結局、世界史全集は二人がかりとはいえ一回で運ぶ事は出来ず、俺とハリー先輩は図書室から倉庫までを二往復した。
「図書委員なの?大変だね」
 この量の古本を一人で片付けるなんて結構な重労働だ。
「いや、私は図書室を頻繁に利用しているからな。あんまり毎日担当の先生に会うもんだから軽いノリで頼まれたんだ。近々新しい本が入るから入れ替え作業手伝ってくれって。それはいいんだけど、毎日ぼちぼちやってみるとなかなか大変なんだ。引き受けてちょっと後悔した」
 そう言ってハリー先輩は苦笑した。なるほど、だからこの前も本を抱えていたのか、と図書室での目撃率が高かったのも納得出来た。そして思う。あまり人と一緒のところを見ていないから、誰も寄せ付けない気難しい人なのかとも思っていたけど、本当は真面目で優しい性格なんじゃないだろうか。
「帰るところだったんだろう?悪かったな」
 本を抱えて俺と並んで歩きながら、ハリー先輩はそんな風に言う。俺は笑って首を振った。
「全然構わねぇんだ。俺、部活やってないし塾に行ってるわけでもねーしさ」
 悪いどころか、一日の終わりにこんなラッキーな事が起こって、俺は嬉しくて嬉しくて叫びたい気分だ。今日初めてこの人と言葉を交わした。俺を見てくれた。並んで歩いた。ハリー先輩と出会って2年。一目で憧れて、此処まで追いかけてきて、その間どんなにこんな日が来ないかと夢見た。
 何とか近付けるきっかけはないかとあれこれ考えたけど、こういう“イベント”は実は最初から俺の人生に用意されていたんじゃないだろうか。だとしたら、これは運命ってやつ?
 そして、今さらながら俺は気付いたんだ。俺、何の気負いも緊張もなくごく自然にハリー先輩と会話している。最初の第一声はさぞかしどもったり声がうわずったりするんだろうなと思ってた。でも俺たちはまるで前から知り合いだったみたいだ。それはきっと、ハリー先輩が思いのほか気さくな人だったからだろう。
「お前、新入生か?」
 ハリー先輩が俺を見上げて言った。俺がうんと頷くと彼は俺のつま先から頭のてっぺんまで眺める。
「でっかいな……。今どきの若い奴は発育がいいんだな」
 呆れたように言われて笑ってしまった。今どきの若い奴って、俺とあんたは2歳しか違わないでしょ、とツッコミを入れたくなる。
 そんな話をしながら、俺たちは世界史全集の山を倉庫に納め、鍵をかけて作業を終わらせた。
「お前のおかげでホント助かった」
「お安いご用だよ、こんなの」
 作業が終わってしまったら此処でバイバイなんだろうか……。さっきまでは浮かれていたけれど、ひょんな成り行きで手を貸しただけで、俺たちは友達になったわけじゃないんだ。俺は通りすがりの下級生にすぎない。
 このまま別れたくない。もっと話していたい。どうすればいいんだろう!
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
 そんな俺の胸の内など知る由もなく、ハリー先輩は爽やかにそう告げると手を上げてその場を去ろうとした。その時――。
 音もなく物陰から4人の男たちがわらわらと現れてハリー先輩の進路を塞いだ。
「どーもぉ」
 一人がだるそうな、どこか人を小馬鹿にしたようなもの言いでうすら笑いを浮かべる。
 4人とも目付きの悪い連中だった。いくつものピアスを付けた奴、髪をツンツンに立たせた奴、顎ヒゲを生やした奴……。見るからに真面目とは言い難い風貌。声をかけた男は黒髪で長髪のガタイのでかい奴だった。だらしなく着崩された制服はこの学校のものではない。
「ハリー・ブライアントって、あんた?」
「……そうだが。何だ?お前ら」
 それを聞いた黒髪ロン毛はうすら笑いを深める。
「あんた、ウチのガッコの女と寝たよな?寝ただけじゃなく孕ませて捨てたって話じゃねぇか。可哀相にそいつは退学になるわ親に勘当されるわ、大騒ぎになってるんだけど、どうしてくれんの?」
 そいつの穏やかならぬ話に、ハリー先輩は少しも顔色を変える事なく淡々と言葉を返した。
「全然身に覚えがないな。人違いだろう」
「いーや、あんただ!実はその女は俺らの先輩のコレでよ、先輩は怒りまくって仲間集めてるぜ。この学校に乗り込むんだってな!」
 ロン毛は、コレと立てた小指をちらつかせ凶暴そうな目つきで詰め寄って来た。
「先輩を止めたいならそれ相応の慰謝料を払ってもらわなきゃな!」
「そうそう。それとも罪のない同級生たちも巻き込むか?」
「言っとくけど、先輩の兄貴は“その筋”の人だからな。ごめんなさいじゃ済まねぇぜ?」
 ツンツン頭とピアス野郎とヒゲも口々に凄む。
「ちょっと……待てよ、てめーら!」
 今まで事の成り行きを見守っていた俺はもう黙ってはいられなかった。ハリー先輩も含め、一斉に俺の方を振り返る。
「この人は身に覚えがないって言ってんだろ!人違いじゃないってんならその子を此処に連れてこいよ!」
「はあ?ンだとコラ!」
 俺は勿論ハリー先輩がそんな事をする人じゃないって信じている。この連中の言いがかりにむかっ腹が立った。そしてこの人を守りたいって本気で思った。来るなら来やがれ!と連中に一歩踏み出した時、視界の隅に人影を見つけた。木の陰からそっとこちらを見ている男……。
 ルカ!?
 ルカは俺と目が合うとニカッと笑い、大きく頷いて親指をグッと立てた。
 思い出した……。そうか、そういう事か!
 ベタなボーイ・ミーツ・ガール、作戦その二。つまり、この連中はルカの言ってた“知り合い”だ。他校の上級生って事はこいつらがルカに押しかけ舎弟してきた奴らだろう。要するに、これは全部芝居だ。
 ハリー先輩とひょんな事からいい感じで話が出来て姑息な作戦なんかもう必要じゃなくなったなんて、ルカは知る由もない。親友のためにひと肌脱いだ気になって、ヤツは得意満面だ。
 なんてこった、ルカの呪いはまだ解けてなかった……!
「けっ!威勢がいいのは口だけか?なんならお前がこのスケコマシの代わりに責任取ってくれてもいいんだぜ!」
 ロン毛は、真相が読めてボルテージが真っ逆さまに落ちた俺に向き直った。
「待て、そいつは無関係だろ?そいつに構うな。それに人違いだって言ってるだろうが、このヅラ野郎……」
 今まで冷静だったハリー先輩の声が急に低くなる。周囲の温度が一気に下がったような感じがしたのは気のせいだろうか……。
「言ってくれるじゃねぇか……。そのすました顔、ふた目と見られなくしてやるぜ!」
 たぶん自慢であろうロングヘアをヅラ呼ばわりされキレたロン毛は、ポケットから細めのチェーンを取り出すとそれを右の拳に巻き付けた。他の3人がハリー先輩を取り囲む。
 やらせだとはわかっていても、さすがに武器まで出されて俺は焦った。ここまで迫真の演技をする事はないんじゃないか?本当にハリー先輩が怪我させられたら……。
 ロン毛はもう一方の手でハリー先輩の胸倉を掴み、拳を振り上げたその時――。俺の身体が勝手に動いた。
「やめろっ!」
 思わず振り上げた腕にしがみ付いた。いきなり後ろから引き倒されそうになってロン毛はバランスを崩す。慌てた奴は咄嗟に体勢を立て直そうと、俺を振り払うように腕を大きく引き戻した。
 適当に戦うふりをすれば不良どもは勝手に負けてくれる、なんてルカは言ったけど、そんなのは無理だ。プロのアクション俳優でもないのに、打ち合わせもなしにぶっつけでそんな立ち回りなど出来るはずがない。それに、この時の俺は本気でロン毛を止めようとがむしゃらだったんだ。
 ガツッ!
 チェーンを巻いた拳、ではなく肘が顔面に入った。痛みよりも熱い衝撃が顔のど真ん中に走る。目の前が真っ暗になって倒れそうになったが、寸でのところで足を踏ん張った。俯いて顔を押さえていると鼻の奥に水っぽい感覚が起きる。ああ、まずいな……と思い顔を覆っていた手を離すと、案の定手のひらにポタリと鮮血が落ちた。
 顔を上げると、ロン毛が腕を振りかざした格好のままぎょっとした顔で俺を見ている。ハリー先輩も同様に胸倉を掴まれたまま目を見開いていた。
「貴様……よくもウチの新入生を……」
 ハリー先輩の静かな声は怒りに震えていて、まるで雄ライオンの唸り声そっくりだった。
「え?あ?……ちょ……!」
 ……と言ったのはロン毛だ。奴の顔がみるみる蒼くなっていく。胸倉を掴む手を逆にハリー先輩に掴まれ引き剥がされる。ぐぎぎ、と音がしそうな程の握力を感じた。
 俺は、人間の髪の毛が怒りで逆立つのを初めて見た。殺気が陽炎立って目に見えるという信じられない現象も目の当たりにした。……正直言って怖い!
「やめ……ひっ……!」
 ロン毛は悲鳴をあげる間もなかった。恐怖におののき短く息を吸い込んだところでハリー先輩の回し蹴りが横っ面に入った。……と思う。早くてよくわからなかった。
「てめ……!調子に乗りやがって!」
 仲間が蹴り倒されてカッとしたツンツン頭がハリー先輩に殴りかかる。が、拳が届く前に早さもリーチも上回った彼の足裏に顔から突っ込んだ。弾き飛んだツンツン頭の後ろに居たピアス野郎も巻き添えに、二人はもつれ合って地面に転がった。
 つ、強えぇ……!
 ハリー先輩は、頭が良くて美人なだけじゃない。メチャメチャ強かった!俺は鼻を押さえながら、彼の流れるような大立ち回りを見守っていた。そして、ルカの事を思い出してさっきの木の方を見ると、奴の姿は影も形もなかった。
 あの野郎、逃げやがった!
 ハリー先輩は残ったヒゲの奴にじりじり迫っている。だがそいつは最初から戦意を喪失していて、地面にへたり込みケツで後ずさっていた。
「今度またこんな事したら次は手加減しないからな。わかったらさっさと此処から出て行け!」
 ロン毛もツンツン頭も大したダメージではないらしく、起き上がってやって来た方向へと小走りに駈けて行く。“話が違うぞ!”“どうなってんだ”という呟きを残して……。
 連中が去っていくとハリー先輩は俺の傍に駆け寄り、顔を覗き込んできた。
「大丈夫か?」
 目の前に居る美形のヒーローに何だか顔が熱くなる。つい――。
「……た、助けてくれてありがとう」
 あれ?何でこうなる!
「それにしても、強いんだね……」
「ああ、3歳から空手やってるからな。でも相当手加減した。本気でやると相手に大怪我負わせちまうから」
 そう言うハリー先輩に俺は目をひんむいた。ルカの情報ネットワークもそこまでは掴めなかった驚愕の特技。そしてこの人がこんなに強いんじゃ、俺は永久にカッコいい見せ場なし決定だ。なんか溜め息しか出ない……。
 俺がしょんぼりしているとハリー先輩が言った。
「変な事に巻き込んじまったな、悪い」
 あんたが詫びる事ないんだ、悪いのは俺なんだ……。そう言いたかったが、話がややこしくなるんで俺は口をつぐみ、首を横に振るしかなかった。
 
 まずは血を洗い流した方がいい――、とハリー先輩に言われ、裏玄関横の手洗い場で俺は手と顔を洗った。顔面に食らったのが肘でよかったと思う。もしチェーンを巻いた拳だったらきっと鼻血だけで済まなかっただろう。
 まだじわじわと出血していたのでハリー先輩が差し出すティッシュを鼻に詰めた。カッコ悪い……。すこぶるカッコ悪い!
 憧れの人にこんな超みっともないツラ晒すなんて情けなくて死にたくなった。でも、ハリー先輩が言った言葉に俺は耳を疑った。
「お前、勇敢なんだな」
 え?勇敢?俺が?弾みで肘鉄食らってあっさり撃沈して、間抜けな鼻ティッシュのこの俺が?
「武器を持った相手に向かっていくなんて、普通は怖くて尻ごみするぞ?」
「でも、それは……!」
――あんたが怪我させられるのが嫌だったから。
「私を助けようとしてくれたんだよな」
「……」
 ああ、ハリー先輩……。
「サンキュ……」
 俺はこの人の事、まだ1パーセントも知らないんだろう。でも思ったんだ。俺、彼を追ってこの学校に入った事、絶対後悔しない。
「あ、そういえばまだ名前聞いてなかったな」
 ハリー先輩はそう言うとあらためて俺に向き合った。
「ハリー・ブライアント、3年だ。お前は?」
「アクセル……」

 始まりの春、ハリー先輩が見る風景の中に俺が加わった日。そんな、俺の人生で記念すべき1ページなのに俺の鼻にはティッシュが詰まっているけれど……まあ良しとしよう。
 結果オーライってやつだ。