大きな食卓テーブルの周りに、ステファンを中心にして全員が集まった。時刻は深夜0時を回っていた。
「肝心の小夜啼にはまだ具体的な段取りを話してないんです」
「ああ、説明を兼ねて我々も再度確認しよう」
 アクセルの言葉を受けてステファンは頷いた。
「今日、午前7時にモンティエ貿易の貨物船が大陸の取引国に向けて出港する。輸出する木材を積んだ定期船だ。小夜啼、君はアクセルと共にその船に乗る事になる」
「飛行機じゃなくて船なんだ」
「そうだよ、小夜啼。貨物船の定期便は積み荷の検査は厳しいが乗員に関してはほとんどノーチェックなんだ。それに我が社は長い伝統と国からの信頼もある。私は今までそうなるための努力はしてきたし、今回のために根回しもしてある」
「さすが公爵、ぬかりがないな。お前さんの懐には一体何枚の必殺カードが入ってるんだ?」
 気心知れたイヴォンがからかい半分に言えば、ステファンは笑って応戦する。
「あなたこそ懐にいくらの金が入ってるんです?いずれあてにさせてもらいますよ?イヴォン老公」
 ステファンは国内の政財界と軍隊以外に海外の企業にも太いパイプを持っていた。つまり、モンティエ貿易という会社は国の権力者も簡単に手出し出来ないアンタッチャブル企業という事だ。一企業でありながら、その存在はもはやひとつの国家とも言える。
「問題は、此処から港までのルートなんだ」
 そう言いながらステファンはテーブルにこのエリアの地形図を広げた。皆が地図を覗き込むと、護送車で同行してきた大佐が地図を指でなぞりながら話し始めた。
「この辺のラインはもともと検問が多い。いずれ囚人が脱走したとわかれば尚の事、この辺一帯は厳戒態勢が敷かれて、下手をすると道路は封鎖される。此処は避けざるを得ない」
「この道は東に行くと国境、西には港があるのでとくに警備が厳重なんです」
 大佐の話を補足するようにドライバーの若い兵士も地図をなぞりながら言葉を続けた。彼は下士官で、襟には伍長の階級章が付いていた。
「幹線道路ではなく山道のルートもありますが、長く険しい道なので危険かと」
 伍長が指でなぞる山道はかなり曲がりくねった細い道で、険しいだけでなく延べにすると相当な距離になる。誰の目から見ても時間をオーバーしそうであった。
「こんな夜中に明かりもない山道なんて、危な過ぎるわ」
 ジーラが眉をひそめてステファンを見上げると、彼もそれに同意した。
「そこで陸路を使わず別のルートを考えた」
「川を下るんですね?」
 アクセルの問いにステファンは頷く。
「この山荘に釣り用のボートがある。小さなボートだがそれで川を下って港に出るんだ」
 ステファンは胸ポケットからペンを取り出し地図に書き込み始めた。
「――現在地は此処だ。坂を下ってボートハウスから出発、湖を西に進んで川に出る。港は此処……距離にして約280キロだ」
「小さなボートじゃ5時間以上かかりそうだな」
 イヴォンの言葉を聞いて小夜啼は不安げに顔を上げた。
「川は軍に監視されてないのか?」
「この川は商船も往航しませんし軍もさほど重要視していません。でも絶対安全とも言い切れないです」
 伍長の言葉を受けてアクセルが小夜啼の肩をポンとひとつ叩いた。
「でも行くしかないよな。大丈夫だよ、小夜啼。楽しいナイトクルージング、無事にゴールさせようぜ!」
 アクセルのおどけながらも力強い言葉に、小夜啼は不思議と勇気が湧いてくるのを感じる。この男が一緒であれば何でも上手くいくような気がした。
「よし、わかった。はりきり過ぎて川に落っこちるなよ?」
 小夜啼は笑ってアクセルを見上げた。そんな二人の様子に一人は頷き、一人は拳を握り締め、全員が笑顔になった。その場に満ちていた緊張感に“希望”という光が差す。
「――では我々はもう行きます。時間稼ぎは任せてください。出来るだけ軍の出動を抑えておきます」
 大佐は帽子を被り、そう告げるとあらためて小夜啼に向き合った。
「小夜啼さん……いや、ハリーさん。私は陸軍士官として、この国の軍隊があなたに対してした事をお詫びします。こんな事は間違っている。新政府が良い国作りを望む気持ちは本当です。だが、その前に人としての過ちに気付かなければいい政治など出来るはずはありません。私は軍人である前に、一人の人間としてそれを許せませんでした」
「ありがとう、大佐。だが、俺の逃亡に手を貸してしまったあなたの立場が心配だ」
 小夜啼がそう思いを口にすると、大佐は穏やかな目で微笑んだ。
「上手く立ち回るので心配しないでください。実は私と同じ考え方の人間はたくさん居るのです。モンティエ卿もそのお一人です。私は大きな組織の小さな駒に過ぎませんが、本当に平和な社会にするため、この立場で自分に出来る事をするつもりです」
 そして小夜啼に手を差し出し、硬く握った。
「お気を付けて。あなた方の幸運をお祈りしています」
「あなたも、大佐……」
「お世話になりました。本当にありがとう!」
 アクセルも大佐の手を握り、伍長と肩を抱き合って、小夜啼奪還のために行動を共にした戦友二人と別れを惜しんだ。

 二人の軍人が去った後、小夜啼はジーラが用意した衣服に着替えた。囚人服を脱いだ時、自分が鉄の檻から出られた事を彼はようやく実感出来た。
 出国に必要な荷物はすでに用意されていた。最低限の着替えが入ったバッグの他に、小夜啼はもうひとつ保温用のバッグがある事に気付いた。――中を覗き込んだ彼は思わず大きな声で叫ぶ。
「アクセル!」
 名を呼ばれて傍にやって来たアクセルは、バッグを覗き込んで自分が呼ばれたわけではない事を知る。バッグの中は金魚鉢だった。黒出目金のアクセルは変わらず元気だった。小夜啼が顔を近づけると彼に向かって口をパクパクさせている。
「私は長旅をするのに金魚鉢は邪魔になるって言ったんだけど、イヴォンがどうしても持たせた方がいいって言うのよ」
「言いだしっぺはわしじゃなくてテオだぞ?」
「だって、小夜啼さんが可愛がっていたし……」
 困り顔のジーラをよそに金魚との再会を喜ぶ小夜啼に、アクセルは声をかける。
「そいつ、本当に連れて行くの?」
「勿論だ。俺は金魚飼いのプロになるって言ったろ?なあ、アクセル」
「“アクセル”か……。何か複雑だなあ……」
 アクセルは苦笑いながらも、久しぶりに見る小夜啼の満面の笑顔が嬉しかった。
「小夜啼、このお金を持って行きなさい。当面の費用として一部現金にしておいたわ」
 ジーラが差し出したのは小切手と封筒に入った現金だった。横から覗き込んだアクセルは小切手の額面を見て、うっ!と声を上げる。
「ちょ……凄い大金じゃん!ゼ、ゼロ何個付いてる……?」
「どうしたんだ?この金」
「どうしたって、お前が今まで稼いだお金じゃないの。お給料よ」
「給料?俺には給料があったのか?」
 ぽかんとした顔でそう訊く小夜啼に、ジーラは思わず頭を抱えてしまった。
「当たり前でしょ!お前は翠鳴楼の稼ぎ頭で花魁だったのよ?7年間ほとんどお金を使わないからこんなに貯まったんじゃない!」
「俺は家の手伝いのつもりで……」
 その言葉に、ジーラはますます頭を抱える。
「もう!……あなたからもこの世間知らずに何か言ってやって!ステファン」
「まあ、そのうち色々学んでいくさ。アクセルも居る事だし心配ないだろう」
 ステファンは二人のやり取りに苦笑い、そして小夜啼にパスポートを渡した。
「いつの間に作ったんだ?」
「勿論それは偽造だ。失くさないようにしなさい」
「……わかった」
 時刻は午前1時になろうとしていた。
「そろそろ出発しよう」
 ステファンに促されて部屋を出ようとする小夜啼に、イヴォンが声をかける。
「わしは此処でお前を見送るよ」
「爺ちゃん……」
 誰よりも優しくて、誰よりも甘やかしてくれたイヴォン。小夜啼が成長し男娼になってからも頻繁に来ては謎めいた教えを授け、共に笑い、悪巧みをし、自らを変態ジジイと称した豪気な老人。イヴォンは小夜啼にとって客というより親友だった。
「さよならなんか言わないからな」
 イヴォンの身体を抱き締め小夜啼がそう言うと老人は、当たり前だ、と言った。
「今度会った時またお前の若いエキスを頂くつもりだしな」
 その言葉に小夜啼は顔を上げ、嫌そうに顔をしかめながら低い声で唸った。
「俺からあれだけ搾り取っておきながらまだ足りないのかよ、エロジジイ……!」
「当然だ。100年以内に帰って来いよ?」
「爺ちゃん、あんた本当に200歳まで生きるつもりなんだな……」
 げんなりとした小夜啼の顔を見て老人はカラカラと笑う。湿っぽい別れは御免だというようなイヴォンの笑い声に小夜啼もつられた。
 老人の傍に寄り添うテオに後を頼むと告げ、アクセルと共に出口へ向かうと再び後ろから声がかかる。
「またな、小夜啼」
 振り返った小夜啼は微笑んで親指を立てた。

 山荘を出て湖畔へと続く坂を下りきると小さなボートハウスが建っていた。木戸を開け、ボートが載った台車を水際まで転がし、男3人で湖に浮かべた。
「君たちが乗る船の名は“ヌーブラエ・マクラ号”だ。行ったらすぐに船長に会いなさい。ブラン船長だ。信頼のおける男だから安心していい」
 作業を終えるとステファンが言った。
「それから、この国は近い将来もうひと波乱起きる。もし不穏なニュースが耳に入っても決して戻って来ようとするな。我々に連絡を取ろうとも思うな。……ただ、見守って祈っていてくれ」
「この後、また何か起きるのか?」
 ステファンの思わぬ話に小夜啼の気持ちは不安に揺れる。
「まさか、内戦が……」
「いや、それは何としても回避させたい。だが、クーデターがまた起こると思う」
 そしてステファンは静かに話を続けた。
「今回のクーデターは失敗だったと私は思う。政策の詰めが甘かった事、国民の支持が不十分だった事、軍内部をまとめきれなかった事……。改革は必要だった。だが強引な政策に走ってしまっている。新政府が体裁を取り繕うために君にした事もそのひとつだ」
「俺は生贄になるところだった……」
「一部の者の私利私欲とうわべの理想のために、これからも同じ目に遭う人は出てくるだろう。そして中身のない経済政策に国は貧困に陥り、今後国民みんなが苦しむ事になる。それを何とかしようとする人たちが、もう水面下で動き出しているんだ」
「反政府組織のカウンタークーデター……ですね……?」
 アクセルの言葉にステファンは頷いた。
「血を流さないで改革を実現させるため、私は彼らを側面から支えていくつもりだ。政・軍・経・民をひとつに結ぶため自分に出来る事があると思う。小夜啼、君が育ったこの国はきっと守る。そんな私たちを、どうか遠くから見守っていてほしい……」
 それまで黙って話を聞いていたジーラが小夜啼の手を取って言う。
「大丈夫!ステファンの傍には私も、イヴォンも、他にもたくさんの味方が居るわ。だから、後は私たちに任せてお前は行きなさい。お前が安全な場所で幸せに暮らしている事が私たちの力になるのよ」
「ジーラ!」
 生涯独身を貫き、男に頼らず、様々な敵と戦ってきた心優しい女戦士。見かけによらない度胸の良さと行動力と頭脳で翠鳴楼を導いてきた敏腕女将は、抱き寄せればすっぽりと腕の中に入ってしまうほど小柄だ。その小さな身体を小夜啼は愛おしく思う。そして、血は繋がらなくても彼女の息子でいられた事を彼は誇りに思った。
 そして小夜啼はジーラの腕を離れ、隣に立つステファンを抱き締めた。
「ごめん、ステファン……。そしてありがとう」
「……幸せになりなさい、ハリー」
 そしてステファンは小夜啼を腕に抱いたまま顔を上げ、縋る思いでアクセルに言った。
「アクセル、どうか……」
「命に替えても……!」
 ステファンからアクセルへ。短い、だが心の底からの依頼と、受諾。
 そして師は、育てた小鳥から手を離した――。

「――あの子が行ってしまったわ……」
 遠ざかるボートを見つめたままジーラは呟く。
「……本当に、大きな声で泣く赤ん坊だったのよ……。そのくせ悪戯ばっかりして、私は何度お尻を引っ叩いたかわからないわ。でも男娼になってからは外に出るのを嫌がって、履物も持ってないほどだった。――その子が、あんな遠い所に……」
 隣に立って同様にボートを見つめるステファンが彼女の肩に腕を回した。
「男の子はいつか旅立つものだよ」
「ステファン……泣いてはだめよ?泣いてはだめ……」
「泣いてなんかいないさ」
 ジーラの言葉にステファンは苦笑って彼女の方を振り向き――そして驚きに言葉を失くす。小さくなっていくボートを真っ直ぐ見つめながら、瞬きもせず、声も出さず、ジーラの頬には大粒の涙が幾筋も流れていた。
「ジーラ……心配いらないよ」
 小さな肩を抱いた腕に力を込めステファンは言った。
「ハリーはもう小さな籠の鳥ではないんだ。大丈夫、我々が思っている以上に彼は強い」
「……ええ、そうね。それにきっと神様が守ってくださるわ」
 涙を指で拭ってジーラは言う。だが、ステファンは首を横に振った。
「いや、それは違う。神は彼を守らない」
 思いがけない否定の言葉に彼女は驚いて男友達を振り仰いだ。すでに視界から消えたボートの波紋を追うように、ステファンは彼方を見つめたまま言う。
「何故ならその必要がないからだ。逆なんだよ、彼がみんなを守ってきたのさ。19年間ずっと、君も私も翠鳴楼もハリーに支えられ守られてきた。そしてこれからはアクセルも……」
 背中の羽を、ステファンもまた見ていたのだ。
「彼が守護天使だったんだよ……」