愛していたわ――と女が最後に言った。 痩せた身体を抱きながら俺は黙って別れの言葉を聞いていた。 大好きだった赤毛の髪に鼻をうずめ、そのいい匂いを嗅ぎながら、ああ本当にもうこれっきりなんだなと思った。 ストックホルム行きの最終搭乗案内が流れ、女が腕からするりと離れていく。 潔い背中を見送り、女との一年半の年月を想う。 何もしてやらなかった自分。 自己最高記録の恋愛期間はすべては彼女の愛情と努力の賜物だ。 空港まで送る、と言う俺を女は拒まなかった。 それはおそらく最後まで強かった自分を見届けさせるためだったのだろう。 本来見送る権利のない俺には女の強さの証人になる義務があるのだ。 女の姿はもう見えない。 恋なんてあっけない。わかりきった事だけど。 11月のパリ。 この季節、午後5時ともなればあたりはすっかり夕闇に包まれる。 ロワシーにある国際空港はこの時間出発と到着の客が重なるらしい。 行きかう人々の邪魔になりながらいつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。 煙草が吸いたい。 見送りが済めばもうここを出てもいいのだが、まだ時間が早い。それに旅行なんて縁のない俺は、滅多に来る事がないこの空港というものをもう少し見ていたかった。 とりあえず一本だけ煙草を吸ってから帰ろう。 と言っても喫煙所はどこよ? 案内板で確認する。 その前にお知らせの貼紙が目に付いた。 『来年1月1日より空港内を全館禁煙とさせていただきます』 ああ?パリよ、お前もか……。 煙草が身体に悪いってのは世界共通の常識だ。で、公共施設では灰皿なんて無いのは当たり前ってのも世界共通の常識で。大体の先進国ではとっくに実施されている事だが、なぜか喫煙人口の多いフランスでは今まで出遅れていたわけだ。 ご多聞に漏れず我が国も先進国だったな、と悲しく実感した。 案内板によると喫煙所はここの2階。 エスカレーターを上がって、うっ、と息を呑んだ。 どこかの会社の団体客らしい。灰皿周辺に軽く50人のオヤジたち。狭いスペースは大混雑だ。身体を滑り込ませる隙間さえない。 そろそろヤニ切れでイラついてきた。 焦って再び案内板で確認すると、あと一番近くてターミナル2Eの2階か。 遠い……。遠いけど歩き出した。 歩きながら俺はおのぼりさんのように辺りをキョロキョロ見渡した。 美しい建物だな、と柄にもなく見惚れた。ガラス張りの空港。透き通っていて清々しい空間。今、外は暗いが昼間はさぞかし眩しいに違いない。人工の照明に頼ったこの時間は、これはこれでキラキラした異空間を作って旅人の気分を高揚させるのだろう。 ガラスの屋根越しに空が朱色から紺色に変わっていくのが見えた。 やっとターミナル2Eまで辿り着き、喫煙所を目で探す。あまり混んではいない。 どうやら少し前にアメリカからの便が到着していたようだ。窓の外にはアメリカ帰りのエールフランスの機体があった。アメリカは喫煙人口が少ないらしい。 灰皿目がけて歩き出した俺は思わず足を止めた。 その人が目に入ってしまったのだ。 時間が止まった。 前方の壁際に居る壮絶な美貌。 肩まで伸びた金髪にしなやかな長身。 遠目から見てもあきらかに男だ。 その圧倒的な存在に息もできない。 ウソだろ……? パリには美男美女はいくらでも居る。 でも……。 こんなに綺麗な人間は初めて見た。 すげェ美人……。 それになんだろう、さっきから感じるこの違和感は。 周囲のざわめく空気の中でその人の周りだけが静寂に包まれているような……。 横切る人々が彼の前にさしかかるとスローモーションになった。 空調の関係だろうか、その人の周囲で風が吹いた。 ふわりと巻き上がる金髪。細い身体に巻きついて裾がひるがえる白いコート。 この世にあるはずがないようなその姿はまるで。 その姿って、まるで……。 俺は目を閉じた。 目を開けた時、その姿は消えているかもしれない。 こんな夢でも見ているような感覚はたぶんヤニ切れの禁断症状が見せる幻だ。 ありえねェよな、フツー。 目を開けた。 だが、その金髪は確かにそこに居る。 もっとも、あの不思議な空気は消えていてざわめきが彼を包んでいた。 現実に戻された俺はもっと現実的な物をその人の左手に見た。 携帯電話? 右手でコートのポケットを探り折りたたんだような紙片を出し、それを見ながらダイヤルしている。相手が出たのだろう、唇が動く。 短い会話が終わって携帯をズボンのポケットに突っ込むと、彼は足元の旅行バッグを持ち上げ歩き出した。 どこへ……? 目で姿を追う。 喫煙所? どうやら目的地は俺と同じらしい。 俺は慌てて金髪の後ろ姿を追いかけた。 話しかけたい。 いや、別に話しかけてどうこう望んでいるわけじゃない。どんなに相手が美人でも男なのだ。俺はゲイでもバイでもない。 ただ、なんでもいい、ちょっとでいい、その人と話がしてみたい。 優雅な仕草で煙草に火を点けているその人に一歩ずつ近づいていく。 なんて話しかけよう。 考えているうちに喫煙所に来てしまった。でかいスタンド型灰皿を挟んでその人の隣に立つ。えらく緊張している俺。 (さあ、早く何か喋れよ。) コートのポケットから煙草とライターを取り出す。ああ、心臓がうるさい……。 (早く何か言えってば!) 一本咥えてジッポをカシャリとやる。手が震える。 (さっさとしろ!行っちまうぞ!) カシャ、カシャ (何を緊張してやがる!馬鹿か、俺は!……言え!) カシャ、カシャ、カシャ くそ!点かねぇ。マジでオイル切れかよ。 ごく自然に、俺は思わず本気で隣に助けを求めていた。 「悪いけど、火ィ貸してくんね?」 その時、その人は初めて俺を見た。 ポケットからライターを取り出すと火を点けて俺に向けてくれる。 彼もやはりジッポ。俺のとはまた違うつや消しの鈍い輝き。 俺はありがたく頂いて「どうも」と言った。 再び正面を向いた男の横顔をこっそり盗み見、あらためて息を呑んだ。 本当に綺麗な顔をしている……。 すんなり通った鼻筋、シャープな顎のライン。女のやわらかな美とはまた違うきりりと引き締まった美しさ。煙草を挟んで口に持っていく手もあきらかに男のものだが、細くて長い指だ。 「あんた、今アメリカから来た便に乗ってたヒト?」 唐突に話しかけられて彼は警戒した目でこちらを見た。 ほんの一瞬、その目が俺の頭のてっぺんからつま先まで走る。 俺の格好をすばやくリサーチした彼の心の中の声はたぶん、こうだ。 『なんだ?この無駄にでかいヤローは。ちゃらちゃらしたカッコだ。チンピラか?無視した方が良さそうだ』 案の定、返事がない。それでもめげずに言葉を続ける。 「パリには『おかえりなさい』なの?それとも『ようこそ』の方?」 「……ようこそ、の方だ」 答えてくれた。初めて聞く声。細い顎にしては意外に低音ボイスだ。 いやいやという感じでもなく、普通に返事をしてくれた事がうれしくて俺はさらに続けた。 「この空港、来月いっぱいで喫煙所撤去するんだってさ。1月から全館禁煙だと。アタマくるよな?」 「そうなのか……?まあ、どこの空港も禁煙だからな。仕方ないだろう」 なれなれしいチンピラ相手に普通に接してくれて、俺はうれしさのあまり破顔した。 彼はかなり根元まで短くなった煙草を揉み消し荷物を持ち上げる。 さよなら、らしい。 「いい滞在をな!」 俺が去りゆく背中に声をかけると、なぜか彼は立ち止った。 コートのポケットをしばらく探っていたが、何かを取り出すと振り向きざまに俺に小さなそれを放った。 胸元に投げつけられた物を咄嗟にキャッチする。 ペーパーマッチ? 「やるよ」 短く言い残して今度こそ彼は行ってしまった。 手のひらの中の小さなマッチ。 火のない俺の、このあとの二本目以降を考えてくれてのさりげない配慮。 ちょっと無愛想な感じの男だったが、なんかすごく……優しい……。 滅多に人から物を貰う事のない俺はなんだか胸がいっぱいになってしまった。 俺は煙草を消すと二本目には火を点けずマッチを失くさないようそっとポケットに入れ、喫煙所を後にした。 ささやかな温かさを俺にくれたその人とはこれきりになるはずだった。 この時までは……。 空港を出る前に手洗いに行っておく事にした。 角を曲がって少し狭い通路に入った右手。 やたら綺麗なトイレで用を足し、手を洗いながら鏡を覗き込む。 俺ってやっぱ、外見はちゃらちゃら系だよなぁ。 これはこれでいいのだ。好きでやってる格好だから。それに軽いイメージで通っていた方が軽い生き方をしていても周囲が納得してくれそうで。つまりは逃げ道だ。 キャスケットを脱いで髪を直し、また慎重にかぶって鏡の中のイイ男に一瞥くれてトイレを出た。 仕事の時間までたっぷり余裕があるが今日は少し早めに店に行っとくか。 俺はブレスレットに埋もれかけた腕時計を見ながらそんな事を考え、通路を抜けてまた混雑した場所まで出た時だった。 バタバタバタ! と、このざわめきの中でもはっきり聞き取れる慌ただしい足音。 遠くで何か叫んでいる男たちの声。 一体なんだぁ? 足音の方を見ると、コートをひるがえしてこちらに向かって走ってくる一人の男。 ついさっきまで一緒に煙草を吸っていたあの美人だった。 その人は俺の前を通り過ぎようとし、その時初めて俺に気付いた。見開かれる目。そして俺の胸に飛び込むような勢いでやって来た。 「かくまってくれ!」 必死な目をしてタッパのでかい俺を見上げて言う。 この状況はどう見ても追われているらしい。 あんた一体何やったのよ? なんて思うより手の方が先に動いた。 彼の腕を掴んで今出てきたトイレに通じる狭い通路に引っ張り込んだ。 「コート脱いでこれ着て」 二人同時にコートを脱ぐ。彼の白いコートは床に放り出された荷物の上にブン投げられ、俺の黒いコートを長い髪の上から羽織った。細い身体に俺のサイズはかなり余っている。袖に腕を通す間、俺は自分のキャスケットを脱いで彼の頭にかぶらせる。帽子のサイズも以下同文だ。 たぶん追っ手に憶えられてしまっている服装と目立つ長い金髪を隠す作業を、俺たちは見事なコンビネーションでやってのけた。まるで息のぴったり合ったワルの相棒と悪事を働いているみたいだ。 バタバタと、大きな足音がすぐ近くに来る。 俺は美人の細い身体をきつく抱きしめるとそのまま覆いかぶさった。 「おいっ!何する……」 「しっ!静かに。俺の首に腕をまわせ」 急に仰け反らされて慌てた男は、咄嗟にぶら下がるように俺の首にしがみ付いた。 頬を合わせる。と同時に後を追ってきたスーツ姿の男が俺たちの真横に現れた。 前髪の隙間から横目に窺うと、スーツの男はいきなり出くわした恋人たちのキスシーンに慌てて目を逸らし、そのまま前を走って行った。 確か、もう一人……。 少し遅れて二人目のスーツの男。こちらを見ると「あっ」というような顔をし、逃げるように仲間の後を追って行く。 どんどん遠ざかる足音。 「……行ったか……?」 俺たちは抱き合ったまま、同じ方向を見て同じ言葉を同時に言った。 「はあ〜っ!マジあせったぜ〜」 アムールの街ではラブシーンなんて日常の風景だ。俺の身体の陰に隠すだけじゃなくて、キスシーンもどきで目を逸らせる方が効果的ってもんだ。 厄介事に巻き込まれるのはゴメンだが、さっきまでクールだった男にこんなに慌てて助けを求められて、俺はすっかり緊張感に引き込まれ動いてしまった。 いや、助けを求められなくてもこの人のためなら俺は手を貸したくなるかもしれない。 「おい!お前……いい加減離せ!」 俺はこの綺麗な逃亡者を拘束したままだった。彼が腕の中でもがいていた。 「……で?これからどうすんの?」 俺は通路から覗き込むようにターミナル内の人混みを窺う。 「列車で市内に出るつもりだが」 「行き先は?」 「レ・アールだ」 マジですか……? 「あのさ、俺もこれからレ・アールに帰るとこなの。よかったら俺の車に乗ってかね?」 彼は驚いた顔をし、そして黙って考え込んでいた。 「空港からのアクセスはバスか列車が普通だ。あいつら駅に先回りしているかもしれないし、どっちにしても俺もレ・アールに行くんだからさ」 「……わかった」 「じゃ決まりだ。よし、行こうぜ。あいつら居ないみたいよ?あ、コートと帽子は空港出るまでそのままね、念のため」 俺たちは並んで歩き出した。 あの二人組の姿は見当たらないが時折すれ違う人々が俺たちをちらちらと見ている。 どんなふうに見られているのだろう。 軽薄そうな派手な服装の俺とカジュアルだがきちんとした身なりの美貌の人は、さぞ不釣り合いな取り合わせだろう。彼の着ている服はいたってシンプルだけど上質の物だというのがわかる。 まさか、金持ちを誘拐したチンピラに見られてないだろうな……。 「本当に迷惑じゃなかったか?」 横で心配そうに俺を見上げている美しい瞳。 「気にするなって、ついでだって言ったでしょ?」 俺は笑ってみせた。 「それにさ、あんた、さっきマッチくれたでしょ?あれ、うれしかったのよ。自分が行ってしまったら煙草の火困るだろうって思ってくれたんだよね?あの……ありがとな」 言って酷く恥ずかしくなってしまった。こんな言葉慣れてなくって。 彼は何か言おうと口を開きかけ、そして固まってしまった。視線は俺を通り越してその背後に……。 振り返ると、スーツの二人がこっちを指さして口を「あ」の形に開けて固まっていた。 帽子とコートで誤魔化していても、たぶんまともに目が合ってしまったのだろう。 「まずい!」 俺たちは走り出した。 「こっち!」 俺は彼の手から旅行カバンと白いコートを奪い取ると、彼の空いた右手を握って引いた。 彼の右手。何か違和感が。なんだ……? 後ろから男たちが「プリーズ」を連呼しながら追ってくる。 これってお願いされてやしない? 正面玄関のガラス扉を開けて完全に暗くなった外へ飛び出す。駐車場はすぐそこ。 振り返ると追っ手が息を切らして立ち止まっている姿が目に入った。 なんとか脱出に成功したようだ。 「助けてもらっといて言うのもなんだが……」 借り物のプジョー。 走り出してしばらく経ってから助手席の男が言った。 「これ、新手のナンパじゃないよな……?」 「おいおい!そりゃねーだろ。助けろって言ってきたのはそっちでしょーが」 男は、それはそうだが……と今ひとつ納得できない様子。 つまり、到着早々見知らぬ男とこうしている状況についていけないらしい。 まあ、もっともな話だ。俺だってそうだ。 「俺、ソッチの趣味はないから大丈夫だって。今も女にフラれてきたばかりよ?」 正確には一週間前にすでにフラれていたのだが。いずれにせよ傷心の俺はたとえ憂さ晴らしだって男に手を出す冒険なんて出来やしない。 「まあ、人生には時にはこんな事もあるって」 それで納得しようや、と言う俺に男はようやく、そうだなと呟いた。 「そろそろ話してくれてもいいんじゃね?」 「何をだ?」 「追われるなんて一体何やらかしたのよ?」 「……」 「乗りかかった船だから腹くくってるけどさ、怪しい二人組からあんたさらって逃げて、俺は立派な共犯でしょ?」 ちら、と隣を見る。 対向車のライトを一瞬浴びて、自分がさらってきた男の横顔はわずかに苦々しく眉をひそめていた。 「別に何もしちゃいない」 「じゃ、どーして」 「あの二人は私の仕事関係の……パリ支局の職員だ。今回は休暇で来ているのに、いきなり迎えに来たと言われた。何か仕事を手伝わせようって思惑があるのかもしれないが、冗談じゃない」 「かなりしつこかったぞ?」 「どんなに断っても『ちゃんとお迎えしないと自分たちが上から叱られる』と言い出す。だからてっとり早く逃げた」 俺は正直、あの二人がFBIか国際警察なのかと思っていたが、考えてみれば“待ってください!”とお願いしながら追いかけてきていた。犯罪者を追うのにプリーズとは言わない。 どうやら俺は犯罪に巻き込まれたわけではなかったらしい。 もうひとつの懸念が頭をよぎった。 「結局、男と抱き合ってキスしていたの、あんただったってバレたな」 「そうだろうな」 「絶対本物のキスだと思い込んでるぜ?」 「あの後手繋いで逃げたしな」 この人なんか楽しそうに言ってないか?大丈夫なのか? 「仕事関係の奴らなんだろ?やばくね?」 「たぶん明日からパリ支局で、私がホモだったって話題で持ちきりだろうさ」 「ちょっと……いいのかよ」 「別に。好きなように言わせておけばいいんだ。私には関係ない」 あきらかに面白がっている口ぶり。 年は俺と同じくらいだろうけど、話からすると結構高い地位にいるらしい。だが、社会的立場などまったく気にしていないこのマイペースぶりに、俺は酷く好感を持ってしまった。 満足そうな彼の横顔を見て俺は無性に可笑しくなって吹き出した。 「ね、今から空港に戻ってあの二人にもう一度会って『恋人です!』って自己紹介してきてもい?」 大笑いする俺につられて彼はちょっと笑ったみたいだ。 馬鹿か?と言う声に笑いが含まれていた。 レ・アール地区に入った。 どこまで?と訊くと、お前は?と訊き返された。 繁華街の番地を言うとそこで降ろせと言う。 一軒の酒場の前で車を停めた。 「本当にここでいいの?」 「ああ、ホテルはこの近くだ。寄り道して行くからここでいい」 男は後部座席から荷物を取り上げるとドアを開けた。 「あのさ、俺この店で働いてるんだ。ちょっと変わった店だけど、よかったら一度飲みに来てよ」 目の前の酒場を指差し俺は慌てて言った。 この人とまた会ってもっと話したい。 彼は店を見て振り返り、わかったと答えた。そして車を出て開けた窓越しに俺に言う。 「面倒かけたな」 「いいってことよ」 去っていく背中。 これからますます賑わっていく街の雑踏にまぎれて白い後ろ姿が見えなくなるまで俺はそうしていたが。 そういえば名前!名前を訊くのを忘れていた。 「馬鹿だ、俺……」 ハンドルに突っ伏して俺はいつまでも落ち込んでいた。