勇敢な男は自分自身のことは最後に考えるものである。
by.シラー



「カレーパーティ?ハリー先輩んちで?」
 長いテスト期間が終わり、夏休みを目前にしたある朝の事。ホームで列車待ちをしている時、ハリー先輩から予期せぬ誘いがあった。
「まあ、正確には試食会だな。祖父の会社で秋冬に向けたレトルトカレーの新商品を出すんだけど、モニターとして協力してほしいと思って。お前の都合が良ければ……」
「行くよ!絶対行く!カレーは大好物なんだ」
 彼が言い終わらないうちに思わず詰め寄りながら声をあげた。モニターだろうが試食だろうが、とにかくハリー先輩が食事に来いと誘ってくれたんだ。
「そうか、良かった。本当はクラスの連中に声をかけようと思ったんだけど、夏休みって3年生は受験準備で殺気立ってて、誰にも頼めなかったんだ」
「ハリー先輩はいいの?受験準備」
 と訊いて、ああ失礼な事言っちまったかなと思ったけど──。
「それより目先のカレーの方が切羽詰まってるんだ」
……だそうで、笑ってしまった。
 会社として一度モニター調査はやったそうだけど、100人のアンケート結果が欲しいところあと少し人数が足りなかったそうだ。
「お前を入れて4人居たらいいんだけど、友達にも声をかけてくれないか?」
「オーケーオーケー、任せといて!」
 あと3人どいつを誘おうか、あれこれ考えながら俺は学校に着くまでの間ニヤニヤが止まらなかった。


 その日、終業式が終わった後寄り道しないで真っ直ぐ帰って、夕方ルカとキャンディと待ち合わせをしてハリー先輩のマンションに向かった。
「お前の恋人と喋るのは初めてだな」
 ルカがニヤニヤしながらそんな事を言う。
「恋人じゃねえって」
「やだ、あんたまだキスもしてないの?」
 キャンディの言葉に俺は立ち止まった。ここはしっかり釘を刺しておく必要がある。
「あのな、言っとくけどお前らハリー先輩に余計な事言うなよ?あの人にはまだ告白もしてねえんだから」
「なあんだ、まだなの?意気地なしねえ」
「さっさとヤっちまえよ、この童貞チキンヤロー」
 意見が一致してまた二人顔を見合わせて「ね〜!」なんて言ってる。こいつら、本当に大丈夫だろうか……。俺は不安になってきた。

 チャイムを押すとすぐハリー先輩が迎えてくれた。
「どうもー、ご馳走になりに来たよ」
「ああ、上がれよ」
「はじめまして。お邪魔しまーす」
「ちーっす」
 ルカとキャンディもめいめいに挨拶して俺らがリビングに入ると、今回のもう一人のメンバー、ロバートさんがすでに来ていた。
「やあ、ご苦労さま」
「どもー、ロバートさん」
 バイト以外でロバートさんに会うのは初めてだ。こうして私服姿のロバートさんを見るとたしかに若く見える。忘れていたけどこの人も高校生だったんだ。
「わあ!綺麗なお部屋ー!」
「キャンディ見ろよ、窓からの眺めサイコーだぜ!」
 ルカもキャンディもリビングを見渡してはしゃいでいる。
 考えてみればハリー先輩のマンションに来るのは2回目だ。二人だけでまったり語らうのも幸せな気分だったけど、こうして気の置けない仲間と集まってワイワイするのも楽しい。その“ワイワイ”の輪の中に彼が居るのが堪らなく嬉しかった。
「ちゃんと腹すかせて来たか?」
「もちろん!腹ぺこで死にそー!」
「そうか、頼りにしてるからな」
 ハリー先輩が俺を頼りにしてくれてる!その一言で俺のテンションはマックスだ。自分の単純さに我ながら呆れるけど、好きな人に頼られると俄然張り切るのが男って生き物だ。
 任せとけ!と鼻息荒くする俺にハリー先輩は笑うと準備のためキッチンに戻って行った。
「アクセル……!」
 ふいにロバートさんに小声で呼ばれた。俺が隣に腰を下ろすと、ロバートさんは難しい顔をして囁いた。
「ハリーを甘く見てはいけません」
「は?」
 言ってる意味がわからない。どういう事?と詳しく訊こうとロバートさんの横顔を覗き込む。が、そのこめかみにじんわり汗が浮かんでいるのを見て俺はぎょっとした。
 思えば、ロバートさんをこの試食会に誘った時、彼はすぐにはオーケーしなかった。しばらく無言で考え込んだ後、重大な決心をしたような顔でようやく「いいですよ」と言ったんだ。
 ハリー先輩とロバートさんは仲がいいはずだ。その日の予定は空いていると事前に聞いて誘ったし、てっきり喜んで参加すると思っていたけど……。
「大丈夫よ、あのモンティエ食品が発売しようってカレーなら美味しいはずよ?」
 ロバートさんの囁きを聞き付けたキャンディが隣にやって来て口をはさむ。
「ただ食うだけじゃなく真面目にアンケートに記入すりゃいいんだろ?簡単じゃん」
 ルカもキャンディに同調すると、俺も同感とばかりに頷いた。
「……とにかく、くれぐれも無理をしないように」
 ロバートさんは俺たち3人の顔をかわるがわるに見ながらそう念を押した。

 目の前に最初の1皿目が置かれた。
「1品目は牛テールカレーだ」
「うまそーっ!」
 家庭でよく食べるような庶民的なカレーではない。高級レストランが何日もじっくり時間をかけて煮込んだような色と匂い、そしてツヤ。
「んー!おいしいー!」
「うっま!」
「いい味ですね、レトルトとは思えません」
 ロバートさんの言う通りレトルトとは思えない。主役の牛テールが大きめで口に入れるととろりと溶けた。まさに絶品。
「ハリー先輩、おかわり!」
 俺が空いた紙皿を差し出すとロバートさんが横から「セーブした方がいいです」と忠告してきた。
「アンケートの記入も頼むぞ」
 俺たちは目の前に置かれたアンケート用紙に取り組む。性別と年齢を書いた後、味の印象が1から5までの5段階になっていてどれかに丸を付けるようになっている。俺を含め4人全員が5の「非常に良い」に丸を付けた。
「この下の備考欄も書いた方がいいのかしら」
「出来れば頼む」
 備考欄は自分の感想を記入するようになっていて、俺は思ったままに「美味かった。また食べたい」と書く。他の3人もそれぞれ書いた。
 アンケート用紙に記入している間、2皿目がやってきた。
「キーマカレーだ」
 ルーにひき肉が入っているだけのシンプルなカレーだが、味はコクがあり尚且つまろやかだった。ライスとの相性も良く何杯でもいけそうだ。
「これもうまうま!」
「さっすがモンティエだな。スパイス関係では業界一じゃねえか?」
 ルカの言葉に他の3人が大きく頷く。
 実は、俺はハリー先輩のおじいさんの会社がモンティエ食品だと今回初めて知った。モンティエといえば、調味料からスパイス食品デザートの果てまで手広く扱う会社で、昔からどこの家庭の台所にも必ずあるお馴染みのメーカーだ。
 俺が知らなかったと言うとルカとキャンディにさんざん馬鹿にされた。苗字が違うから、と言い訳してみたものの、母方のおじいさんだと言われればそれまでで。
 ハリー先輩は自分から進んでおじいさんの会社の話なんかしなかったとは言え、好きな人の事、周りが知ってて自分が知らないなんてちょっと悔しい。
 そうこうしているうちに3皿目が出てきた。
「本格派タイ風チキンカレーだ。ちょっと辛いぞ?」
 明るい黄色の緩いルーにごろんと大きめな鶏肉が入っている。ひと匙口に入れるとピリピリときた。
「うお、辛っ!」
「これは……結構スパイシーですね」
「辛いけど、うめえ」
「あたしにはちょっと辛過ぎだわ」
 キャンディはここで初めて残す。俺としては辛いけどこういう味は大好きだ。それにレディ・ジョーが料理上手だとしても、こういう本格的なカレーは作れないだろう。家庭では出せない味だから市販のレトルトを買う意味があるんだ。
 とはいえ、口の中がヒリヒリしたため俺たちは喉を鳴らして水を飲んだ。ただの水ではないようだ。ほんのりとレモンの味がする。口の中がスッキリした。
「これはさらに辛口だけど、大丈夫かな……」
 そう言って運ばれてきたのは見た目も真っ赤なレッドホットチリカレー。ライスではなくナンで食べるらしい。
 案の定、キャンディは一口食べて火を吹いた。咳込んで水をがぶ飲みしてギブアップ。舌の痛みを和らげようとナンだけを貪り食う。俺とルカも水をおかわりした。
 だが、この後試食会は地獄に突入するという事を、俺たちはまだ気付いてなかった。

 スープカレーが目の前に出てきた。一体これで何品目になるだろうか……。一品一品の盛りは少なくてもこう種類が多いと相当な量になる。実はもう腹がきつくて俺はこっそりベルトを緩めていた。手に持つスプーンがやたら重く感じる。
 ロバートさんはポーカーフェイスだけど、あとの二人はあきらかにもう満腹状態だった。
「ねえ……あたし、もうお腹いっ……」
「あっ!なあなあハリー先輩、この野菜もレトルトに入ってるの?」
 俺は慌ててキャンディの言葉を遮る。まだだキャンディ、まだ降参するな……。
「この野菜は別に下ごしらえしたんだ。それにレトルトのルーをかけた」
「って事は、ハリー先輩が料理を?」
 この人、料理出来ないんじゃなかったのか?普通のレトルトパックなら鍋で温めるだけでいいけど、これはひと手間かかる。
「ああ。実はお手伝いさんから教わったんだ。昨日から準備してレモン水作って、ライスも自分で炊いた。料理したのは初めてだ」
 ハリー先輩はそう言って照れたように笑う。……畜生、もの凄く可愛い!
「せっかく協力してくれるから、せめてお前たちに喜んでもらえたらな、って……」

 ズキューン!

……ハートを打ち抜かれた。頬赤らめて、照れて、何て健気で可愛いんだこの人は!
 そして、そんな事言われたら死んでも「もう食べられません」とは言えないじゃないか!一生懸命用意してくれた彼の気持ちに、俺は命懸けで応える決意をした。
 のろのろと、ようやく全員スープカレーを完食しアンケート用紙に記入。律義にしっかり備考欄も埋める。
 そして、今また俺たちの前には次のカレーが。
「ココナッツミルクカレー、チベット風だ」
 コア過ぎてどの辺がチベットなのかよくわからない。スプーンを持つ手が震える。辛さからくるものとはあきらかに別の汗。ジーンズのボタンはとっくに外してある。引き締まっているはずの俺の腹も、みんなの腹も、見事に幼児体型的なポッコリ。
 もう何種類のカレーが出てきたんだろう。15か?16か?あとどれだけあるのか、訊くのが怖い。秋冬商品に賭けるモンティエの本気を嫌というほど思い知った。
 そこでふと疑問が湧く。
「あの、ハリー先輩。以前やったモニターも、96人全員これだけの量を食べたの?」
「まあな。でもカレーもライスももっと少ない量だったかも。小皿に乗る程度だったから。今回ちょっと多過ぎたかな……。5倍くらいあるかもしれん」
 シーン……。

「5倍ぃぃぃ!?」

 俺たち4人の悲鳴が見事にシンクロした。
「ちょ、待てよ!俺の胃袋じゃとても……」
「ルカっ!」
 俺はルカの脱落宣言を阻止した。くっつきそうなほど顔を寄せて低く囁く。
「大丈夫だよな?これくらい。幸い明日から夏休みだ。最悪腹壊してもゆっくり入院出来る。お前はこれしきの事でくたばるヤワな男じゃねえだろ?」
「……アクセル、お前、何か怖ぇぇ……」
「俺たち友達だろ?まだイケるよな?な?な?……なっ?」
「……わ、わかったから。泣くなよ、みっともねえ」
 俺の鬼気迫るオーラを感じたのだろう、キャンディとロバートさんは引きつった笑いを浮かべるだけで何も言わなかった。いや、言えなかった。だが、ハリー先輩は場に漂う悲壮感を察知したらしく悲しそうな顔で微笑んだ。
「やっぱり量が多かったよな……。苦しい思いをさせてすまない。もう中止に……」
 中止?ハリー先輩が一生懸命準備したのに?ホッとする3人とは裏腹に、俺はさっき見た彼の嬉しそうな照れ笑いを思い出すと、悲しくて、切なくて、ああ……!
「ぜ、ぜーんぜん平気だぜ?大丈夫だって!さあ、次行こうよ!」
──この馬鹿!余計な事を!
 3人が殺気の籠った目で俺を睨む。が、ハリー先輩は顔を輝かせて、そうか!と言った。
「ロバートさんさ、もしかしてこうなる事知ってた……?」
 俺がさっきから気になっていた事を尋ねれば、案の定ロバートさんは、ええと頷いた。
「何年か前にも同じような事があったんです。ハリーは、真面目で一生懸命でいい人なんですが加減という事を知らなくて……。その時の試食会に参加していた私の友人は、食べ過ぎが元で胃腸を壊してしばらく通院してました」
 天然ってやつですかい、ハリー先輩は……。
 ハリーを甘く見てはいけません──というさっきの言葉はそういう意味だったのか。そういや、ロバートさんはあまり水を飲んでない。水で腹が膨れる事を避けていたわけだ。
「すみません、あなたがあまりにも張り切っているので言い出せませんでした」
 いや、いいんだ──。そう言って俺は虚ろに笑った。俺は知っていてもきっとやめなかっただろう。それに、ハリー先輩の嬉しそうな顔が見られて本気で幸せを感じている。
 ただ、腹が苦しくて死にそうだ!

 すべてのカレーは出尽くした。4人とも太鼓のように膨らんだ腹を抱え、悶絶しながら妙な達成感に浸っていた。俺たちは本当によくやったと思う。
 3人ともありがとう。俺もよく頑張った。おかげでおじいさん思いのハリー先輩の役に立てて俺は本当に嬉しい。
 だが……。
「あ、デザートもあるんだ」
 満面の笑みのハリー先輩が悪魔みたいな事を言った。
 なん……だと……?
 彼がトレイに乗せていそいそと持ってきたものに恐る恐る目をやれば……。

「カレープリンだ」

 オシャレに可愛らしく飾り付けられたぷるぷるしたカレー。サラダボウルを型にしたに違いない黄色い巨大な塊……。
今度こそもう限界だ。俺たちは一言、う〜ん!と唸ると床に倒れた。
「おい、倒れるな!アンケートの記入がまだだ!……おい!」

 しばらくカレーなんか見たくない。