12:00 ステファン

「30分ほどで戻る」
 運転手にそう言い置いて私は車を降りた。晴天の冬空。正午の強い日差しに一瞬目がくらむ。
 久しぶりに訪れたシャンゼリゼ通りは観光客で賑わっていた。世界一美しいといわれるこの通りのイルミネーションを見ようと、夜になればもっと人出が増す。
 花の都パリでクリスマスを過ごす──。それが出来るのは経済的に余裕のある者たちだけではあるが。
 会社は昨日からクリスマス休暇に入ったが、私は最後の残務処理のため午前中も出社していた。その帰り、車を待たせてパリの中心部を一人歩く。マリーにクリスマスプレゼントを買うためだ。
 毎年12月24日の夜、モンティエ家は一族が集って食事会をする。父母の兄弟姉妹、その子供たち、孫たち、妹家族、そして親しい友人たち。それはもう何十年も前から続く我が家の重要な伝統行事だ。
 ここ数年仕事を理由に欠席していた姉のマリーが来ると聞いたのは昨夜だった。おそらく母に、たまには顔を出すようにとくどくど説得されたのだろう。彼女が屋敷に来るのはいつ以来だろうか。いつもはカードだけ贈っていたが、直接会えるのであれば是非プレゼントを手渡したいと思った。

 車を降りて2ブロックほど歩いた仲通り、贔屓にしている文具屋に入った。鍵のかかったショーケースに並ぶ上質の筆記具。店の主人のアドバイスを聞き老舗ブランドの万年筆を選んだ。美しいフォルムと書き味の良さに満足して支払いをする。クリスマス用にラッピングした万年筆を受け取ると私は店を出た。
 身を飾る事に無頓着なマリーは宝石の類いには興味を示さない。だが万年筆なら、研究一筋の学者である姉は喜んで使ってくれるだろう。彼女の笑顔を想像すると私は心から幸せな気持ちになった。
 その時、マリーの笑顔に彼女によく似たハリーの顔が重なった。母親以上の端正な面立ち、私を狂わせるサファイアの瞳……。唐突に甘切ない記憶が去来して胸が締め付けられた。思わず雑踏の中で立ち止まる。

──今夜、自分が最も会いたい人は、本当は……。

 ハッと顔を上げたのは迫りくる不穏な気配を感じたからだった。
 雑踏の中、こちらを歩いてくる若い男。近付くにつれ男の歩調が速まっていく。そして突然小走りになったかと思えば、すれ違いざまに肩に体当たりされた。──コートの内ポケットに手を入れられたのがわかった。
 突き飛ばされて倒れそうになった体勢を立て直した時、男は全力で走り出していた。コートの上から胸に手を当ててみれば、案の定財布を抜き取られている。現金は大した額ではないが、財布にはクレジットカードと会社のIDカードが入っていた。
「待てっ!」
 人の波をかき分け、縫うように男が走っていく。私もその後を追うが通行人に阻まれ少しずつ男との距離が空いていった。
 その時、突然男が転倒した。通行人の一人がすれ違いざまに走る男の足を払ったのだ。その間にようやく私は倒れた男の元に追い付いた。アスファルトの歩道に前面から転倒して財布を盗んだ男が呻いている。その顔を見れば、まだ15、6歳くらいの少年だった。
 その傍らに、足を払った男がポケットに手を突っ込んだまま冷めた目で少年を見下ろしている。肌も髪も目も色素の薄い、痩せた若い男だった。
 男は少年の襟首を鷲掴むと無理やり立たせ、平手でパチンと頬を叩いた。
「ケチな真似してんじゃねえよ。何やってんだてめえは」
 刺し貫かれるような眼光、笑いを含んだ静かな声色は狂人を思わせる。男は、見ている私までもすくみ上がってしまいそうな殺気を漂わせていた。
「おしめも取れねえネンネのくせに生意気にかっぱらいなんかしやがって、ああ?」
「ひいっ!ルカさん、勘弁してくださいよう!」
 パシパシと数度頭を叩かれ、腕で頭を庇いながら少年は泣きそうな声を出した。
「今度こんなつまんねえ事したらその指へし折るからな。わかったらとっとと消えろ」
 男は少年から財布を取り上げると突き飛ばすように襟首を離した。少年は怯えた目で一度だけ振り返ると一目散に走り去っていった。
 男は私に向き直り、ほらよと言って財布を手渡した。すかさず中身を確認する。現金もカード類も無事でホッと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、君のおかげで助かった。これは少ないが礼だ」
 財布から紙幣を二枚抜いて彼に差し出した。
「いらねえよ」
 固辞、というより拒絶だった。困惑する私を見て彼はせせら笑うように言う。
「あんたが思っているほど金には困っちゃいねえんだ。感謝するなら俺にじゃなく、俺がたまたま居合わせた自分の運に感謝するんだな」
 私はあらためて目の前の男をまじまじと見た。まともな素性でない事は明白だ。財布を盗んだあの少年より数倍も危険な匂いをさせている。透明な水色の瞳はどこかシベリアのオオカミを連想させた。どうやらあの少年とは知り合いらしい事から、二人はグルになって私を陥れようとしているのかとも思った。だが、そうではないらしい。
 「この街には二種類のクズが居る。頭のいいクズと悪いクズだ。残念な事に後者の方が多い。そいつらは身の程をわきまえないで人に食い付いてきて、挙句の果てに野垂れ死にだ。あんたもぼんやりし過ぎだぜ?真っ昼間でももっと危機感持てよ。パリは俺みたいな『親切なクズ』ばっかじゃねえからな」
 彼は鋭い牙を持っている──そう感じた。だがそれは普段深い場所に納められていて、そう簡単には人に向けない。危険な狂気、それが剥き出されるのは今ではないのだろう。
「覚えておこう。ありがとう」
 私が礼を言うと彼は軽く手を上げて去っていった。

 牙を持つ者、持たぬ者──。すべての者に神の祝福は用意されている。それに手を差し出すか、背を向けるか。私は神に救いを求めながら背き続けて生きてきた。自分は紳士の皮をまとったケダモノなのだという自覚はあった。

 私の姿を見とめると、運転手が車から出てドアを開けた。後部シートに身体を預ける。
「待たせた」
「社長、真っ直ぐお屋敷に向かいますか?」
「そうしてくれ」
 窓の外の流れゆく風景を見ながら再びハリーの事を考えた。
 今年のクリスマスも彼に会えない。多忙なハリーが予定を立てて大西洋を越えて来るのは困難だろう。カードを贈り合うだけの甥と叔父のクリスマス。それでも彼と繋がっている事を嬉しく思う。
 今夜はマリーに会える。会えばハリーの話になるだろう。もしかすると私が知らない彼の近況について何か聞けるかもしれない。そう思うと悦びに心が震えた。
 神の子の生誕を祝いながら甥への恋慕に身を焦がす。自分の罪深さに、私は目を閉じた。

 私の中にもたしかにある牙を、あのオオカミのような男は見抜いただろうか。