剣は折れた。だが私は折れた剣の端を握ってあくまで戦うつもりだ。 by.ド・ゴール 3−Aのハリー・ブライアントがH大を受けるらしい──という噂は、瞬く間に学校中に広まった。 「願書提出の締め切りに滑り込みで間に合ったんだって」 「H大か、すげぇよなぁ。やっぱ俺たちとは住む世界が違うって事だよな」 「カノジョ居ないって噂は本当なんだね。H大行こうって人は勉強で忙しくて恋愛している暇なんかないもんね」 「でも……あーん!ハリー先輩がイギリスに行っちゃったらさみしー!」 「私もー!」 教室ではクラスメイトたちがそんな話で盛り上がっている。それは何もうちのクラスに限った事ではない。他のクラスでも同様で、3年生の間では尚の事だろう。 いくらこの学校がレベルの高い進学校とはいえ、あの世界ランキングでも上位の名門大学を目指す生徒が同じ高校に居るという事実は、在校生たちを大いに驚かせた。 「たとえ落ちてもそのままイギリスに残って浪人するんだって。もう帰らないって事だね」 「卒業しても地元だったらまだチャンスはあったのに、外国に行っちゃうんじゃねー」 「何言ってんの、告白する勇気もないくせに」 どっと笑い出すクラスメイトたち。俺は彼らに背を向け、黙って席を立った。 ハリー先輩が居なくなるなんて思ってもいなかった。卒業してもこの街で大学生になったあの人といつでも会える、そう信じていた。 夏祭りのあの日、俺が彼の背中を押したんだ。自分の夢を諦めておじいさんに言われるままN大に進むつもりだったハリー先輩。俺があんな事言わなければ、彼はずっと俺の近くに居るはずだったのに。 『お前のおかげだよ、アクセル』 そう言ってあの人は嬉しそうに、本当に嬉しそうに……。なのに……。 「俺、最低……」 悲しんでいる自分が嫌だった。彼の夢を応援出来ない俺が居る。背中を押した事、後悔している。ハリー先輩は俺がそんな風に考えているなんて夢にも思ってないだろう。きっと、一緒に喜んでくれていると……。 俺は、思い通りにならなくて駄々捏ねている子供と同じだ。低レベルで、好きな人を思いやれない身勝手な男。そんな自分に腹が立つ。 「ほんと、最っ低……!」 冷たい空気に首をすくめ、鼻までマフラーに埋めて小さく呟く。重い足取りで地下鉄駅へと歩きながら、肺が痛くなるような空気の冷たさに冬の訪れを感じた。 冬が来てやがて春が来る。花々や緑が芽吹く頃、ハリー先輩との別れが訪れる。 11月最後の日曜日。バイトも休みだったため、俺はルカとキャンディと3人で繁華街に来ていた。 クリスマスまで1ヶ月を切り、街は赤と緑と金色に飾り付けられ、入る店々ではクリスマスソングが流れている。今年最後のテスト週間まであと2週間足らず。明日からテスト勉強もスパートをかけなければならない。のんびり街ブラ出来るのも今日ぐらいだ。 思えばこの二人と校外で会うのは久しぶりだ。キャンディが映画のタダ券を3枚もらったから行こう、と俺とルカを誘ってきた。最初ルカが「このメンツで恋愛映画とか気色悪ィだろ」と文句を言ってたが、こうしてのこのこ出て来るって事は、あいつも退屈していたんだろう。 俺たちは映画を観て本屋とCDショップに寄った後、ファーストフード店に入った。 「まあ、ラブロマンスなんてガラじゃねぇけど、たまにはこういう映画も悪かねえな」 ルカがポテトをもぐもぐしながら映画の感想を口にする。こいつは本来寂しがり屋だ。よほど用事がない限りたとえ子供向け映画でも誘いに応じるだろう。 「でしょ?それに来週に入っちゃうとテスト準備で忙しくなるから今日がラストチャンスだったのよ」 「あーあ、またテストかぁ!」 「お前ら、どう?テスト勉強はかどってる?」 と訊けば、意外にも二人揃って「まあね」という返事が返ってきた。 ルカもキャンディも、俺なんかよりずっと遊ぶ事が大好きだ。にもかかわらず二人とも成績はいい。ジタバタしているところなど見せないが、たぶん陰でやるべき事をちゃんとやっているんだろう。 「──ところでよ、進路の事ってもう考えてんの?」 それは少し前から感じていた俺の中の漠然とした不安。将来の夢ってやつを、二人はどう思っているのか、この機会に訊いてみたくなった。 「おう、俺は医者!産婦人科のな。決まってんだろ」 そういや、ルカの両親は医者で内科を開業しているんだった。でも、何故に産婦人科? 「毎日オンナの股が拝めて、それに対して金を払うどころか大金もらえて、先生とか言われて尊敬されて。そんなオイシイ職業、他にあるか?男の夢だろ!」 「……アホか」 ドロドロに汚れまくった動機ではあるが、一応医者になるというビジョンがしっかりあるルカ。不純でもなんでも医学部目指してこいつなりに頑張っているんだろう。 「キャンディは?」 「あたし?あたしはお嫁さん」 飲んでいたコーラを盛大に噴いた。 「大学は何処でもいいんだけど、大きな商社に入社してそこでイイ男捕まえるの。勿論、将来有望なリッチマン。あ、顔も良くなきゃダメ」 夢見るオカマは目をキラキラ輝かせている。どうやら本気らしい……。 「そっかぁ、頑張れよ!キャンディ」 「ルカ、なに無責任に励ましてんだよ……」 どうして俺の友達はこうも馬鹿なんだ。でも、二人とも自分の将来の夢を淀みなく語る。 「お前ら、将来の事ちゃんと考えてるんだな……」 「そういうお前はどうなんだよ、アクセル」 すかさずルカに訊かれた。──だが、返す言葉が見つからない。 「まず大学決まってんの?ダメもとでN大とか……まあ、あそこはハードル高過ぎだわな」 それでも黙り込んでいると再びルカが呟くように言った。 「ハリー先輩のイギリス行きの話聞いたぜ。どうすんだ?お前」 「……どうするって、どうもこうも出来ねえだろ」 ハリー先輩とは家に遊びに来た次の日からろくに会えていない。渡英やら受験やらの手続きで何度かイギリスに行く事もあり、その都度学校を休むと言っていた。 「そもそもアクセルはハリー先輩を追ってこの学校に進学したんだっけ?いっそこのままH大まで追いかけなさいよ」 キャンディが楽天家なのは今さらだが、あまりのむちゃ振りに俺とルカは無言で頭を抱えた。 「ここらが限界なんだよな……。ハリー先輩とはレベルが違い過ぎるし、男と女じゃないんだから“好き”だけで肩並べて生きていけるわけじゃない。所詮、付き合うにしても俺とあの人とは釣り合わないって事だ。俺、もう背伸びしないでいっそ就職した方が……」 不覚にも語尾が震えて唇を噛んだ。思っていた事を実際言葉に出すと身体中から力が抜けていくようだ。悲観的に聞こえるがこれが現実で、今頃それに気付いた俺は進学はおろか明日の事すら考えられないでいる。 「お前の高校生活、もう終わったな!」 急にルカがさばさばした声でそんな絶望的な事を言う。少し驚いた。 「勝手に終わらせるなっつの」 「いーや、終わりだろ。愛しの先輩は遠い所に行っちまうし、動機も目標も失ったお前はジ・エンド。ハリー先輩を追う事しか考えてなかったろ?2歳年上なのは最初からわかっていた事なのに、そっから先は?」 「……」 心の傷口に塩を塗り込められるようだ……。 「自分の人生ぜーんぶあの人に委ねて、背負わせて、寂しがるだけならラクだよな」 俺に喧嘩をふっかけようとしているようなルカの言葉は棘だらけで……。 「お前、何しにこのガッコ来てんの?」 でも、何も言い返せなかった……。 すっかり辺りも暗くなった頃、家が反対方向のルカとは途中で別れ、俺とキャンディは地下鉄駅まで並んで歩いていた。 「あのさ、ルカの事だけど」 足元を見つめたままキャンディがぽつりと言う。 「あいつ、きっつい事言ってたけど本当はあんたを心配してるのよ」 「わかってるさ、あいつとは古い付き合いだから。俺を見ててイライラするんだろうな」 ルカは単純で短気だけど人情家だ。優しい言葉など絶対吐かないけれど誰よりも友達思いの奴だって事は俺が一番わかっている。 「ルカの言う事は尤もだ。俺だってこんな女々しい自分にイライラする」 「あたしはアクセルの気持ちわかるわ。好きな人が外国に引っ越して行っちゃったら誰だって悲しいわよ。寂しさから立ち直って前向きに、なんて言うのは簡単。他人は何とでも言える。でもすぐ気持ちを切り替えられるわけないじゃない。人間なんだから」 薄く氷が張った歩道を、足元に気を付けながら俺たちは下を向いたまま黙々と歩く。地下鉄駅への出入り口まで辿り着き、コンクリートの階段を下りて行くと地下のホームは少し暖かくてホッとした。 構内は帰宅ラッシュで混雑していた。日曜日の夕方、繁華街で買い物を楽しんだ人たちが家路に向かう時間。俺たちは切符を買って改札を抜け、空いているホームのベンチを見つけると並んで座った。 「ハリー先輩はさ、自分の進みたい道を諦めて地元の大学に行こうとしたんだ。でも俺は絶対諦めるなって言った。でも、その時はあの人の希望校がH大だなんて知らなかったんだ。俺は、今頃になって後悔を……」 「……そうだったの」 「あの人は俺に、背中押してくれてありがとうって、嬉しそうな顔でさ、俺が後悔している事も知らずに……。悲しんでいる事が申し訳なくて堪らない」 「アクセル、そんな顔しないでよ……」 抑え込んでいた気持ちを一度言葉に出すと、次々と気持ちが溢れてくる。いつもは女王様ぶっているキャンディが、そんな俺におろおろしていた。 「もし、アクセルが背中を押さないでハリー先輩も自分の進路に妥協したら、ハリー先輩は後悔すると思うし、何よりあんたが“何故あの時言ってやらなかったんだろう”って、その方が後悔すると思うわ」 キャンディにそう言われ、後悔するハリー先輩を想像した。あの人の事だから、夢を誰にも悟られぬよう封印して周りの期待に応えるんだろう。でも、内心では悔いて……。 「そんなの許せねえよ……」 ハリー先輩の未来と俺の寂しさを同じレベルで考えるなんて何て馬鹿げた事か。 「でしょ?あんたは間違っていないわ」 キャンディは明るく優しく、そして真剣に俺の話を聞いてくれる。きっとそういう所が男にも女にも慕われるんだろう。俺はキャンディの優しさに甘えている。でもこうして話しているおかげで少し気持ちが落ち着いたような気がした。 ホームに列車が入って来るとのアナウンスが流れ、短く警笛を鳴らして俺たちが乗る列車がやってきた。ベンチから腰を上げ乗り口まで進み出る。 その時、キャンディはハッとした顔で俺を振り返り、列車の轟音に負けないように声を張り上げた。 「ねえ!あんたがさっき言ってたハリー先輩と釣り合わないって話!あたしいい事に気が付いちゃった!」 「いい事!?」 「時間よ!あんたには2年という時間があるって事よ!」 車両の流れを背に髪をなびかせて、キャンディは勝利の女神みたいに微笑んだ。 「あんたはその2年をどう使う?」 家に帰るとそのまま自分の部屋に行き、ベッドに仰向けに寝転んでハリー先輩の事を考えていた。 最初は容姿に魅せられた。彼には人を引き付ける不思議なオーラがあった。毎朝会うたびに気になって気になって、目が離せなくなった。遠くから見ているだけじゃなくどうしても彼の傍に近付きたいと思った。 傍に居たいという執念がこの進学校に合格するという信じられない奇跡を起こした。彼と会わなかったら、俺はいつまでも悪い遊び仲間とつるんで狭い世界から這い出て来なかっただろう。 あの人が俺の目標であり目的でもあり原動力だった。でも、俺を狭い穴の中から引っ張り上げ原動力になったその人はもうじき居なくなる。 原動力が遠くに離れたら俺のすべては止まるんだろうか。 だとしたら、ハリー先輩と過ごしたこの数ヶ月は何だったんだろうか。 俺は一人じゃ何も出来ない男なのか。 そんな弱い俺を、彼は……いや、俺自身好きになれるか。 『お前、何しにこのガッコ来てんの?』 「……くそ!」 俺はベッドから勢いよく起き上がると勉強机に向かって座った。 机の上にはフリマで買ったハリー先輩の地球儀。俺はそれを回しながら彼がこれから行こうとしている国まで指で辿る。 「イギリスって意外に小さいのな……」 直径20センチにも満たない学童用地球儀。おそらく子供が最初に触れる世界の形。ハリー先輩もこんな風に何度も回しては遠い国々を夢に描いていたに違いない。 この地球儀を眺めていた小学生のハリー先輩が今日に至るまで、彼はどんなにたくさんの努力をしてきただろう。家が裕福だとか、容姿端麗だとか、そんな事とは関係ない彼自身の頑張り。 では、俺は?俺はハリー先輩と肩を並べるに見合うくらい頑張っているだろうか。レベルとか結果ではなく、そうなるための努力ってやつだ。 このまま自分が腐っているとハリー先輩と出会った事が無意味なものになるような気がする。それだけは嫌だ。彼にも、自分自身にも「俺は頑張ったぜ」と胸を張りたい。 ハリー先輩が居なくなる寂しさはきっと時間が癒してくれる。問題はそこから先……。 ──N大を目指そう。 それが俺の辿り着いた結論。 以前にも考えた事はあった。でも俺には高過ぎる壁で、正面から立ち向かう勇気もなく頭の隅に追いやっていた。そこは俺みたいに呑気に生きてきた奴が簡単にくぐれる門ではないけど。その先に何があるかわからないけど。 でも今度こそ逃げない。俺は自力でそこにある何かを探したい。 『時間よ!あんたには2年という時間があるって事よ!』 2年……。大学入試まで、そして卒業まで残された時間。あの時キャンディが言ってたなぞなぞの意味に気付く。2年あれば釣り合いの差が少しは縮められるだろう。 この学校に入学してやっとスタートラインに着いたのに、俺はこれがゴールだと思っていた気がする。危うくすべてを終わらせるところだった。 霧の中で迷子になっていた俺。でも一寸先も見えないほどの濃い霧も、いざ晴れると自分が立っている道が、そして道の先にあるものがはっきり見えてきた。 あとは、一歩一歩確実に歩くのみ。 そして、俺には挑戦すべき事がもうひとつ残っている。 次の日──。学校に行くと朝一で職員室に行き、担任に校内駅伝に出る事を伝えた。 一度はきっぱり辞退した話だが最終結論は保留にされたままだった。あれからしばらく時間も経っていて、他の生徒がランナーになっているかもしれないと思っていたが、担任は俺を待っていたという。担任は職員室中に響くような声で「そうか!よかった!」と繰り返し言った。 最初、この話を断った理由は走る事に疲れたからだ。中学時代、絶対1着になれと周りからのプレッシャーが大きくて、いつしか勝つために走る事が面倒臭くなっていった。 校内駅伝もAクラスの勝利のために走るが、校内での祭りであって他校を交えた大会ではない。それにこの駅伝に出場する事は俺にとって大きな意味があった。 以前担任が言っていた「全学年が交流する最後の行事」という言葉がずっと気にはなっていた。校内駅伝が終わるとすぐ卒業式を迎える。俺が1年生で、ハリー先輩が3年生で、同じ学校に居合わせた俺たちの、この駅伝が最後の締めくくり。 この一期一会を大事にしないと俺はきっと後悔する。 その日から俺は毎日走り込みを始めた。バイトで遅番の時は帰宅してから夕食後に走った。同時に筋トレも少しずつ始める。中学の時地区大会で優勝したとはいえもう何年も昔の話だ。鈍った身体を鍛え直さないと他クラスから出て来るであろう陸上部の奴に勝てない。 出るからには1着を目指す。俺自身のために、悔いを残さぬために。 年が明け2月上旬──。 ハリー先輩がH大に合格したという報せが俺の元に届いた。