夜明けの空を見ていた――。
薄い雲に隠れていた太陽が、雲の切れ間から顔を出し、辺りに燦然と輝く光の粒子をばら撒く。それはこの部屋の中にも届き、俺を暖かく照らした。
開け放った東の窓から、波の音と潮風が流れ込んでくる。
カモメたちが俺を誘い出そうと鳴いている。
せっかくだが今はまだ無理だ。枕から頭を上げる事さえ億劫なんだ。もう少し待てよ……。
背後の男が身じろいだ。
片肘を立てて上体を起こしたのは見なくてもわかる。長い腕が回ってきて後ろから抱き込んできた。でかい手が俺の肩から腕へと滑っていき、手の甲まで辿り着くと指を絡ませ握り込まれる。奴は肩口にひとつ、首筋にひとつ、頬にひとつ、小さく唇を落としていった。
「――可笑しな夢を見たよ……」
ここで初めてアクセルは語りかけてきた。
波の音をBGMに、心地よい静かな声。
「あんたが俺のためにメシを作ってくれんの……」
言葉を切ってククッ、と笑った。
「それがさ、不味いのなんのって。スパゲティは茹で過ぎでフォークに巻き付かないくらいでさ。しかもソースもなしで、茹でただけのやつ『食え』って……ひでぇの」
「勝手に失礼な夢見るな」
アクセルと一緒に笑って、そう言ってやった。
こいつは大丈夫だ。もうあんな夢は見ないだろう。

「――消えないでいてくれてありがとう……」
しばらく沈黙した後の、唐突な呟き。意味はすぐわかった。
「今……目が覚めた時、あんたが俺の腕の中に居て……涙が出るほど嬉しかった……」
8ヶ月前――自分は最後の朝、眠っているアクセルを置き去りにしたのだ。かわいそうな事をしたと思う。なのに、こいつはそれに対して恨み言を一度も言った事がない。
――胸が痛い……。
俺は謝罪の代わりに、健気な男の絡めた指を一度だけ強く握ってやった。
「そういやさ、ひとついい事を思い付いたんだ」
気分を変えて嬉々とアクセルが言う。
「もしも、戦場で俺たちが会ってしまったらどうする?って話……あんたは『先に撃て』って俺に言ったけど、もっといい方法があるよ」
俺は思わず振り返った。
「お互い見なかった事にすりゃいいだけじゃん?」
双方、口元に指を当てて『シーッ!』と沈黙を申し合わせた後、微笑み合ってその場を静かに立ち去る。
なぁんだ!と思った途端、笑いが込み上げてきた。
「そりゃ確かに名案だ」
「でしょ?俺、あんたを撃つのも、あんたに撃たれるのも御免だし」
まったく、真剣に悩むのが馬鹿みたいだ。こんな簡単な解決策を、アクセルに教えられる。
案外、生きる上で本当に大切な事は、全部こいつが知っているのかもしれない……。

仰向けになった俺の唇にひとつキスをして、アクセルは胸に顔を乗せ言った。
「ね、今日買い出しに行かね?」
「もう食料が底を尽いたか?」
「底は尽いてないけど、パンがもうない。あと何か魚と、フルーツと……花」
「花?そんなもの一体どうする気だ?」
「昨日の岬に、花を持ってもう一度行こうよ……」
そんな事を言われて心底びっくりした。
昨日、慰霊碑に花を持って行かなかった事に俺が悔いていたのを、アクセルはちゃんと見ていたのだ。おまけに――。
「あんたの奥さんにちゃんと自己紹介させて欲しい」
まったく、お前という奴はどこまで……。
不覚にも、胸に甘く痛い何かが込み上げてくる……。だが俺はそれを何とか抑え込んだ。
「向日葵がいい……」
「献花に向日葵?……あんま聞かないけど、いいかもね。今がシーズンの花だし」
そう言って向日葵みたいに笑うアクセルの頭を撫でてやった。

『少佐ともあろう人物があんなガキの傍に居るのはなぜだ?』

ゾーイに出されたなぞなぞに、今なら少し答えられるかもしれない。……いや、答えらしい答えはきっと出ないだろう。おそらく理屈ですべてが片付く事ではないのだ。
少なくとも、囚われたのではなく、逃げられないのでもない。花が日光を求めるように、自分がこの男の傍に居たいのだ。
アクセルが放つ陽光を受けるたび、俺は確認する事が出来る、自分はまだ歩けるんだ、と。
そして同時に、この男が生きているこの世界を守りたいと思う。矛盾に満ちた人殺しの、わがままな夢想だと、わかってはいるけれど――。

「今晩、何食う?」
アクセルの問いかけに、俺はそうだなぁ、と考える。
今の俺たちにとって大切なのは、世界の平和でも起きてもいない米仏戦争の心配でもない。――まずは今日の晩メシの献立だ。




南風に顔を向けて目を閉じた。
申し訳程度にボタンを留めた前立てを指で引き、風をシャツの中に迎え入れる。胸元から入った風は火照った肌を撫で、背中に抜けていった。

風と戯れて、俺は身体を失くす――。
意識が砂浜を離れ、カモメが舞う高みまで上昇していった。
地上ではぬるかった風は5メートル高くなるごとにどんどん冷たくなっていく。
風が怒っているように耳元でうなっている。
顔を空に向け、もっと高く!もっと……。
真下に見えるのは……あれは……。

「おーい!ハリー!」

ハッ――と我に返った。
名前を呼ばれて意識が地上に引き戻される。
声の方を振り返ると、アクセルが何かを太陽にかざしていた。
「ちょっと見てよコレ!綺麗な石見つけた!」
そう言いながら走ってきた奴の手のひらの中に、小さな塊りがふたつ。そのうちのひとつを摘まみ上げた。コインくらいの大きさの、ミント色した半透明のそれ。
「石じゃなくて、これはガラスだ」
いびつな楕円形で平たい。色からするとソーダ瓶か何かだったかもしれない。
「うっそ!これ、ガラスなの?丸っこいし、ガラスみたいにキラキラしてねえよ?」
「波に洗われているうちに、こんな風に角が取れて丸くなるんだ」
「へー、そうなんだ……。俺、てっきり何かの宝石の原石かと思った……。でも綺麗だね。持って帰ってペンダントに加工しようかな」
自分の手の中にあるガラスを見つめた。
あの夜、アクセルが俺のために作ったカクテルを思わせる。ブルーキュラソーの青……。

“JE T’AIME”――。
心優しいバーテンダーが、口に出せなかった精一杯の愛の言葉。

「……これ、ひとつくれないか?」
つい、らしくない事を呟いた。なぜかどうしても欲しくなった。
自分の呟きに自分で驚いたが、アクセルも同様だったらしい。一瞬目を丸くしたと思ったら、次の瞬間には酷く嬉しそうに笑った。
「もちろんいいよ。ペンダントにする?」
「私はアクセサリーなんか付けん」
「じゃ、携帯のストラップかキーホルダーは?このままだったら失くしちゃうぜ?」
パリに帰ったらアクセサリーショップのダチに頼んで加工させる、と言うアクセルに全部任せてガラス片を手渡した。
「なあなあ!おそろいの物持つのって初めてだね!何か良くね?こういうの。ラブラブで」
また、碌でもない事をコイツは言う。
「いい年した野郎が“ラブラブ”なんて言うな、あほ!」
「冷てェ……」
「――まったく、私が誰かとそろいの物を持つなんて生涯最初で最後だろうな……」
そう呟いて歩きかけた時、ふいに腕を掴まれた。
振り返るとアクセルの優しい瞳――。
ゆっくり引き寄せられるまま、奴の腕の中まで導かれて、柔らかく抱き締められた。
慈しむように、アクセルは俺の額にそっと口付ける。そして顔を傾けて両の頬に。ことさら慎重に瞼に……。
カラスの濡れ羽のような見事な黒髪が俺の額を撫でる。まつ毛が頬をくすぐる……。
そして、そっと優しく唇を塞がれた――。
奪うでも誘うでもなく、ベッドに引き込む手段でもない。優しさに満ちた口付け。
瞼を閉じても感じる陽の光と、潮の匂い、そして波の音とカモメの声。それらを感じながら、俺たちは相手を確認し合うように舌を絡めた。
潮風の中のキスは海の味がした――。

「――結婚しよう」

唇を離した後、アクセルが言った。
一瞬、何を言われたか理解出来ず固まる。するともう一度、奴はあらたまって言った。
「俺と結婚してください……」
……正直、ツッコミどころが満載だ。
馬鹿か?とか、ふざけるな!とか、あるいは無言で蹴り倒すとか、さまざまなリアクションが頭をよぎる。だが、奴の顔を見てそのいずれも出来なくなってしまった。
アクセルは口を真一文字に引き結んで、顔を真っ赤にさせていたのだ。
どうやらこの男は、本気で俺にプロポーズをしているらしい。
そんな顔を見て、喉まで出かかった「馬鹿!」という言葉は言えなくなった。

「ああ……」

仕方なく、そう言って頷く。
――その時のアクセルの顔は、ある意味見ものだった。目を大きく見開き、口をあんぐり開けて俺の顔を覗き込む。震える手が縋り付こうとするようにおずおずと伸ばされる。
「ほ……本当に……?」
「冗談に決まってるだろ、馬鹿」
間髪入れず答えると、一瞬の沈黙の後、奴の身体はその場に崩れ落ちた。
「何が嬉しくて男のお前と結婚しなきゃならないんだ!」
アクセルは、まだ大の字に寝転がって死んだふりを続けている。
それを見下ろしながら、俺は煙草を咥え、風を避けながら火を点けた。それでもまだ奴は生き返らない。俺はだんだんイライラしてきて声を荒げた。
「だいたい、ウェディングドレスはどっちが着るんだ!?気色悪い!」
「問題点はそこかいっ!」
弾かれたようにようやくアクセルは起き上がり、俺に負けじと怒鳴り返してきた。
「あーあ、決死のプロポーズも女王様にかかっちゃ木端微塵。いたいけな純情青年のハートはズタズタ……」
奴は立ち上がって身体中に付いた砂を手で払い、そんな風に大きな独り言を言っている。
「俺、全然気にしないぜ?嫁さんが男で年上で再婚でも。あんたに“子供を産んでくれ”なんて無茶な事も言わねえし。実際、ハリーと結婚できたら俺はヨーロッパ一の幸せ者よ?極上美人で可愛くて、滅茶苦茶強くて、セックスなんかもうサイコー……って、おい!」
こいつの戯言に最後まで付き合ってやるのが馬鹿馬鹿しくなって、俺は歩き出した。
「待てって!……ハーリィー!」
背後からアクセルが砂を踏み鳴らして走り寄って来る。奴はジャンプして俺の肩を組む。その勢いで引き倒されそうになってムカついたが、我慢してやった。
大人しく肩を抱かれてやって波打ち際を並んで歩く。
「俺、幸せよ?」
「そうらしいな」
「ハリーは?」
「そこそこにな」
「俺の事、愛してる?」
「そこそこにな」
「――ったく!」
小さく舌打ちして、奴は笑った。

お前が笑うたび、俺はいつも胸が痛くなる。
わけもなく、なぜか泣きたくなる。
どうか、そうやって笑っていてくれ、アクセル。
そうすれば、俺は何度でもここに戻って来る事が出来る。
たとえ俺が、どんなに遠い場所に居ても、きっと……。

風が吹いて雲が流れた――。薄い雲のベールで柔らかな光だった太陽は、雲から姿を出して強烈な光線を放つ。この海岸のすべてが強いコントラストを持ち始めた。
アクセルが俺を見て、あ!と目を見開く。
「ハリーの髪……キラキラして、すげー綺麗!」
光の中、向日葵のような明るさでコイツは屈託なく笑う。
「あんた、本当に太陽みたいだな……」

――俺が太陽だって?

「お前は本当に馬鹿だな……」
「えーっ!何でだよ!?」
褒め言葉に“馬鹿”で返されて納得がいかない男に「何でも、だ」と答えて笑ってやった。

こいつは何もわかっちゃいない。

「あの宝石の原石さぁ……」
「だからガラスだ、馬鹿」
「やっぱ、チョーカーとかにしたら?きっと凄く似合うよ」
こいつが言うならそれも悪くないかもな――などと少し思う。
「エンゲージリング代わりだと、やっぱ身に付けるものの方がいいでしょ?」
「お前……」
呆れて、可笑しくて、笑いが込み上げてくる。
「拾ったガラスの欠片で結婚を申し込むとは、ずいぶん安上がりなプロポーズだな」
「あ、いや、えーと……」
「私の価値は、ダイヤモンドなんかよりガラスの欠片なんだな?しかも落ちていたやつ」
「ええ?ち、違うってー!」
「ハリーを釣るにはそれで充分だと……」
確かに欲しがったのは自分だが……。
「もう勘弁してよー、ホントそんなんじゃないって!本来、あんたを嫁さんにするにはダイヤ1000カラットでも足りないってのは……」

「まあ……結局、それで本当に釣られた私も私だがな」

「――えっ?」

アクセルが足をぴたりと止める……。俺の肩から奴の腕が滑り落ちた。
立ちつくしているアクセルをその場に残して、俺は振り返らず先を歩いた。
唇の端が自然と上がる……。
後ろから絶叫にも近いアクセルの声が飛んできた。

「……い、今!……今っ!何て言ったのっ!?」


自分こそが太陽なのだと、いつかお前は知るだろうか――。
Fin

105,201文字・・・。長い話になりました。いたらぬ所だらけですが、前作「いつか辿り着く場所」とこれがこのサイトの二人の基本になります。ここまでお付き合い下さった方、本当にありがとうございました。軍事関係のアドバイスをしてくれた兄にも感謝します。またカクテルに関して、花崎一夫・著「カクテル・ハンドブック」(永岡書店)を参考にさせてもらいました。
この物語に登場する戦争、テロ事件、航空機事故はフィクションであり、実在の軍事組織、空港等とは関係ありません。

[2009年 7月 26日]