私達は片方の翼しかない天使です。
そして互いに抱き合って初めて飛ぶことが出来るのです。
by.ルチアーノ・デ・クレッセンゾ



「3年Aクラス、ハリー・ブライアント」
 名前を呼ばれ、ハリー先輩が壇上に上がった。校長と向き合い一礼すると、校長が卒業証書を読みあげる。
「貴殿は我が校において優秀な成績を修め……」
 卒業証書の授与は、その年最も学業が優秀だった生徒が最初に受ける。その生徒は卒業生総代になり答辞を読む役目も負う。これは勿論、ハリー先輩だ。
 校長は卒業証書全文を省略する事なくすべて読みあげ、授与した後、おめでとうと言ってハリー先輩と握手をした。拍手の中ハリー先輩が壇上から下りると、その他の卒業生たちの名も順次呼ばれた。

 卒業式の日──。晴れの門出にふさわしく、朝から雲ひとつない爽やかな青空が広がっていた。
 胸にバラの造花を付けた卒業生、カメラ片手に我が子の最後の制服姿を追う保護者、廊下に漂う、母親たちのだろう──化粧品の匂い。学校中に流れる非日常的な空気に、こっちまでそわそわ落ち着かない気分になった。
 ハリー先輩の家族を初めて見た。廊下で彼と立ち話する老夫婦と中年女性。いかにも頑固そうなおじいさん、上品なおばあさん、やたら美人なお母さん……。おばあさんに世話を焼かれてタジタジになっているハリー先輩を見ていると、大人っぽく見えていてもこの人はまだ少年で親に保護される身なんだと思った。なんだか微笑ましい。
 卒業式の式次第は滞りなく流れていく。校長の挨拶、来賓の祝辞、卒業証書の授与、在校生送辞、卒業生答辞──。答辞を読むハリー先輩はある種の威厳さえ感じて、式典に参列している彼の家族もさぞ誇らしいだろうな、と思った。
 そして全員で斉唱する校歌と旅立ちの唄。送辞の時にはあちこちから鼻をすする音が聞こえ、歌う時になると卒業生のみならず、うちのクラスの女子たちもボロ泣きだった。
 俺の目に涙はない。4〜5ヶ月前の俺は今日という日を恐れていた。ハリー先輩が二度と戻って来ない学校に通い続けるなんて、想像しただけで絶望に目の前が真っ暗になった。
 でも今は違う。一番大切な人に、やっと自分の気持ちを伝える事が出来た。その結果がどうこうより、俺はそれだけで充分だった。駅伝優勝も含め、俺に出来る事はやったつもりだ。
 だから、今は何の悔いもなくハリー先輩を見送る事が出来る。

 卒業式が終わった後、授業はないためHRが終わると下校となった。が、卒業生と名残惜しいのか帰る生徒は少なく、みな校内のあちこちに散っていた。勿論、俺もこのまま帰る気になれず、ハリー先輩を探してみたが広い校舎の何処に彼が居るのかわからなかった。
 探し疲れていったん1階まで下りる。校庭に面した窓から外を眺めた。
「あー、もう工事始まるんだなぁ……」
 グラウンドに面した南の窓の下にはレンガやらコンパネやら型枠やらがどっさり積まれていた。こうして材料が揃えられているところをみると数日中には業者が入るんだろう。
 今年、此処に大きな花壇が出来る。工事費用は、去年の学園祭で俺たちがやったフリーマーケットの収益金だ。みんなで苦労して頑張って、それがこういう風にずっと形に残るって事が嬉しい。
 メイドの格好をしてフリマの売り子をやるハリー先輩の姿を思い出して笑った。見た目はとんでもなく美少女なのに、低い声で口八丁の営業トークをかますハリー先輩。──本当に、凄く楽しい一日だった。
「!?」
 思い出に浸っていると、いきなり後ろから膝かっくんされた。こんなガキっぽい挨拶する奴はクラスメイトのあいつしか居ない。
「こーんなとこで何やってんの、オマエ」
 と、俺の頭をヘッドロックで締め上げてきたのは、運送屋でバイトしている仲のいいクラスのダチ。
「3年生、正門の所にいるぜ。挨拶行かなくていいのか?」
「あー、駅伝メンバーの先輩たちには挨拶してきたよ」
 部活の先輩後輩でもないし関わった時間も短い。だが、あの経験を通して生まれた仲間意識は思いのほか強くて、俺と3年の二人の先輩は連絡先を教え合った。でも、そこにハリー先輩の姿はなくこうして戻ってきたところだ。
「駅伝っていえば、お前今やヒーローじゃん!すげーよな」
「たかが校内行事なのにヒーローは大袈裟なんだって」
 たしかにAクラスの生徒たちから救世主だのヒーローだの言われた。ゴール直後の狂乱ぶりを思い出して俺は苦笑した。
 ゴールで抱き合う俺とハリー先輩を中心に興奮した生徒たちが押し寄せて、もみくちゃにされた。結局、男子の部優勝は勿論、女子の部のタイムと合計してAチームが総合優勝を勝ち取る事が出来た。大差をつけられての3位からまさかの大逆転に、半ば諦めていたAクラスすべての生徒たちが飛び上がって喜んだ。
 たかが校内行事。たかがレクレーション。でも今回の校内駅伝の優勝は、中学の時の地区大会優勝より俺にとっては何倍も嬉しかった。
「そういや、ハリー先輩どっかで見かけなかった?」
「ハリー先輩?あ、職員室に入っていくとこ見たぜ。先生に挨拶に行ったんじゃねえの?」
 なるほど──と納得してダチにサンキュ!と告げると、俺は職員室に向かってダッシュした。

 廊下を行くより外から回った方が職員室に近いため、俺は裏庭に出た。生徒たちは正門とグラウンドに集中しているのか、此処はいつもと変わらず静かだ。裏玄関から中に入ろうとした時だった。

「此処に居たのか、探したぞ」

 その声に振り返ると、まさに俺が探していた人物がそこに居た。
「ハリー先輩!よかった、俺も探してたんだよ!」
「そうか、悪い。職員室に行ったり下級生に捕まったり、うろちょろしてた」
 今日がこの人と会える最後の日なのに、このまま会えなかったらどうしようと思っていた俺はホッとした。
「あれ?全部揃ってる。ひとつ残らずむしり取られていると思ったのに、ちょっと意外」
 俺は笑ってハリー先輩の胸元を指差した。モテモテの卒業生は下級生の女子に制服のボタンをせがまれるものだろう。
「ああ、ボタンが欲しいって何人かから言われたけど、制服は大事に残しておきたいからって断った」
 グリーンのブレーザーに赤黒チェックのネクタイ……。ハリー先輩は本当にこの学校の制服がよく似合う。でも、俺だったらボタンだなんてケチな事言わずに『制服ごとあなたをください』と言いたい。
「あーあ、そのハリー先輩の制服姿を見るのも今日が最後かぁ……!」
「お前が入学してきてから凄く楽しい1年間だったよ」
 湿っぽくならないようにとあえて明るく俺が言えば、ハリー先輩が茶化す事なくそんな嬉しい事を言ってくれる。胸の奥が一瞬ぎゅっと痛くなった。
「……あ!なあ、此処覚えてる?一緒に世界史全集運んだよね、この倉庫まで何往復も」
 胸に湧いた痛みを追い払うように俺が陽気に言えば、ハリー先輩も笑って後を続ける。
「覚えてるさ。その後ヘンな連中に絡まれて……」
「そいつら蹴散らしたあんたが強くてビビった」
「こっちこそお前が連中に飛びかかって鼻血出した時焦ったぞ」
「あー、それ言わないで!ちょーカッコ悪いから!」
 数ヶ月前の懐かしい思い出話。ドタバタな出来事。俺たちは顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑った後、俺は小さな声で訊く。
「……いつ行くの?」
「今夜だ。20時の便で」
「そっか、思っていたより急なんだな……」
 たぶんお母さんと一緒に行くんだろう。おじいさんとおばあさんに見送られて、そしてこの人は遠い海の彼方。おそらく、もう二度と此処へは……。
「見送りには行かねえからな?」
「当たり前だ、来るなよ」
 暗い顔を見せまいと俯いて言うと、ハリー先輩は俺の気も知らず呆れたように笑った。

──いつも通りでいてくれるんだな。

 俺はあの日、ゴールした後ハリー先輩に好きだと告白した。彼はそれに対して何も言わず、ただ聞こえている事を伝えるように俺を抱く腕に力を込めた。正確に言うと、彼は何か言おうとしていたけど俺がそれを遮ったんだ。
 これから広い世界に飛び立とうとしている人に答えを迫ってはいけないと思った。ノンケの男が男に惚れられて、なのに嫌悪せずいつもと変わらぬ態度でいてくれるなら、告白の返事は求めない。
 断りの言葉を言うくらいならどうか今のままでいてほしい。そうすれば俺はひっそりと彼を想っていられる。気持ちを伝えるだけ伝えて逃げるようで、身勝手だとは思うけれど。
 それより今は、俺がこの人に気持ちよく出発出来るような言葉をかけてあげないと。
「あの、ハリー先輩……」
 頑張れとか、気を付けてとか、ありきたりの言葉しか思い付かないままそれでも俺が言いかけた時──。
「おーい、ハリー!そろそろ写真撮影始まるってー!」
 庭の木立の向こうからハリー先輩のクラスメイトが手を振って彼を呼んだ。俺たちに残された時間はもう僅からしい。
「わかった!先行っててくれ!」
 彼はクラスメイトの方に首を巡らし大きな声でそう答えると再び俺に向き直った。
「そういや1―Aの先生から聞いたけど、お前N大受けるんだって?」
 そう、去年の11月。担任に校内駅伝出場を伝えた時、そのまま話の流れでN大を目指すと宣言したんだった。
「でも、受かる気がまるでしないよ。我ながら身の程知らずな挑戦だと……」
「そんな事はない。あそこはレベルが高い大学だけどお前は頑張り屋だからきっと大丈夫だ。頑張れよ」
 励ますつもりが逆に励まされてしまった。
「ありがと。あんたにそう言われると1パーセントくらい可能性が見えてきたよ」
「1パーセントって……。もっと自分に自信持てよ、お前はやればデキる奴なんだから」
 何を根拠に“デキる奴”と思われているんだかわからないけど、この人に真面目な顔で断言されると合格のパーセンテージが少し上がる気がした。
 その時、グラウンドの方から拡声器で卒業生集合の呼びかけが聞こえた。クラスごとに整列するよう指示する先生の声。写真撮影が始まるらしい。
「もう行かないと……。世話になったな、アクセル。何もあげられる物がなくて悪い」
 そう言って俺に向き合うハリー先輩の姿をあらためて見つめた。
 地下鉄のホームで初めて見たシワひとつないグリーンの制服。俺はこの姿を3年間見つめ続けて、これが本当の最後──。
「ハリー先輩!」
 じゃあ、と踵を返そうとしたハリー先輩を俺は慌てて呼び止めた。
「俺、あんたの制服のボタンなんていらないから、その代わり……」

──ああ、俺はどうかしていた。

「キス、してくれよ」

 言った直後にハッと我に返った。自分が発した言葉に自分で驚き、すぐ後悔した。何故そんな事を言ってしまったのかわからない。俺は咄嗟に取り繕う言葉を探した。
「……な、なーんちゃって!冗談、冗談。びっくりさせて悪ィ」
 あははと笑いながら頭をかいておどける。ハリー先輩の顔は怖くて見れなかった。馬鹿と言って一緒に笑ってほしい。──けど、そうはならなかった。
 突然、目の前に彼の手が伸びてきて、頭を小突かれると思ったら目を覆われた。何故そんな事をされるかまったく理解出来ずに茫然としていると、唇に柔らかな何かが押し当てられた。暗闇の中でその“何か”の感触を追う。

 温かくて、柔らかくて、しっとりと適度な弾力を持ったそれは……。

 数秒の後、その感触はそっと離れていった。そして、それを追うように目を覆っていた手のひらも離れる。俺はゆっくり目を開けた。戻ってきた光の中、眩しさに目を細めると手を振りながら離れていくハリー先輩が居た。
 木立の向こうへと歩いて行く彼の背中を、その姿が見えなくなるまで見送る。

 結局俺は、卒業おめでとうという言葉も、頑張れという励ましの言葉も、お世話になったお礼も、何ひとつ言えなかった。それどころか逆に励まされ、感謝され、最後の最後にこんな優しい贈り物まで貰ってしまった。
 ハリー先輩がくれた、触れるだけの拙くも優しいキス……。自分の唇を指先で触れて先程の感触を思い出せば、どうしようもなく切なくなった。