2年という時間は、見上げると遠く感じても過ぎてから振り返るとあっという間だった事に気付くものだ。日数にすると730日。寝て起きて、を730回繰り返すと「2年後」は必ず来る。誰にでも、何をしていても……。

 ハリー先輩が卒業してから2度目の春を迎えようとしていた。


「──さっきから人の顔じっと見てなんだよ」
 コーヒーの湯気の向こうで訝しげに眉をひそめる端正な顔。
「再会の感動に浸ってるんじゃん。あー、こうしているのが嘘みてぇ……」
 俺が大きく息を吐いてしみじみと呟けば、目の前のその人は呆れたように笑った。

 2月最後の月曜日──。俺は自宅から列車で2時間の街に来ていた。朝6時半に家を出て7時の列車に乗り、9時に目的地の街の駅に到着。そこで、待ち合わせをしていたハリー先輩と会った。
「それにしても電話貰った時は驚いたよ。まさか一時帰国するなんて……」
 ハリー先輩から電話が来たのは1週間前。何の前触れもなく通話口から聞こえてきた彼の声に、俺は驚きのあまり携帯を落っことした。
 こっちの学校より早いH大の春休み。その休みを利用して一時帰国すると言う。思えばハリー先輩が渡英してから1年と11ヶ月。今回は渡英後初めての帰国になる。帰国の目的はいとこの結婚式らしい。でも彼が言うにはそれは二の次で、一番の目的は──

『N大の合格発表があるよな、一緒に見に行ってやるよ』

 それを聞いた途端、俺は動揺してもう一度携帯を落っことした。

 俺は今年予定通りN大を受験した。そして迎えた合格発表の日。10時の発表までまだ時間があるという事で、俺たちはN大の近くのコーヒーハウスで時間を潰していた。
「土曜日に帰ってきて、日曜日にこの街に来て、夜結婚式に出てそのままホテルに泊まって、今日ホテルから直行で俺に会ってって、ハードスケジュールだね。疲れてない?」
「それくらい大丈夫だ。1週間滞在する予定だし、明日から祖父の家でのんびりするさ」
 そう言って微笑むハリー先輩はリラックスしている様子で顔色も悪くなく、俺はちょっと安心した。
「俺、ハリー先輩はもう二度と帰ってこないんじゃないかと思っていた……」
 俺がぽつりとそう呟くと、ハリー先輩は怒っているような呆れているような顔をした。
「なんでそうなるんだよ。此処は自分の国なんだから帰ってくるに決まってるだろ」
「でもさ、イギリスが生物工学の分野で進んでいるんなら大学卒業しても留まって研究したいとか思わねえ?」
 ほら、よく言われてるじゃないか。外国人なのにその分野で先進国の研究機関に所属している学者。優秀な頭脳の流出ってやつだ。国が研究の助成金をたっぷり出してくれるなら学者も存分に研究出来るんだろうし。まあ、この国が生物工学をどのくらい重要視しているかはわからないけど。
「そもそも私は身近な所で役に立ちたいと思っているんだ。この国の食品業界とか、農業分野とか、祖父の会社とか。だから帰ってきて此処で知識を生かさないと意味がないんだよ」
「……そっか。なんだ、そうだったのかぁ……」
 もっと早くにその気持ちを聞いていたら良かったのに、俺はハリー先輩から「帰らない」という言葉を聞くのが怖かったんだ。
 勝手に思い込んで勝手に悲観していた自分はなんて馬鹿だったんだろう。
「H大はどう?ロンドンの暮らしは楽しい?」
「ロンドンは大都会だ。あまり温暖な気候じゃないけど便利でいい街だよ。食事も噂ほど悪くない。H大の学生は学問への情熱が凄く高くていい刺激になってるよ。夕食後、みんな図書館に行って深夜まで自習するくらい熱心なんだ。授業内容もレベルが高くてついて行くのに必死さ。──お前の方はどうだ?」
「『バードガーデン』のみんなは元気だよ。新しいバイトも入った。俺は去年の春に引退しちゃったけど今でもしょっちゅうコーヒー飲みに行ってるんだ。あ、校内駅伝は去年も出たよ。優勝は逃したけど、今年も出るから今度こそ!って思ってる。それから……」

 こうしてお互いの近況を報告し合って思うのは、俺にもハリー先輩にもたしかに時間が流れているんだという事。俺たち二人の時間はあの卒業式の日で止まったと思っていた。でも本当はそうじゃない。
 2年離れていても、こうして会えば二人の時間は脈々と流れていた事に気が付く。止まっていたわけでも終わったわけでもなく、懐かしい過去の出来事は先へと続く物語の序章に過ぎないのかもしれない。

 合格発表の時間が迫り、俺たちはコーヒーハウスを出た。
「おい!どうしたアクセル、早く来いよ」
「あー、はいはい」
 N大へと向かう道。ハリー先輩の後ろをとぼとぼ歩いていた俺は、急かされ慌てて歩調を早め彼と並んだ。
「あれ?お前もしかしたらまた背伸びたか?」
 俺とあらためて肩を並べたハリー先輩は少し俺を見上げて言う。
「そうみたい。俺、まだ伸び盛りだからさぁ!」
「しつこい成長期だな。もう背はいらんだろう」
「身長ばかりじゃないよ?実は身体も鍛えてんの。筋肉なんか、ほれ!」
 そう言って俺は腕を曲げ力こぶ辺りをポンポンと叩いて見せる。
「ほれって言われてもコートの上からじゃわからない」
「じゃあ、触ってよ。ほらほらぁ!」
「嫌だよ、そんなもの」
「そんなものって……ハリー先輩、酷ェ……」

 そんな風にじゃれて、馬鹿言い合って、並んで歩く俺たち。『バードガーデン』でバイトしていた頃、帰り道でやっぱりこんな風に冗談言いながら歩いた事を思い出した。その頃を懐かしいと思う程、今俺たちは遠くに来た。
 変わっていく事と、未だ少しも変わらない事……。
「今でも好きだ……」
 何年経っても変わらぬ想い。思わず俺は小さな声でそれを呟いていた。それはハリー先輩の耳に届いて、彼は一言うん、と言った。

 N大の正門の前まで来て俺はぴたりと足を止めた。
「どうした?」
「……俺、やっぱ今日はやめとく」
「はあ!?」
 ハリー先輩が、何言ってんだ?とばかりに呆れた声をあげる。
「別に自分で確認しなくても、受かっていたら大学から連絡来るんじゃないかと……」
 怖い目で俺を睨むハリー先輩。居心地悪く目を逸らす俺。そのまま数秒沈黙した後、彼が言った。
「さっきからなんだか足取りが重いと思ったら……さてはお前、結果を知るのが怖いのか」
 ずばりと言い当てられて、俺は取り繕う事も言い訳する事もやめた。
「そうだよ!怖ェよ!自信なんてこれっぽっちもねえよ!入試に来ていた連中なんかみんな頭良さそうでさ、俺一人浮いてた。場違いもいいとこだよ。問題もちょー難しくて……も、ダメだ……」
 入試の日が近づくにつれ俺は緊張のあまりメシが喉を通らなかった。試験中の記憶はあまりない。ただ、難しかったという事だけ思い出せた。そして終わった後、手応えがないまま“こりゃダメかも”と思ってヘコんだ。
 そんな風に試験が終わってから今日まで鬱々とした日々だったわけだけど、ハリー先輩と会える事になって、嬉しさのあまり入試の事も合格発表の事もすっかり頭から飛んでいたんだ。
 ところが、今こうしてN大に近付くと嫌でも現実と向き合うわけで。
「試験が終わった後、解答が発表されたろ。自分で答え合わせしたんじゃないのか?」
「してねえよ。怖くてそんな事出来るわけないじゃん!」
 はぁ……とハリー先輩が深い溜め息をついて頭を抱えてしまった。
「でも今まで試験勉強頑張ったんだろ?」
「頑張ったよ。死ぬほど頑張った。でも……」
「あーもう!いいからつべこべ言わず一緒に来いっ!」
 ついにイライラが頂点に達したハリー先輩は、俺の腕を掴むと渋る俺を引きずるように歩き出した。

 N大の構内にはたくさんの受験者が居た。自分の運命が下されるのを待つ、見るからに賢そうな顔、顔、顔──。家族や友達を伴って来ている者も大勢居るようだ。ある者は友達と談笑し、ある者は携帯で誰かに電話をし、ある者は一心不乱にメールを打っている。
 ざわめき、笑い声がしていても、この場には緊張感が漂っていた。
「どうやら、まだのようだな」
 校舎の正面玄関横には合格者の番号が貼り出されるスペースが設けられており、テープで仕切られている。その場所を中心に人々が集まっていた。
 さすが有名大学だけあってマスコミも来ていた。新聞社とテレビ局のカメラが季節の風物詩として決定的瞬間を捉えようとスタンバイしている。
 俺とハリー先輩はそんな人混みから離れ、庭の石塀に腰を下ろして発表を待っていた。
「あー、帰りたい……」
「まだそんな事言ってるのか。いい加減腹括れよ」
 秀才のハリー先輩には俺の気持ちなんてわからない……と心の中で呟いて、でも次の瞬間ハッと思い出した。
 彼は世界ランキングに挙げられるようなハイレベルの大学を受験したんだった。しかも滑り止めは受けなかったと聞いた。自分で退路を断って挑んだ受験……。いくら秀才とはいえ世界規模への挑戦はどれだけの重圧を感じていただろう。なのに、受験勉強中も受験終了後も、この人は弱音ひとつ吐かなかった。
「ごめんな……」
「何が?」
「……や、いろいろと……」
 ついでとはいえ、わざわざ合格発表に付き合ってくれた事。なのに泣き事ばかり言ってる事──。
「ハリー先輩、頼みがあるんだ」
 自分に対する厳しさを彼ほど持ち合わせてはいないけど、俺は俺なりに真剣だった。
「もし落ちたら、慰めなんか言わないで“この馬鹿!一浪して来年また受けろ”って背中蹴飛ばしてくれないか?……来年またチャレンジするから」
 さっきまではしゃいでいた俺が、実はいっぱいいっぱいだったのを感じ取ったのだろう。ハリー先輩は真顔で頷くとわかった、と言った。
「まず私が見てくるからお前は此処で待っていろ。それで落ちていたら罵って背中蹴飛ばしてやるよ、怪我させない程度にな」
「うん、サンキュ……」
 受験票の控えをよこせと言われ、バッグの中からその紙切れをごそごそ取り出しハリー先輩に渡した。受験番号を口頭で伝えても彼は俺を信用しないようだ。今の俺のヘタレ状態を見るならその判断は正しい。
「それにしても、お前は自分の事となると本当に弱腰になるな」
 俺は俯いて自分のつま先をぼんやり見つめながら、ハリー先輩の溜め息混じりの言葉を聞いていた。
「自分の努力を努力と認めないでいつも自信なさげ。何か辛い事があったとしても何も言わず笑って誤魔化して……。まったく、厳しいんだか甘いんだかわからない。おまけに人から好意を寄せられても全然気が付かない鈍感な奴──」
 ハリー先輩の口から出てくるダメ出しの連発にぐうの音も出ない。はあ、ごもっともで……と心の中で呟きながら黙って聞いているしかなかった。
「──でも、他人の事になると一生懸命になって、おかげでいつも貧乏くじ引いてしまう。それでもお前は笑っていて……。たぶん、そんな不器用で温かい所に惹かれたんだと思う」

 俯いたまま、虚ろだった目をぱちりと開けた。

「高校最後の1年間はいい事尽くしだった。でも、思い返してみるとそこにはいつもお前が居て、お前が私を一生懸命助けてくれたからだった。バイトを引き受けてくれた時も、夏祭りの日に励ましてくれた時も、試食会の時も……」
 問わず語りに言葉を続けるハリー先輩。おそるおそる顔を上げると、彼は清々しい顔をして青空を見上げていた。
「お前から想われている事はなんとなく気付いていた。友情以上の気持ちだって事もわかっている。男には興味ないはずだったのに不思議と嫌じゃなかった。それどころか嬉しいと思っていたんだ。でも、自分の気持ちは自分にもよくわからなかった。あの駅伝の時までは──」

『任せろっ!』

 どうか頼む!と縋るようにして俺にたすきを渡したハリー先輩。
「それを聞いて、こいつは絶対トップでゴールするって確信した。いつもはヘタレなお前があの時はびっくりするくらい頼もしい男で、思えばその時お前の事が好きだってはっきり自覚したんだろうな」

 俺は茫然と、本当にただ茫然と彼の顔を見つめるばかりで……。

「帰った時お前に伝えようと思っていた。こんな事言うのはお前を縛る事になってしまうし、いけないのはわかっている。でも、身勝手だけどどうしても今言っておきたい」
 空を仰いでいたハリー先輩が俺に視線を戻して言った。
「今はまだロンドンで身動きがとれないけど、H大を卒業したら帰って来る。だから、待っていてくれないか?その時まだお前の気持ちが変わってなければだけど」
 その時、校舎の方で動きがあった。どよめきが起こり、見ると正面玄関から二人がかりで掲示板を運び出す姿が目に入った。
「発表、出たようだな。よし、ちょっと見てきてやるか」
 ハリー先輩は立ち上がり、ジーンズの尻をパンパンと払うと校舎に向かって歩き出した。が、何か思い出したように立ち止り、振り返って言う。
「もしも、もしもお前が待ってくれるなら……次に帰ってきた時、今度は私から『キスしてほしい』って言うよ」
 そして再び背を向けて、ハリー先輩は人混みの中へと入って行った。
 合格番号を貼り出した掲示板の前は大騒ぎになっていた。自分の番号を見つけた受験者があげる歓喜の叫び、悲鳴。友達と抱き合って号泣する者、胴上げをする者たちも居た。勿論その一方で茫然と立ち尽くす者も居る。悲喜こもごもが交錯する構内。その様子を捉えようとマスコミのカメラが回りフラッシュが焚かれる。
 ハリー先輩は人垣を縫って最前列に辿り着いたようだ。遠目からでも決して見失わない金色の頭。

 そんな情景に目を向けながら、それまで放心状態だった俺は一人になって少しずつハリー先輩の言葉の意味を理解し始めた。

 俺の事が好きだって……。
 前から惹かれていたって……。
 待っていてほしいって……。

「俺の気持ちが変わってなければ、だって?何言ってんのあんた……。何年あんたの事だけを想い続けていると思ってんの……。どれ程あんたの事が好きで好きで堪らないと思ってんの……」
 思いは弱々しい呟きとなって声に出ていた。それは誰の耳にも届かない小さな呟きだけど、俺は声に出さずにはいられなかった。
「何度諦めようと思っても諦めきれなかったのに、今さら気持ちが変わるわけ……ないだろ……。だって……だって……」
 言葉が詰まった。視界がぼやけて掲示板に群れる人々の姿が霞んでいく。その中でハリー先輩の金色の頭だけがくっきり見えていた。

「だって俺、こんなにも愛しているんだよ……?」

 その時、ハリー先輩がこっちを勢いよく振り返った。右手を上に突き上げて大きな声で何か言っている。いつも冷静な彼がめずらしく興奮した様子だった。だが、周囲の歓声にかき消されてその声は聞こえない。今度は両手を口元に当て叫んでいる。
 ああ、何を言ってるのか聞こえない。
 ハリー先輩はこっちに来ようとしているが、人垣に遮られて動けないでいるようだ。彼は満面の笑顔で手を振っていた。

 ハリー先輩が笑っている──。彼が何故笑っているのかわからないけど、あんな嬉しそうなハリー先輩を見るのは初めてで、俺はそれが嬉しくて……。
 涙のフィルター越しに見るその光景はキラキラ輝いて、夢みたいに綺麗だった。


『ハリー・ブライアント、3年だ。お前は?』
『アクセル……』

 始まりの春──。
 季節は何度も巡り、俺たちは何度も出会いまた巡る。