もっとも長い旅路は、自分の心に向かう旅路である。
by.ダグ・ハマーショールド



 ハリー先輩がスタートしてすぐ俺たちは最終地点に向かった。
 ワンボックス・カーの後部座席では、走り終えた先輩たちが最終区間に居並ぶライバル選手の分析を始めていた。
「一番の強敵はCの2年生だ。あいつは現役の陸上部で次年度は部長だってさ」
「よりによってトップチームのアンカーかよ……。何か弱点はねえのか?」
 それには全員うーんと考え込んでしまった。そんな先輩たちの話を助手席で聞きながら、俺もAチームの勝算について考えた。
 前途は厳しい。第8区間・最終区間合わせて12キロ。その間に俺たちは二人追い抜かなければならない。ただ、この区間で必ず一人抜くというハリー先輩の言葉──。彼がそう言うのなら、あの人は本当にその約束を成し得るような気がしてならなかった。
「……ああ、ついに降ってきたな」
 運転する担任の呟きに目を上げれば、細かな雨がフロントガラスに小さな水滴を作っていた。

 最終区間のスタート地点に着いた時、アスファルトは霧雨ですっかり濡れていて、応援に集まった生徒たちの傘の花が咲いていた。
 ランナー到着までまだ時間がある上に雨が降っているため全員車内に留まって待機する。すると、さっきからコースの記録係と連絡を取り合っていた先輩の携帯が鳴った。
「えっ、転倒!?」
 突然の不穏な言葉に全員がその先輩を振り返った。車内は水を打ったようにシンと静まり返る。ちょっと代われ、と担任が横から口を出し電話を代わった。
 怪我は?場所は?うん、うん、そうか──。担任は相手の記録係から事の詳細を聞き出す。簡潔な質問と長い相槌。その間、俺は自分の身体からどんどん血の気が引いていくのを感じた。なのに、心臓だけがやたら激しく打つ。
「先生、どうなんですか!」
 携帯を切った途端みんなが一斉に詰め寄ると、担任は落ち着いた声で説明を始めた。
「3キロ地点のカーブで転倒したそうだ。狭い道でDの走者と競り合って、相手の肘がぶつかったらしい」
「競り合い?ブライアント、追い付いたのかよ!」
 3年の先輩は驚いて身を乗り出すが、俺にとっちゃレースより彼の怪我の方が心配だ。
「それで、ハリー先輩の怪我は!?」
「すぐに自分で起き上がって走り始めたそうだ。足を引きずっている様子もなかったそうだから、まあ大丈夫だと思うんだが……」
 居ても立ってもいられなかった──。
「あ、おい!アクセル!」
 じっとしていられず、思わず車から飛び出す。誰かが車の中から「傘持ってけ!」と叫ぶが、俺の心はもうこの区間のスタートラインに向かっていた。
 最終区間のスタート地点とあって、そこは他より多くの応援生徒が集まっていた。どうやら皆ハリー先輩転倒の情報が耳に入っているらしい。たぶん彼に憧れているのであろう何人もの女子たちが泣きそうな顔をしていた。
 彼が走ってくるはずの道の向こうを、目を凝らし、手をかざして見渡す。まだ何の人影も見えてこないが確実に近付いているはずで、なかなかそこから目が離せなかった。痛めた足を引きずっているんじゃないかと思うと気が気でならない。
「心配するな。すぐに起き上がれたそうだからきっと大丈夫だ」
 そう言いながら担任が後ろから来て俺を傘に入れてくれる。俺は彼方を見つめたまま黙って頷いた。
 4キロ地点通過の連絡を合図に防寒ジャンバーを脱いで柔軟体操を始める。スタートラインに着いてしばらくすると、応援の生徒たちの一人が「来たぞ!」と叫んだ。辺りがざわめき、みんな背伸びをしてコースの彼方を見つめる。最後の坂を上がって走って来るのはCチームのランナー。どうやら独走態勢のようだ。
 そして次に坂を上がって来たのは──。
「Aだ!逆転してる!」
 Aクラスの誰かが悲鳴にも近い叫び声を上げた。見紛うはずがない。遠くからでも目を引く長い金髪……。
「先生、ハリー先輩だ……。本当にあの人約束通り一人抜いてくれた……!」
 茫然としながらうわごとのように俺は呟く。
「転んだのに……」
 信じてなかったわけではない。意外と負けず嫌いな性格なのは知っている。彼がやると言うからには本当にやるんだろうとも思っていた。でも転倒した後逆転は難しく、俺は彼の怪我が浅い事だけを祈っていた。
 ハリー先輩はまともに前面から転んだんだろう、ランニングウェアの胸から腹にかけて泥で汚れていた。膝には血が滲んでいる。それでも痛そうな素振りはなく、足取りは力強い。心配していた怪我も軽いとわかって俺はホッと胸を撫で下ろした。
 歓声の中、Cのランナーがたすきを渡し最終ランナーがスタートした。その歓声を塗り潰すようにAチームの声援が沸き上がった。
「行けー!ハリー!」
「ブライアント先輩!頑張ってぇ!」
 ハリー先輩はたすきを外し、俺に差し伸べる。その腕は膝以上に擦り傷だらけだった。きっと彼は転倒した時、咄嗟に腕で脚をかばったのだろう。
「アクセル!」
 彼の叫びに背中を押されるように、俺はスタートを切った。後ろに伸ばした手にたすきが渡される。決して落とすまいとそれを強く握り込んだ。
「あと一人!あと一人だ!頼む!どうか……」
 ハリー先輩がたすきから手を離す瞬間、すがるように言う。俺は振り返らず、周囲の声援に負けない声で応えた。
「任せろっ!」
 たすきを肩にかけ、俺は全速力で飛び出した。

 リズムだ。リズムが大事──。頭の中でメトロノームが動き出す。
 顎を出すな。腕の角度を一定に保って振りは大きく。
 歩幅も一歩の踏み込みを大きく。こんな時、長身ゆえに脚が長いのは有利だ。
 そして俺の背中を押すのは「頼む!」という、さっきのあの人のすがるような言葉。

 後ろから応援陣や区間担当者たちを乗せた車が俺を追い越していく。みんな此処は撤収して先にゴールに行き、ランナーの到着を待つ事になる。しばらくして後ろから担任のワンボックス・カーが近付いて来た。
「アクセル!」
 車が俺と並んだところでハリー先輩が窓から身を乗り出して叫んだ。
「ゴールで待ってる!約束忘れるなよ!一番で来ないと絶交だからな! 」

──ええぇ!絶交!?

 無情な命令を下すハリー先輩。それは励ましというより脅迫に近くて、俺は本気で焦る。絶対だぞとか、必ず抜けとか、相変わらず鬼畜な事をわめきながらハリー先輩が乗る車は遠ざかっていった。
「一番でゴールしないと絶交だなんて、小学生かよ……」
 本当に絶交されるとは、勿論思ってない。でも、ハリー先輩は何を考えているかわからない時がある。俺の常識が通用しない事もたまにはある。実は冗談じゃなく本当に絶交されたら、と思うと冷や汗が出てきた。
 とりあえず、ハリー先輩に絶交されたら俺はもう生きていけない。このレース、必ず1着にならないと俺の未来はないって事はよくわかった。彼の励ましはまるでニトログリセリンだ。取扱注意の強力な爆薬。爆発で吹き飛ばされるか、起爆剤になるかは俺次第。

 前を走るのは現役陸上部の2年生。一番の強敵で、しかも次期部長らしい。少し飛ばし過ぎじゃないかとも思えるが、たしかに早い。何が得意種目なのかわからないけど、アンカーやるくらいだから周囲も認める実力なんだろう。
 でも俺だって……。
 小学校・中学校の部活で走る事の基礎を学んだ。俺は中距離選手だったし、ブランクもある。それに中学のレベルは高校には通用しないかもしれない。でも、去年の冬からこの日のために自分なりのトレーニングもしてきた。走るための大事な事は身体が覚えていた。……だから俺はきっと負けない。

『あと5キロ』

 道路脇に、残り距離を書いたボードを掲げる生徒。難なくそこを通過する。2キロ走ってまだまだ余裕だ。
 アップダウンはもうなく、しばらくは平地ばかりだ。川沿いの長い直線の先には町の中心部へと続く橋がある。あまり交通量のない寂れた商店街とはいえ町中じゃスパートはかけにくい。勝負をかけるなら橋の手前だ。
 残り4キロ地点で給水ポイントがあった。担当生徒が水の入った紙コップをランナーに差し出す。Cのランナーはそれを受け取り、何口か飲んで紙コップを放り投げた。俺はそれを受け取らず給水ポイントをスル―した。

 急に雨脚が強くなってきた。
 前を行くCのランナーが腕を上げてしきりに顔を拭っている。おそらく雨が目に入るんだろう。俺は目を細めて顎を引き、雨が直接目に入る事を避けた。雨は走りにくい。でも火照った身体に雨の冷たさは気持ち良かった。
 ふと、俺は先頭との差が縮まっている事に気付いた。俺の速度が上がっているというより、前の奴のペースが落ちている。雨に調子が狂わされたか、水を飲んだ事が災いしたか、もともと体調が万全でなかったか……。それとも、もしかしたら彼はスピードの配分を誤ったのかもしれない。
 そして後ろのランナーの気配がない事も気付いた。いつの間にか俺と先頭を走るCとは3位以下を大きく引き離してのトップ争いになっているらしい。3位のDに追い付かれる事だけは意地でも避けたい。ハリー先輩が転倒したにもかかわらず掴んだ2位のポジションは、絶対譲るわけにはいかなかった。
 俺は好調だった。呼吸もリズムも崩れず、足運びももたつかない。

──ああ、何だか楽しいな。

 この感覚──。中学の陸上部で最初の頃。タイムや順位を気にせず純粋に楽しんで走っていた、あの頃の気持ちを思い出す。
 ランナーとしてのキャリアも評価も関係ない。陸上素人ばかりが集まって、ワイワイやってるうちに団結というものが出来上がった。優勝を目指しつつ、本当は優勝よりそれまでの時間を共有する方が大切で、みんなそれをわかっている。

『大人になってから惜しんでも時間は戻らないぞ』

 以前担任が言っていたその言葉を、俺はその時はただ聞き流していた。二度と戻らないこの時間がどんなにかけがえのないものか、大人になる前に気付かせてくれた仲間たち。それは何も学校の中だけじゃない。『バードガーデン』の店長、先輩従業員のみんな、そこに集まるお客さん。そして、誰よりもハリー先輩……。

『あと3キロ』

 残り距離数が書かれたポイントが目に入った。ボードを掲げる生徒が、頑張れ!と声をかける。俺はそれを合図にペースを上げた。
 平坦な直線もあと僅か。もう少しいくとこの先には橋がある。渡る前に優位なポジションに立っておくべきだ。
 トップとの差がみるみるうちに縮まってきた。Cのランナーが背後に迫る俺に気付いたようだ。振り返って間近に居る俺を見て、慌てた様子でスピードを上げた。でも、その勢いは長くは続かない。彼は結構体力を消耗しているようだった。

『頼む!どうか……!』

 突然、ハリー先輩の擦り傷だらけの腕が頭の中いっぱいに蘇った。高校生活最後、あの人のラストラン。託された想いが俺のエンジンに火を点ける。
 接近する俺に脅威を感じて何度も振り返っていたCのランナーは、もう振り返る余裕もなく必死だった。だが、顎が上がってしまっている。この調子じゃ、今後彼のペースはどんどん落ちていきそうだ。
 俺は頭の中のメトロノームのリズムに従って大きく足を踏み出す。
 1歩、2歩、3歩……。

──悪いけど先行かせてもらうぜ。

 Cのランナーの脇をすり抜けて、ついに最前へと飛び出した。俺の持久力はいつまでも続くわけじゃない。今のうちに出来るだけ差をつけるべく、弾丸のように加速して後続を引き離していった。

 町中に入る頃、雨が小降りになった。雲が切れてきたらしく徐々に日が差し始めている。このまま夕方にかけて天気は回復していくようだ。
 郵便局も病院も閉まっていた。今日は日曜日とあって、ただでさえ寂れた町は一層静かだ。行き交う車は少なく、歩いている人間に至ってはまったく姿を見かけない。
 さすがに体力の限界を感じていた。息が苦しく脚の筋肉が震える。もともと中距離ランナーだった俺が数年ぶりに走る距離が7キロだなんて、本来無茶もいいとこだ。自分でもよくもってると思う。

『あと1キロ』

 雨の中、合羽を着た女子が俺を励ますように笑顔でボードを揺らしていた。

──ああ、まだ終わりたくねえよ……。

 校内駅伝が終わったら1週間後に卒業式。そして彼はすぐ遠いイギリスに発ってしまう。これが俺たちの最後……。ゴールしたら俺とハリー先輩の高校生活が終わってしまう。

 数百メートル走ると歩行者優先の信号の前に二人の先生が居た。目の前の信号は青、車は来てない。一人が交差点の反対側を見張り、もう一人が大きく腕を振って俺を誘導した。
 息が苦しい……脚が自分の脚じゃないみたいだ。でも後ろにはランナーの足音が聞こえる。ここで気を抜くわけにはいかない。

 ゴール地点のグラウンドに入った。走っている間ずっとハリー先輩を想いながら、自分自身と戦った旅の終点はすぐそこ。短くて長い7キロ……。
 みんなが手を振って大騒ぎしているが、不思議と歓声は耳に入らなかった。聞こえるのは自分の心臓の音と呼吸音だけ……。
 ゴールのテープの向こうには傘をさしたハリー先輩の姿。彼は盛り上がっている大勢の仲間に囲まれ、一人微動だにせず俺を見守っていた。

 本当にいろんな事があった──。
 中二の春、初めてハリー先輩を見た。朝の地下鉄駅のホーム。彼の居る風景が映画のワンシーンみたいでいつまでも見惚れていた。
 初めて言葉を交わしたのは図書室。足元には雪崩落ちた本の山。倒れそうな本棚を押さえながら、彼は俺に助けを求めてきた。
 ハリー先輩の後釜として一緒にカフェでバイトもした。年上の人たちに囲まれて労働する厳しさと楽しさを知った。
 俺が見る景色の中にはいつもハリー先輩が居て、俺に知らなかった世界を見せ、何人もの人たちに引き会わせ、いろんな出来事に巻き込み、いくつもの感情を教えてくれた。──この感謝の気持ちを、どう伝えればいいんだろう。
 あなたが居たから俺は今此処に居る。だから、このゴールに心からの感謝と、そして、遠く旅立つあなたにエールを込めて──。

 ハリー先輩……ハリー先輩……ハリー先輩……。

「ハリーせんぱいっ!」

 肺に残る僅かな酸素を全部使い切るようにありったけの声で叫ぶ。
 その途端、ハリー先輩が弾かれたように傘を放り投げ、前に進み出て、俺に向かって両腕をいっぱいに伸ばした。身体にテープが絡まった瞬間、沸き起こる地鳴りのような歓声。俺は、ハリー先輩の差し出す腕の中に飛び込んだ。
「ありがとう……!今まで本当にありがとう……!」

 がむしゃらにその背中を追うばかりの俺だったけど、これからは一人でも歩いていける。この人の強さが俺を強くしてくれた。だから、もう一人でも大丈夫。

「好きだ……。俺、ハリー先輩の事が好きだ……!」
 ハリー先輩の身体をきつく抱き締め、肩に顔をうずめて俺はやっとそれを告げた。鳴りやまない拍手と歓声。でも、言葉はかき消される事なくしっかり耳に届いているはずだ。彼は何も言わず俺の頭を強くかき抱いてくれた。
 ホームで出会ってから3年──。長い道のりを走り続け、俺はやっと此処に辿り着いた。

──あなたを好きになって本当によかった。