二人を乗せたボートは湖を過ぎ川に出た。
 川の両岸は木々が生い茂り民家のひとつもない。空を見上げると満天の星だった。下界に星々の光を霞ませる明かりがない分、深夜の冷えた空気はよりいっそう星を輝かせていた。
「寒くない?小夜啼」
 アクセルが小夜啼を気遣い、声をかける。季節は12月である。真冬の深夜、しかも水上だ。かなり厳しい冷え込みだった。まだ到着まで何時間もある。
 二人とも厚い防寒着を着込み、さらに毛布を被っていた。それでも冷気は伝わって来る。
「俺は平気だ。それより金魚は大丈夫かな……」
 少しでもぬくもりを、と小夜啼が腕に抱えていた保温バッグを開けて中を覗き込めば、出目金のアクセルはゆらゆらと泳いでいた。
「泳ぎ回るって事は大丈夫なんだろうな」
「何か大事にされてるよな、そいつ。ちょっと妬けるんですけども」
「馬鹿じゃないのか?」
 小夜啼の冷たい視線に、アクセルは「へいへい」と笑う。そしてごそごそと自分の毛布を取り、小夜啼の毛布も取り上げて彼の身体を抱き込むと、その上から2枚の毛布をかけた。
「こうした方があったかいだろ?」
「……そうだな」
 命懸けの逃亡もこの男にかかればロマンチックなナイトクルージングになってしまう。たとえ此処で命を落としても悪くない人生だったと思うだろう……。
 そんな小夜啼の思いを知ってか知らずか、アクセルは星空を見上げながら調子の外れた鼻歌を歌っていた。

 湖を出てからボートのエンジンは低速にしていた。小さなエンジンではあるがその音は意外に大きく、近くに居るかもしれない検問の兵士に気付かれてしまう可能性があったからだ。
 それでもボートは川の流れでスムーズに進んでいた。川幅はかなり広くなり海が近い事を示していた。
「何かの明かりが見える……」
 白み始めた空の下、アクセルが手をかざして前方を注視しながら言った。
「船だ……」
 船はどんどんこちらに近付いて来ている。やがてはっきり船体が見えるほど近付いた時、船首に描かれた錨の紋章が小夜啼の目に入った。
「しまった……海軍のパトロール艇だ!」
 海が近い事からこの辺は海軍の監視区域だったのだ。陸の検問に気を取られ、海軍の存在に注意を払わなかったのは迂闊だった。
「そこのボート、止まれ!」
 拡声器で呼びかけられアクセルが小夜啼を振り返る。
「どうする……?」
「武装した兵士が何人も乗っているんだ。止まらないわけにはいかないだろう」
 エンジンを止めるとボートのすぐ脇にパトロール艇が横付けされた。とも綱が放られ、それをボートに結ぶとこちらに来るようにと命じられる。梯子を使って二人がパトロール艇に乗船すると、入れ換わりに二人の兵士がボートに移った。
 船上には3人の兵士が銃を構えていた。ボディチェックされ名前を訊かれる。それに対し二人は口ごもった。
 本当の名前を言えば逃走犯である事を知られてしまうかもしれない。大佐は時間稼ぎをすると言ったが、あれから数時間が経ってすでに小夜啼逃走の件は軍全体に知れ渡っている可能性が高かった。
「どうした、名前を言わんか!」
 沈黙する二人に兵士の顔に警戒の色が浮かぶ。
――どうする!
 適当な名前を言うべきか本名を言うべきか、決断を迫られる……。
「待て、俺が取り調べをやる」
 兵士の後ろからそんな声がかかり、上官らしき男がキャビンから出てきた。
「はっ、大尉殿!」
 兵士が脇に退け、上官が目の前に立つ。その顔を見て小夜啼は驚きに声を上げるところだった。
「こんな朝早く何処に向かう?」
「……港だ。貨物船に乗る」
「こんなご時世に海外旅行とはいいご身分だな。……小夜啼鳥」
 その男が目を細めて皮肉混じりに笑えば、小夜啼も不敵な笑いを浮かべた。
「お前こそ二階級昇進して大尉とはずいぶん偉くなったじゃないか、ジュリアン」
「ははは、海軍は人を見る目がないかもな」
「二人とも知り合いか……?」
 不思議そうな顔をしたアクセルが、小夜啼とジュリアンの顔を交互に見ながら言う。
「ああ、拒まない事をモットーとした男娼から唯一拒まれた情けない客さ、俺は」
 その時、ボートを調べていた二人の兵士がパトロール艇に戻って来た。
「武器の類いはありませんでした!」
「衣類の入ったバッグと、後は……その……金魚でした」
 顔に戸惑いを滲ませた兵士の報告にジュリアンは一瞬呆気に取られ、そして笑い出した。
「金魚じゃ人を殺すのは無理だな。何だ小夜啼、金魚屋にでもなるつもりか?」
 そして上官の指示を待つ兵士たちにジュリアンが言ったのは、実に仰天する言葉だった。
「銃を下ろしていい。この二人はラサル提督の特命を受けて任務中の工作員だ。勿論、隠密の作戦だ。他言はするな」
 これに驚いたのは兵士だけではない。小夜啼とアクセルは目を丸くして顔を見合わせる。
「し、失礼しました!」
 慌てて銃を下ろし二人に敬礼する兵士たちにジュリアンは下がるよう命じた。
「おい、いいのか?提督まで巻き込んじまって……」
「いいどころか、親父なら手を叩いて大喜びしそうだ」
 思いのほか大胆不敵なこの若い士官に、小夜啼は呆れて溜め息をついた。
「……その後……親子で話し合ったのか?」
 父親を若い男に寝取られて、感情のまま娼館にまで乗り込んで来たジュリアン。ラサル親子のその後を、小夜啼は心の中でずっと気にかけていた。
「いや、別に話し合ってはいない。あの時あんたに鼻っ柱を折られて自分のやきもちが馬鹿馬鹿しくなったんだ。それに、親父の気持ちが少しだけわかった気がしたしな。困った親父ではあるが、軍人としては……たぶん尊敬している」
 いつも居丈高なジュリアンが初めて照れて笑った。どこか悪ガキのような、それでいて素直な若者らしい笑顔。だがすぐに威圧的な軍人の顔に戻り、言う。
「元男娼の囚人が護送中に脱走した情報はもう伝わっているぞ。此処から先は気を付けた方がいい」
「やっぱりな……。どうする?小夜啼」
「……それでも行くしかないだろう。他に道はない」
 何としても突破する……。そんな変わらぬ決意を、二人は顔を見合わせて確認した。
「よし、あんたたちを港まで先導しよう。海軍が連れたボートなら疑う部隊はないし軍警察も手出し出来ないだろう」
「ジュリアン!」
 思いもよらない申し出に、二人は驚きのあまり後の言葉が出なかった。
「――港に着いたら乗船まで部下たちに警護させる。港は国の玄関口だ。軍警察がうろちょろしていてかなりヤバイと思う。そして、あんたとはそこでバイバイだ」
「ジュリアン……お前……」
 茫然とする小夜啼の顔を見てジュリアンはまた照れ混じりに苦笑った。
「あんたには借りがある……。あの時、あの生意気な男娼に喝を入れられなかったら、俺は今でもみっともないガキのまんま腐っていた……」
 貸し借りなんてもう帳消しになっている……。小夜啼は言葉には出来ないそんな思いを心の中で呟いた。
 小夜啼はベッドの中でジュリアンにアクセルを重ねて見ていた。それは客に対する裏切りで、彼の負い目となっている。だが、それがきっかけで小夜啼はアクセルへの気持ちに正面から向き合う事が出来たのだ。
「すまない……」
 感謝と謝罪を込めてそう言うのが精一杯だった。
「なあに、それに伝説の小夜啼鳥を最後に見送って親父を死ぬほど羨ましがらせたいのさ」
 ジュリアンはにやりと笑った後、真顔で言葉を続けた。
「もうボートに戻れ。行くぞ、時間がなくなる」
 そして、梯子を下りようとする小夜啼に彼は再び声をかけた。
「幸運を祈る。縁があったらまた会おう」
「お前もな。戦死なんかするなよ?出世しろ」
「勿論だ。親の七光なんて言われないくらい登りつめてやるさ。それから――」
 彼はそう言うと小夜啼の耳に口を寄せ、小声で囁いた。
「あんたのセックス、最高だったぜ……!」
 最後の最後に投げられたジュリアンの爆弾告白に、小夜啼は真っ赤になって口をパクパクさせるしかなかった。

 ジュリアン率いる海軍のパトロール艇はスピードを上げて前を進んでいく。二人のボートも置いて行かれぬよう速度を上げた。
 時刻はもうすぐ午前6時半。港はすぐそこだった。
「このスピードなら出港に間に合いそうだ。あの大尉のおかげだな」
 あの夜、剥き出しの敵意で嘲笑混じりに小夜啼を“男の淫売”と呼んだジュリアン。人とのめぐり合わせの不思議を小夜啼は噛み締める。
「たくさんの人たちに助けられて今の俺があるんだ……」
 ジーラ、ステファン、イヴォン、テオ、セイレーン、ジュリアン。そして、アクセル……。自分を導き、守り、救い上げてくれた人たち。翠鳴楼のスタッフも、そこに訪れる客たちも、彼らに関わって今の自分がある。
「――人に助けられるって事はさ……」
 小夜啼の呟きに、アクセルが前方に目を向けたまま言う。
「今までその人たちを助けたからだよ。“行ない”には必ず“結果”が付いてくる。たくさんの人があんたにしてくれる事は、あんたがその人たちにしてきた事なんだ」

『いつかきっと、そんな人たちがあなたを助けてくれるわ』

 アクセルの声を聞きながら目を閉じると、温かい湯気の向こうで微笑む優しい女の顔が小夜啼の瞼に浮かんだ。
「……同じような事を、以前ある人からも言われた。その時はピンとこなかったけど、そういう意味だったんだな……」
 セイレーンの言うように神が見ているのかはわからないが、アクセルの言葉は今の小夜啼の身体に沁み込んでいくようだった。
「いつかこの国に帰ってこようよ、小夜啼。このごたごたが落ち着いて平和が戻ったらさ。それまで公爵たちを信じて見守っていよう。――此処は俺たちの故郷なんだ」
 その言葉に小夜啼は頷いた。
「――俺さ、向こうに行ったらやっぱ酒屋をやろうと思うんだ」
 遠くを見ながらアクセルは言う。脱出する事に頭がいっぱいで、小夜啼は今までその先について聞いた事がなかった。
「店を売った金を元手に、親父から引き継いだノウハウと自分の経験を頼りにね。今度は小売店だけじゃなく、バーも併設したいんだ」
 出会って間もない頃、いつかバーをやりたいとアクセルが言っていた事を小夜啼は思い出した。夢を持った彼を羨ましいと思いながら、自分は翠鳴楼の外での人生など想像も出来なかった。
「俺と一緒に店やらないか?」
 その言葉に小夜啼は驚いて顔を上げた。
「俺が勝手にあんたの職業を決めるわけにはいかないんだけど、もしよかったら……」
「……いいのか?」
――羨ましいと思っていたその未来図に自分も加わっていいのだろうか……。
「勿論だよ!あんたの力を貸してくれ。俺と共同経営してほしい」
「こんな俺でもやれるのかな……」
「あんたは色んな料理や酒の味を知っている。それって凄く頼りになると思うんだ。顔も超美形だから客商売では強みだしね。あ、愛想は悪いけどな。でもそこも魅力だからやっぱり客に好かれそうだ」
 ゼロから二人で何かを作る。そこに人が集まり笑いが生まれ輪が広がっていく――。それがどんなに尊い事か、小夜啼はあらためて考えた。そして、バーで接客する自分の姿を想像すると心底楽しくなって小夜啼は笑った。
「料理も出せる店にしようか。たまには酒を買い付けに二人で旅に出よう。それから……」
 海の向こうには目的地があり、そこには自分の居場所がある。そして傍らには共に夢見る相手が居る。

『この先お前は何にでも望むものになれる』

 イヴォンの言った事はたぶん正しいのだろうと小夜啼は思った。
「二人のイケメンが経営する料理も酒も美味いバーって、すげー繁盛するよ!どうする!」
「お前、やる前から夢見過ぎ!」
 ふいに、前を行くジュリアンのパトロール艇が速度を緩め始めた。
「見ろよ、小夜啼。港だ」
 前方には昇ったばかりの太陽に照らされた港が広がっている。
「……いや、待てよ?あんたはもう男娼じゃないんだっけ。“小夜啼鳥”は引退だよな」
「まあ、そういう事になるな」
 その時、上空で鳥が鳴いた。二人が声につられて頭上を見上げれば、カモメが港に向かって飛んでいた。
 小さな箱庭から外に出て、広い空と眩しい太陽を知った小夜啼鳥は、もう空を怖がりはしない。押し上げてくれる手と引き上げてくれる手によって初めて飛んだこの空は、こんなにも自由なのだ。
――いつか、たとえすべてを失い一人になる日が来たとしても、きっと何処までも飛んで行けるだろう。
「――じゃあ、あらためて……ハリー」
「何だ?……アクセル」
 眩しい笑顔に向かってハリーは言った。


Fin

年齢も生い立ちも職業も本編とは異なる設定でいかに「彼らしさ」が出せるかがひとつの課題でした。本編のハリーを形作ったのは経験の内容とその年数によるところが大きいのかもしれません。そういう違いを認識しつつ書くのは楽しかったです。
とんだ大河ドラマ(笑)長い長いお話に付き合っていただきありがとうございました。

[2011年 12月 22日]