春まだ浅い長安──。日中は暖かな日差しで春の気配を感じるものの、繁華街に明かりが灯る頃にはうっすらと肌寒い季節だった。


 繁華街の始まりの角地に古い煙草屋があった。そこから南に行けば慶雲院、東に行くと悟浄の家があり、煙草屋は丁度合流地点になる。
 悟浄はいつものようにその店で煙草を買い、看板の前で買ったばかりの煙草に火を点けた。待ち人が来るまですっかり様変わりした街の風景を眺める。
 通りを往く人々が上着の襟を立てながらも皆一様に浮足立っているのは週末のせいばかりではない。そんな事を考える悟浄も周りからすればどこか浮かれて見えるだろう。
「あー、きたきた」
 南からこちらに向かって歩いて来る人影。ジーンズに黒い上着、この上なく地味なその姿に悟浄は「よぉ」と手を上げる。
「早ぇな、河童」
「アンタは遅かったじゃん。なに、寺出るのに手間取った?」
「出ようとしたら庶務の坊主に捕まった」
「はは、そりゃお疲れさん」
 二人は月に一度か二度、こうして待ち合わせて街に出る。これまでも悟浄が十日と空けず寺を訪れていたが、たまにはメシでも食いに行こうという誘いに三蔵が応じてから度々外で会うようになった。
「何食いたい?」
「肉」
 即答する三蔵に悟浄は笑う。
「まあ、毎日精進料理じゃいざって時に力も出ねえよな」
「いざってどんな時だよ」
「んー、魔戒天浄かます時?」
「てめぇにかましてやろうか」
「カンベンして!」
 こんな冗談を言い合う自分たちはまるで友達同士のようだ、と悟浄は思った。


 最近オープンした焼肉店は週末という事もありほぼ満席だった。仕事帰りの労働者、若者のグループ、家族連れ。店内には流行りの音楽が流れ、注文の声がひっきりなしに飛び交う。
「三蔵! ほら、焦げてるだろ! 早く取れって」
 見かねた悟浄が肉を三蔵の取り皿に入れる。
「ばかやろ、肉は焦げ目が付くくらいが丁度いいんだろうが!」
 余計な事はするなと、三蔵が再び肉を焼き網に戻した。
「生臭坊主も肉の生焼けは苦手、ってな。──で、次どれ注文する? ミノでもいく?」
「ミノはあんま好きじゃねぇ。ホルモンにしろ」
「へーへー。……おねぇさーん! ホルモン二人前!」
「塩でだ」
「塩でー! あとビールもおかわりねー!」
 悟浄が注文する間、三蔵は網にカルビを乗せる。当然自分の分だけだ。そんな三蔵に苦笑し、悟浄も負けじと自分の肉を乗せた。焼けるまでの間、店内の賑わいを眺めながら悟浄はしみじみと呟く。
「それにしても、長安はホント好景気なんだな。あれからこういう飲食店だの娯楽場だのあちこちに出来てるだろ? それだけ平和な世の中になったって事だよな」
 そう、あれから……。三蔵一行が牛魔王の蘇生実験を阻止し、桃源郷全域を覆う負の波動を食い止め、命懸けの旅から戻ってから。あれから三年が経った。
 廃墟と化した村や町に人々が戻り、少しずつ再建が始まっている。三仏神の加護が厚いおかげか比較的負の波動の影響が少なかった長安でも、人々の安堵感から街の景気は加速していた。
 そして人々の心も変化する。もう暴走する事もなくなった妖怪は今こうして人間たちに混じって焼肉を食べ、人間もそれを自然に受け入れている。
 だが、三蔵一行への記憶は……。
「三蔵サマは桃源郷を救ったヒーローのはずなんだがなぁ……」
 たった三年前の事なのに、三蔵法師とその従者たちの事は話題に上がらなくなっていた。
「人間は忘れる生き物だ。いい事も悪い事もな。いいじゃねぇか、いつまでもありがたがられて祀り上げられる方が迷惑だ」
「……そんなものかね」
 二人はしばし黙って肉を頬張る。そこに注文していたホルモンとビールが来た。
「やっぱホルモンは塩だよな!」
 網の上にホルモンを広げながら悟浄は話題を変えた。
「そういや、猿から何か便りでもあった?」
「あいつがそんな殊勝な事するかよ」
「だよな。まあ、便りがないのはいい便りってやつ? つか、あいつ字書けるのかよ」
 悟空は旅から帰った後、今度は自分のための旅に出た。広い世界を自分の目で見たいのだと、目を輝かせ熱く語った悟空。何があっても三蔵の傍を離れないと思っていた悟浄は意外だった。しかし、三蔵はいつか悟空が巣立つとわかっていたという。
『寂しくねえの?』──そう言おうとして、しかし悟浄はその言葉を飲み込んだ。訊けばきっと『てめぇこそどうなんだ?』と訊き返してくるだろう。
「そっちは。八戒はどうしてんだ?」
 悟浄が言葉を飲み込んでも三蔵が見越したように訊いてきて、悟浄は苦笑った。悟空の話が出ると自然に八戒の話になるのも当然である。
 悟空が旅立って数ヵ月後、八戒もまた長安を去った。遠い田舎町の小学校で教師の職を得、悟浄の家を出たのだ。
「二、三度手紙が来たぜ。忙しいけどやりがいのある仕事なんだとさ」
 寂しくない、と言えば嘘になる。長年共に暮らした相手なのだ。しかし、手紙から八戒が充実した毎日を送っているのが伝わってきて、悟浄としては安堵の気持ちの方が大きい。
 三蔵は一言、そうか、とだけ言った。
 街も、そこに暮らす人々も、かつての旅の仲間も変わっていく。変わらないのは三蔵と悟浄だけだった。特に三蔵は変わるわけにはいかない。三蔵はおそらく、最高僧としてすべてを見届ける役目があるのだと、悟浄は思った。
──いや、ひとつ変わった所があるな……。
 三蔵は少し穏やかになった。口の悪さは相変わらずだが、剥き身のナイフのような殺気はなりを潜めた。悟浄と険悪な喧嘩になる事はほとんどない。
 今は命を懸ける事もないせいか、単に年を取ったせいか、経文の奪還という目的を果たしたせいか。それとも、共に世間から取り残された悟浄に多少の情が深まったせいか。
──んなわけねーか。
「何笑ってやがる、クソ河童」
「あー……いや、“めでたし、めでたし”でよかったなーって」
「てめぇが“めでたし、めでたし”なんか言うな。縁起でもねぇ」
「何それ! 俺がそう言うと何かのフラグ? 一体俺を何だと……」
「疫病神」
「ひでぇ……」
 傷付いたフリをしたものの、次の瞬間には吹き出す。そんな悟浄につられて三蔵も口の端を上げた。
 

 焼肉店を出てみれば夜はまだ始まったばかりという時間で、通りは相変わらず賑わっていた。
「この後どうする? もう一軒寄ってく? それとも俺んち来る?」
 三蔵にはまだ飲み足りないはずで、悟浄としても酒よりも三蔵ともっと一緒にいたかった。
「いや、明日は朝早くから予定があるから俺は帰る」
「……ん、そっか。じゃあしゃーねぇな」
 無理には引き止めない。一応相手は位の高い僧侶だという事を悟浄は思い出す。三蔵が最高僧としての役目を果たすというならそれを尊重しなければならない。とはいえ、内心では溜め息をついていた。
 待ち合わせをした煙草屋まで肩を並べて歩く。着いたら別々の方向に帰る。ほんの数秒でも先延ばししたくてゆっくり歩いた。
「どっか面白い店探しておくからさ、今度また遊ぼうぜ」
「ああ」
「でもその前にまたそっち行くわ」
「ああ」
 やがて煙草屋の前に着き、二人は「またな」と言って南と東に別れた。
 悟浄はそっと振り返る。去って行く後ろ姿をこっそり見送るのは毎度の事。どうせ三蔵は振り返らない。こうして見つめている事は気付かれない。
──もっとお前と一緒にいてえよ、三蔵……。
「でも、今さら……だよな……」
 そんな風に言葉に出すと余計寂しさは募った。