自分の家が視界に入った時、悟浄は足を止めた。
 家に明かりが点いている。
──消し忘れか……。いや、出かける前から明かりは点けてねーし。
 訪れる者などいるはずはないが、唯一考えられるのは八戒だけだった。だが、あの八戒が、かつて居候していた家とはいえ連絡もなしに留守宅に上がるとは考えられない。
 泥棒か、迷い込んだ浮浪者か、悟浄に恨みを持つ昔の悪い仲間か……。いずれにしても招かれざる客と考えるのが現実的だろう。
 悟浄は足音を忍ばせて家に近寄った。そっとドアのノブを回し、細く開けたドアの隙間から室内を覗き込む。
「!」
 唐突に、テーブルに突っ伏して眠っている白い法衣が目に飛び込んできた。
「さ、三蔵?」
 思わず上げた声に三蔵の目が開く。上げられた顔は半分寝ぼけ気味だったが、悟浄の顔を認識するとみるみるうちに眉間にしわが寄る。そして、悟浄の呆けた顔を凝視したまま懐を探り、取り出した物をその頭めがけて力いっぱい振り下ろした。
「いっ……て──────!」
「こんな時間まで一体どこほっつき歩いてやがった!」
 頭を押さえてうずくまる悟浄に、ハリセンを握りしめた三蔵が仁王立ちで怒鳴る。
「それに、出かける時は鍵ぐらいかけろ! 不用心だろうが!」
 今まで何度か食らったこの痛み。夢でも幻でもなく、ここにいるのは間違いなく三蔵だ。
「で、でも、別に盗られて困るような物もねぇし……。いや、そんな事より! 三蔵、なんでここに?」
「今日正式に寺を出てきた」
「あ……」
 思っていたより早い行動に悟浄は驚いた。だがもっと驚いたのは、三蔵が旅立ちの前にあらためて別れを告げに来てくれた事だ。
「来てくれたんだ……。この前の別れ話が最後だと思ってたからまた会えて嬉しい」
「……別れ話?」
「でも! 俺にも言わせてくれ。俺はこのままサヨナラなんてこれっぽっちも納得できねぇんだわ。本当は明日にでも寺に行ってお前をさらってこようと……」
「待て。てめぇの話はさっぱりわけがわからん」
 三蔵は悟浄の言ってる事が理解できず、ややイラついていた。
「何の話かわかるように言え」
 どうにも話が噛み合ってないらしい三蔵の反応に悟浄は戸惑う。
「だから、お前と最後に会った時の事だって。もう寺には来るなって言ったろ? アンタは寺を出るつもりだし、その上で来るなって事はもう会わないって意味だろが」
 それを聞くと三蔵は大きくため息をつき、ようやくハリセンを懐にしまった。
「寺を出るにあたり引き継ぎやら残務処理やらあるんだよ。寺にお前が来ても相手をする暇はねえし、出た後は来ても無駄だし。そういう事だ」
『俺には俺の役割と責任がある。でかい寺院の最高責任者としてハンパな事はできん』
 あの時、たしかに三蔵はそう言った。
「俺たち別れたんじゃ……ない?」
「それはお前の勝手な妄想だ」
 悟浄はそれを聞くと三蔵に抱きつき、肩に顔をうずめた。全身から力が抜ける。
「……最初にそう言ってよぅ、三ちゃん」
 三蔵が一言『俺が来るまで待っていろ』と言えばこんなに悩まずに済んだだろう。しかし、このへそ曲がりがそう簡単な言葉をくれるはずはなく、すべては自分の早とちりだったと悟浄はようやく理解した。
「もー、このひと月半、俺がどんな気持ちでいたと……」
「これから俺はここに住む」
「そっか、うん。……………………えええぇぇっ!」
 悟浄は弾かれたように顔を上げる。
「ほ、本当……? いいのか? でも、なんで……」
「一緒に暮らそうって、てめぇが言ったんだろうが」
 三蔵は茫然とする悟浄の顔を見て小さく笑う。
「冗談かそうでないかくらいお見通しなんだよ」
 三蔵への気持ちは一方通行で、三蔵は「腐れ縁」としか思ってないだろう。だから、こんな気持ちを三蔵に知られたら拒絶される。そう信じて悟浄はひた隠しにしていた。
 だが、そんな思い込みも含め、三蔵にすべて見抜かれていたという事だ。
「……敵わないな、三蔵サマには……」
 今まで自分がしてきた無駄あがきに、悟浄は苦笑するしかない。
「慶雲院を出ても月に一度は赴かなきゃならん。それと寺のでかい行事にも顔を出す。それを条件にようやく僧正らを説き伏せた」
 悟浄は頷く。たしかに、三蔵法師がそう簡単に最高僧を辞職できないだろう。
「だから、これからお前はちゃんと昼間の仕事をしろ。家事も全部やれ」
「なにその理不尽な役割分担! じゃ、アンタは何すんの?」
「俺は旅から持ち帰った経文を翻訳する仕事がある。膨大な量だから忙しい」
 三蔵と暮らすための苦労はいろいろあるらしい。同じ二人暮らしでも、おんぶに抱っこだった八戒との生活とはまったく違う。
「喜んで頑張らせてもらいマス。俺を選んでくれた三蔵のために」
「てめぇを選んだというか、俺は美味い物が食いたい」
「え……」
「甘味屋の抹茶ナントカとか」
「だから、カフェだっつの……」
「牛カルビとか」
「俺は食い物のオマケかよ」
 悟浄は笑って、この素直じゃない想い人を抱き寄せた。
 

 窓辺で肩を並べ、昇る朝日を二人で見ていた。
 今までもこの家で二人が朝日を見る事はあった。一夜を過ごした後、三蔵は慌ただしく寺に帰る。悟浄はそのたびに朝日を恨めしく見上げていた。
 もう三蔵が寺に帰る事はない。
「いつか、俺はここも出て旅に行くかもしれん」
 三蔵がぽつりと言った。そんな三蔵の言葉にも、悟浄はもう恐れない。
「そん時は俺も連れて行けよ?」
「まあ、お前次第だ。ついて来れるのか?」
「あったりまえでしょ!」
 自分が三蔵の生き様を見届けなければ、と悟浄は思う。いつか来るその時、どこに行っても三蔵の隣にいよう、と。
 でも、それはもう少し先の話……。
「今度こそ“めでたし、めでたし”かな?」
「だから、てめぇが言うと縁起が悪いつったろ」
「三ちゃんってば……」
 四人で厳しい旅をして、生きて帰って、三蔵と平和な日々を送って……。それでもまだハッピーエンドが許されなくても、死が二人を分かつその瞬間『幸せだった』と思えたら、その時が本当のハッピーエンドかもしれない。
「ところでさ、今までずっとアンタに言いそびれていたんだけど……」
 悟浄は三蔵の頬を両手で包み込み、言う。
「愛してる」
 すると、三蔵はクスクス笑って悟浄の首に腕を回した。
「遅ぇよ、ばか……」

二人の旅は、まだ始まったばかり。