ふわり――と、シプレの香りが鼻をかすめて思わず顔を上げた。 枝をはった樹木、青々とした草、木肌に生えた苔。静かな空気を震わせ、鳥が鋭く叫んで飛び立つ。枝が揺すられて木の葉の先から幾滴もの雫が散る。霧が立ち込める、雨に濡れた森の匂い……。 回転扉が回る度、人の出入りと共に外から湿った夜気と雨の匂いがロビーに吹き込む。濡れたアスファルトの匂いと車が水を跳ねる音。香りの出所はわからない……。 「社長」 後ろから秘書が声をかけてきた。 「授賞式は1時間遅れる事が決定したようです」 空港のセキュリティシステムにトラブルが生じ、飛行機を利用した出席者の半数が空港で足止めをくっている。その中には受賞者も主催側の関係者も含まれているともなれば当然の決定であろう。 時間までどうされますか?と、秘書が目で問いかけている。 「私はこの辺りか、そこのバーで時間を潰しているから、何か変更があったら教えてくれ」 わかりました、と彼は告げ、授賞式会場となる2階の大ホールへと戻って行った。 9月も末になり、パリはここ最近雨の日が続いている。長いバカンスシーズンも終わり、人々の浮かれ気分もすっかり落ち着いた頃、この街はひと雨ごとに秋の気配が濃くなっていく。このホテルに出入りしている客たちのレインコートを見ながら、私は秋の訪れを感じていた。 バカンスシーズンが終わると食品業界はクリスマスに向けて動きが慌ただしくなる。我が社もすでにフルスピードで走り出している。そんな目の回るような忙しさの最中、社長である自分がホテルのロビーで時間潰しをしているのは、授賞式に出席するためだった。 我が社は今年、フランス食文化振興会の企業賞を受賞した。ノミネートされる事自体が難しいとされる栄誉ある賞だ。長年、美味くて安全な食材を食卓に提供し続け、フランス料理を縁の下から支えた努力をヨーロッパ中が認めてくれたのだ。 それだけではない。会社の業務とは別に、私は個人の趣味で本を書いていた。自分の足でフランス各地を食べ歩きし、書きためた食にまつわる旅行記だ。若年層にも面白く読めるよう写真とイラストをふんだんに載せたエッセイ本は、いつの間にかシリーズ化しもう5冊にもなっている。その本がフランス料理の魅力を国内外の老若男女に伝えたと評価され、特別賞を受賞した。 フランス人に生まれて半世紀を超え、好きなフランス料理に関わる仕事をして生計を立ててきた。好き勝手な文体で本を書き、たくさんの人がそれを読み、この国とこの国の料理に興味を持ってくれる。好きな事をやっているだけの自分を人々は褒め称える。人生は何が起こるかわからないものだ。 先程からホテルに入って来る客がロビーの奥のメインダイニングへと消えて行く。そろそろディナーの時刻だ。思えば、この格式高い名門ホテルのレストランに卸している食材も我が社が扱っているのだ。まさか、この憧れだったレストランの仕事を手掛ける事になろうとは、人生は本当に何が起こるかわからない。 ――その時、またシプレが香った。 今度こそ私は匂いの在りかを必死に追った。この無機質な空間に森の香りなど……。たんなる気の迷いか、外の雨の匂いか。誰かホテル客の付けている香水なのだろう。だが、何処か懐かしい、そして忘れ得ぬ苔むす森の……。 そして、人々の流れが途切れた先に、黒いコートを着た男の後ろ姿を見た。 この場のすべての音がかき消える。 長身痩躯、凛と背筋を伸ばした立ち姿、コートの黒に映える金色の長髪はかなり人目を引く。にもかかわらず、その姿に気が付かなかった。まるで彼が魔法を使って気配を消していたかのようだ。 その魔法使いのような男が、ふと顔を上げた。私の視線を感じたのかもしれない。男がゆっくり振り返る。色を感じさせない、細面の顔。あまり顔を人に見られたくないのだろうか、黒いサングラスをかけていた。 自分はその奥にある瞳の色を知っている……。 骨ばった指が伸びてサングラスが外された。記憶と寸分違わぬダークブルーが現れ、私を見て穏やかに細められた。 キュイーッ!――と、頭の中で鳥の鋭い鳴き声が森にこだました……。 私の罪深い戯れに驚いて、木漏れ日の中に飛んで逃げた小鳥のような少年。振り向いた瞳は愛らしく怯えていて、彼はまるで無垢で美しい野生動物みたいだった。だが……。 翼を手折られ、男の腕に閉じ込められながら、涙に濡れたダークブルーが私を見上げる。 『これがあなたの望みなの?ステファン……』 ――ハリー、今でも愛していると言ってくれたなら、私は今此処で死んでも構わない。