実はこの『Knowing』は非常に古くから頭にあったイメージでした。ハリーの基本設定はこの物語から生まれています。
執筆途中で二人が可哀相になり、何度も引き返そうとしましたが結局予定通りに書きました。出来る事なら二人を幸せにしてやりたいのです・・・。これは自分史上最も激しいラブストーリーかもしれません。
[2009年 12月 13日]
黒いコートの男と肩を並べてカウンター席に座っていた。ホテルの1階にあるショットバー。誘ったのは私だ。 『もし、時間があるなら一杯やっていかないか?』 再会の挨拶はない。もちろん、肩を抱き合う事もない。短い誘い文句に男は一言、いいよと答えて付いて来た。 「変わらないね、ステファン……。いや、少し年をとったかな?」 「君は大人になったよ、ハリー。見違えた……」 「もう30だ。若者とは言えなくなった」 ハリーは小さく笑うとバーボンを一口飲み、煙草を咥えた。赤いパッケージのアメリカ煙草。慣れた仕草で火を点ける。いつの間にか紫煙の似合う男になっていた。 精悍、だけではない。彼は切れ味のいいナイフのようだ。それでいて老成した静けさを纏う。加えて凄味すら感じる美貌。あどけなさは何処にもない。彼は本当に大人になった。それにしても、この圧倒されるような存在感は何なのか。12年の間にハリーはどんなに多くの苦難と痛みを乗り越えたのか。彼の持つ迫力はそんな経験から生まれたのだろう。無垢で優しい少年の、12年間の苦労を思うと胸が痛い。 ハリーは一人ではなかった。カウンターから遠い壁際の席に、スーツ姿の若い男が二人。小柄で童顔の青年と、髭を蓄えた長身の男。ハリーへの恭しい態度からすると部下なのだろう。紹介はない。彼らは距離を保ちつつ、常に上司が視界に入る位置に居た。 「ああ、そうだ。フランス食文化振興会受賞おめでとう」 ハリーからの祝辞を受け、不思議な気持ちになる。 「企業賞と特別賞だって?凄い栄誉じゃないか」 「エリザベートおばあちゃんが生きていたらさぞ喜んだだろうな……。特別賞の方は、あれは審査員のご愛敬かもしれん」 本当にそう思う。そもそもは趣味で書いた旅行記のつもりだったのだ。だがハリーは真顔で、そんな事はないと言った。 「ステファンの本は全部読んだよ。面白い本だ。あなたのインタビューもテレビで観た。ファッション誌の特集も、週刊誌の噂の記事も、全部目を通している」 「君の事は何も知らないのに、私の事ばかり知られているなんて不公平だな」 私が不満を漏らすと、ハリーは意地悪そうに微笑む。 「俺は情報を集めるのが仕事だ。あなたの秘密は何でも知っているよ」 ――ならば、私が今でも君を愛している事も知っているか?今すぐ君の手を引いて此処から連れ出し、あの森の小屋で抱き合いたいという、この思いも知っているか? カウンターの内側に目を向ける。酒瓶を綺麗に並べた棚の背面は鏡になっていて、ボトルの陰から背後の席に居る二人の部下が映し出されていた。鏡の中で髭の部下と目が合う。彼はまるで私の思いを知って窘めるように厳しい眼差しを向けていた。 「屋敷のみんなは変わりないかい?」 部下の視線を知ってか知らずか、ハリーがのんびり問いかけてくる。 「みんな君に会いたがっている。ジョゼフはまだ頑張っているよ。高齢だからきついだろう。父上は君が帰って来ない苛立ちを私にぶつけて正直参っている。何とかしてくれ」 それを聞いてハリーは破顔した。ナイフみたいに隙のない男が、一瞬見せた無防備な笑顔は18歳の少年と何ら変わらぬ愛くるしさで、私の胸を締め付けた。 「それからあの森は、今年は天候に恵まれて木の実は豊作だ。特にアケビはどの枝もたわわに実って、動物たちも大喜びだろう。鳥の種類も増えたみたいだ。先日、川でサギを見たよ。春にはフクロウの巣も見つけた。凄いだろう?……君の森は変わらず豊かだよ」 ――もっとたくさん君に見せてやりたいものがあるんだ。 「……ハリー、帰っておいで」 言いたくて堪らなかった言葉を小さく呟く。ハリーはじっと目を閉じていた。 「ああ……。また、青い森が見たいな……」 『見て、ステファン……。森が青いよ』 共に寝転がった草の感触が蘇る。そして苔むした木々の匂い……。今、隣に居る男から仄かに香るシプレは、まさにその時の森そのもの……。 その時、鏡の中で二人の男たちが動いた。髭の男がこちらに向かって歩いてくる。彼はハリーの横で立ち止まると身をかがめ、小声で囁いた。 「少佐、あまり時間が……」 少佐と呼ばれたハリーの顔にナイフの切れ味が戻る。 「――わかった。先に出ていろ、すぐ行く」 二人の部下は短く返事をし、スイングドアを押してバーから出て行った。 「少佐か……。偉くなったんだな、ハリー」 ハリーはもう兵士ではない。ワシントンD.Cの国防総省内にある情報局に所属していると聞いた事がある。それ以外の事は一切わからない。世界に誇る軍事組織の中心。その深部。彼はもう遠い世界の人間なのだという寂しさがある。 「偉いのはあなただよ、ステファン」 自分が零した呟きにそう返されて驚いた。 「あなたが当たり前と思ってやっている仕事は多くの人を幸せにしている。あなたが書く本は世界中の若者とフランスを繋ぐ架け橋になっている。それは簡単に出来る事じゃない。俺は外からこの国を見ているから、だからこそよく見えるんだ」 かつて自分が手酷いやり方で、裏切り、利用し、傷付けた人物からの賛辞に茫然とする。 「まだまだ、これからだろ?この国も、モンティエの家も、後は頼んだよ」 言いながら、ハリーは立ち上がった。サヨナラの時間が迫っていた。 だが、ふと思い出したように彼はスーツの内ポケットを探り、黒革の財布を取り出すとそこから出したものを私の目の前に置いた。 「俺の宝物だ……」 ――赤い折り紙の馬だった。 ハリーの17歳の誕生日。この馬を手のひらに乗せて見つめる眼差しがあまりに真剣だったから彼にあげたものだ。子供騙しのようなプレゼントに、ハリーは酷く喜んで……。ケルト地方に伝わる伝説の火の馬は、遠く離れた私の代わりにずっと彼の傍に居てくれた。 「御利益はあったよ。俺はもう大丈夫。――今度はあなたの番だ」 肌身離さず持っていたのだろう。あちこち擦れて白くなり、財布の中でプレスされて膨らみはもうない。それでも馬は自力で立っていた。 ――こんなちっぽけなものを……ハリーは! 13年ぶりに再会した馬を指で撫でた。唇がわななく。 『――汝、怖れるなかれ』 「……さあ、もう行った方がいい」 力強いその言葉に顔を上げる。バーの外からざわめきが聞こえてきた。 「称賛があなたを待っている」 正面から私を見下ろし、ハリーは悠然と微笑んだ。あの頃と少しも変わらぬ優しさで。 「ハリー!」 私は慌てて立ち上がり、出口に向かおうとしたハリーを呼び止める。 「すまなかった……。すまなかった、ハリー。私を赦してくれ……」 憧れて、堪らない程恋焦がれて、どうしても手に入れたくて、腕の中に閉じ込めた。君はすべてをくれたというのに、私が与えたものは痛みばかりだった。一人取り残された時やっと気付く。失った愛がどれ程大きかったか……。 それでも、私は……。 「――少年の頃、ある人に恋をした……」 長い沈黙の後、ハリーは背を向けたまま問わず語りのように話し出した。 「その人はいい大人のくせに、こんな子供にがむしゃらな想いをぶつけてきた。身勝手なやり方だったが、それ程俺は本気で愛されたんだ」 ――どんなに君を愛しているか……。 「その頃の俺は無力で、幼くて、世間知らずで、本当に愚かな子供だった。だが、幼いながらも激しい恋だった。大人になった今でも思う、本物の恋だったんだと……。誇りにすら思う。だから一片の後悔もない」 ――どんなに君を愛しているか! 「俺は、凄く幸せだった……」 そう最後に告げると、彼は一度も振り返らず出口へと歩いていった。 ――鳥の鳴き声が聞こえる。バーの風景が消え、緑の森が辺りに広がる。 森の奥へと分け入っていく黒いコートの背中を見送った。小さな小鳥だった少年は今、大きな鳥の姿で光の中へ飛んでいく。 愚かしくも懸命に愛し合った夏の記憶を包み込んで、森は今日も雨に濡れているだろう。――すべて知っているのは、あの森だけ……。 『俺、忘れないよ。絶対、忘れない……』 もうじき秘書が私を迎えに来るだろう。だが、あと少し時間が欲しい。喝采に包まれる前に、今、自分の頬を伝うものの正体を知るわけにはいかない。 ハリーが出て行ったスイングドアはしばらく揺れ、やがて完全に止まった。 後にはシプレの香りだけが残った。fin
実はこの『Knowing』は非常に古くから頭にあったイメージでした。ハリーの基本設定はこの物語から生まれています。
執筆途中で二人が可哀相になり、何度も引き返そうとしましたが結局予定通りに書きました。出来る事なら二人を幸せにしてやりたいのです・・・。これは自分史上最も激しいラブストーリーかもしれません。
[2009年 12月 13日]