乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ。
by.ツルゲーネフ



 土曜日の午後。俺は隣町を自転車で走っていた。歩くには少々遠いが地下鉄を使うほどではない距離。自宅から自転車で20分くらいだろうか。
 大きなビルはないがこの通りはオシャレな若者にとって穴場的な所だ。古い店を改造したブティックやレストランが並ぶ。勿論昔ながらの古い商店も健在だ。此処は新しさのエネルギーと古さの情緒がいい感じに入り混じっている街だった。
 ハリー先輩に指定された店はその通りの角にあった。
『カフェ・バードガーデン』
 5階建ての商業ビルの1階にあるその店は以前から知ってはいた。白い外壁にペパーミント・ブルーの窓枠が印象的でいかにも女性が好みそうな可愛らしい店構えだ。俺は入った事はないが、ウインドウから中を窺うといつも客のほとんどは女性だった。
 ガラスのドアを押して店内に入るとそこは明るく爽やかな空間だった。ふと天井の高さに導かれるように見上げる。すると頭上にはたくさんの鳥のモビールがぶら下がっていて、プラスチックの鳥たちは空調の微風に乗ってふわふわと揺れていた。

──うわ、本当に鳥が飛んでいる……!

 そのちょっとした空間の演出に俺は見惚れてしまった。スズメ一羽見かけないこんな交通量の多い繁華街の一角だが、店の中は別世界でここはたしかに“鳥の庭”だ。
 アイボリーを基調とした明るい店内には静かにボサノバが流れていて、カップルや女性客でテーブルはほぼ埋まっていた。普段の俺には不似合いな雰囲気に少しだけ落ち着かない気持ちになる。
「アクセル」
 厨房の方から声をかけられて振り返ると、腰にギャルソン・エプロンを巻いたハリー先輩が立っていた。
「店長、来ました」
 ハリー先輩は奥にそう声をかけると俺に向かって手招きする。ようやく俺はホッとして彼に招かれるまま厨房の奥へと入っていった。

「君、背高いねぇ。本当に1年生かい?」
「はい、高一っす!」
 感心した口ぶりでじっと見つめられ、俺は照れ笑いして頭をかいた。
 厨房の奥で俺と向かい合って座っている中年男性。年は40半ばといったところで、人懐っこそうな笑みを浮かべていた。少し小太りな身体をシェフの白衣で包んでいる。──この人がこの店のオーナーで、俺は一応面接とやらを受けていた。
「バイトは初めてなんだね。親御さんにはちゃんと言ってある?カフェのアルバイトに反対はしてない?」
「あ、もう言ってあります。店の人に迷惑かけないようにしろって言われました」
 レディ・ジョーは反対するどころか、健康で暇ならバイトくらいやれと言うタイプだ。それに、実はレディ・ジョーもバーを経営している。昨夜此処のバイトの話を打ち明けると想像通りのリアクションだった。
「そうかい、それなら良かった。あ、一応学生さんだからさ、試験前とかは勉強の方優先してくれていいから。本当は来てもらうのはもう少し後でもいいかなって思ったんだけど、夏祭りは結構忙しいから今がいいタイミングだったよ」
 それって、採用決定って事だろうか……。その疑問をおそるおそる口にすると店長は笑いながら頷いた。
「勿論そうだよ。ハリーが連れて来る子は無条件でオーケーのつもりだったからね。僕は出来れば明るくて元気な男の子だったらいいなぁって思ってたけど、君は明るいし意外と真面目にやってくれそうだ」
「ありがとうございます。頑張ります」
 ハリー先輩がいかに店長から信頼されているかがわかる。そして真面目にやってくれそうと俺を見てくれて嬉しかった。人からチャラチャラしているって言われる事が多いから、そんな言葉に驚いた。
「ハリーにはもっと居てほしかったけど、受験が控えているからねぇ……。だからこれから彼の後頼むよ。まあ、ハリーと同じシフトにするからいろいろ彼に教わって」
 そうなのだ、3年生の宿命。大学受験に向けてハリー先輩はもう少ししたらバイトを辞める。彼は自分の後釜を探していたんだ。ずっと一緒に働けるわけじゃない。寂しい事だけどこればかりは仕方のない事で……。
「ところで、今までウチの店に来た事ある?」
「あー、すみません。中に入るの今日が初めてデス……」
 何だか申し訳なくってまた頭をかいた。
「いいんだよ。カフェなんてあまり中高生の男の子は来ないでしょ?ウチの客層は女の人やビジネスマンが多いしね」
 たしかに、まだガキんちょの俺らがコーヒーを飲もうと思ったら安価なファーストフード店だ。
「まだ此処の味知らないなら何か飲んでいきなよ。コーヒー以外もあるから好きなの注文したらいい。ハリーももう少しで上がるから飲みながら待っててあげて」
 面接が終わった後、俺とハリー先輩は何か約束しているわけではない。でも店長は俺たちが一緒に帰れるように配慮してくれたようだ。もしかしたらハリー先輩が事前に店長に言ってくれたのかも。なんて、そう考えるのは虫がいいだろうか。

 店のおごりでアイスカフェラテを飲んでいると、勤務が終わったハリー先輩が俺の席にやってきた。
「お疲れさん」
「待たせたな」
 目の前に座ったハリー先輩。当たり前だが私服姿だ。思えば学校の制服以外の彼を見るのは初めてだった。明るい色のカットソーにブルーのジーンズ……。凄く似合っている。そんなハリー先輩を見ていると、俺たちは今プライベートの時間を一緒に過ごしていているんだって実感する。そして一層この人が身近に感じられた。
 それに、この店の制服……。
「何ニヤニヤしてんだよ」
 心に思った事が顔に出ていたらしく、ハリー先輩が不審そうな目で俺を睨む。
「いや、ハリー先輩のエプロン姿?ギャルソン姿?カッコいいなぁと思ってさ」
 白シャツに黒ネクタイ、黒パンツ、そして腰に巻いたギャルソン・エプロン。ハリー先輩はとにかくそんな恰好がよく似合っていた。姿勢の良さも手伝って、大人っぽい白と黒の服装はすらりとした細身の体型を引き立てている。
「女のお客さん、見惚れるだろうなあ」
「何言ってんだか。お前だってこれ着るんだぞ?」
「え、マジ?何かコスプレみたいで面白そう!」
 そんな俺の言葉にハリー先輩は呆れたように笑って席を立ったので、俺も残りのアイスカフェラテを飲みほし彼の後に続いた。
 俺は表に停めてある自転車のチェーンを外しながら、ふと思った。ハリー先輩は自宅から此処まで一駅分の道のりを地下鉄で来たのだろう。たしかに徒歩では遠過ぎるが、地下鉄駅まで下り改札を抜け電車を待つのも面倒な事だ。
「あのさ、真っ直ぐ帰るんなら後ろ乗ってかねえ?」
 自転車の後ろをひょいと指差し俺がそんな風に申し出ると、彼は一瞬目を丸くした後咎めるように顔をしかめた。
「送ってくれるのは嬉しいが自転車の二人乗りは違反だぞ?」
 ああ、どこまで真面目な人なんだ……。まあ、それも魅力のうちではあるんだけど。
「もし警察に呼び止められたらパトカー振り切って逃げてやるよ!」
 一瞬の沈黙の後、今度こそハリー先輩は笑い出した。彼はどうやら違反行為に加担してくれるらしい。
「じゃあ、うち寄ってかないか?」
 今度は俺が目を丸くする番だった。
「ハリー先輩んち?行っていいの?」
「ただ送ってもらうのも悪いから茶くらい飲んでけよ。あ、この後用事がないならだけど……」
「暇!行く行く!」
 憧れの人が俺をプライベート空間に招いてくれた。はっきり言って初めてカノジョの家に(しかも一人暮らしの)足を踏み入れる野郎の心境だ。やったー!と叫びたい気持ちを必死に堪える。異常な喜び様をあらわにしてドン引かれたくはない。
 ハリー先輩を後ろに乗せてペダルをこぎだす。すると彼が思い出したように俺に命じた。
「途中コンビニに寄れ。冷蔵庫に何もないんだ。何か飲み物と、それからお菓子も……」
「オーケー、オーケー!」
 背中に感じる体温に、心臓がバクバクいってしょうがなかった。

 この街で一番大きな病院から通り2本北に入った所にハリー先輩が住むマンションはあった。7階建てのまだ新しい分譲マンションで、彼の住居はその最上階だ。元は母方のおじいさんの会社が特別な会議、または急な宿泊で使うために用意した部屋だったそうだ。ルカは親が社長だって言ってたけど、親ではなくおじいさんが会社を経営しているらしい。
 広い変形リビングは大きなベランダからの光で明るかった。大きなローテーブル、コーナーソファ、有名な作家物のチェア。機能的でシンプルながら上質の品々。どう考えても高校生の子供が一人で住むような部屋ではない。寝室は何部屋あるのかわからないが、4人くらいの家族が住むような広さだ。部屋の造りにしても家具類にしても、金持ちの家──正直言ってそんな印象だった。
「ハリー先輩の家族は?一人暮らしでも親は居るんでしょ?」
 部屋に通されて、想像以上に綺麗な室内をきょろきょろ見渡しながら訊いてみる。
「兄弟は居ないし父は小さい頃亡くなった。大学の先生やってる母が居るけど今は仕事で海外暮らしなんだ。──ああ、適当に座れよ」
 言われて白い布張りのソファにおそるおそる腰を下ろす。俺の尻、汚れてないだろうな……?
「此処は母と二人で住んでいたんだけど、高校に入るちょっと前に母が海外の大学に勤務する事になったんだ。私は今の高校への進学が決まっていたから単身で行ってもらった」
 そんな風に、コンビニから買ってきたジュースとお菓子をテーブルに並べながらハリー先輩は語ってくれた。
「でも一人暮らしは憧れるけどちょっと寂しいよな。それに、お母さん居ないと不自由でない?メシとかどうしてんの?」
「週二でお手伝いさんが来てくれるから料理と掃除は大丈夫。それにちょくちょく祖父も様子見に来るんだ。忙しいんだから来なくていいのに」
 来なくていい──なんて、すげない事を言う孫だけど、溜め息混じりに言うハリー先輩の顔はそれでも笑っていた。
「まあ……いい祖父なんだが、過保護で心配性で口うるさくて困る。バイトだって最初は反対されたし」
 そしてまた溜め息。何だか妙にほのぼのして笑ってしまった。庶民の俺にはハイソに見えるけど温かい絆で結ばれている家族じゃないんだろうか。
 ハリー先輩は裕福な家庭に生まれて、親とは離れて住んでいて、一見親の愛情不足でわがまま育ちの奴と誤解されそうだ。でも、彼は家族に愛され厳しく躾けられたんじゃないかと思う。何故なら、この人は周りの人間に対して──俺に対してでさえ、気遣いしているのがわかるからだ。
「バイトっていえばさ、ハリー先輩がバイトやってたなんてすげーびっくりした」
 生活費に困っているはずはない。それにバイトしながら学年トップを維持しているなんて、この人はいつ勉強してるんだろう。
「祖父はリッチでも私はそうじゃないからな。母から生活費は送られてくるけど、こづかいくらい自分で稼ごうって。それにあの店で働くのが楽しいんだ」
「俺、ちょうどバイト先探してたからさ、いい店紹介してくれてよかったな」
「こっちこそお前が来てくれる事になってよかった。店の人みんないい人たちだから、これから頼む」
 ただ残念なのは、ハリー先輩と働けるのは夏が終わるまでの期間限定だという事。ああ、いっそ彼があの店に就職してくれたらいいのに。さすがにそれはありえないだろうけど。
 それから夕方までの時間を俺たちはお菓子を食べながら語り合った。好きな音楽の事、最近観た映画の話、学校の先生たちにまつわる笑い話。友だちの家で遊ぶ事は今まであった。でもそこにはいつもテレビだとかゲームがあって、こんな風に会話だけで時間を過ごすのは初めてかもしれない。
 気が付くと夕日が空を真っ赤に染めていた。その夕日をもっとよく見ようとハリー先輩に促されてベランダに出る。
「おお、いい眺め!」
 近くにある高い建物は例の総合病院くらいで、7階の部屋から視界を遮るものはあまりなかった。
「夏祭りには此処から花火も見えるぞ」
「へー!いいなぁ。じゃあ花火目当てに友達押し寄せて来るでしょ?一人暮らしだしさ」
 それに対するハリー先輩の答えに、俺は耳を疑った。
「此処に誰も呼んだ事はない。お前が初めてだ」
……うっそ!
「ほ、本当?俺が初めてなの?え、マジ?」
「嘘ついてどうすんだよ」
 つまり、俺は選ばれた人間なんだ。勿論こう言い切ってしまうのは少し、いやかなり語弊があるのはわかっている。でも、ハリー先輩が初めて自宅に招き入れた人間が俺ってのは事実だ。
「光栄で泣きそうなんだけどっ!」
「はあ?何でだよ」
 眼下では、そろそろ退社の時刻らしくスーツ姿の男女の往来が増えてきた。土曜の夜に向けて街は活気を増していく。
「今日は私の話ばかりになったけど、今度お前の話も聞かせろよ。家の事とか親の事とか」
 そんな風に俺に関心を持ってくれるなんて……。
「あー、いろいろあるよ。親とかもさ、すっごいへんてこな親なんだ。今度俺んちに遊びに来てよ」
 いや、あのレディ・ジョーに引き合わせたら、この人引くかな……。
「そうだな。お前もまた来いよ」
 そう言ってハリー先輩は俺を振り返って微笑む。夕日を浴びた彼の顔が眩しくて、わけもなく胸が苦しくなった。

 遅くまでお邪魔しました──と挨拶をして、それから間もなく俺は彼のマンションを出た。自転車のチェーンを外しながらニヤニヤが抑えられない。
 いつか本当にハリー先輩が家に遊びに来てくれたらいい。とりあえず、いつ来てもいいようにあの汚い部屋を掃除しなければ。アレとかコレとかあのヤバイ雑誌とかも片付けて……。そんな事を真剣に考える俺は、カノジョを初めて自分の部屋に呼ぶ下ごころまみれの野郎そのものだ。
 俺は自転車に跨りペダルを踏み込んで、黙っていられない気持ちを声に出した。
「そうかぁ!俺は最初の男だったんだ!」
 『最初の男』と『最初に招かれた人間』という小さなニュアンスの違いは後でゆっくり考える事にしよう。