善い行いには良い結果が待っている。きっと二人とも善人なのだと思います。
[2019年 12月 25日]
話は6時間前に遡る──。 正午のジュネーブ駅。強い太陽の光がガラスをふんだんに使った建物に差し込み、目がくらむような眩しさだ。この駅に来るのは何年ぶりだろうか。 ハリーは数日前にドイツに入り、ベルリンで会議に出、何人かの軍事関係者に会った。神経を使う任務続きで疲労が募る。最後に、ここスイスで某国の外務省職員と面談する予定だったが、上部からの通達でその予定はキャンセルとなった。それによって今回の欧州での任務は終了となってしまった。 突然訪れた空白。予期せぬ自由時間。急遽の任務変更は喜ばしい事ではない。いずれそのツケは近いうちに返って来て、国内外の任務に忙殺されるだろう。 だが、いい事もある。それは、ここジュネーブは高速列車で行けばパリとは3時間程度の近さという事だ。ハリーは思い立つとすぐチケットの手配に動いた。この季節はどの交通機関も予約でいっぱいだ。本来急に手に入るものではないが、幸いジュネーブの知人の力を借りパリ行きのチケットを入手できた。 今まで、クリスマスをパリで過ごすために何度仕事の調整を試みたか。不幸にもその試みは実を結んだ事がない。そして、そんなハリーの苦労をアクセルは何も知らない。 「やれやれ、やっとパリに行けるな」 アクセルはきっと喜ぶだろう。ハリーはその喜ぶ顔を想像して小さく笑った。 それにしても、ひとこと伝えておこうとアクセルに何度電話をしても繋がらないのが気になる。 ハリーはもう一度電話をかけてみるが、相変わらず電子音声の「電源が入ってない」というメッセージが流れるだけだ。それでは店の方にと思ったが、ハリーはネオ・トリアノンの電話番号を知らなかった。 まあ、アクセルもネオ・トリアノンも、どこにも逃げないだろう。ハリーはそう自分を納得させる。それに、突然行けばアクセルはさらに驚くだろう。その顔を見るのも悪くない。 ハリーは電光掲示板を見上げて列車の出発時間を確認した。発車は13時。まだ少し時間がある。それまで時間つぶしにコーヒーを飲める所はないかと、辺りを見渡している時だった。 チケット売り場で何やら揉めている声がして振り返った。 「お願い、お願い」 中年の女性が窓口の係員に何かを必死に訴えていた。それに対して若い係員が懸命に説明しようとしている。 「ですから、もう満席なんですよ。Nein……Non……わかります? ……困ったな」 「乗りたいのよ。乗らなければならないの。どうか、どうか」 「フランス語かドイツ語、話せませんか? すみませんがあなたの言葉はわからない」 言語の違いに係員は困惑していた。無理もない、女性はロシア語なのだ。 年は自分の母親と同じくらいだろうか。ロシアの寒い地域から来たのだろう。厚地のスカーフを頭から被り、大きな荷物を持っている。 赤の他人だ。自分には関係ない。早くどこかでコーヒーを飲んで早めにホームに行った方がいい。しかし──。 「どうしても今日中にパリに行きたいの。どうかチケットを売って。お願い……」 よほどの事情があるようだ。なのに、女性の訴えは理解されずに宙に取り残されている。ハリーはこれ以上放っておく事ができなかった。 「よかったら通訳しようか?」 二人の間に入ってそう申し出ると係員は心底ほっとした顔をした。 女性はパリに住む一人娘が結婚するのでどうしても式に出席したいのだと言う。夫に先立たれてから母一人、娘一人で寄り添って生きてきた。その娘が就職を機にパリに行き、この度素晴らしいフランス人男性と結婚する事になった。結婚式は今夜。娘の身内は母親だけだ。娘の幸せを見届けたいという気持ちの他に、自分が行かなければ親にも祝福されない嫁だと後ろ指をさされるかもしれない。そうならないようにという母の想いがあるのだ、と。 女性の話をハリーから聞いて、係員は残念そうに首を振った。 「パリ行きはどれも満席なんです。なにせクリスマスですし……。お役に立てなくて申し訳ないです、マダム」 ハリーが係員の言葉を伝えると、女性は顔を手で覆って静かに泣き出した。ハリーと係員は困り果て顔を見合わせる。可哀相と思うがこればかりはどうする事もできない。 ──アクセル……。 一瞬、アクセルの笑顔が頭の中をよぎった。そして、ハリーはポケットの中に大事に仕舞っていたチケットを取り出す。 「マダム、これを」 それを女性の手に握らせた。 「13時発だ。これで行くといい」 その途端、女性は大きく目を見開き激しく首を振る。 「だめよ……! これを貰ったらあなたが困る!」 「私はいい。これに乗って娘さんの幸せを見届けてきなさい」 女性の目から大粒の涙があふれ頬を伝った。彼女はハリーの胸に縋り付き、両手を震わせながら合わせた。 「ありがとう……ああ、ありがとう! 本当に感謝します」 「礼はいいから。そろそろ列車が到着するから急いで」 「あなたは天使様だったのですね……」 女性は敬虔なカトリック教徒なのかもしれない。真顔で天使と言われ、ハリーは苦笑するしかなかった。 やがて彼女は何度も感謝の言葉を繰り返しながらホームに向かう通路へと消えていった。 ガラス越しに一階のコンコースを見下ろしていた──。 吹き抜けの窓から降り注ぐ陽光の中、大勢の旅行者たちが行き来する。彼らが着ている服の色、引いているスーツケースの色、それらがひっきりなしに足元を流れていく。こうして二階から見下ろすと、それはまるでカラフルなビー玉のようだ。 このビー玉たちは目的を持って転がっているが、自分は目的地を失ったただの迷子みたいだ、とハリーは思った。 自分が乗るはずだった列車はまもなく発車する頃だろう。ほんの数分前と今とでは目にする景色の印象が違って見えるから不思議だ。 「またパリに行けなかったか……」 あさってにはワシントンDCに戻ってなくてはならない。欧州にとどまれるのは明日までだ。今日中にパリに着かなければもう時間切れとなる。 今となってはアクセルに連絡がつかなくてよかったとハリーは思う。行くと言っておいて行けなくなれば、アクセルはきっとがっかりするだろう。 それでも、あの女性にチケットを譲った事に少しも後悔はなかった。もしアクセルだったら、やはりチケットを差し出していただろう。自分は一瞬迷ったが、アクセルなら何の迷いも持たないはずだ。そういう奴なのだとハリーは断言できた。 ──さて、これからどうしようか……。 観葉植物の鉢周りに設置されたドーナツ型のベンチに腰掛け、ハリーは考える。いつまでもここに座っているわけにもいかない。行き場を失った以上、この街で一泊するしかないだろう。だが、クリスマスに慌てて探しても空いているホテルが見つかるだろうか。 携帯を取り出し今夜泊まれるホテルを検索してみる。空いてさえいればどんな安宿でも構わなかった。 「こんなにたくさんの人間、一体どこから湧いてどこに行くんだろうね」 突然、そんな声が聞こえてハリーは顔を上げた。声の近さからして自分に話しかけたようだが、右を見ても左を見ても誰も居ない。身をかがめて真後ろを見ると、背中合わせに座っていた老人が観葉植物の陰からひょっこり顔を出して微笑んだ。 「こんにちは。近くに座っても?」 いい、と言わなくても老人は円形ベンチを半周回ってハリーの近くに移動してきた。 「一人旅かい?」 「まあ、そんなところだ」 ハリーは人懐っこく話しかけてきた見知らぬ老人の顔を盗み見る。 ニコニコと笑う丸顔。白髪頭に無精髭。年は80前後といったところか。着ている服や全体の雰囲気から見てあまり裕福な印象は受けなかった。 初対面の人間を分析しようとするのはもうハリーの癖になっている。テロリストやスパイはいつも善良な市民に紛れているのだ。自意識過剰と受け取られるかもしれないが、諜報の世界に身を置く人間にとっては当たり前の事である。気安く接触してくる人物に対して、要注意人物か無害な一般市民かを見極めるのは重要だ。 この老人は後者だとハリーは判断した。何かの待ち時間で暇なのだろうか。少しのおしゃべりに付き合うくらいなら構わない。ハリーは携帯をポケットに仕舞った。 老人は先ほどの話の続きを語り始めた。 「みんな、クリスマスくらい家でゆっくりしたらいいのになぁ。昔は家族揃ってごちそうを食べたりプレゼント交換したり、一家団欒が当たり前だったものだけどねぇ」 老人の言い分にハリーは苦笑する。 「今は核家族化しているから仕方ないだろう。その一家団欒をするために家族の元に移動する人も多い。じいさんもこの駅に湧いて出てきた人間の一人じゃないか」 ハリーの言葉に老人は高らかに笑った。 「こりゃやられたな。たしかにその通りだ」 思わず老人の笑いにつられてハリーも微笑む。 「あんたも家族の元に帰るのか?」 だが、どこから来たのかわからないが老人は旅行者にしては軽装なのが気になった。見るからに普段着で、その上にコートを一枚羽織っているだけ。足元のバッグも小さなものだ。 「はは、私は独り者さ。仕事に向かうところだよ」 「そうか、それはご苦労だな」 「おにいさん、あなたも仕事かね?」 「仕事は終わってパリ旅行になるはずだったが列車に乗りそびれた」 ついさっきまで悲愴に満ちた胸の内を、この朗らかな老人にさらりと告げてしまえばなぜか気持ちが軽くなった。 「そうかい、気の毒に……。今日は列車に乗りたくても乗れなかった人は他にもたくさん居ただろうね」 「そうだな。フランス国鉄はこういう時期、もっと臨時列車を出すべきだ」 少しの沈黙の後、老人は言う。 「パリで待っている人が居たんじゃないかい?」 それに対してハリーは笑いながら首を振った。 「いや、そいつにはパリに行く事は言ってないから、このまま黙って帰国するだけさ」 「恋人かな?」 「……まあ、そうなのかもな」 「善い行いには良い結果が待っているものだ。あなたも諦めてはいかんよ」 老人の言葉にハリーは笑う。 「因果応報というなら、私はこの結果に見合う人間だ。善人ではない」 「やれやれ……なんとも謙虚な人だ」 そして背筋を伸ばしハリーと面と向き合い言う。 「そろそろ時間だ。あなたと話せて楽しかったよ。こんな年寄りの話に付き合ってくれてありがとう」 老人はねずみ色のコートの内ポケットから何かの紙片を取り出し、ハリーに差し出した。 「受け取りなさい。これがあなたの行いに見合う本当の結果だ」 それは13時30分発のパリ行き列車のチケットだった。ハリーは弾かれるように顔を上げ、声も出せないほど驚いて老人の顔を見つめる。 「急いだ方がいい。あと30分ほどで発車だ」 「だめだ、これは受け取れない。これがなかったらあんたが困るだろう」 さっきの女性と同じ言葉を言っていた。 「仕事に行くんじゃなかったのか? どうやって行くつもりだ」 チケットを押し返すと老人もハリーに押し返す。 「私の事なら気にしなくていい。実は友達が迎えに来てくれる事になったんだ。列車で行くよりもっと早く着ける。だから大丈夫だよ」 「いや、しかし……」 「自分を犠牲にして可哀相な母親を助けた天使様を、今度は私が助けたいのだよ」 「じいさん……!あんた……」 ハリーは驚いた。この老人は先ほどのやり取りを見ていたのだ。 「あなたは知らないようだが、あなたがした行いは誰にでもできる事ではないんだよ。この列車に乗って恋人に会いに行きなさい。その時、あの母親がどんなに嬉しかったかわかるだろう」 今度こそチケットがハリーの手のひらに置かれる。 「……ありがとう、じいさん」 諦めていたパリの街の灯りが、そこに住むバーテンダーの笑顔が、この手の中に返ってきた。 「さあ、もう行きなさい。今度は手放さないようにね」 「本当にありがとう。感謝する」 「あなたに神のご加護を」 ハリーは老人と握手を交わし、ホームへと歩き出した。 不思議な老人だった。一体何者だったのだろう。ほんの数分話しただけの行きずりの二人。見えない何かに背中を押された気がした。 ──待てよ……。 何か引っかかる……。わずかな違和感にハリーは足を止めた。あの時、老人はおかしな事を言っていなかったか。 『実は友達が迎えに来てくれる事になったんだ。列車で行くよりもっと早く着ける』 ──列車よりも早くパリに着けるだと? ばかな、TGVは世界最速の高速列車だぞ! 一体何に乗るつもりだ? それより早いのは飛行機だろう。だが、速度だけでなく搭乗する際の手間や到着駅の立地、パリ市街地への移動という事で考えると飛行機より早いくらいだ。それに、もしその友達が自家用機で迎えに来るなら、最初から駅に居る訳は何か……。 もちろん、ハリーを安心させるためについた嘘という可能性もある。いや、そうでなければおかしい。 ハリーは振り返った。だが、あのベンチに老人の姿はなかった。 「じいさん!」 360度、辺りを見回しても老人の姿はない。コンコースとは違い、このフロアはそれほど人が多いわけではない。また隠れる場所もない。なのに、どこにもいなかった。 ──俺は幻でも見ていたのか? だが、手の中にはチケットという老人と会った証がある。 「今日はクリスマスだからな……」 神や超常現象を信じないハリーが思い当たった、彼らしからぬ結論。ハリーは頭を振って自分を笑う。そして、それ以上深く考えるのはやめにした。クリスマスだから──もう、それでいいような気がした。 この事はアクセルに言うつもりはない。言ってもどうせ信じないだろう。 ──あんたにも神のご加護を、じいさん……。 そして、もう振り返る事なく、ハリーはその場を後にした。Fin
善い行いには良い結果が待っている。きっと二人とも善人なのだと思います。
[2019年 12月 25日]