よく晴れ渡った晩秋の競馬場――。 “ビールくらいあたしが買ってくるから待っててちょうだい”そう言って席を立つあたしに微笑む顔。それが最後になった。 行列に並んで売店でビールを二本買う。あの人が待つスタンド席へと戻る途中、背後から数人があたしを追い越し駆けて行く。 倒れた! 心臓? 救急車を呼べ! あの人のもとへ近付くにしたがってざわめきが大きくなる。人だかりが出来ている。場所は、まさにあたしたちが座っていたあのシートの辺りで……。悪い予感がした。 一歩進むごとに鼓動が大きくなる。嫌な汗が背中を流れる。 ――ああ神様、まさかそんな。神様、神様、どうか彼じゃありませんように。 だが、人垣の間から見えたのは、地面に倒れて心臓マッサージを受ける彼の身体だった。 両手で顔を覆った。ビールが音をたてて足元に落ちた。 いつものように、そこで目が覚めた。 ――ルイが死んだ時の夢を、今まで何度見ただろう。 店が終わって帰宅し、朝方眠る。夢から覚めた時に辺りが明るいのはせめてもの救いだ。いや、こんな明るい日差しの中で現実に還るからこそ夢に慣らされてしまうのかもしれない。あれからもう5年が経つ……。 あたしはベッドを出てカーテンを開ける。陽の光の眩しさに思わず目を閉じた。今日のパリは抜けるような青空だった。 あの子は今日も来るだろうか。 その夜、閉店したあとマリーがチラシを手にあたしに言った。 「今夜、レディ・ジョーが居ない時に警官が来たわ」 受け取ったチラシに目を落とすと、そこには“店舗荒らしにご注意!”の文字があった。 「最近この地区に店舗荒らしが横行していて、被害を受けた店がたくさんあるんですって」 此処は世界中から観光客が集まるパリ1区だ。犯罪は昔から少なくはなかった。それでも最近小さな窃盗が身近に頻発しているのは知っていた。そして地元のギャング団の数も心なしか増えたような気がする。 「あたしも今夜お客さんから聞いたんだけど、アンヌの店もやられたそうよ」 コニーがそう言いながら話に加わってきた。 「あたしもその話聞いたわ。ちょっと人ごとじゃないわね……」 「ああ、そうだね……」 チラシによると、犯人は閉店後に侵入し、犯行は集団で行なわれているらしい。現金は勿論、店内の金目になりそうな物品も狙われている、と書かれてあった。 「やっと警察が腰を上げたのはいいけど、捕まえられるのかね……」 フランスの警察が腰抜けとは思わないが、あたしはあまり警察を信用してはいなかった。 「あのね、レディ・ジョー。警官に最近変わった事はないかって訊かれたんだけど……」 と、コニーは何か言いづらそうに躊躇ったあと言葉を続けた。 「あたしもマリーも、アクセルの事は何も言わなかったわよ。それでいいのよね……?」 そう言う二人の胸の内はわかっていた。 「当たり前だよ、あいつがそんな器用なマネ、出来るわけないじゃないか」 もしも、アクセルが出入りするようになって、それに引き寄せられて少しでも他のチンピラたちが周囲をうろつき始めたら、とっくにアクセルを追い出していただろう。だが、アクセルはいつも一人だった。そして外でのトラブルを持ち込む事もなかった。 それに、あたしは知っていた。二度目に此処に来た時、出勤してきたこの二人にあたしの目から隠れるようにして「こないだ、ごめんな」と詫びていたのを。そして、バーテンダーになりたいと言った時の、初めて見る真剣な眼差しを。 「よかったわ。あたしはあの子が根っからのワルには思えないの」 「あたしもマリーと同じ気持ちよ」 望み通りのあたしの言葉に二人とも笑顔になった。 たぶん自分は甘いのだろうと思う。他の水商売仲間がアクセルの事を知ったら、きっと“出入りさせるな”と言うだろう。そしてそれは客商売をする上で正しい事に違いない。 本当は警戒するに値する不良少年なのだ。マフィアと関わっていて、ヤクの売人で、他にも何をやっているかわからない得体の知れない野良犬だ。 それでも、仮にあの無邪気さに騙されているのだとしても、アクセルを疑いたくはなかった。疑って遠ざける事の方が後悔するような、そんな気がしてならないのだ。 「なあ、ひとつ訊いていい?」 アクセルは銀器を磨く手を止めて言った。 「男なのにどうして女のカッコしてんの?」 カウンターの中でグラスを拭いていたあたしは、不意を突かれて思わず手を止めた。ストレートな疑問をそのまま口に出すのは、恐れを知らない子供であるが故。だが初対面の日、あたしを男と知って“気持ち悪い”とそう言った事を思えば、今まで口にしなかった方が不思議である。 「オカマを見るのは初めてかい」 「初めてじゃねえけど、気持ちがわかんねー」 「もしも、自分が実は女だったら、あんたどうする?」 そう言うと、アクセルは大げさに眉をしかめた。 「はあっ?俺が女?ぜってー嫌に決まってんだろ!」 「あたしも同じだよ。自分が男である事が子供の頃から嫌だったんだ……」 天使から間違って与えられた性別。 「自分の性別に馴染めなくて苦しんでいる人はたくさん居るんだよ。誰が悪いわけでもないけど、理解出来ない人がほとんどさ」 「人からヘンな目で見られるの、つらくない?」 「自分を偽って生きる方がつらいよ」 しばらく沈黙が続いた。その間アクセルは俯いて、銀のスプーンをくるくる弄びながら何かを考えているようだった。 「レディ・ジョーはさ、誰か好きな人いねえの?」 「何だい、藪から棒に」 見上げてくる顔が真剣で、からかっているわけではない事はわかっている。 「好きな人が傍に居たらつらい事があっても心強いだろ」 何を言いだすかと思ったら……。 「生意気言ってんじゃないよ、まだ毛も生えてないようなガキが」 「毛ぐらい少しは生えてるっ!馬鹿にすんな!」 真っ赤になって立ち上がって、アクセルは大声で怒鳴る。その声があまりにもうるさくて、あたしは目の前の頭を思いきりぶん殴った。 「いっ……てえぇーっ!マジいてぇんだよ!この暴力オカマ!」 いい音がしたから本当に痛かったのだろう。痛いように殴ったのだから当然ではある。大げさに頭を抱えているアクセルを尻目にグラスを拭く作業に戻った。 「……居たよ、好きな人は。昔の事だけどね……」 戻って来た沈黙の中で静かにそう呟く。 「別れたの?」 「……まあ、そんなとこだ」 死んだ、とは言わなかった。 「どんな男?凄く好きだった?」 ――どんな男? 「好きだったさ……。大切な人だった」 あの人は、ルイは――政治家の家に生まれたお坊ちゃんで、世間知らずで、許婚が居た。男でもない女でもない中途半端なオカマのあたしを好きだと言う変わり者で、10年も口説き続けたもの好きだった。 シャンゼリゼのキャバレーに居た時、ひと目惚れだったと彼は言う。どうせ金持ちの気まぐれ、からかわれているのだと思った。10年間、あたしたちは小さな別れと再会を繰り返し、その間彼は愛を訴え続けた。 彼の言う“愛”をあたしは信じなかった。それはきっと物珍しいものに対する好奇心、もしくは同情。彼の愛が勘違いであれば誰も傷付かずにすむ。彼の真っ直ぐさが、深い優しさが、怖かった。自分はずっと前から彼を愛していたのだと気が付いた。 だが、女の柔らかな美しさもなく、男の逞しい筋肉もない。どっちにも属さない“なりそこない”の自分が傍に居ては、彼まで世間のもの笑いの種にされてしまう……。あたしがそう言うと、彼は酷く傷付き涙を流した。 ――君が君を蔑む言葉がどんなに僕を悲しませるか、君にはわかるだろうか、と……。 出会って11年目、あたしは彼の想いを受け入れた。その頃にはもう彼は妻ある身だと知っていたのに……。 名家の御曹司と歓楽街に生きるオカマ。最初から逃げ道も出口も行き着く場所もない恋。残りの10年、二人にあるものは愛と慈しみだけ。 そしてルイは逝った。愛し合った思い出と塞がる事のない心の穴をあたしに遺して……。 『ねえ、ジョー。人を生まれや、外見や、イメージや、世間の評判で判断するなんて、ナンセンスだと思わないかい?』 ルイが遺してくれた言葉は、今のあたしを支えている。 こんな話を、まだ13歳の子供に話したところで理解出来ないだろう。 「……あんたが誰かを本気で好きになった時、いろいろ話してやるさ」 そんな日が来るまであたしはこの子と関わるつもりだろうか。だが、アクセルがどんな青年になるのか、どんな人を愛するのか、見届けてみたいと思った。 「俺を雇えよ、レディ・ジョー」 唐突なセリフに、あたしは驚いて顔を上げた。 「俺がバーテンダーになったらこの店で雇えよ。給料なんかいらねえから」 「何ふざけた事言って……」 「オカマだけの店なんて何かと物騒じゃん。若くて強い男が居たら安心だろ?だから俺が居てやるよ。バーテンダー兼用心棒ってやつだ」 どこからツッコミを入れたらいいだろうかとか、いっそ生意気だと言って殴ってやろうかとか、そんな考えはアクセルの笑顔に吹き飛ばされた。 「俺が守ってやるよ!」 その言葉があまりにも力強くて、あたしは思わず頷きそうになった。 「……何が強い男だい。まだ童貞のくせに」 「てめ……!うるせぇよっ!」 真っ赤になって怒るアクセルが湯気を上げるヤカンみたいで、可笑しくて笑った。そして、何故だか泣きたくなった。 アクセルという野良犬との日々は、もう一ヶ月にもなろうとしていた。 アクセルが店に来なくなった――。 何の前触れもなく、まるで最初からそんな子供は居なかったかのように……。 所詮は子供の気まぐれ。興味が他に移ったのだろう。いつまでたってもカクテルを教えるわけでもなし、本来遊びたい盛りの子供にしてみれば無理もない話だ。 だが、マリーとコニーは心配だと言った。警察に捕まったならまだいい。何かドジを踏んでゾーイの手下に酷い目にあったのかもしれないと。そして最悪の場合も……。あたし自身、心の何処かでは嫌な可能性が幾つも湧いて、その度に打ち消し続けていた。 数日後の月曜日。夕方4時頃、いつものように店に来てシャッターを開けようとしたあたしは、鍵を差し込もうとして愕然とした。 ――鍵穴が壊されていたのだ。シャッターを開けるとドアにもこじ開けられた形跡があった。 店の中に足を踏み入れる。中は静まり返っていた。床の上は土曜日に見たまま、何の変化もないように思えた。だが、飾り棚に並べられた陶器類が、丸ごとすっかりなくなっていた……。