運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する。
by.ショーペンハウエル



 校内駅伝大会の2週間前、俺たちAクラスチームは放課後ミーティングのため1−Aの教室に集まった。男子9名、女子9名の計18名。
 Aクラスチームを引率する担当教師は俺のクラスの担任だ。俺を含めた18名は担任から大会のルールとコースの説明を受け、出走順を取り決める。
 2、3年生の中には昨年も出場している者が3名居たけど、後は校内駅伝未経験者だ。大半がスポーツの部活をやっている生徒で、陸上部の砲丸投げと高跳び選手以外にサッカー部、バスケ部、テニス部に所属している連中が集まっていた。
 陸上部ではないものの、かなり脚力を要求される種目で彼らは持久力も持ち合わせている。特にサッカー部の3年生は俺たちのチームの中では頼りになる実力者だ。他にもジョギングや山登りが趣味の奴も居て、当初担任が言っていたほど悲観的ではなかった。


 その週の日曜日、男女合わせた選手18名が集まって実際のコースを通しで走ってみた。
 大きな駅伝大会のように交通規制が布かれるわけではないので、コースは信号のない、そして交通量があまりない街の郊外だった。
 スタートは昔から交流のある提携高校のグラウンド。出発してしばらくは田んぼを横目に見ながら国道の長い直線道路を進む。
 大きな交差点がある手前で左折し、ポツポツと点在する農家を過ぎて橋を渡り、そのまま山に向かって進む。山沿いのこのエリアはアップダウンのある最大の難所だ。最後の坂を下るとその先は川に沿った道がひたすら続く。このコースも長い。
 再び橋を渡って小さな商業地に入ると、そこは郵便局や個人病院、こじんまりとしたスーパーがあるだけの閑散とした商業地でこの町の中心部だ。ここで初めて信号に出くわすが、歩行者優先の信号になっている。信号を越えて数百メートルで出発した学校のグラウンドに帰って来てゴール。
 延べにして49キロ、本格的なマラソンの距離だ。この長い道のりを9名でたすきを繋いで走り抜く。
 第一走者と最終走者は7キロ、その他の走者は5キロずつ。やはり要になるのは最初と最後で、スタートは2年のバスケ部所属の生徒、アンカーは3年のサッカー部の生徒だった。俺は最後から2番目で、アンカーにたすきを渡す重要なポジションだ。
 そもそも俺は長距離ランナーじゃない。地区大会で優勝したのも1500メートルという中距離だ。そんな俺が5キロを走るなど、今までの経験はあまり役には立たなくなる。トレーニングで走り込みの他に筋トレを取り入れたのは持久力を付けるためだ。とにかく、走る事に関しては一からのやり直しだった。

 一通り全区間走り終えて全員がグラウンドに集まり、引率の先生からペットボトル飲料が配られひと息ついた。
「アクセルだっけ?お前、陸上やってたんだってな。いい脚してるじゃん」
 そんな風に俺に声をかけてきたのは3年のアンカーを務めるサッカー部の先輩だ。
「いや、陸上辞めてから全然走ってなかったし長距離初めてだし、俺なんかまだまだです。先輩こそ大きな大会イケそうじゃないですか」
 さすがアンカーだけあってこの人は本当に脚が強いと思った。
「まあ、サッカーってボール蹴ってるより走ってる時間の方が長いしな。体力には自信があるけど、やっぱ陸上のランナーとは違うさ」
 俺とその先輩がそんな話をしていると、他のメンバーも集まってきた。
「なんか今回のメンツ、悪くないと思わん?」
「だよな。必ずしも陸上部が最強ってわけでもないだろ。タイム見たかよ」
「見たよ!これはひょっとすると……ひょっとするな!」
 寄せ集めかと思われていた今年のランナーたちだが、皆それぞれ好タイムを出していた。優勝も狙えるんじゃないかとの声も上がり、全員のモチベーションが一気に上がる。
「Aチームの底力を見せるぞ!」
「よし、やってやろうぜ!」
 俺たちはたしかな手ごたえを感じていた。
 だが、校内駅伝まであと3日というところで予期せぬアクシデントに見舞われた。


「えっ、事故!?」
 朝、俺が教室に入るなりクラスの駅伝メンバーが駆け寄ってきて、昨夜起こった事故の話を聞かされた。
「大事には至らなかったらしいけど、でも先輩は怪我したらしい」
 先輩というのはアンカーを務めるサッカー部の3年の、あの先輩だった。
 昨日、学校が終わって自転車で家に帰る途中に後ろから来たバイクと接触、転倒したという。大きな怪我は免れたものの、膝の打撲と、何より足を捻挫したらしい。
「3年から聞いたんだけど、先輩、今日は休んで病院行ってるって。どう考えても走るのは無理だろ」
「その事で先生は何て……?」
「まだ何とも。でも、今日にでもみんな集めて話あるだろ。大会はしあさってだし」
「……補欠って、たしか居なかったよな」
 ルールではチーム構成は各学年から3名ずつ、計9名というのが大前提だ。穴の空いた区間を他のメンバーが再度走るのは認められない。一人欠ければ同じ学年から別の走者を選出しなければならなかった。
「よりによってアンカーが欠場なんて、どうなるんだ?俺ら」
 この期に及んで降ってわいたようなピンチに、俺たちは頭を抱えるしかなかった。

 Aチーム男子の召集は、予想通りその日のうちにかかった。
 放課後は教室がワックスがけで使用不可のため音楽室がミーティング会場だ。音楽室へ向かっていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「アクセル」
 その聞き覚えのある声に振り返ると──。
「ハリー先輩!」
「久しぶりだな、元気だったか?」
「うわあぁぁ!元気だよ!びっくりしたぁ、めっちゃ久しぶりじゃん!」
 ハリー先輩に会うのは何週間ぶりだろう。かれこれ1ヶ月は顔を見ていないような気がする。またこうしてこの人と学校内で会えて、俺は嬉しくってもう少しで彼に抱きつくところだった。差し出しちまった両腕をそのまま真上に上げてバンザイで誤魔化した。
「イギリス行ってたんだよね?いつ帰ったの?」
「おとついだ。忙しかったな」
 俺たちは肩を並べて歩きながら喋る。
「そういえばH大合格おめでとう!」
 “おめでとう”と、俺は心から言えた。当たり前のお祝いの言葉も本心から言えるまでにはいろいろ葛藤があった。子供じみた寂寥感、焦り、自己嫌悪。ハリー先輩には決して言えない俺の戦い。そんな感情を乗り越えて俺は少し、ほんの少しだけ大人になった。
「やっとスタートラインってとこだな。よく受かったって自分でも不思議に思う」
「不思議じゃないでしょ。ハリー先輩は自分を過小評価してんだよ」
 謙遜しているとは思えないハリー先輩の口ぶりに俺がそう言うと、彼は少し笑って照れたように「サンキュ」と答えた。
「ところで、ハリー先輩さ……」
 さっきからちょっと気になっていたけど。
「あんた、何処行くの?」
 何処までもついて来るハリー先輩。久しぶりに会えて本当は積もる話をたくさんしたかったけど、俺は集合時間に少し遅刻している事が気になって未練を振り切り立ち止まった。
 すると──。
「そこだ」
 ハリー先輩が真顔で指差すドアは、今俺たちが立ち止まった音楽室の真ん前で……。
 その時、音楽室のドアが勢いよく開いてうちの担任が現れた。
「何やってるんだ!お前らさっさと入れ!」

──お前ら?

「選手なんだ」
「はあっ!?」
 ハリー先輩のその一言に、俺は思わず素っ頓狂な声で叫んでいた。
 担任に促されて音楽室に入ると、俺以外の駅伝メンバーが集まっていて、すでにミーティングが始まっていた。
「遅刻してきたお前にかいつまんで説明するとだな──」
 茫然としている俺に、隣に座っていた1−Aのチームメイトがそう話しかける。
「先輩の怪我は大した事ないものの出場は無理。でも急遽代わりのランナーが決まった、って話を聞いたところだ」
 担任もそれを補足するように説明を続ける。
「本人は出たがっていたんだが、足首を結構がっつり捻って湿布している状態だ。高校生活の締めくくりになる行事だから無念だろうが、許可出来るような状態じゃない。今までこんな事態は初めてだし、他の先生たちと考えあぐねていたら昼にブライアントが職員室に来てな……」
「志願したんだ」
 ハリー先輩が俺を振り返って驚愕の追い打ちをかける。俺が唖然として口をパクパクさせていると彼は立ち上がり、今度はみんなに向かって言った。
「正直言ってあいつほどのタイムは出せないと思う。でも私はずっと空手をやっていて最近まで稽古に加え走り込みもしていた。ひ弱そうに見えるかもしれないけど持久力には自信があるんだ。勿論、やるからには優勝を目指すつもりだ」
 それを聞いたみんなの顔には一様に安堵の色が浮かんでいた。
「ブライアント先輩、感謝!」
「よくぞ来てくれました!」
「ひ弱に見えねえよ。お前が空手の有段者って有名な話だろ」
「一時はどうなるかと思ったけど、よかったよ〜!」
 ある者は満面の笑顔で、ある者は大袈裟に泣き真似して、またある者はウンウンと頷いている。せっかく全員のモチベーションが上がっていたのに、メンバー不足で失格なんて事になったら悔しくて堪らない。そんな時ハリー先輩が駆けつけて来てくれて、彼はまさに救世主だった。
「そうか、そうだったのか……。ありがとうハリー先輩。あんたがアンカーなら怖いものなしだ!」
 嬉しくて泣きそうになりながらハリー先輩にそう言うと、彼は俺を見下ろして一言──。
「何言ってんだ、私はアンカーなんかやらんぞ?」
「は!?」
 自分の耳を疑った。アンカーやらない?
「空手の稽古でやってた走り込みなんてタイム重視の走り方じゃない。それに距離なんてせいぜい3キロから4キロだ。7キロなんて無理だし、だいたい急な話でトレーニング不足だ。だから出走順を変更すべきだと思う」
「じゃ、どうすんの?」
 最終区間と同様に第1区間も重要だ。スタートダッシュでどれだけ差をつけるかがその後に影響する。駿足と言われているバスケ部の2年生はその第1区間から外せない。では、他に誰が……?
「アクセル、お前がアンカーやれ」
 担任の言葉に俺は驚いて顔を上げた。
「出走順を入れ替える。最終区間はアクセル。ブライアントが第8区間だ」
「ちょ……何言ってんだよ、先生。俺なんか無理だって!」
 カンベンしてほしい。みんなの足を引っ張りたくない。
「俺まだ1年生だし、陸上やっていたとはいえ中学で辞めてからブランクあり過ぎで、もうランナーの身体じゃねえよ。そもそも長距離選手じゃなかったし最近のトレーニングも5キロを想定してたのに、それがいきなり7キロなんて……」
 俺は必死で訴えたが担任も身を乗り出して俺に言う。
「お前はこの中で唯一のトラック競技経験者だ。自覚はないかもしれんが基礎が出来ている。それにな、十代の頃に何年もやっていた事は頭より身体が覚えているもんだ。お前が最近出していたタイムがその証拠だろう」
「……」
 そんな事言っても──。俺が戸惑っていると横の方から声が上がった。
「俺はアクセルがアンカーに一票」
「俺も。適任でしょ」
「おめーがやらずに誰がやる」
 先輩たちが口々に賛同し、他の連中も「賛成!」と手を上げた。そんな光景を茫然と見渡し、ハリー先輩に目を向けると──。
「頼むぞ、アクセル」
 ああ、この人にまでそう言われたら、もう腹をくくるしかない。
「……わかった、やるよ。繋いだたすき、一番でゴールに持って行く!」
 俺がそう宣言すると歓声が上がった。

 学校帰り、駅へと向かう道をハリー先輩と歩いた。彼と一緒に下校するなんて滅多にない事だ。
「今日は本当にびっくりしたな。校内駅伝にまさかハリー先輩と出場する事になるなんて、思ってもみなかったよ」
「私だってAクラスなんだ。お前、忘れてただろ」
 面目ねえ、と頭をかきながらもうひとつ忘れていた事を思い出した。
「そういや、空手の黒帯だったよね」
 ハリー先輩と初めて言葉を交わしたあの日。俺は“やらせ”の雇われ不良の肘鉄を食らい、それに激怒したハリー先輩の空手技で助けられた。美人で頭がいいだけでなく強い彼に対してプライドがちょっと萎れた、今となっては苦笑いしちまう出来事。
 あれから一年も経ってないのに、なんだか懐かしい。
「空手とマラソンは全然違うスポーツだから、黒帯だからいいランナーというわけではない。ただ日常的にランニングで足腰を鍛えていたってだけだ。だから期待はするなよ?」
「でも、なんで駅伝に志願してくれたの?」
 するとハリー先輩は何処か真摯な目をして淡々と話し出す。
「今朝、3−Aはクラスメイトの事故を聞いて騒然としていた。みんなあいつの怪我を心配して、駅伝はどうなるかも不安そうだった。でも名乗りを上げる奴は居なかったんだ」
「まあ突然の事だし、誰でもいいってわけじゃないし、やりたがる奴は居ないだろうなぁ」
「卒業間近な3年生の気持ちは微妙なんだ。受験に失敗した者も居るし、みんな新生活の事で頭がいっぱいで駅伝どころじゃないのさ。でも誰かがやらないと」
「でも、ハリー先輩だってこれから外国暮らしになるじゃん。新生活の事で頭がいっぱいなのはあんたも同じなのに」
 それってクラスの犠牲じゃないだろうか。それを尋ねると彼は「いいや」と首を振った。
「お前がやるからじゃないか。お前が頑張るから一緒に走りたいと思ったんだよ」

 胸がつまった──。

「第8区間は任せろ。たすきは責任持ってお前に渡す。二人でAチームを優勝に導こうぜ」
 そう言って不敵に微笑むハリー先輩の横顔は自信に満ちていて、恐れるものは何もないように思えた。
 俺は少しの間立ち止まって、歩く彼の後ろ姿を眺める。俺と同じ制服姿のハリー先輩。何でもない高校生活の、今この瞬間。時間は神様でも止める事は出来ない。
 愛おしい日々……。俺はこの風景を心に刻むように目を閉じた。