運命のなかに偶然はない。
人間はある運命に出会う以前に、自分がそれを作っているのだ。
by.ウィルソン



 何もせず後悔するよりやって後悔する方がずっといい――なんて、最初に言い出したのは何処のどいつだろう。それは時と場合によるって事を、俺は今日嫌というほど思い知った。
「気分はどう?」
 保健室の美人センセが俺の額にひんやりした綺麗な手を当てて言った。
「悪くないです。でもちょっと眠い」
「そう、じゃあ少し眠りなさい」
 美人センセはそう言うと俺に背を向け、机に向かって書き物の続きを始めた。俺は白衣の後ろ姿にしばし見惚れた後、壁際に寝返りをうってそっと溜息をつく。
 眠いわけではなかった。ただ、何で自分が今こうして何処も悪くないのに保健室のベッドに寝ているのか、反省を込めてもう一度考えてみる必要があったんだ。

 この日、昼休みもそろそろ終わるという時間。体育係だった俺は5時間目の体育で使うサッカーボールを取りに裏庭の倉庫に向かっていた。
 倉庫の鍵を開けながら何気に校舎の方を振り返った時……。
「あ……ハリー先輩」
 憧れの人が体育館横の図書室から本の山を抱えて出てきたところだった。渡り廊下を行く姿に俺の心臓は途端に忙しなく動き始める。こんな風に朝のホームだけでなく、校内の何処かでその姿を偶然目に出来るのはこの学園生活の楽しみのひとつだ。
 それにしても、彼はよほど本が好きなんだろうな、と思った。以前見かけた時も図書室だった。しかもあんなにたくさんの本、一度に借りるんだろうか。だが、彼が向かうのは教室ではない。
 “何処に行くんだろう”、という疑問はすぐに“もしや”に変わった。ハリー先輩はこの裏庭に通じる裏玄関に向かってきた。
 こっちに来る!
 彼は10冊もあるだろう分厚い本を抱えて苦労して扉を開ける。そして真っ直ぐにこの倉庫に向かって歩いてきた。あの人は倉庫に本を置きに来ようとしているんだ。
 裏庭には俺の他に誰も居なかった。俺とハリー先輩の二人きり……。俺たちは今、ばったり顔を合わせようとしていた。初めての接近、ついに巡ってきたチャンス!

『そいつの前で倒れろ』

 この局面で、思い出してはいけないアイツの言葉が俺の頭の中に響いた。
 作戦その一。人に自分を印象付けるための馬鹿馬鹿しいアドバイス。勿論、俺は断じてそんな作戦を実行に移すつもりはない。どう考えてもコントだろ、それ。
 でも、頭の中のルカの声は黙ってくれない。

『馬鹿でもベタでもいいだろ?立ち上がって戦え!』

 ハリー先輩と二人きりで言葉を交わすチャンスをルカの考えた姑息な手段で台無しにするわけにはいかない。
でも言葉を交わすって、何て言葉を?それがわからないからルカに相談したんだけど。
 悩んでいるうちにあの人はどんどんこちらに近づいてきていた。鼓動が次第に大きくなっていき、焦りと緊張のため額に汗がつつつ、と流れた。

『降参するか?』

 その言葉についに俺は背中を押された。
 地面に両膝を着く。そして心の中で“えい!”と叫んで上半身を投げ出しうつ伏せになった。ハリー先輩との距離はわずか数メートルだった。
 その時──。
「おー、ブライアント。ちょっと待ってくれ」
 校舎の中から聞こえてきたのは、誰かわからないが先生の声。
「はい!」
「此処にあるやつも持ってってくれや」
「どれです?」
 顔を上げるとハリー先輩は校舎の方を向いていた。呼び止められ、声に従って玄関へと戻っていく。
 ちょ、待って!俺が目の前に倒れているでしょ!こっち向いて!お願い、振り返って!
 願いむなしくあの綺麗な後ろ姿は玄関の中へと消えてしまった。
 ああぁぁぁ……。
 気付いてもらえなかったこの寂しさ……。あまりの虚無感に地面から顔を上げられない。しくしくと悲しみに浸っていると頭上から声が降ってきた。
「おい!どうした!」
 弾かれたように見上げると真剣な顔をした先生が立っていた。
 げ!副担任!
「心臓か?心臓なのかっ!」
 咄嗟に固まる俺。違う、と言いたくても口があわあわと動くだけで言葉が出てこない。副担任は俺の傍らにしゃがみ込み、脈をとりはじめた。
「だ、だだだ大丈夫……です」
 俺は首をブンブン振りながら何とか起き上がろうとするも、動くな!と副担任に体を押し戻されてしまう。
 上級生の気を引くために倒れたフリをしただけです。……なんて、それ以外の言い訳が見つからない。が、勿論言えるはずがない。
「おーい!誰か来てくれ!アクセルが倒れた!」
 うわぁぁぁ!サイアク!

 この後、居合わせた生徒たちと駆け付けた他の先生が俺を取り囲み、もう少しで救急車を呼ばれるところだったが何とか阻止した。保護者に迎えに来てもらうと言うのも必死で止めた。レディ・ジョーに知られたらブン殴られるか大笑いされるかのどちらかだ。
 結局、“軽い貧血を起こしただけ”と必死に主張して保健室で休む事になり、騒動を最小限に食い止める事が出来た。
 俺がこんな目に遭うのも、それもこれもみんなルカのせいだ。あいつが俺に呪いをかけたんだ。ルカがあんな馬鹿げた作戦なんて立てなければ……。もっとも、馬鹿と思いつつその作戦に乗っちまった俺はもっと馬鹿ではあるけれど。
 ともかく、今後は人に頼らず自分で考えて行動しようと、俺は保健室のベッドで固く心に誓った。

 けれど、運命はこの後さらに転がっていく事になる。


 それから3日後の放課後。
 クラスの連中に誘われて、俺は体育館でバスケをやっていた。ふざけたルールでじゃれ合い、最後には何故かドッジボールに発展し、いい汗かいて帰ろうとした時だった。
 体育館の隣にある図書室の前を通り過ぎようとした時──。

「うわ!」

 小さな叫び声と共に物が落ちる音が聞こえて、思わず図書室の中を覗き込むと、そこに一人本棚を押さえるハリー先輩の姿があった。
 俺の気配を感じてか、ふいに彼がこっちを見る。
「おい、そこのお前!手を貸してくれ!」
 図書室の中は誰も居ない。後ろを振り返ったがやはり誰も居ない。俺?と自分を指差すと、ハリー先輩は何度も頷く。
「そう、のっぽのお前だ。助けてくれ!」
 ハリー先輩がこの俺に助けを求めている!
 彼が押さえる2メートル以上ものスチール製本棚が倒れそうになっていた。床には、この本棚から落ちたんだろう、分厚い世界史全集が何冊も散らばっている。俺は慌ててハリー先輩に駆け寄った。
「本を取ろうとしたら転倒防止のビスが抜けて倒れてきたんだ」
 見上げると壁と本棚を止めていた金具のビスがすっぽ抜けていた。その際、上に乗っていた重い本が落ちてきたらしい。実際彼の頭に当たったかもしれない。
「どうすればいい?」
「私が押さえているから本棚から本を全部下ろしてくれ」
 言われて大急ぎで作業に取り掛かる。ぐらつく本棚を全身で押し留めるハリー先輩は見ていてつらそうだった。
 自分を人より長身で力持ちに産んでくれた親に感謝したい。てきぱきと作業は進み、やがて全部の本を下ろし終えた。ハリー先輩が手を離すと、本棚は倒れなかったものの、ぐらりと大きく前傾した。完全に全体が歪んでいるらしい。
「あー、こんなボロいスチール棚に重い本を置き過ぎたんだよ。普通上段には軽い本を置くべきなのにさ。重みでこんなにたわんじまってるよ」
 おまけにビスが抜けた穴をよく調べると、もともとこの壁には下地がなかったらしい。壁を叩くとベコベコと間抜けな音がした。
「係の先生に言っておかないとな……。いずれにしても助かった。ありがとう」
 ありがとう……ありがとう……ありがとう……。その言葉が耳の中でエコーした。
 こんな至近距離で、めちゃくちゃ綺麗な顔で、俺の目を見てありがとうってハリー先輩が微笑んでいる。漫画風に表現するなら、彼の周りにパァッと花が咲き乱れた。……そんな感じ。ハリー先輩の役に立てて、感謝されて、幸せ過ぎてもうどうしていいかわからない。
 いやそんな、と俺が頭をかきながら照れていると、よいしょ!という掛け声と共にハリー先輩が本の山を持ち上げた。
「どうするの?それ」
「この全集は廃棄する本なんだ。裏の倉庫に持っていく」
 これ全部?と訊くとそうだと答える。
「じゃ、俺も手伝うよ。二人でなら一回で運べるでしょ?」
 俺の申し出に彼はちょっと躊躇した後、頷いた。