ここ最近伸び始めた下草を踏みしめ悟浄は歩を進める。慶雲院へと続くこの山道を、これまで何度通っただろう。
 歩き慣れた道のはずだが息が上がってきた。気持ちが急いているせいか、知らず知らず速足になっていたようだ。
『俺は寺を出る』
 三蔵はいつからそんな事を考えていたのだろうか。慶雲院に根を下ろし、世の移ろいを一生涯見守っていくのだと思っていた悟浄には想像もしていなかった。もしかすると三蔵は一人でまた旅に出ようとしているのかもしれない。
──お前はどこに行こうとしてるんだよ。
 カフェではあれきり何も言わなかった三蔵。しかし、もう一度ちゃんと話を聞かなければならない、と悟浄は思った。


 慶雲院の正門は入口まで距離がある上に警備も厳しい。悟浄は正面を通らず、警備の目の届かない脇に回り込んで板塀を乗り越えた。
 旅から帰った後、悟浄は三蔵様の旅を支えた従者としてそれなりに丁重に扱われている。だが、丁重な扱いなのは表面上である事はわかっていた。無理もない話である。頻繁に最高僧の執務室を訪れているのだ。悟浄は面倒事を避けるために、いつもこうして忍び込んでいた。
 悟浄はあまり夕刻に来る事がない。はたしてこの時間に三蔵が執務室にいるかどうか、定かではなかった。
「三蔵様! お待ちください!」
 突然聞こえてきた声に悟浄は立ち止まる。
「三蔵様っ!」
 なにやら悲痛な叫び声の方を振り向くと、丁度寺院の角を三蔵がドリフトしながら曲がって来た。そしてその後を追うのは高齢の僧侶。
「まだお話は終わってませぬ!」
「こっちはこれ以上話はねえ!」
 鬼ごっこ……では勿論ないらしい。
 後を追う僧侶がどんなに全力で追っても老いた足では若い三蔵の脚力に敵うはずはなく、少しずつ距離は開いている。
 その時、三蔵が悟浄に気が付いた。三蔵は酷く驚いた顔をして、そして一瞬だけ花が綻ぶように笑った。
「三蔵!」
 三蔵はそのまま悟浄の前を風のように駆け抜ける。すれ違う瞬間、短く一言……。
「フケるぞ」
「へっ!?」
 咄嗟に、悟浄はやってきた僧侶の前に立ちはだかり腕を広げた。
「そこをお退きください、悟浄殿!」
 僧侶は悟浄の腕の間から右へ左へすり抜けようとするが、長い腕に阻まれる。
「いやさ、何があったか知らねえけど、三蔵もああ言ってるしここはひとまず。な?」
 悟浄は横目で三蔵が板塀を乗り越えたのを確認し、やむなく年寄りの身体を突き飛ばした。僧侶が尻もちをつくと「ごめん!」と言い残し、三蔵の後を追う。
「お待ちください! 悟浄殿! 三蔵様ぁ!」
「後でちゃんと帰すからー!」
 騒ぎを聞きつけた僧たちが数人集まる気配がし、悟浄は慌てて板塀を乗り越えた。


 慶雲院の敷地を出、山道を下ったところで、木にもたれて荒い息を上げている三蔵を見つけた。ここまで来れば一安心だろう。
 悟浄も木に寄りかかって息を整えた後、ポケットから煙草を出して火を点けた。同じく三蔵も煙草を咥えたため火を向けてやる。
「……お師匠様から『お寺ではみんなと仲良くしましょう』って教わらなかった?」
 からかうような口ぶりに、三蔵はフンと鼻で笑った。
「なーにジイさん相手に喧嘩してんのよ」
「喧嘩じゃねえ。相手の頭に血が上ってきたから卒倒される前に逃げただけだ」
 お前が頭に血が上るような事言ったからだろ──と悟浄は思うが、勿論口には出さない。
「……で、これからどうすんの」
 数秒、沈黙が続いた。
「……お前の家に……」
 小さく答えて見上げてくる三蔵。どこか頼りなげな眼差しに些か驚く。
 そして、悟浄もただ小さく頷いた。


 肩を並べて歩きながら偶然手が触れた。それを機に悟浄が三蔵の手を握ると、三蔵が強く握り返してくる。
 二人は悟浄の家に着くと同時に相手の服を脱がし合い、そのままベッドにもつれ込む。その間、二人は一言も言葉を交わさなかった。


 ぎしり──。
 ベッドの軋みを感じて悟浄は目を開けた。ほんの数分、眠っていたようだ。隣を見れば三蔵が背を向け、法衣に腕を通しているところだった。
「帰るのか?」
「ああ」
 いつの間にか時刻は十時になろうとしていた。
「もう遅いから泊まってけよ」
「そういうわけにもいかん。あの調子だと僧正は俺が帰るまで起きて待ってるだろうからな」
 先刻の寺からの脱出劇を思い出し、悟浄は納得した。
「そか……。じゃ、途中まで送るわ」
 悟浄は起き上がり、ジーンズを穿き始める。
「いや、一人で帰る」
「そう言うなって。途中までいいだろ? いつもの煙草屋まで……」
「悟浄」
「あ?」
 法衣の帯を締めながら三蔵は背を向けたまま言った。
「もう寺には来るな」
「は?」
 すぐにはその言葉の意味が理解できない。
「……どういう事だよ」
「俺は忙しい。てめぇに構っている暇はねえんだ」
 今まで誘いを断られた事はあった。アポなしで寺に会いに行くと用事があると言われ引き返す事もあった。笑顔で歓迎された事はない。舌打ちで迎えられた事も多い。
 しかし、今まで一度も「もう来るな」と言われた事はなかった。「もう」とは「二度と」という意味なのだろう。
「忙しいって……。お前、寺を出るって言ってなかったか? 今更どうして」
「俺には俺の役割と責任がある。でかい寺院の最高責任者としてハンパな事はできん。てめぇと違ってな」
「……」
「そういう事だ」
 そう言って肩越しに鋭い視線を悟浄に向け、三蔵はドアノブに手をかけた。
「待てよ! クソ坊主!」
 思わず去ろうとする肩に手をかけたが、それを三蔵は払いのける。
「しつけえぞ」
 獣の唸りにも似た声でそう言い残し、ドアは閉じられた。
「なん……だよ、一体……」
 弾かれた手を下ろすのも忘れ、悟浄はその場に一人立ち尽くす。
「恋人ごっこはもうおしまい、ってか? 突然すぎてごじょさんびっくりだわ」
 軽い調子で声に出して呟く。
「さっきのアレはヤり納めかよ。ひでぇ坊主だぜ」
 ハハッ、と乾いた笑いがやけに大きく部屋に響いた。
「あーあ、とんだ人生の寄り道だったなー。ばかばかしい」
 何度嫌味を込めた愚痴を零しても、それに答える声はない。沈黙だけの部屋の中、悟浄は崩れるように椅子に座った。
「『冗談だ』って……言えよ、三蔵。それがルールだったじゃねぇか……」
 唇が震えて、悟浄はそれ以上何も言う事ができなかった。