われわれが進もうとしている道が正しいかどうかを、
神は前もって教えてはくれない。
by.アインシュタイン



「おーい、ひと休みしよう!」
 店長が向こうで声を張り上げて、俺はやれやれと汗を拭った。8月の太陽は午前中からギラギラ照りつけて俺の身体から水分を奪っていく。早くも喉がカラカラだ。
 明日から夏祭りが始まる。祭り期間中の3日間、『バードガーデン』は昼も夜もお客が大勢訪れ一年で最も忙しい日になる。いつもの何倍もの食材を準備するため、俺は朝から郊外にある店長の畑に野菜の収穫を手伝いに来ていた。
 夏休み中、俺は『バードガーデン』でバイトに精を出そうとシフトを増やしてもらっていた。あの店で働くのは楽しいし、何よりハリー先輩と一緒に居たかったからだ。夏休みに入るとバイトでしか彼に会えない。
 ハリー先輩がバイトを引退する日はもう目前だった。

 お疲れさん、と言って店長がくれるペットボトルのジュースを一気に飲んだ。
「いやぁアクセルが手伝ってくれて助かるよ。今日息子は夏期講習の最終日だから、あいつも外せなくってね。困ってたんだ」
 ロバートさんもハリー先輩同様受験生だ。家の手伝いとはいえ、やはり夏休みは勉強が最優先だろう。まだ1年生でお気楽な俺がロバートさんの代わりを買って出ていた。
「それにしても、いつも見慣れたメニューの材料が此処で生まれていたんですねー」
 『バードガーデン』で出すサラダやデザートのフルーツは此処で自家栽培していた。レタス、キュウリ、トマト、ハーブやイチゴ。俺には名前もわからない野菜もたくさんある。店は『身体に優しい食材は心にも優しい』をモットーにし、それをウリにしている。だからヘルシー志向の女性客が多いのだ。
「此処はさ、僕と奥さんが結婚してすぐ土作りから始めた畑なんだ。有機栽培と減農薬を目指してさ、まあ最初は試行錯誤の連続で、納得いく野菜が出来るまで何年もかかったよ」
 店長はそう言うと、採ったばかりの真っ赤なトマトを太陽にかざして目を細めた。最後まで太陽の光を浴びて完熟した甘いトマト。スーパーで買うものとは甘みが全然違う。
「土作りから始めてだなんて凄いな……。食事メニューもっと増やさないんですか?」
 もっといろいろ食べたいと思っているお客は居るはず、と言えば、店長はいやいやと笑って首を振った。
「ウチは飽くまでコーヒーがメインのカフェだし、このくらいの畑だから僕に出来るんだ。だって食材は野菜だけでないでしょ?この後買い付けも手伝ってもらうけど、小麦粉や卵だってあるしね。それらも自分なりに厳選してるから、この規模が僕の限界さ」
 店長は店を大きくする気はないと言う。欲がないというか堅実。でもそれが店長のいい所だ。
「ロバートさんの代になっても『バードガーデン』が変わらなかったら嬉しいなぁ」
「えっ、息子かい?あはは!あいつは店なんか継がないよ。僕も望んじゃいないしね」
 その言葉に俺はびっくりしてしまった。ロバートさんは毎日店に出ているし、当然跡を継ぐものとばかり思っていた。
「息子はコンピューターの……ナントカってエンジニアになりたいそうだよ。カフェは僕がやりたくて始めたんだし、子供が他にやりたい事があるなら好きな事やればいいと僕は思っているんだ」
 親の考え方は人それぞれだろうけど、レディ・ジョーも俺に自分が経営している飲み屋を手伝ってくれとか跡を継いでくれなんて言った事はない。もしも、俺の進路に要望はあるかと訊いたら「自分の好きな事をやれ」と言いそうだ。
「ハリーもさ……あ、彼がモンティエ食品のお孫さんって聞いてる?」
 俺が頷くと、店長は遠くを見るような顔をしてぽつりぽつりと話し出した。
「ハリーは1年生の時から来てくれてるんだけど、長い間よくやってくれたよ。本当はさ、将来あんな大きな会社を背負って立つ人だから、ウチみたいな小さい店でバイトしてていいのかなとも思ったんだ。でも彼には信念があったんだね……」
 俺もハリー先輩は将来モンティエの社長になる人だと思っていた。あんなに学業優秀で、しかも現社長の孫だ。でも店長の言う彼の信念って……。
「もしかしてハリー先輩、おじいさんの会社に入らないんですか?」
「彼には別の夢があるようだよ」
 夢……?俺は今までそんな話、ハリー先輩から聞いた事はない。
「夢ってどんな?」
「さあ。それは本人に直接訊いてごらん」
 店長は微笑むと「キュウリをもいでしまおう」と言って立ち上がった。俺も籠とハサミを持って後に続く。
「ロバートさんもハリー先輩も将来の事しっかり考えてるんだな。それに比べて俺は……」
 たった2歳の違いなのに、彼らが凄く大人に思えた。誰かに言われて従うんじゃなくて、自分で考えて自分で準備し行動する。それは口で言うほど簡単な事じゃないと思う。だらだら生きてきた俺にそんな事が出来るだろうか。
「アクセルは何かやりたい事あるの?」
 俺の呟きに店長がそう問いかけ、俺は首を振った。
「何がやりたいのかわからないです」
 まだ1年生だから時間はたっぷりある、とは思わない。この高校に入って俺は同級生たちの上昇意欲が高い事に驚いた。日頃ふざけている奴も授業は真面目だ。みんな真剣だった。
「まあ、焦らなくてもいいんじゃない?」
「でも俺、この学校に入る事に必死だったけど、そこから先を考えた事がなくて……」
 考え込む俺に店長はにこにこして言う。
「人との出会いが縁であるように、やりたい事に出会うのも縁だと思うよ。僕は最初からカフェの経営をやっていたわけじゃなくて昔は会社員だったんだ。しかも転職もした。でもその時の経験が今役に立っているよ」
「飲食関係の会社だったんですか?」
「いやいや、全然畑違いの会社さ。でも生きた経済を学べたし、たくさんの人との出会いがあった。その時の経験がなかったら今の『バードガーデン』はなかったね。僕は無駄な経験なんかないと思うんだ。それをどう生かすかは自分次第だよ」
 パチン、とキュウリを枝から切り離す。大きく曲がった形の悪いキュウリ。でもそれは水と太陽と人の愛情に育てられた自然なものだ。店長はそれを愛おしそうに見つめて籠に入れた。
「最初からゴールを決めなくていいんじゃないかい?スタートが何であれ、経験の積み重ねは必ず未来に導いてくれるんだから。大切な事だからこそ焦りは禁物さ」
 いつもにこにこしている店長はまるで苦労を知らない人に見えていた。でもそうではない。優しい言葉の裏には、かつてたくさんの苦労があった事が窺える。そんな人の言葉に、俺は勇気をもらった気がした。
「ありがとうございます」
 心からそう言えば、店長は驚き照れて、何故か恐縮しまくっていた。


 夏祭り初日──。心配だった天気も、この日はテレビの天気予報の言う通り雲ひとつない晴天に恵まれた。晴れるだけでなく気温もぐんぐん上昇して夏日が続くらしい。暑くなれば、祭りに出てきた人々は涼を求めてカフェでひと休み、となるだろう。
 『バードガーデン』が面する通りは夏祭りの間車両止めになる。歩行者天国になった通りにはアトラクション広場が設けられ、道の両脇には露店が並ぶ。おまけにすぐ近くをパレードが通るため、この辺りはとくに人出が多い。
 毎年『バードガーデン』はこの3日間、歩道に椅子とテーブルを出しオープンテラスを設けていた。店長の気持ちとしては常時オープンテラスにしたかったそうだが、普段は交通量があまりにも多いため、衛生面を考慮して歩行者天国になる夏祭り期間のみの設置だ。
 正午からのパレードが終わった途端、カフェには続々とお客が入り大賑わいになった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「店長、さっきのアップルパイもうひとつ追加お願いします!」
「ワッフルセット、ツー!アイスカフェラテ、ツー!」
「シーザーサラダ上がったよー!」
「ハリー、5番テーブルのエスプレッソ、入りました!」
 『バードガーデン』には俺たち学生バイトの他に社会人の店員も3人居た。いつもはシフトで勢揃いする事はないけど、この日ばかりは総動員だ。店長の奥さんも厨房に入っていた。
 賑やかにクラスの連中もドヤドヤやってきた。
「おっす!真面目に働いているかー?」
「やっほー、アクセル!」
「4人座れそう?」
「外のテラス席に……あ、待って。片付けるから」
「ちょっと、ギャルソン・コス似合うじゃん!」
「コスじゃねえって。おだてたって値引きはしねぇからな?」
 注文を取りながら冗談を言い合って笑う。勿論、連中と呑気にダベっている暇はない。
 祭りのせいかどのお客も楽しそうだ。厨房ではひっきりなしに入る注文に店長も奥さんも大忙し。そして、それを運び客の応対をする俺たちも目が回りそうだった。息をつく暇もないほどの忙しさ。
 ティータイムが過ぎて夕刻の賑わいになる前。いったん混雑が落ち着いて、俺とハリー先輩はようやく休憩が取れた。
 昼の賄い飯として店からサンドイッチも用意されているけど、せっかくだからと通りに出て、露店で食い物を買う。そのついでに近所の店を眺めて歩いた。ブティック、雑貨店、菓子屋など『バードガーデン』の並びの店も歩道にワゴンを出していた。ひやかしで見るだけでも楽しい。ハリー先輩と、これはちょっとしたお祭りデートだ。
 早々に店に戻って勝手口横の椅子に腰を下ろす。此処は通りからは死角になっていて、従業員の休憩スペースになっていた。
「やっと昼メシだー!腹へったぁ!」
「疲れただろ?今日は閉店までの長丁場だからしっかり食っておけよ?」
 小さなテーブルに今買ってきたばかりのもつ料理と焼き鳥を並べる。そして、ロバートさんが持ってきてくれたサンドイッチとアイスティー。
 こんなに食えるかな、とハリー先輩が笑いながら焼き鳥に齧り付いた。
「働くっていいね。凄く疲れたけど何か楽しい」
 大変ではあるがむしろそれが心地いい。みんなと力を合わせて乗り越えるという一体感にテンションが上がった。
「この店は従業員みんな長く勤めているし仲もいいから、だから息もぴったり合うんだ」
「そっか、みんな何度も夏祭りを経験しているんだもんな。どんなに客の注文が集中しても誰も慌てないでにこにこしてるんだよ。すげぇな」
 混雑して大衆食堂のような賑やかさになっても、カフェの雰囲気を壊すような大声を出す者は誰も居なかった。
「昨日、畑で収穫の手伝いをしたんだって?店長が喜んでいた。お前も、もうすっかり『バードガーデン』の戦力だな」
 戦力、という事はもう新人ではなくて、一人前の仕事が出来ているという意味なんだろう。正直、照れた。でも……。
「後は頼んだぞ」
 ハリー先輩の小さな呟きに、胸の奥がスッと冷たくなった。

──ああそうか、この人は居なくなるんだった。

「あさってで最後なんだね……」
「ああ」
 自分はハリー先輩の後任としてこの店に入って、この人が此処を去るというのは最初からわかっていたはずだ。それでも、この数ヶ月いつも楽しく仕事をしているうちにそんな日常が当たり前になっていた。このままずっとこんな時間が続くんじゃないかと思っていたんだ。そんなわけないのに……。
「あーあ、寂しくなるなぁ!」
 俺は大袈裟に溜め息をついてもつ料理をかき込んだ。感傷的になってはいけない。引き止めるような事を言ってもいけない。この人は受験生なのだから。
「受験勉強、捗ってる?」
「いや、あんまり」
「どこ受けるの?やっぱ、N大の経済?」
 N大はこの辺で一番レベルの高い大学だ。ハリー先輩だったらそれより下のランクはあり得ないだろう。
「ハリー先輩、おじいさんに会社の後を継ぐよう言われてるんじゃないの?」
「まあな……。本当は経済に進まなきゃならないんだろうな」
 困ったように微笑む彼の顔を見て、俺は昨日店長が言っていた話を思い出した。
「本当は……違う道を進みたいんだね?」
 その問いかけの後、しばらく沈黙が続いた。ハリー先輩はアイスティーのストローをくるくる回し、何か考え込んでいた。
「──物心ついた時から『将来モンティエの社長だ』って言われてきた」
 そんな風に、ぽつりと、ひとり言みたいに彼は話し出した。
「私は小さい頃からおじいちゃんっ子でさ、祖父の事は大好きだったし会社も我が家みたいに思っていたから、後継者って言われて疑問を持たず受け入れていたんだ。自分のやりたい事に気が付く中学までは、な」
「ハリー先輩のやりたい事って?」
「生物工学」
 それはちょっと予想外の答えで、俺は咄嗟には反応出来なかった。“工学”と名の付く学問は俺には未知の世界だ。俺の戸惑う顔を見てハリー先輩は少し笑うと先を続けた。
「生物工学と言ってもいろいろあるけど、それを応用して作物の品種改良や安全な土壌を整えられないかなと思っている。たとえば穀物や野菜なら、病害虫に強くて、過酷な環境にも耐えられて、効率よく収穫できて、人体に安全なものを作れないだろうか、とか。加工前の生物の段階での“食”の可能性を研究したいんだ」
「何か、すげぇな……!」
「まあ、食品科学は一例だ。食べる物について昔から関心があったのは、祖父の会社が身近にあったからだろうな」
 テレビのニュースやドキュメンタリーで見聞きするような難しい分野を、こんな身近な人が目指している。驚く気持ちと尊敬の気持ちが入り混じって溜め息が出た。
「実は、店長の畑の野菜が理想なんだ。此処の店長が自然な野菜にこだわっているのは知っているだろ?この分野はそれとは相反する事かもしれない。でも、自分はこの店で自然の美味しさを知ったからこそ、生物の持つ可能性を研究する意義があると思うんだ。食品会社が安全で安定した食料供給が出来たら、いいと思わないか?」
 こんなに熱く語るハリー先輩は見た事がない。いつも落ち着いて、淡々としていて。俺が知っているのは、この人のほんの一面だったんだろう。だけど……。
「でも、諦めなきゃならない」
 その言葉に俺はびっくりして思いきり彼の方を振り返った。
「何で!?」
「自分に求められているのは経営者であって研究者ではないから」
 そんな事を、この人はまるで他人事のように言う。何だか凄く悲しくなった。
「そんなの、絶対間違っているよ!」
 俺は思わず声を荒げた。
「ハリー先輩の人生は誰のものなの?おじいさんのために生きてるの?会社のために自分を犠牲にするの?そんなの、おかしいよ!」
「アクセル……」
「ハリー先輩はおじいさんの会社が好きなんだろ?でなきゃ、あんなに一生懸命カレーモニター取らないじゃん。あんたが目指そうとしている道は、経営じゃなくても結局は食品会社のためになる事なんだ。違うやり方でモンティエを支える事になるんだよ!」
 こんな事、無責任に俺が言うべきではないのはわかっているけど止まらなかった。
「おじいさんと話し合えよ!きっとわかってくれるって!今諦めたら、あんた絶対後悔する!」
 ハリー先輩は呆気にとられたように俺の顔を見つめて、そしてクスッと笑った。
「お前、本当にいいヤツだな」
「何で笑うのさ!そりゃ俺は何にもわかってないガキかもしれないけど、でも……」
「あ、いや、悪い。可笑しくて笑ったわけじゃないんだ。こんなに真剣に味方になってくれるのが嬉しかったから……ありがとう」
「ハリー先輩……」
「そうか、違うやり方でモンティエを支える事、か……」
 ハリー先輩は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、食べかけだったサンドイッチを頬張った。
 この人が目指す世界は、俺には計り知れないほど大きくて、遠くて、絶対手が届かない。追い付けないほど遠くに行こうとしているハリー先輩。取り残される事に寂しさを感じながら、それでも俺はその背中を押さずにはいられなかった。


 夏祭りの3日間、俺たちは開店から閉店までフルに働いた。2日目も3日目も相変わらず忙しく、おかげで余計な事を考える暇もなかった。ハリー先輩と一緒に働く『バードガーデン』での一分一秒を、どんなに噛みしめて過ごそうが時計の針は速度を緩めてはくれない。
 3日目の午後10時30分、店のシャッターが下りてハリー先輩のバイトは終了した。
「長い間お疲れ様。今まで本当にありがとね」
 店長はそう言ってハリー先輩に、餞別にと紙袋を渡した。開けてみろと周りにせっつかれ、彼が袋から取り出したものは、店で使っている鳥のロゴが入ったコーヒーカップとコースター、そしてオリジナル焙煎のコーヒー豆が数種類。所謂『バードガーデンの詰め合わせ』だ。ジョークで伝票用紙まで入っていて、みんながどっと笑った。
「お世話になりました」
「受験頑張れよ」
「たまにはコーヒー飲みに来てね」
 口々に挨拶を交わして、みんなで写真を撮り合って、俺とハリー先輩は店を後にした。

 二人肩を並べて歩く帰り道。
「ハリー先輩、今まで本当に……」
 俺を此処まで連れて来てくれて、伴走してくれて、一言では伝えきれないたくさんの感謝の気持ち。でもその先が言葉にならない。代わりに俺は黙って深く頭を下げた。
 人生の中での小さな終止符。その短い数ヶ月間は、俺にとってたしかに輝いた日々だった。