会って、知って、愛して、そして別れていくのが幾多の人間の悲しい物語である。
by.コールリッジ



「校内駅伝?」
 ある日の放課後。日直だった俺は日報を職員室に届けに行った際、担任からその話を持ちかけられた。
「聞いた事あるだろ?学年混合クラス対抗戦の駅伝だ。お前、出てみないか?」
 聞いた事は何度かある。この学校のホームページにも、入学案内にも書かれてあった。1年から3年までクラスごとにひとつのチームとなってのクラス対抗戦だ。AからEまで全5クラスから選ばれた各3人、学年で計9人がクラスの威信をかけてゴールを目指す。
「でも、なして俺?」
 この学校の校内駅伝は、“参加する事に意義がある”という仲良しレクレーションの行事じゃない。体育系の部活をやっていて脚に自信がある生徒が出場してくる、かなり本気の大会だと聞いた。なのに、何のスポーツもやってない俺が何故指名を受けるのか。
「お前、中学の時陸上やっていたんだって?」
「……え、先生何でそんな事知ってんの?」
 俺自身でさえ忘れかけていた大昔の話を持ち出されてびっくりした。
「お前と同じ中学校だった奴から聞いた」
 なるほど。誰だ、余計な事教えたヤツは。
「クラスからの代表は陸上部の生徒が優先的に出て来るだろう。ところがな、Aクラスは1年から3年を通しても陸上部に所属してる奴が二人しか居ない。しかも長距離じゃなくて高跳びと砲丸投げだ。他クラスに比べたらAは有望な選手不足で不利なんだよ」
 この学校はクラス分けの際、学力や体力や親の経済力で振り分けているわけではない。その年、どのクラスにどれだけ陸上部に入った奴が居るかなど飽くまで偶然であって、今年のAクラスは運が悪かったとしか言えない。
「お前、1500メートルで地区優勝もしてるんだろ?凄いじゃないか。どうして陸上続けないんだ?」
「……なんか、燃え尽きたっつーか、満足しちゃったっつーか。もういいかなーって」
 俺がそうボソボソと呟くと、担任が大きな溜め息をついた。
「お前なあ、中学の地区大会で満足しちまったのか?練習積めばもっと伸びる年頃なんだぞ。……まあ、とにかく、どうだ?1−Aの代表として出る気はないか?」
 少しの間、沈黙が続いた。担任は俺の返答を根気強く待っている。だが、俺の答えは決まっていた。俯いていた顔を上げてきっぱり言う。
「悪いけど他の人を当たってよ、先生。俺は嫌だ」
 担任は無言で何度か頷くと、一言「そうか」と言って頭をかいた。
「アクセル、“一期一会”という言葉があるだろ?今この学校で顔を合わせる同級生も上級生も、卒業してしまったら二度と同じメンツで揃う事がなくなる。校内駅伝は学年の壁を越えた交流の最後の行事だ。大人になってから惜しんでも時間は戻らないぞ」
 そんな風に、担任はどこか遠い目をして語った。俺はどう答えたらいいかわからず黙っているしかなかった。
「まあ、大会は来春だからまだ時間がある。少し考えてみてくれ」
 俺の辞退は受理されず一時預かりとなってしまったようだ。俺は担任にひとつ頭を下げると職員室を後にした。

 あの頃の俺は100パーセントの力を出し切って一生懸命やった。周りの期待に充分応えて結果も出した。
──俺は燃え尽きたんだよ、先生。だから、もういいじゃないか。


 秋が深まると共にハリー先輩に会える機会がますます減っていった。
 彼は早朝と夕方の特別授業に参加しているらしく、登校時も下校時もホームで会う事は滅多になくなった。この学校はもともとレベルの高い進学校でハリー先輩は学年トップだ。そんな人でもこれほど勉強しなければならないくらいN大って所は難関らしい。
 今が受験生にとって大事な時期だと頭ではわかっていても、やはり何日もハリー先輩の顔を見られないのは寂しかった。
 そんなある夜、突然ハリー先輩が『バードガーデン』に現れた。
「うわあぁぁぁぁ!ハリー先輩ぃぃぃ!」
「久しぶりだな、しっかり働いているか?」
 彼は制服を着ていた。どうやら今学校の帰りらしい。もう8時になるのに、こんな遅くまで特別授業を受けていたなんて、受験生って本当大変だ。
 晩飯がまだで腹ぺこだというハリー先輩はクラブサンドとミモザサラダを注文する。カフェのみんなも久しぶりの彼の来店に至れり尽くせりだ。
「そうだ、今度の土曜日、お前忙しいか?」
 注文品をテーブルに置く俺に彼は思い出したように言う。
「土曜日?あさってだよな。その日はバイト2時上がりで後は予定ないけど、何で?」
「お前んちに行ってもいいか?まだ行った事ないし」
 びっくりして危うくジンジャーエールをひっくり返すとこだった。
「マジ!?遊びに来てくれるの!?あ、でも勉強は?特別授業はいいの?」
「土曜日は休みになったんだ。それに、たまには息抜きしないとさすがに身がもたない」
 本当に?絶対?と何度も念を押す俺に、ハリー先輩は「お前しつこい」と苦笑った。だって嬉し過ぎる。好きな人が初めて自宅に遊びに来てくれるんだから。
 ハリー先輩が帰った後も、無駄に上がったテンションをコントロールしきれず、ついには皿を一枚割って店長に呆れられてしまった。


 土曜日──。2時に『バードガーデン』に来たハリー先輩を少し待たせて大急ぎで帰り支度をし、自転車に二人乗りしてそのまま俺の家に向かった。
「どうぞ、入って」
 2階の俺の部屋にハリー先輩を招き入れると彼は神妙な顔をして辺りを見渡した。
「此処がお前の部屋かぁ……」
「狭くてむさくるしいだろー?」
「そんな事ない。落ち着く部屋じゃないか」
 そう言ってもらえて心底ホッとした。2日かけて大掃除した苦労が報われたようだ。幻滅されたくなくてエッチな雑誌は全部隠したし、ガキっぽいポスターも壁から剥がしてさっぱりした。ベッドのシーツも毛布も洗濯して清潔だし、とどめに除菌消臭スプレーを撒いた。完璧だ!と思っていたら──。
「漫画がたくさんあるな」
 やべ……!うっかりしていた。俺の本棚には漫画しかない。教養の欠片もないのがバレる。呆れられたかもと思ったけど──。
「あ、これ完結したんだ。こっちのこれもいつの間にか20巻超えてるし」
 意外にもハリー先輩は本棚に貼り付いて目を輝かせていた。
「ハリー先輩も漫画読むの?」
「読むよ。ここ数年は読んでないけど。受験控えてなきゃ何冊か貸してほしかったな」
 驚いた。この人はさぞかし難しい本ばかり読んで漫画なんて興味ないと思っていた。でも漫画に目を輝かせる姿は俺と同じ普通の高校生で、それが何とも嬉しい。もう知り合って何ヶ月も経つのに、今までそんな事にも気付かなかったなんて。でも逆に、今でも新たな発見があるって素敵な事だと思う。
「あ、好きな所に座ってよ」
 と言っても、ベッドか勉強机の古ぼけた椅子しかないけど。すると、ハリー先輩は躊躇わずベッドに腰を下ろした。その姿を見下ろして、俺はハッと息を飲んだ。

──ハリー先輩が俺のベッドに座っている……。

 ただそれだけの事で心臓がバクバク鳴り始めた。
 今までも校外で会う事はあったし、この人のマンションにも行った。でも、彼が俺のテリトリー内に居るというのは特別な意味を持つ。しかも相手はベッドの上だ。そこは俺の煩悩が生まれ、そして処理される場所……。
 正直に言うと、俺はハリー先輩を“オカズ”にしていた。たぶん、彼がいかに大切な人か思い知って女子からの告白を断ったあの頃からだと思う。この人の事を深く知るほどに俺の想いは強くなって、当初の“憧れ”から今では紛れもなく性の対象に育っていた。
 キスしたい……。触りたい……。それ以上の事もしたい……。
 それが俺の本音。このまま彼の身体を押せば、油断しきっているハリー先輩は簡単にベッドに押し倒されるだろう。

 チャンス……なのかもしれない。

 そこまで思った時、俺は今さら過ぎる事を思い出してしまった。
──そういや俺、この人に好きだって言ってなかった。
 いきなり同性から押し倒されるなんて、ハリー先輩にしたら俺はド変態の強姦魔じゃないか。気持ちも伝えてないのにそんな事をしたら、俺はこの人から一生軽蔑される。
──落ち着け、俺!
 その時、ドアがコンコンと鳴って不埒な想像にモンモンしていた俺は飛び上がった。
「ハリー君から頂いたケーキ持ってきたよ」
 トレイにケーキとコーヒーサーバーを乗せてレディ・ジョーが部屋に入ってきた。
 性的に興奮した男を一発で鎮火させる兵器『おふくろ』。俺は一気に我に返った。絶妙なタイミングに、恨む気持ち半分とホッとする気持ちが半分。
「コーヒーもいるだろ?お前もちゃんと自分で用意してから部屋に上がんなよ」
「あ、サンキュ!」
「すみません、ありがとうございます」
 ハリー先輩は家に来てすぐ、レディ・ジョーに礼儀正しく挨拶をした。手土産のケーキを渡すとレディ・ジョーはめずらしく満面の笑顔で喜んだ。その様子を見て、ハリー先輩がレディ・ジョーから好感を得たのがよくわかる。
「あたしはちょっと出掛けてくるからね。ハリー君、ゆっくりしていきなよ」
 レディ・ジョーはそう言うと、トレイを置いて部屋から出て行った。
「いいお母さんだな」
 レディ・ジョーが男だという事は前もってハリー先輩に打ち明けていた。女の格好をした実の伯父に育てられたという特異な環境に、彼は最初驚いていた。そりゃそうだ、驚かない方がおかしい。
「良くもないよ。口うるさいし、喧嘩すると口より先に鉄拳飛んで来るし」
「優しいだけじゃなくて厳しく叱ってくれるなんて、やっぱりいいお母さんだよ。それにお前に少し似ているな。親子だなって思う」
 ケーキを突っついていた俺はびっくりして顔を上げた。
「えーっ!何処が!?似てるだなんて初めて言われたぞ!」
「血は繋がっているんだから似てても不思議じゃないだろ?それに家族は一緒に暮らしていたら自然と似てくるって言うし」
「そうは言っても全然嬉しくねえ……」
 不満たらたらな俺にハリー先輩は苦笑する。
「でも、綺麗な人じゃないか。男には見えないよ」
「そりゃ化粧のせいだ。人間、年をとると男女の区別がなくなっていくんだよ。シワシワでたるんでいけば男だろうが女だろうが同じ」
 俺が真面目な顔でそう言うと、ハリー先輩は一瞬の間の後、吹き出した。
「お前、それ酷過ぎ!」
 余程可笑しかったのかハリー先輩は目尻に涙を浮かべて大笑いする。俺は思わず見惚れてしまった。飾らないその無邪気な笑顔が可愛くて……愛おしくて……。彼が俺の部屋に居るせいか、“俺のハリー先輩”って、そう思った。

 本当に、俺の恋人になってくれよ、ハリー先輩……。

 今こそ想いを伝えたい。好きって言いたい。拒絶されるのはたしかに怖い。だけど、気持ちを抑え続ける事がもう苦しくて堪らなかった。でも……。
──やっぱりだめだ。今は言えない!
 気持ちを伝えたら俺はすっきりするかもしれない。でもハリー先輩はどうなる?今この人は受験で大事な時期だ。彼がどんな気分になろうとも、きっと勉強に集中しづらくなる。俺が身勝手な告白をすると彼を困らせる事になる。
 俺はゆっくり深呼吸をして何とか自分を落ち着かせた。
「あ、そうだ。今日はお前に報告する事があるんだ」
 ひとしきり笑った後、俺に向き合ってあらたまってハリー先輩が言った。
「祖父と話し合ったんだ、進学の事」
 夏祭りの日に聞いたハリー先輩の将来の夢──。自分の進みたい道を諦めておじいさんの期待に応えようとしたハリー先輩。そんな彼に俺は諦めるなと、おじいさんと話し合えと、そう言って背中を押したんだ。
「実は先週母が一時帰国してさ、祖父を交えて進学の話になったから、思いきって生物工学に進みたいんだって言ったんだ」
「おじいさん、怒らなかった……?」
 思わずごくりと生唾を飲み込む。
「怒ったよ。研究者なんて地味で苦労ばかりで将来が不安だ!って。でも母が味方してくれてさ、『お父さまは自分の孫の才能を過小評価してるのね?』だってさ」
 ハリー先輩が言うには、彼のお母さんという人はおっとりしてはいるけど、ここぞという時ニッコリ笑ってズバッと言う人だそうだ。
「母の後方支援もあって、とにかく必死で祖父を説得したよ。何故その研究をしたいのか、卒業後は具体的にどうしたいのか、思っている事をじっくり説明したら最後には『やるからにはその分野の第一人者になれ』って」
「それじゃあ……!」
 俺が身を乗り出すと、ハリー先輩は晴々とした顔で頷いた。
「うん、生物工学に進む」
「やった!やったじゃん!ハリー先輩!」
「祖父はさ、会社の後継者の事よりも私の将来を心配してたんだなぁってわかった。母にも会社の役員人事なんてお前が心配しなくていいって言われた。──話せばきっとわかってくれるって、お前の言う通りだった」
 大きな会社の社長で厳しいおじいさん、遠く外国に住んでいて傍に居ないお母さん。いかにもセレブな家庭……。でも愛情溢れる家族じゃないか。そして、ハリー先輩がそんな家族に支えられて自分の夢に突き進めるこの逆転勝利に、俺まで興奮した。
「よかった!本当によかった!」
「お前のおかげだよ、アクセル。自分の決断に迷いもしたけど、モンティエを支える事になるんだってお前に言われて自信を持てた。絶対諦めるな!って背中を押されなかったら、たぶん諦めていたと思う。……ありがとう」
「あ、いや……俺なんて何も。ハリー先輩の熱意が伝わったんだって」
 照れて身をくねらせながらしどろもどろに答える。我ながらキモい。
「将来は博士になんのかなあ!カッコいい!」
「まだ受験もしてないって。超難関の大学だから受かる可能性が凄く低いんだ」
「ハリー先輩でも合格が難しいだなんて、N大ってそんなに凄いとこなの?」
 すると、彼は意外な事を言った。
「いや、経営の道に進むならN大の経済学部だったけど、目指しているのは違う大学」
「あれ?そうなの?俺、てっきりN大かと思っていた。じゃ、何処?」
「H大だ」

──えっ……?

 H大……。その大学の名は聞いた事がある。身近な所で、ではない。昔からテレビや新聞で誰もが知っている大学で、同名で別の大学でなければ、それはおそらく……。
「それ、何処にあんの?」
 俺の心臓が激しく鳴り始める。

「ロンドンだ、イギリスの」

──なんてこった……。
「……へ、へーっ!すげぇ!あのH大かぁ!」
 動揺を無理やり興奮に転換して、俺は何とかそんな風に驚いてみせた。
「H大のバイオ工学は世界トップレベルだ。今その分野で活躍している研究者の多くはH大出身でもある。だから、どうしてもその大学で生物工学を学びたいんだ」
「そっかぁ、頑張れよ!」
 ハリー先輩が挑戦しようとしているのは、外国の、世界的な名門大学だった。何処かの国の大統領や大企業の社長を輩出しているような、そんな有名校。
「母が勤務する大学もロンドンなんだ。と言ってもH大ではないけどな。受験資格はイギリス在住である事が条件だから受験前に母の所に行く。落ちたらそのまま残って次の年にもう一度受けるつもりだ」
 俺はハリー先輩を見つめ、うんうんと頷きながらその話を聞いていた。けど、彼の声が次第に遠くなっていく。顔は熱いのに指先が急に冷たくなっていった。
 遠い海の向こうへ飛び立とうとしているハリー先輩。馬鹿な俺は彼の向かう先など何も知らず、その背中を押していた。
 頭の中が真っ白になった──。

 俺のハリー先輩が遠い所に行ってしまう……。