春まだ浅い3月の日曜日──。その日は朝から雲が多く、天気予報によると晴れのち曇り、一時雨との事だった。 校内駅伝のスタート地点でありゴールになっている提携高校のグラウンドには、出場選手の他、全校生徒の8割が応援に集まりお祭りムードになっていた。 午前は女子の部で、昼食を挟んで午後から男子の部が始まる。 「トップはDだ!Aは今2位だって!」 第7区間の速報が入る。 「タイムはどうなってる?」 「トップとの差は25秒ジャスト。ジリジリ差は詰めているけど抜くのは厳しいな」 Dチーム女子は強脚揃いでスタートから独走状態だ。大会の最終的な成績は女子のタイムに男子のタイムが加算され、その合計タイムで決まる。Aチーム女子がこのまま2着になった場合、男子が1着になってもタイムによっては優勝になるとはかぎらない。少しでもタイムを縮める必要があった。 「頼むぞ!女子ぃ……」 俺たち男子に出来るのは祈る事と応援しかなかった。 11時43分、トップを走っていたDチームの女子が割れんばかりの歓声の中ゴールした。Dチームが歓喜に包まれる中、Aのアンカーもゴール。男子も女子もアンカーに駆け寄ってその健闘をたたえた。 「ごめーん!抜けなかったぁ!」 息を切らしながら詫びるアンカーを、みんながかわるがわる抱き締める。 「よくやった!お疲れ!」 「あいつら本当に早過ぎよぉ!」 「最後の追い上げ凄いじゃん!タイムどうなった?」 その時、運営本部のテントから戻ってきた生徒がストップウォッチを掲げながら叫ぶ。 「1着との差は13秒02だ!」 うおぉぉ!という歓声が上がった。驚異的な追い上げだ。女子たちは選手も応援生徒も入り乱れてもう一度抱き合った。 「3位のCチームとの差は8秒49。敵チームの男子がどのくらいの実力か始まってみないとわからないけど、これはまだまだ可能性あるぞ」 その言葉にみんな顔を輝かせて大きく頷いた。 昼は選手全員が集まり、担任を交えてミーティングをしながらの昼食になった。これからの走りを考慮して食べる量を控える。食べ過ぎて走っている間に腹痛を起こしてはシャレにならない。 「お前ら、身体冷やすなよ」 怪我で出場出来なくなった先輩も加わってみんなに温かい飲み物を回してくれる。 「足、どうですか?」 俺がそう声をかけると先輩は「ほれ!」と言ってズボンの裾をめくって見せた。みんながその足を覗き込むと、足首には湿布が貼られサポーターを履いていた。 「普通に歩く分には大丈夫。筋も骨も異常なしだって。暖かくなる頃にはまたサッカーが出来そうだ。それより、迷惑かけてごめん。とくにアクセル、悪ィな」 「いいっすよ。でも大事にならなくてよかった」 「ブライアントもすまんな。お前まで担ぎ出す事になっちまって」 「気にするな。それにアクセルはお前以上のタイムを叩き出すはずだ。まあ見てろ」 ハリー先輩が真顔で淡々と言うと、言われた先輩は豪快に笑い出した。 「言ってくれるねえ。でも期待してるぜ!」 昼食が終わった頃、担任がこの辺一帯の地図を広げてコースの最終確認となった。 「第1区間、此処は走りやすい直線だ。他のチームはみんな飛ばしてくるはずだ。長い区間で持久力が問われるが、体力を計算しながら出来るだけ先頭に立て」 「うす!ダッシュするぜい!」 担任は区間ごとに注意点を上げていく。道幅が狭い箇所もあり、田舎道ゆえに舗装されていないコースもある。アップダウンのある山沿いの道は難関だ。そして最終区間の市街地。担任はそれらひとつひとつに注意を促し、区間担当のランナーが確認した。 「Aチームは女子が終わった時点で現在2位だ。逆転は大いにあり得る。だが、マークするのは1位のDばかりじゃないぞ?3位のCも要注意だ。とにかく引き離していけ!」 その時、運営本部から拡声器で男子の部開始とランナー集合を告げられた。 俺たちはその場で円陣を組む。9人のランナーと担任、そして出場するはずだった怪我をした先輩。両隣の者と肩を組み、頭を寄せ合う。 「泣いても笑ってもこのメンバーで、学年の壁も越えて、お前ら仲間が一緒に戦うこれが最後だ。悔いのないよう全力を尽くせ!楽しめ!今肩を組んでいる隣の奴を信じろ!」 担任の言葉に隣のハリー先輩を見ると、彼も俺をちらりと見て微かに笑った。 「くれぐれも事故のないように。いいな?」 全員が声を揃え大きく「はい!」と答えた。 「さあ、勝ってこい!」 おー!という掛け声で円陣が解け、第1区間の2年生がスタート地点に向かった。 みんな頼んだわよ!という、無念の涙を飲んだ女子たちから必死の声援が飛ぶ。そして静寂が訪れ、沈黙の中ピストルが鳴って第1走者たちは一斉に駆け出した。 第1走者がスタートするとすぐに応援の生徒たちが移動を始めた。沿道で応援するための場所取りだ。区間が進むにつれ応援陣も流れて行く事になる。 第2区間以降のランナーたちも移動の準備を始めた。前半の4人は2−Aの担任の、俺を含む後半の4人は1−Aの担任の、それぞれワンボックス・カーに乗り込む。 第5区間へはランナーが辿るのとは逆のルートで向かった。前走者が到着する10分前にたすきを受け取るランナーがスタンバイ出来るよう、その区間の担当教師と連絡を取り合いながら一人ずつ車から下ろす。ランナーをぎりぎりまで車内で待機させるのは身体を冷やさせないためだ。この季節はまだ肌寒い。 「先生、うちのチームトップだって!」 携帯を握り締めて一人が興奮気味に告げると、車内がおお!とざわめいた。 「やっぱ、あいつ駿足だな」 「あとは何秒リード出来るか、だね」 その後、第1区間のランナーがトップをキープしたまま第2走者にたすきを渡した、と連絡が入る。駿足で鳴らしたバスケ部所属の先輩は2位以下をかなり引き離していた。他の区間ランナーが彼以上のタイムを出す事が難しいためスタートで距離をかせぐ必要があったのだ。おかげで第2区間、第3区間もトップで次にたすきを渡す事が出来た。 だが、第4区間──。 「2位に落ちたそうだ」 担任の報告に一同は一瞬言葉を失った。 「どっか痛めたんですか……?」 「わからん、減速しているらしい」 俺たちはすでに第5区間のスタート地点に到着していた。各区間のスタート地点は応援の生徒や運営の係が集まっている。Aクラスの応援生徒たちは心配顔でランナーの到着を待った。 「来た!」 その声に振り向けば、Cのゼッケンを付けたランナーが、少し遅れてAとDが追ってきた。彼らは第5走者にたすきを渡した後、地面に座り込み荒い息を吐く。 「ごめん!本当にごめん!せっかくトップだったのにこのザマで。スタミナ切れだ……!」 「いいって、気にすんな!挽回するから後は任せとけ!」 息も切れ切れにAチームのランナーが詫びると、仲間たちが慰め励ます。とりあえず、怪我ではない事がわかってみんな胸を撫で下ろした。 スタミナ切れ──無理もない。日頃から本格的なトレーニングをやっている奴ばかりじゃない。それに今日の気温、そしてプレッシャー。本番では何が起こるかわからず、この後も予期せぬアクシデントが待ち受けている可能性もある。 そして、その予想は的中した。 「Dに抜かれた!」 第6区間のスタート地点でたすきの受け渡しに失敗があった。焦りからたすきを取り落としてしまったのだ。走者が拾っている間に、差を詰めていたDチームのランナーに追い抜かれていた。 「この後半に来て3位か……」 挽回するどころか順位が落ちている現状に、メンバーの表情は不安げだ。 「この調子だと、お前にラクをさせてやれないな」 第1区間で距離をかせいでくれたバスケ部所属の先輩が苦笑しながら俺に言う。 「覚悟は出来てるよ、先輩。ラクして勝っても楽しくないでしょ?」 そんな強気な事を言ってみる。勿論、内心はそんな余裕などない。でもそのおかげでメンバーの間に笑いが生じた。 順位が変わらぬまま、俺たちを乗せたワンボックス・カーは第8区間のスタート地点に到着した。残るランナーは俺とハリー先輩だけだ。 いつの間にか空は黒い雲が立ち込めていた。 「こりゃ、ひと雨来るな……」 担任が空を仰いで呟く。 春の雨は冷たい。濡れて体温が下がり筋肉が強張る事も考えられる。俺とハリー先輩はさっきから自主的にストレッチと脚のマッサージを始めていた。 スタート地点でみんな車を降りたが、ハリー先輩は身体を冷やさぬようそのまま車内に留まり、俺も同じ理由で残る事にした。 車窓から外に降り立った連中を何となく眺めていて、ふと気付いた。 ──みんな笑っている? 「あー、まだ終わってほしくねえなー!」 「だな。もっとやりたいし!」 そんなやり取りをしているのは走り終えて合流したランナー二人。 「みんなイキイキしてるなぁ……」 ピンチなはずのAチーム。残り2区間になった今、意外な事に仲間の表情は晴れやかだった。 「……かけっこで1等賞になったからって、別にいい大学に入れるわけじゃないしオリンピックに出られるわけでもない。これは言ってみれば運動会と同じ、ただの校内行事だ」 ふいに、マッサージをしながらハリー先輩がそう呟いた。 「本当は、優勝しようがビリっけつになろうが、順位なんて重要じゃない。結果はどうあれ、一緒に戦う今この瞬間の“一体感”がみんな嬉しいのさ」 彼のそんな言葉に、俺はあらためて外に居る仲間たちを見た。 真剣な面持ちで先生と話をしている者、そわそわと背伸びしてランナーの到着を待つ者、興奮冷めやらぬ顔で仲間に前区間の状況を語る者。彼らから感じられる高揚感。 一体感を嬉しいと思うその感覚を、俺はあの頃置き去りにしてきたのかもしれない。 「……ハリー先輩、俺さ、中学の時陸上やってて、最初は楽しかったけどいつの間にか楽しくなくなって、疲れちゃって、辞めたんだ……」 ぼそりと、ひとり言のように俺は告白した。何だか無性に彼に聞いてほしくなった。 「本当は走る事が好きだったんだ。それが、受験だとかプレッシャーが嫌だとか、理由つけて、楽な方に流されて、結局中途半端。……俺は自分に甘かったんだと思うよ」 マッサージを終えたハリー先輩は俺の打ち明け話をじっと聞いていた。 「あの頃の俺は、どうしてこの校内駅伝みたいな楽しさを感じられなかったんだろう。もっと続けていたら何かが変わっていたのかな。俺は何かを得られたのかな……」 教室の窓からグラウンドで部活の練習に励む連中を見て、それを羨ましいと思っていた。でも、羨む事は自分の決断を後悔している事を認めるようで、俺はずっと苦い気持ちだったんだ。 すると──。 「陸上辞めたからこそ得られたものもあるだろ?」 その言葉にハッと目を上げると腕組みしたハリー先輩が真っ直ぐ俺を見ていた。 「捨てなきゃ得られないものも、気付けない事もあるかもしれない。それに、楽しくないまま陸上続けていたらこの駅伝大会も楽しいと思わなかったかもな」 「あ……」 陸上を辞めた事を心の何処かで後悔していた俺は、代わりに手に入れたものについて考えた事がなかった。 ──陸上の代わりに得たもの、たくさんあるじゃないか……! 白地に浮かぶ“黒”の模様ばかりに気を取られていたけど、視点を変えると黒の模様を取り囲む“白”の形がありありと見えてくる。ハリー先輩は短い言葉で俺の頭の中に明かりを灯してくれた。まるで、指1本でスイッチを入れるように……。 ──ありがとう、ハリー先輩。 「まだ15、6年しか生きてないのに、人生振り返るなんて早過ぎだろ」 そう言って彼が明るく笑うから、俺もつられて「だよなぁ!」と笑った。 「……そろそろスタンバイした方が良さそうだな」 ハリー先輩は外の様子を見て立ち上がった。 「順位はどうなってる?」 記録係の生徒の周りにメンバーが集まっていたので俺もそこに加わった。 「C、D、A、E、Bの順だ。第7区間出発の段階でDとのタイム差は5.2秒、充分挽回は可能だよ。ブライアント先輩の脚力に期待、だな」 その当のハリー先輩に目を向けると、彼は今まで着ていたウインドブレーカーを上下とも脱ぎ、ウォーミングアップしていた。アキレス腱を伸ばし、肩を回す。そして何故かスローモーションで空手の蹴りの型を決めていた。 ──脚力って、まさかソッチのじゃないだろうな。 「ハリー先輩、武力行使は反則だからね?」 「股関節のストレッチだ。でも、いざとなったら相手を蹴り倒すのも手だな」 俺の冗談に彼も冗談で返す。 「そういや、ハリー先輩はどうして空手の有段者なのに部活入らんかったの?」 俺がそう訊くと彼は思いきり呆れた顔で答える。 「うちの学校に空手部なんかないだろ。あるのは柔道部だ」 「あれっ!そうだっけ?じゃ、空手部あったら入っていた?」 「いや」 「なんで」 訊いてすぐ、ああ勉強が忙しいからか、と思ったが意外な答えが返ってきた。 「この辺じゃ私より強い奴なんか居なくて張り合いがないからさ」 「……」 しばし無言で顔を見合わせた後、二人同時に笑い出してしまった。 ざわめきの中に居ながら、俺とハリー先輩の間には何故か穏やかな空気が漂っていた。状況は圧倒的不利な展開で、空は曇り、レースは熾烈を極めそうだというのに。 そして、コースの彼方を見つめながらハリー先輩は意を決したように言った。 「……私とお前とでこの流れを変えようか」 「流れを変える?」 すると、振り返ったハリー先輩の目はこの曇り空の下でも輝いていた。 「さっき、優勝する事は重要じゃないって言ったけどな、やっぱ勝ってみんなと喜び合いたいだろ?」 勿論!と俺は大きく頷いた。 「この区間、必ず一人抜く。約束する。だからもう一人はお前が頼む」 その時、来たぞ!と誰かが叫んだ。 坂を越えて山沿いの道を駆けて来るランナーの姿が見えた。厳しいアップダウンのコースにどのランナーも苦悶の表情を浮かべていた。 途端に第8区間のスタート地点は割れんばかりの歓声に包まれる。 それぞれのチームの応援陣はランナーの名を呼び、絶叫していた。女子は悲鳴のような叫びを上げて腕をぐるぐる回す。声援の中、トップのCチームがたすきを渡し、受け取ったランナーがスタートした。やや遅れてDチームが到着し次のランナーが飛び出す。 「アクセル!」 周りの声にかき消されまいとハリー先輩が大きな声で俺を呼んだ。 「約束忘れるな!」 厳しい目をして最後にそう念を押すと、ハリー先輩はスタートラインから踏み出した。苦しそうに顔を歪めたランナーがその手にたすきを渡す。 受け取ったたすきを身体にかけて、彼は飛ぶように駆け出した。