「――天地の造り主、大いなる全能の神。主イエス・キリストによる永遠の命への復活という希望のもと、御許に召された兄弟の身体を今、大地に委ねます。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。主は与え、主は取り賜う。主の御名において平和を与え賜う。――アーメン」
   アーメン、と全員が復唱した中、上の空だった私は一拍遅れて呟いた。
「アーメン……」
   7月――祖母のエリザベート・モンティエが90歳で死去した。モンティエ家のゴッドマザーでモンティエ商会の会長。もともとモンティエ家は貴族の家柄だったが、祖父母は畑を作り八百屋を始めた。亡き夫と共に小さな八百屋から会社を此処まで大きく育てた苦労人だった。あの厳格な父を育てた祖母は、父以上に厳格なフランス人女性だ。父の妻、私の継母は随分この名門家の姑に厳しくあたられたらしい。
    ロープをそろそろと伸ばし、墓穴に棺を納めると司祭が十字を切った。あちらこちらからすすり泣きが聞こえる中、棺に土がかけられていく。最後のお別れだ。
    だが、こんな時なのに、私の視線は先程からずっと斜め前に居る参列者に釘付けになっていた。
――美しい少年が居た。
    ハリー・ブライアント。腹違いの姉マリーの一人息子。つまり私の甥だ。最後に会ったのは彼が14歳の時だったろうか。あれから3年近く経つから今年で17歳になるはずだ。すっかり大人っぽくなっていて驚いた。黒いスーツにネクタイという喪服姿のせいでよりいっそう大人びて見えるのかもしれないが、何よりその美貌に目を奪われた。
   賢そうな額、憂いを帯びた目元、細い鼻筋、華奢な口元。黄金の髪はモンティエの血筋ではない。父母も祖父母も、私やマリーにしても金髪ではないのだ。おそらくブライアントの家系なのだろう。そして肌理の細かい肌。それはどんな手触りだろうか……。彼の頬にそっと指先を滑らせる自分を想像したところで、私は我に返った。
――馬鹿な!こんな時に何を考えているんだ……!
   彼は隣に立つ母親を気遣うように、顔を覗き込んで何か話しかけている。美しいだけでなく、母親思いの優しい子なのだ。最愛の姉の宝物。だが同時に、私から姉を奪ったアメリカ軍人が遺した一粒種でもある。
   葬儀の間、私はこの少年から目が離せなかった。



マリーとゆっくり話が出来たのは、葬儀の一切が終わってモンティエの屋敷で一息ついた頃だった。屋敷に帰ると父母は可愛い孫のハリーを離さなかった。そのまま年寄りの相手をハリーに任せ、マリーは私にイチゴ摘みを手伝ってほしいと言ってきた。 屋敷の裏庭の家庭菜園。年寄りの趣味にしては少しばかり広過ぎる畑だが、モンティエの食に対するこだわりはこんな所にも感じられる。自然が生み、人間が愛情を持って育てた旬の野菜はいかに美味いものか。先代である祖父の口癖だ。八百屋だった祖父らしい言葉。様々な食材を扱っているモンティエ商会だが、野菜がこの家の原点なのかもしれない。 今年のイチゴは粒ぞろいで豊作だわ、とマリーは少女の顔で喜んだ。 「あなたとこうしてゆっくり会うなんていつ以来かしらね?ステファン」 イチゴを摘む手を休めず、マリーがそう言って微笑む。 「同じパリに住んでいるんだから、もっと頻繁に遊びに来てくれたらいいのに」 「冬になったら少しは暇になるわ」 「まるで、自分の姉を大学に取られたみたいだよ」 並んでイチゴを摘みながら非難混じりに愚痴を言うと、マリーは困ったように笑った。 マリーはパリ大学で、生物学の教授になったばかりだった。研究にかかりきりで、実家はおろか、自分のアパートにもあまり帰ってないと話に聞く。 「よしましょうよ、ステファン。久しぶりに会ったんですもの、お小言はたくさん」   仕事のし過ぎを私に咎められそうになって、マリーは哀願するように釘を刺す。そんなに綺麗な顔で、悲しそうな目でお願いされては、私はもう降参するしかない。 「ねえ、覚えてる?子供の頃、私たちよくこの裏庭で遊んだわよね」 「もちろん覚えてるさ。鬼ごっこしていて畑に入ってしまって、豆の苗を踏み荒らしておじいさまに叱られたり、君が小鳥の巣を覗こうとして木に登って下りられなくなったり」   幸せだった子供時代を思い出し、いかにマリーはおてんばだったか、いかに自分は怖がりで泣き虫だったか、語り出せば記憶たちは次々に湧き出てくる。少しも色褪せず、それらは甘くこの胸を揺さぶる。忘れるなど、どうして出来よう。 私を産んだ母は、父ジャン・クロード・モンティエの愛人だった。6歳の時母が死に、身寄りのない私はモンティエ家に引き取られた。父親としての情だけでなく、モンティエ家には跡取りとなる男子が居なかったという事も愛人の子を引き取る理由だったと、私は後に知った。 継母となったカトリーヌ・モンティエは、夫の愛人の子を愛するはずもない。酷く虐められたりはしなかった代わりに避けられ続けた。無理もない。私という存在は、夫が自分を裏切った証なのだ。言葉のひとつもかけてはくれない新しい母、仕事で留守がちな父、突然やってきた幼い少年の扱いに戸惑い、ぎこちなく接する使用人たち。私はこの屋敷の中でいつもひとりぼっちだった。 そんな孤独を救ってくれたのがマリーだった。白い肌、バラ色の頬、大きな緑の瞳、柔らかくカールしたブルネットの髪。マリーは人形のように愛らしい少女だった。私は初めて会った日から3歳年上の実の姉に恋をしたのだ。 当時9歳の少女は新しく出来た弟の私を可愛がってくれた。母親が違うなど、幼い子供にとっては関係ない事だ。冷たい継母の態度が悲しくて一人裏庭で泣いていた私を、マリーは慰め、遊びに引きずりまわし、何故自分が泣いていたのか忘れるほどに二人で笑った。成長するにしたがって私は明るく社交的な青年となったが、今あるのはすべてマリーのおかげだ。 マリーこそ最大の理解者、唯一の味方、ただ一人愛した女。彼女こそ私のすべて……。年頃になってマリーはいっそう美しい女に成長した。少女への淡い私の恋心は深い愛へと変わっていった。 『マリー、君を愛しているんだ。一人の女として』 『私も愛しているわ。でも、それは弟として……。私たち、血の繋がった姉と弟なのよ』 マリーは私の愛を受け入れてはくれなかった。そればかりか、彼女は他の男に恋をしたのだ。しかも男はアメリカ人。男は遠い外国へと私のマリーをさらって行ってしまった。――マリーは私を捨てたのだ。 「君は寂しくないの?一人で……」   ぽろりと、そんな呟きが口をついて出た。マリーが結婚したアメリカ人は数年後、妻と息子を置いて亡くなったのだ。そのため、ハリーが大学の寮に入ると同時に、マリーは単身フランスに戻った。子供からも離れ独身に戻った彼女は、だが新しい恋をしていない。 「寂しくなんかないわよ」   イチゴを摘む手を止めて、マリーはそう言うと微笑んだ。 「大学の方が忙しいし、アメリカに残したハリーの事も何かと心配だし」 「そういう意味じゃない……」 私がそう言うと、マリーは視線を落として呟いた。 「夫は……リチャードは、私の心に生き続けているの。他の誰かだなんて、無理だわ……」   私がどういう意味で言ったのか、本当の意味をやはりマリーは知らずにいる。私が、彼女の新たな恋を望んでいると、まだ女ざかりの彼女の未来を心配していると、マリーはそう信じている。   こんなに近くに居ても、マリーには決して手が届かない。マリーは今でも私が愛している事を知らないだろう。あの日の告白は、幼さ故の勘違いとして扱われてしまったのだ。彼女の中にリチャードというアメリカの軍人が生きている限り、私が想いを告げても報われる事はない。私の愛は行き場を失って今も彷徨い続けているのだ。 ――私の美しいマリー。私のすべては君のものだというのに、君はその心のひと欠片も私に与えてはくれない。こんなに愛しているのに、そんな私を君は捨てた。名前の通り聖母の如く慈愛に満ちている君は、悪魔のように残酷だ。何処にも辿り着けない想いを抱えて、私は死ぬまで君を愛し憎み続けるのだろうか。君が憎いよ、マリー。君を奪えたらどんなにいいだろう。めちゃめちゃに抱いてしまえたら、どんなに……。 「お母さん」   突然、後ろで声がして慌てて振り返った。 「ハリー、こっちへいらっしゃい」  母親に手招きされて、少年は遠慮がちに歩み寄ってきた。 「ステファン、ハリーに会うのは久しぶりよね?」   そう言われてハリーの顔をあらためて見る。 間近で見るハリーの美しさに軽い眩暈すら覚えた。本当に、何と綺麗な少年に成長したのだろう……。とりわけ、このサファイアのようなダークブルーの瞳に引き込まれそうだ。ほっそりした顎は母親に似ている。 「やあ、ハリー。すっかり大きくなって驚いたよ」 「ステファンはちっとも変ってないね」 こちらが差し出した手を握り、少年ははにかんで微笑んだ。 「おばあさまが呼んでいたよ」 「わかったわ。ハリー、ステファンを手伝ってあげて」   そしてマリーは、夕食の時に会いましょう、と私に言葉を残し屋敷に戻って行った。 「ところで、こんなにたくさん摘んでどうするんだい?」   マリーの後ろ姿を見送って、籠いっぱいのイチゴに目を落としハリーに問いかけた。 「デザートにイチゴパイを作ると言っていた」 「マリーが?」 「俺も手伝う事になっているらしいよ、いつの間にか」 「君がお菓子作りの手伝い?そっちの方が驚きだ」 「だろ?俺なんて猫の手にもならないのに」   可笑しそうに笑うハリー。何の邪気もなく、傍に居る者を暖かい気持ちにさせる可愛らしい笑顔。そんな彼が眩しくて堪らない。   とにかく、イチゴは籠二つに山盛り必要らしく、足りない分をハリーと摘む事になった。 「大学は楽しいかい?」   ハリーと向かい合って作業の手を動かしながら、学生生活について訊いてみる。 「楽しいよ。でも友達はみんな年上だから、俺はいつも子供扱いされるんだ」   17歳にしてハリーは大学3年目になろうとしている。同年代の友人たちが高校に進学する中、彼は飛び級で大学に入ったのだ。この頭脳は学者である母親ゆずりだろうか。だが、彼は母親と同じ道を目指しているわけではなさそうだ。専攻は国際政治学。私ですら頭が痛くなるような難しい学科を、ハリーは自ら選んだのだ。  きっと彼には、将来目指している何かがある。15歳にして大学に入ったのは成り行きではあるまい。マリーも息子に自分の考えを押し付けるような母親ではない。ハリーは自分の意思で、人より格段に早いステップで大人になる準備をしている。14歳から……いや、それ以前からだろうか。同じ年頃の少年たちに比べまだ幼く見えるこの子が、子供らしい楽しみを捨ててまで選んだ道とは何だろう。 「たまには女の子とデートしてるかい?」   私がそう訊くと、ハリーは一瞬きょとんとしたかと思ったら、顔を紅潮させて笑った。 「ごくたまに……。でも、読まなきゃならない本がたくさんあって、そんな時間ないよ」 「勉強も大事だが、遊ぶ事だって人間には必要だぞ?」 「ステファンはいろんな遊びを教えてくれたよね」   早くに父親を亡くして周りに大人の男が居なかったハリーにとって、私は父親代わりだった。いろんな男同士の話をし、彼の祖母が知ったら卒倒しそうな遊びも教えた。カード賭博やルーレットゲーム、いい女の見分け方、そんな大人の遊び。だが、この子はそんな“悪い大人の遊び”にはまらず綺麗なままだ。ハリーは私と森の中を探検するのが一番好きだった。 ――森が私たちを呼ぶ。鳥の鳴き声が聞こえてくるようだ……。 「……明日、森に行かないかい?」 自然と口から出た言葉にハリーが驚いて顔を上げた。 「この間、森の入口の草むらでヒバリの巣を見つけたよ。卵があるかもしれない」 「行く!連れてってよ!」 言い終わるか終らないか、ハリーが興奮気味に言う。サファイアのようなブルーの瞳を輝かせて、まるで小さな子供のような顔で。   オーケー、と答えてハリーの頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに笑った。眩しくて思わず目を細める。――マリーにそっくりな笑顔だった。