それから数日後の日曜日、私は5区に住むマリーを訪ねた。職場である大学にほど近い古いアパートに、マリーは一人で住んでいる。私がこのアパートを訪れるのは初めてだ。彼女は驚き、そして少女のようにはしゃいで歓迎してくれた。 私の生活からハリーが居なくなって、すぐマリーに会おうと思った。彼女こそ私とハリーを繋ぐ人物であり、アメリカでのハリーを知る唯一の存在なのだ。少しでも去っていったハリーに近付きたくて、こうしてマリーに縋る自分は随分女々しい男だ。 そして縋ったマリーからある事実を聞かされる。 「士官学校!?ハリーが?」 身を乗り出して聞き返す私にマリーは少し驚いた顔をし、柔らかく笑った。 「あら、ハリーから聞いてない?あの子、あなたには打ち明けると言ってたのよ?おじいさまは反対するだろうけど、ステファンならきっとわかってくれるだろう、って」 去年の夏だった。将来の話をした時、ハリーは自分が決めた進路を祖父母より先に私に教えると言ってくれたのだ。それ以来その話はされないままになっていた。 「ハリーが軍人になるなんて、考えた事もなかった……」 「父親の影響なんでしょうけど、それだけじゃない深い思いがあるのかもしれないわ。子供の心の底なんて母親にもわからないわよ」 ハリーは私に父親の話をした事がない。彼が父をどう思っているか、彼自身の口から語られた事はない。マリーはハリーを“お父さんっ子”だと言う。いつも父の後ろを付いて歩いていた、と。数年前、そんな大好きな父親が亡くなった時、ハリーはどんなに悲しかっただろう。彼が父親の話をしないのは、モンティエ家に対して遠慮があるからだと言う。子供が考える事ではないのに、とマリーは悲しそうに微笑んだ。 物心付いた時から軍服姿の父を見て、彼は愛国心や祖国を守る誇りを自然と身に付けたのだろう。父亡き後、父と同じ道を辿る事でその想いを引き継ごうとしたのかもしれない。または父に近付きたかったのかもしれない。――その心の内はハリーのみが知る。 少年が大人の男に成長していく時、父親の存在は大切だろう。これからハリーはどんな大人になっていくのか。 夢の中で父を呼ぶハリーの悲しい声を思い出す。もっと話を聞いてやればよかった……。きっと私にだけ語ってくれる話が幾つもあったに違いない。そんな話が出来ない状況を作ったのは自分だ。何か大きな決断をしたのはわかっていた。頑固で勇気ある決断に、大丈夫だと言って背中を押してやればよかった。結局、私は父親の代わりは何ひとつしてやれなかったのだ。 「ステファン、今年の夏はありがとう」 唐突に礼を言われて顔を上げた。 「仕事が忙しいのにハリーの相手をしてくれて、感謝しているわ」 ちくり、と胸が痛む。違うんだマリー、と言おうとした言葉はマリーの笑顔に遮られた。 「ステファンと森で何日も過ごしたってハリーから聞いたわ。あの子、よほど嬉しかったのね。どんなに森が綺麗だったか、どんなにステファンとの釣りや散歩が楽しかったか、何度も聞かせてくれるの。――本当にありがとう」 そうではない……。私がハリーに見せたものは酷く薄汚れたものだ。歪な愛情を押し付けて、優しい少年の心と身体を傷付けた。父親を求める子供を、私は無理やり“女”にして彼を辱めたのだ。毎日……毎日……。 「――士官学校に入ったら、きっと何年も帰って来ないと思うわ。いつか大人になったハリーがパリに帰ってきたら、また森に連れて行ってあげてくれる?」 今すぐハリーに会いたい、と思った。何年も待てない。いや、何年待っても彼はもう此処には帰らないかもしれない。ハリーは大人への道を歩き出し、私は想いに囚われてこの場に一人取り残される。 「ハリーに会いたいよ、マリー……。凄く会いたいんだ……」 彼に会って赦しを請いたい。出来るものならあの少年に愛されたい。それが叶わなければせめて赦されたいのだ。たった一言でいい。“赦す”と……。 「どうしたの?ステファン。何故そんな悲しそうな顔をするの?」 どういうわけかマリーは酷く驚いて私の頭を胸に抱き寄せた。 「お馬鹿さん……私が付いているじゃない」 マリーは今も変わらず私を悲しませる何かと戦おうとしてくれる。 「私もあなたもハリーも、私たちは血が繋がった家族なのよ?大丈夫、また会えるわ――だからもう泣かないで」 泣く……?私が泣くはずなどない。泣くはずなど……。――それから幾つもの季節が巡った。変わるものがあれば変わらないものもある。 ハリーがアメリカの士官学校に入学したと知った時、父は本当に卒倒しかけた。母は意外にも冷静で、怒り狂う父を宥める私を弁護した。最初は嘆き悲しみ、そして癇癪を起しては周囲に八つ当たりしていた父だが、心の何処かで諦めはあったのだろう。遠い国に居る可愛い孫を恋しがる言葉が多くなった。 「ハリーは、少しは出世したのか?」 私が知りませんと答えると、自分の甥の情報を知らないでどうする!と怒鳴られた。 「ハリーは、今年も帰って来ないのか?」 マリーが、そうよ、でも私が居るからいいでしょ?と言うと、娘には甘い父はそれ以上何も言えず無言で肩を落としていた。 執事のジョゼフはだいぶ高齢になり、そろそろ引退を考えている。健康なうちは出来るだけこの家のために働いてほしいと私が言うと、彼は目に涙を浮かべ感謝の言葉を言った。ハリーさまがまたお帰りになる時、執事としてお迎えしたい、と口癖のように言っている。それでも彼は加齢によるミスを恐れ、出来るだけ早く後任をと、現在は若手に付きっきりで業務をこなしていた。 ジーラの店はあれから2年の後、閉店した。ジーラが高齢となり店を手放したのだ。思えば40年以上続いた娼館だった。店の権利を買い取ったレストランチェーン店は、洒落た地中海料理店をオープンさせた。おかげでこの界隈はすっかり健全な通りになり、大金を手にしたジーラはニースで優雅な隠居生活を送っていると聞く。 「いいんじゃないか?これで。時代の流れってやつだよ」 そんな風にロベールは飄々とした面持ちで言う。 ロベールとの付き合いは意外に今も続いている。あんな事があったにもかかわらず……いや、あんな事があったからかもしれない。以前より頻繁に我々は会い、飲み歩いていた。 「あれからハリーみたいな子には出会わないな。今度会ったら絶対君から奪うのに」 そう言ってにやりと笑う。いつしかこんな挑戦めいたセリフは彼の口癖になっていた。ロベールを憎めないのは彼が本気でハリーに惚れていたからだ。ハリーとはセックスをしたかったのではなく、恋愛をしたかったのだと言う。そして驚いた事に、ハリーが私の実の甥だという事を知っていた。 「ジャン・クロード・モンティエにはアメリカ人の孫が居るって噂は聞いていた。金髪でサファイアみたいな青い目の美形だそうだ。ハリー以外に誰が居る?」 こうして会うとお互いハリーの話になる。ロベールは私同様ハリーを忘れたくないのだ。共犯者同士、互いに貸し借りがある者同士。ハリーを介して固くなった奇妙な友情はこの先も続くだろう。 「ハリーか……。その名は英語で“掠奪者”という意味もあるそうだ。――やられたよ」 そう言ってロベールは笑い、グラスを掲げて「ハートの掠奪者に乾杯」と言った。 ――そして、マリーは……。50を過ぎてマリーはますます美しくなった。会う度私は彼女に見惚れる。そこにハリーの面影を探してしまうのは仕方ないと自分で割りきった。 マリーはその後生物学の博士号を修得した。博士になって一層研究三昧の生活を送っていたが、私と会う時は出来るだけ時間を作ってくれた。マイペースなマリーを待っていてもだめだという事がわかり、自分から会いに行く。今までの疎遠を取り戻すように、私は時間を見つけてはマリーと会った。自分の心に長年巣くっていた狂おしい恋慕は消え、代わりに私は優しい姉を得た。それはハリーが我が身を擲って私に与えてくれたものなのだ。 聖母と同じ名の母を持つハリーは、誰に使わされた少年だったのか……。ざわざわと、下草をかき分けて緑の奥深くへと進んで行く。前日の雨の名残りが長靴を濡らす。深呼吸して清浄な森の息吹を胸いっぱいに取り込んだ。草木から吐き出されたばかりの、生まれたての酸素。 ひんやりした森の空気。だが木々が開けた所に出れば直射日光が容赦なく肌に降り注ぐ。今日も暑くなりそうだ……。 ――今年もまた森に夏が来た。 ヒバリは卵を抱き、山ぶどうは秋に向けて小さな実を付け始め、雨をたっぷり含んだ苔が木肌を覆う。季節は律義にこうして巡る。そこにハリーは居ないのに……。 私は正式にモンティエ商会の社長に就任した。同時にモンティエ家の家督も継ぎ、この森も森の中の小屋も私の名義になった。私が受け継いだ財産の中で、この森は私にとって最も尊い宝物だ。仕事がどんなに激務でも出来るだけ週末は小屋で過ごし、こうして森を見回る習慣は今も続いている。――此処を守る、と約束したのだ。 ――息を弾ませて、私はひたすら歩みを進める。 頭上で重たい羽音がした。すぐ近くの高い木の枝から猛禽が飛び立ったのだろう。別の木の枝からは忙しないさえずりが聞こえる。木の実を啄ばみながら、小鳥たちはお喋りに夢中のようだ。 もう少し行くとこの先にはハリーと釣りをした川がある。その手前には大きなこくわの木。ハリーが幼い頃から、よく毎年小鳥と先を争うように収穫したものだ。 ゆるやかに流れる時の中で、ハリーがあんなに愛した森はこうして命を育みながら主の帰りを待っている。 そして、私自身も……。 ――森の呼ぶ声が、君に聞こえるだろうか。 その時、一羽の小鳥が鋭く鳴いて梢から飛び立った。咄嗟にそれを目で追う。小鳥は太陽の中に消え、私は眩しさに思わず目を閉じた。 白い残像の中に少年の後ろ姿が蘇る。 『……いつまでもこの森が変わらなきゃいいな』 何も案ずる事はない。此処はすべて君のものだ。