人間は常に迷っている。迷っている間は常に何かを求めている。
by.ゲーテ



 午前7時半──。平和で退屈な街にまた朝が来る。サラリーマンは会社に、学生は学校に、それぞれの目的地を目指して人々は西へ東へと移動を始めていた。
 地下鉄のホームに立って俺はぼんやり人間ウォッチングをする。引きつった笑顔で頭を下げながら携帯で話している会社員、一心不乱にメールしているOL、友達とふざけ合っている学生。そんな、いつもと変わらないホームの光景……。
 だけど、最近変わった事がある。
 もうそろそろ、と俺が落ち着かない気持ちになって時計を見た時、彼が現れた。
 雑踏の中で俺の姿を見つけてもハリー先輩はにこりともしなかった。もちろん手を上げるわけでもない。だからといって彼が不機嫌なわけではないって事は知っている。無表情、というよりいつもの真面目な顔でハリー先輩は真っ直ぐ俺の方に向かって歩いてきた。
「おはよ、ハリー先輩」
「ああ」
 そう言うと彼は少しだけ表情を和らげた。
 他校の不良たちに絡まれた例の事件の翌日から、俺とハリー先輩は毎朝一緒に登校するようになった。……いや、この言い方は語弊がある。正確に言うと地下鉄駅から学校に着くまで話をするようになった。もともと同じ駅から地下鉄に乗り、同じ駅で降り、同じ学校に通う者同士。赤の他人として離れて歩くか、肩を並べて話しながら歩くかでは大きな違いだ。
 また一歩。これは大きな前進だ。
「それにしても、俺ら同じ街に住んでいるなんて奇遇だよなあ。ハリー先輩の家ってどの辺?」
「でかい総合病院があるだろ?レンガ風の壁の。あの北側だ」
「あー、わかる。俺んちからそんなに遠くないじゃん」
 家が近いとわかってハリー先輩との距離がまた詰まった気がして嬉しい。
「あの辺ってことはマンション?」
 本当は訊かなくても知っている。でも知らないふりをして訊いてみた。彼の口から直接教えてほしかったからだ。
「ああ。なんせ不器用な野郎の一人暮らしだからあの辺は立地も便利で都合がいいんだ。コンビニも近いしな」
 何気に一人暮らしという事も語ってくれた。それは俺に対してある程度信頼してくれてるって事だろうか。普通なら誰かが一人暮らしをしていれば、俺らの年頃の男どもはたまり場にしたがるものだろう。
 家も近いし今度遊びに行っていい?って、本当は言いたかった。でも、そんな事言うわけにはいかない。信頼してくれているならなおさら。それに、そんな馴れ馴れしい事が言えるほど俺たちは打ち解けた関係ではない。
「そうそう、コンビニは命綱だよな!」
 だからそう言って俺は笑った。今は少しずつハリー先輩の事を知って、俺の事も知ってもらって、彼にとって大切な友人に思ってもらえたらいいと思う。いつか、学校以外で会ったり遊びに行き来する関係になれるだろうか。
 ホームに入ってきた列車の風に吹かれて俺はそんな風に思った。


 その日の昼休み、屋上でいつものように弁当を食っている時ルカが言った。
「俺に感謝しろよ?」
「ハァ?何だよそれ」
 俺はこいつの姑息な策略に乗っかったおかげで危うく救急車に運ばれそうになったり、教師の間で病弱のレッテルを貼られるとこだったり、不良の肘鉄を食らって流血したり、碌な目に遭ってない。恨みこそすれ、感謝しなきゃならない理由なんかひとつもなかった。
「俺の演出のおかげでドラマチックな展開になれただろ?」
 ハリー先輩が不良どもを蹴散らして雲行きが怪しくなると逃げたくせに、今得意満面になっているこいつに腹が立つ。
「俺とハリー先輩はな、お前の作戦なんかなくたって自然な接近が出来たんだよ!むしろ陰でこんな企てがあったなんてあの人が知ったら、思いきり引かれそうで俺は不安だっ」
 俺がそう噛みついても当のルカは煙草を燻らせながら、ムカつくほどの冷静さでフンフンと頷いた。
「お前の言うように自然な出会いで俺なんかお呼びじゃなかったとしよう。で、最後の俺が仕込んだアクションシーンがなかったとして、お前はだめ押しの印象を残す事が出来たか?自力で次に繋げられたか?」
 それに対して返答に詰まっていると、今まで上品にサンドイッチを齧っていた男が横から口を挟んできた。
「あたしもルカの言う事に一理あると思う」
「──ンだよ、キャンディまで……」
 キャンディはルカと同じく小学校からの友達で、俺がハリー先輩に憧れている事を知っているもうひとりの存在だ。もっとも、ルカがバラしたんだけど。俺とハリー先輩が一歩進展した話を詳しく聞こうと、今日は屋上での昼飯に加わっていた。
 キャンディは、はっきり言って可愛い。洋服のセンスも抜群だ。街を歩けばファッション雑誌のカメラマンから一枚撮らせてくれだとか、モデルをやってみないかだとか、スカウトされた事が何度もある。性格も勝気な半面人情家で、男子からも女子からも慕われている。
 だけど、キャンディは正真正銘男だ。いや、漢だ。入学早々、モチベーションどん底で廃部寸前の応援団部に入部。先輩団員に喝を入れ、その男らしさに男惚れされ、ついには団長に祀り上げられた。1年生なのに、だ。
 男なのに女にしか見えなくて、尚且つ自ら最高に男臭い世界に身を置いている。その複雑怪奇な精神構造はもう神秘と言ってもいい。
「全部ルカのおかげとは言わないけど、キッカケにはなったじゃない。不良に絡まれた後、勇敢だって言ってくれたんでしょ?彼の方から自己紹介してくれたんでしょ?」
「……ああ。まあ、な……」
 ハリー先輩の手伝いをして別れるのとその後の展開と、結果的にどっちが良かったかは考えるまでもない。俺はムカつきのやり場を失って手持無沙汰に頭をかいた。
「結果には原因もキッカケもあるの。これからハッピーになるかアンハッピーになるかはあんた次第なんだから、ここからが頑張りどころじゃない」
「な〜!」
「ね〜!」
 キャンディとルカは双子の姉妹みたいに顔を見合わせて無邪気に微笑みを交わす。札付きのワルとオカマが何でこんなに気が合うのか、ずーっと前から不思議でしょうがない。
「あたし、あんたのガッツ凄いと思ってるのよ。必死に勉強して名前も知らない憧れの人と同じ学校に入るなんて、そう簡単に出来る事じゃないわ」
 その時、屋上に応援団員が一人やってきた。そいつは俺とルカに「押忍!」と一言挨拶すると、かしこまった言葉づかいでキャンディに打ち合わせの時間だと告げた。
「じゃあ、あたしはもう行くけど……」
 キャンディは立ち上がると応援団のロング上らんをパンパンと払い、言う。
「アクセル、あんたの事、全力で応援してあげるからね!」
「いや、いいです」
 こんな熱血オカマに応援されたら何が起こるかわからない。
「遠慮しなくていいのよ?あたしを誰だと思ってるの?」
 応援団部の凄腕団長。しかも女子にありがちな恋愛に関してすぐ首を突っ込みたがる性分。さらに豪気で猪突猛進型でやる時は徹底的にやるという、方向が間違えば怖いタイプ。
「あの、気持ちは嬉しいんだけど、心の中だけで静か〜に応援してて、ね?……」
 機嫌を損ねないようやんわりと拒否ったけどちゃんと伝わったのか、キャンディは腰に手を当てて、もちろんよと微笑んだ。
「よかったなあ、アクセル!」
 ルカは俺の肩をポンと叩いてにやにやする。何がよかったなだ。俺はこいつらにオモチャにされてるんじゃないかって気がしてきた。


 6時間目の授業が終わりホームルームも終わり、今日が掃除当番だった俺はクラスの連中とふざけながら教室の掃除をしていた。モップがけのはずがいつの間にかアイスホッケーごっこになり、女子から「真面目にやりなさいよ!」と怒鳴られる。
 開け放った窓から気持ちのいい風が入ってきて、俺は誘われるように窓辺に立った。グラウンドでは野球部が練習をしていた。その周りを柔道部が走り込みをしている。ひとつの目標に向かい仲間たちと一丸となって突き進む。そこに疑問など持たない。風に乗って聞こえてくる彼らの掛け声を聞きながら、俺はほんの少し彼らの情熱を羨ましく思って眺めた。
 小学校、中学校と俺は陸上部だった。この高校の受験を目指してからすっぱり辞めたが、それまでは大会にも出場していたスポ根少年だった。でも高校に入ってからは続けて陸上部をやろうとは思わない。たぶん自分の中でやり尽くした感があったんだと思う。
 でも、何か始めたい。高校生活にも慣れてきた今、外に目を向ける余裕が出来た。
 キャンディは応援団部に入ってイキイキとしている。ルカは部活こそやってはいないが俺の知らない所でたくさんの経験を積んでいるように見える。何だかみんな俺を追い越して大人になっていくような気がする。
 ハリー先輩は何かやっているんだろうか。俺は彼の事をほとんど何も知らない。でも2歳の年の差は、俺は彼より2年分経験が足りないという事なんだ。
──あの人に追い付きたい。このままじゃだめだ。
「バイトでもすっかな……」
 そんなひとり言を呟いた時、突然後ろから膝かっくんされて振り返った。
「どうしたー?シリアスな顔しちゃって」
 と言いながらヘッドロックしてきたのはこのクラスで仲のいい奴。
「バイトが何だって?お前バイトすんの?」
「あー、考え中。うちのガッコ、バイト禁止じゃないよな?」
「禁止じゃねーだろ。結構居るぜ、やってる奴」
 そいつは俺の首を離して俺と窓辺に並んだ。後ろから「サボんな!」と声がかかって、俺たちは雑巾で窓枠を拭くフリをしながら話を続けた。
「みんなどんなバイトしてんの?」
「いろいろみたいだぜ。スーパーのレジ打ちとかコンビニとかマックとか……」
「お前は?」
「ホスト……嘘。運送屋の荷物の仕分け。キツイけど給料いいし労働しているって充実感がある」
 みんな結構忙しくやってるらしい。今は食っていくために金を稼ぐわけじゃないから給料は安くてもいい。それより何か今まで知らなかった事をやりたい。
 グラウンドではキャンディ率いる応援団と吹奏楽部の助っ人数人が応援の練習を始めていた。野球部の地区予選が来月から始まる。野球部の練習も熱が入っているが、それを応援する応援団も毎日放課後に練習をしていた。
 しわひとつない長上らんにたすきをかけ、白い手袋と鉢巻といういでたちのキャンディは勇ましい事このうえない。こんな姿を見たらファッション雑誌のスカウトマンも声をかけようなんて思わないだろう。
 ドーン、ドーン──と大太鼓の音が鳴り響き、吹奏楽部のトランペットが高らかに応援歌のフレーズを奏でる。キャンディの指揮で応援団員たちが太い声で斉唱した。
「アクセル、もしバイトするなら今のうちだぜ。3年になったら大学受験でバイトなんかやれなくなるし、レベルの高い大学目指してるんならはなっからバイトなんてやらねえけどな。女と付き合うにしても金かかるし、いずれにしても今しかないだろ」
 女と付き合うにしても……。
 俺が付き合いたいと思うのは女の子じゃなくて……。ハリー先輩と街を歩いたり映画に行ったりする場面を想像した。
──あの人が暇じゃないのはわかっているけど……。
 グラウンドでの応援歌は一番が終わったところでキャンディがでかい声を張り上げた。
「二番〜!アクセル君に捧げる応援歌ぁ〜!始めっ!」
 なんですと?

 若獅子集う学び舎の
 栄えある旗を振り上げて
 勝利に懸けたる心意気
 見よや不屈のこの魂
 馳せる我が友奮い立て
 (パッパラー、パッパラー、パーラーラー)
 かっ飛ばせー!アークセルッ!

 うわあぁぁぁぁー!
「何だ?これ、どういう応援?」
「え、アクセル?何でアクセルの応援なの?」
「なにこれー!アハハハハ!」
 ゲリラ的な応援歌に、掃除していた連中が全員押し寄せて来て窓の外に身を乗り出す。
「三番〜!引き続きアクセル君に捧げる応援歌ぁ〜……」
 キャンディの凶暴かつ大迷惑な羞恥プレイはまだ続くらしい。……俺が一体何をした!
「……アクセル、お前めっちゃ応援されてるなー」
 頼む、誰かあいつを止めてくれ!


 数日後の金曜日──。
「おはよ、ハリー先輩」
「ああ」
 そんな風に、いつものようにホームでハリー先輩と朝の挨拶を交わして、俺たちは昨日観たテレビの話をしながら列車に乗り込んだ。
 明日は休みとあってか、車内の学生たちはどこか浮かれていた。喜々とした顔でみんな週末の予定を話し合っている。そんなはしゃいだ空気の中、俺と並んで吊り革にぶら下がっていたハリー先輩が言った。
「そういえばお前、部活もやってないし塾にも行ってないって言ってたよな。学校が終わったらどうしてるんだ?」
「んーと、そうだな……。ダチと街ぶらして遊んでいく事もあるし、真っ直ぐ帰って家で漫画読んだりテレビ観たりゲームやったり……」
 いや、もちろん勉強もしている。嫌でもやらなきゃあの学校で脱落しちまう。でも、こうして挙げてみると何て怠惰なんだ、俺の日常って。
「そうか。じゃ、暇なんだな」
 ハイ、すみません……。恥ずかしいやら情けないやら、なんか肩身の狭い思いで萎れていると、ハリー先輩が驚くような事を言った。
「……お前、バイトやる気はないか?」
「えっ?」
 正直、びっくりした。ここ最近俺が考えている事をどうして知っているんだろうと思った。
「実は、誰か居ないか?ってバイト先の店長に頼まれたんだ。給料は多くないけど、もしお前に少しでも興味があったら……」
 バイト先って、ハリー先輩はバイトしてたのか?俺がそう言おうとした時、車内アナウンスが下車駅の到着を告げた。
「あ……詳しい事はまた後で話す」
 ハリー先輩はそこで話を打ち切ったけど、俺の胸はどきどきしていた。
 どんなバイトなのかわからないけど、店長って事はどうやらそこはお店で、ハリー先輩と校外で一緒に仕事が出来るって事で……。

『かっ飛ばせ〜!』

 俺の答えは決まっているよ。だって、あんたの事、もっと知りたい。