさ、どうして美味い飲み物になるのか、不思議なんだよ」 そういえば、初めて此処に来た時もリキュールに興味を示していた事を思い出した。 「おば……じゃなくて、レディ・ジョーが作ってんの?」 「あたしじゃないよ。バーテンダーは別に居るんだ」 「ふうん。じゃあ、その人に……」 「だめだ。うちは子供に酒なんか飲ませないからね。夜も来るんじゃないよ。勉強したいんならまず本を読みな」 そう言われる事は予想していたのだろうか。アクセルは「ちぇ、ケチ」と言いつつもさして怒りも落胆もしていなかった。 「ほら、これをやるから読みな」 あたしが差し出したのは、メーカーがPRを兼ねて家庭向けに作ったカクテルの小冊子だ。薄っぺらい冊子だが一般によく知られたカクテルの作り方がカラーで載っている。 「明日もまた来ていい?」 アクセルは目を輝かせてページをめくり、そんなふうに言う。 「……開店準備の邪魔をしないならね」 そう答えると、今度は噛み殺す事なく満面の笑顔を見せた。 その日から、アクセルは夕方になると毎日店に現れた。 中年のオカマが経営するバーに、思春期の少年にとって面白いものなどあるはずもなく、あたし自身もとくに構ってやるわけでもない。前日のスナックの残り物を出すか気が向けばコーヒーを飲ませるくらいで、アクセルはだいたい一人で勝手に時間を過ごしていた。 何が楽しくて此処に居るんだか、と思う。学校が終わり“商売”しに行くまでの時間潰しかもしれない。それだけでなく、アクセルはヤクを売る以外にもよからぬ“おつかい”をしているらしかった。ポケットには常に小銭が入っているようだった。 開店準備の邪魔をするなという言い付けを守り、伝票整理などの神経を集中している時は黙って例の小冊子を読んでいる。だが準備が単純作業になると、途端にうるさいぐらいに話しかけてきた。 「――でさ、その肉屋のブタおやじってのがマジ隠れホモなわけ。おまけに腹はメタボ、頭はヅラ。俺らに万引きの濡れ衣着せてサツにチクろうとすっから、ダチが店の外に飛び出して『助けて!此処のおじさんに乱暴された!』って大声で喚いたのよ。正義の通行人が大勢駆け付けてきたぜ。その隙に俺らは速攻フケたけどな。憐れブタおやじはショタホモ容疑でご近所から吊るし上げよ。いっそパクられりゃいいぜ。……どう、笑えるだろ?」 「……どうでもいいけど、あたしにわかるフランス語で喋れ」 アクセルの話はだいたい下品で、言葉は、若者言葉なのだろうか――酷いスラングだらけで理解するのは骨が折れた。 時には準備も手伝わせた。酒瓶の補充や銀食器磨き。アクセルは面倒臭がるどころか喜んで手を貸してきた。たぶん実際に酒やカクテルの用具に触れるのが嬉しいのだろう。 「この酒は何?」 「このラベル何語?何て書いてあんの?」 「あ、これってアレだろ?バーテンダーがしゃかしゃか振るやつ!何てったっけ?」 「カクテルグラスってこんなに種類あるんだ!それぞれ名前付いてんの?」 アクセルは好奇心が芽生えたばかりの幼児みたいに何でも知りたがった。そして、いつも必ず帰り際には同じセリフを言う。 「なあってば、俺にカクテル教えてよ。作ってみてーよ」 いつかやった小冊子はボロボロになるまで読み尽くして、最近では厚い本を読んでいた。万引きしてきたのか、と少し気になったが、きちんと書店の包装がされているところを見ると自分で買ったのだろう。 「あんたは酒の事知りたがるけど、覚えてどうするつもりだい」 「……いつか、バーテンダーになりたい……」 急に声が小さくなるのは、あたしにこてんぱんに反対されると思ったからだろうか。 「バーテンダーは立派な仕事だよ。将来の夢が出来たんならいい事だ。でもあんたが実際に作るにはまだ早い。作るって事は味を覚えなきゃならない。まだ13の子供に飲ませるわけにはいかないからね。それより今学ぶ事は他にもたくさんあるよ」 「俺だって酒くらい飲める!こう見えても結構強いんだぜ?」 おそらく、そうなのだろう。酒屋で買うのか、バーに飲みに行ってるのか……。子供に酒を飲ませる店は最低だが、それはあたしが関知する事じゃない。 「アクセル、バーテンダーは酒を調合するだけの職人じゃないんだ。金を払って来てくれるお客一人一人に幸せなひと時をあげる、難しい仕事だよ。学ぶ覚悟はあるかい?」 アクセルは俯いてあたしの話をじっと聞いている。 「バーテンダーはもの凄く高度な接客業なんだ」 しばしの沈黙のあと、顔を上げたアクセルはきっぱり言い放った。 「俺にいろんな事を教えてくれ、レディ・ジョー。俺はいいバーテンダーになりたいんだ!」 正直言って、どうせカッコだけに憧れたと思っていた。ここまでこの子チンピラが本気である事に、あたしは心底驚いていた。 あの人が逝ったあと、いろんな人間に出会っていろんな事があった。だが、まさか自分が子犬みたいな少年の先生になるとは、夢にも思わなかった。