その夜はいつも通りに店に出て、いつも通りにお客に愛想ふりまいて、閉店するとどこにも寄らず真っ直ぐ部屋に帰って来た。 金曜の夜は誰もが酒を飲みに街へ繰り出す。 おかげで俺は考え事する暇もなく仕事に追われて、クタクタになって、死んだように眠った。 だが今日。目が覚めてまず思い出したのが、空港で会った男の事。 「今日、空港ですげェ美人に会っちゃった」 あの人を降ろした後、俺は店に入り店主の顔を見るなり言った。 店のマダムは薔薇を花器に活ける手を止め、猛烈に冷たい目で俺を睨んだ。 「アクセル。あんた、その前に言うべき事があるでしょ?」 「ああ、えっと……オハヨウゴザイマス。車を貸して頂いてアリガトウゴザイマシタ」 「あたしはね、ソフィを送るって言うから車を貸したんであって、ナンパに使っていいなんて言ってないからね」 「いや、違うって……」 「で、ソフィはどうしたの」 「無事に行ったよ。で、ナンパじゃなくて……」 「数少ないあんたの長所は女に対しては真面目って事だったのに、別れたその足でもう新しい女かい?あんたを少し買い被ってたようだよ」 「人の話聞く気ねえだろ、このオカマ」 店のマダム、レディ・ジョーは人情に厚く商売上手だが、口やかましいのが玉にキズのごっついオカマだ。 まだ誰も出勤していない二人だけのこの時間。俺は開店準備に追われながら空港での出来事を語った。もちろん、その人が男だって事もだ。 「で?そのべっぴんさんの名前くらい訊いたんだろうね」 「いや、忘れてマシタ……」 「……」 「……」 「あんた、馬鹿?」 あまりにもごもっともな意見だったので何も言い返せない。 俺がしおれていると真っ赤なマニキュアのぶっとい指に尻をつねられた。 そして今、一夜が明けて考えた。 俺は幻でも見ていたのかもしれない、と。 いや、幻と片付けてしまう方が非現実的なのだ。抱きしめた細い身体を、この腕がしっかり覚えている。繋いだ右手の、そのしなやかな見た目のわりに意外なほど硬い手のひら。 そして俺は思い出した。物的証拠があるではないか。 昨日着ていたコートのポケットに手を入れる。 あった……。 喫煙所であの男から貰ったペーパーマッチ。 夜空みたいな濃紺の地に白い文字で“Bar Seventh Star”。 住所は、アーリントン?って……聞いた事あるけど、アメリカのどの辺だっけな。 特になんの変哲もない小さなマッチだ。 俺は、今日一本目の煙草の火をこいつで頂こうと一本咥えてマッチを開けた。 二折のかぶせを開いた中に変哲はあった。ふたの裏に手書きの電話番号。 まだ一本もむしられていない紙のマッチ軸をちぎって火を点けた。 深々と煙を吸い込み、この番号について考える。 パリの番号である。この市外局番はレ・アールだ。 初めてあの人を見かけた時、彼はメモを見ながら携帯で電話をかけていた。確信はないが、そのメモはこのマッチではないのか? どうしよう……。ここに電話をしてみようか。でも相手が出たらどう言えばいいんだ? 携帯を開いてはダイヤルをためらい、閉じてはまた開く。 うじうじしていると、外で喧嘩をする声が耳に入ってきた。 このアバズレ!と怒鳴る男の声と、二度と顔見せるな!と怒鳴り返す、やはり男の声。 怒鳴り合いは次第にヒートアップし、俺はついに耐えられなくなって窓を開け、上を見上げて怒鳴った。 「うるせえんだよ、オカマ!」 このアパートの4階に住むバーのオカマ、キャンディと路上の恋人が俺の部屋を挟んで痴話喧嘩の真っ最中だ。 いつもの事だ。明け方だろうが真夜中だろうが、こいつらの喧嘩は年中無休24時間営業だ。 男とオカマの痴話喧嘩は俺を無視して少しの間続いたが、俺の「いい加減にしろ!」の声にようやく治まった。 気を取り直して再び携帯を手に取る。 怒鳴ったせいか強気になっていた俺は、今度こそ電話番号をプッシュした。 二回の呼び出し音の後、相手が出た。向こうから名乗った。 「す、すみません!間違えました」 慌てて電話を切った。 その番号はホテルだった。この近くの、誰もが名前くらいは知っている高級ホテル。 あの人の宿泊先だろうか。 フロントに電話して、もしくはホテルまで出向いて、俺は一体なんて言うんだ? あの人の名前を知らないんだ。 “年は23~24歳のアメリカ人で長い金髪で長身の美青年、泊まってませんか?” ……なんて、教えてくれるわけがない。不審がられるだけだ。 「打つ手なしかよ……」 俺は絶望した。 土曜の夜の『ネオ・トリアノン』。 明日は休日という事もあって、俺の働いている店は今日も賑わっている。 一見普通のバーだが、ここのスタッフは経営者であるごついオカマと、ホステスを務めるオカマが4人。マリー、コニー、キャンディ、ジョジョ。そしてバーカウンターを任せられている普通の男の俺、計6人。 つまりオカマ・バーだ。全員男の飲み屋だ。異様な職場環境だ。最初のうちは戸惑ったが、もう慣れた。というか諦めた。 正直、こんな不気味なホステスたちと飲んで何が楽しいのかと思うのだが、不思議な事にこの店は結構繁盛している。それはひとえにレディ・ジョーの経営手腕によるところだが、ホステスたちも気配り上手で客を楽しませるのだ。 客層も悪くない。大体客は4種類。 レディ・ジョーの昔馴染みで水商売をやっているその筋の連中。ホステスたちが目当てのホモオヤジたち。こういう店を面白がってやって来る観光客。そして、バーカウンター担当の俺に会いに来てくれる若い女たち。 カウンターで飲む客は、あまり大金を落としていってくれないが新しい客を連れて来てくれる。これはありがたい。 女たちの職業はさまざまだ。 他の店のホステス。普通の会社員。ストリートガール。 どんなにいい女が俺を気に入ってくれても彼女たちとは深入りしない。俺はいつもぶち壊しちまう男だ。俺が商売と恋愛を混同させると客が減るのはあきらかだ。 ソフィだけは例外だった。だが、もう客とは寝ない。 もっとありえないのは、ここのオカマたちとの関係。 奴らは手術をしていない。男の身体で女として努力をして容姿に気を遣う。 実はみんな結構綺麗なのだ。肌の手入れに気を抜かず、筋肉が付かないように日頃から気を付け、すね毛も胸毛も当然剃る。 だが男は男だ。まあ、奴らの方も俺なんて眼中に無いのだが。 レディ・ジョーも含めて不気味な人種なのだが、奴らには特別な気持ちがある。 この店で働くようになって6年。その6年の間でオカマたちは俺の家族になっていた。 母親と4人の姉と末っ子の俺。ここはまるでアダムス・ファミリーだ……。 日付が変わり小一時間。 ボックス席ではまだ盛り上がっているがカウンター席は二人組のストリートガールが帰って客は誰も居なくなった。 空いたグラスを片付けているとドアを鳴らして珍しい客が来た。 「よぉ、アクセル」 短く刈り込んだプラチナブロンドに氷のような水色の瞳。 ルカは俺と同い年の昔馴染みでよくつるんで悪さをする仲だが、こいつは本当の意味でチンピラだ。 奴はカウンター席に座りジントニックを注文した。 「お前が正面から入ってくるなんて珍しいな、ルカ」 「ちょっと小銭が入ったからな。でもあまり長居はしないさ。オカマのマダムがうるさいからな」 そう言ってルカは背後のボックス席を顎でしゃくった。 レディ・ジョーは背を向けているが、当然この好ましくないチンピラが入ってきた事に気が付いているはずだ。 レディ・ジョーはルカを嫌っている。 それはこいつが裏社会に身を置いているからだ。それだけでなく、俺もこいつに巻き込まれて、たまに使いをやって小銭を得ている事も知っている。 レディ・ジョーに出会うまで、俺はそれだけをやって生きてきた。 『ネオ・トリアノン』で働き始めても簡単に稼げる売人稼業から抜け切れないでいた。商売がバレるたびに酷くレディ・ジョーに叱られ、俺もそれに突っかかっていたが、ある日ごつい手のひらで思い切り張り倒された。 この馬鹿息子!と泣かれた……。 レディ・ジョーの泣き顔を見た時、俺はようやく一人の力で生きてこれたわけじゃない事に気が付いた。 今はまっとうに生きたいと思っている。腐れ縁のルカの手伝いはほんのたまにだ。いつか完全に手を切りたいと思っている。 「ゾーイのジイさんが何かでかい事をやるらしい」 ルカが小声で言った。 いつものニヤニヤ笑いがない。俺はジントニックを差し出す手を止めて奴を見た。 「近々大量のヘロインを取引きするそうだ。その一部を任された。なあ、アクセル……大金を手にしたいと思わないか?」 きな臭い。ものすごく嫌な臭いだ。 「そんな話は俺ンとこに持ってくるなよ」 「なあ、お前に手伝ってほしいんだ。俺の計画、聞く気ないか?」 「てめェ一人でやれ。いい加減いちいち巻き込むなよ」 ガキの頃はバックにゾーイという裏社会のボスが付いている事で自分が強くなったような気がしていた。こんな誘いも喜んで乗っただろう。 お笑いだ。無力なガキの思い上がりだ。そんな事がかっこいいと思っていたなんて。 「何を企んでいるのか知らねぇが、今後俺は手を引く。お前も少し考えろ。ゾーイの懐深く入りすぎるのも、敵に回すのも危険すぎる。そんな事くらいわかってるだろ」 ルカはふっと笑って、そして舌打ちした。 「なんだよ、アクセル。オカマと付き合うようになってから随分毒を抜かれたもんだな。まあいいさ、少し時間をやる。お前こそ考えてみろ」 ルカはジントニックをあおり席を立った。 奴はカウンターに代金と白い封筒を置いた。俺は封筒を開け中を確認する。 決して少ない額ではない札に驚いて目を上げた。 「ゾーイからだ。いつぞやの駄賃だ。また頼むってさ。じゃな、また来るぜ」 背を向けたまま俺に手を振って、ルカは店を出て行った。 酷く疲れた気分でカウンターの中の椅子にどっかり腰を下ろす。 煙草に火を点けて、もう一度白い封筒を手に取った。 手を切りそうな皺ひとつないユーロ札。大きな額面のそれが20枚。 汚れた金なのだ。 もう、こんな事はやめにしようと思いながら、それでも封筒をポケットに入れる中途半端な自分。根っからの売人のくせに口先だけの綺麗事で堅気の人間になったつもりでいる俺。それをルカは見抜いているのだ。こんな俺にルカを責める資格はない。 かっこ悪い……。 店はあと一時間もすれば閉店だ。 店を閉めたら一人で球突きをしたくなった。 『ネオ・トリアノン』の真下、地下1階は空き店舗になっていてビリヤード台が一台ある。レディ・ジョーが放ったらかしにしているバーだ。 中は冷え切っていることだろう。俺は一時間後のために暖房を入れておく事にした。あまり広くはないバーだから一時間もすればちょうど暖まっているはずだ。 俺は鍵束を持って一度外に出、階段を降りてヒーターのスイッチを入れに行った。 そして再び階段を上がると、なぜか地上でジョジョが俺を待ち構えている。 「ちょっと!早く戻りなさいよ。あんたに客よ!」 はあ?客くらいで何をキイキイ言ってんだ? 早く早く!とバタバタ手まねきされたので仕方なく残りの階段を駆け上がった。 「いい男だわね。どこで知り合ったのよ」 興奮するオカマの言葉が理解できないまま店の扉を開ける。 心臓が、一度だけ音をたててドスンと胸の内側を叩いた。 コレハ、俺ノ、都合ノイイ夢ナノカ……? どうしても会いたくてたまらなかった、あの金髪がカウンター席に座っていた。 おそらく俺は相当惚けていたんだと思う。 彼が俺の顔を見て笑っている。大笑いしたいのをかみ殺しているその顔は妙に子供の表情で、なんだかすごく可愛い。 この人の笑った顔をまともに見たのは初めてだ。 「元気だった?」 「まあまあだな」 「来てくれたんだ……」 「お前が飲みに来いと言ったんじゃないか」 「うん、ありがとな」 会いたかった……と言おうとして、それは堪えた。予期してなかった最高の来客にすっかり舞い上がって、今の俺は何を口走るかわからない。 俺はようやくカウンター内の持ち場についた。 「さて、ご注文は?」 「なんでも、お前のお勧めを」 「お勧め?う〜ん……今夜もう何か飲んでる?」 「ワインとコニャックをたらふく」 「ブドウづくしだね……。じゃあ、スッキリした超辛口のマティーニはどう?」 「いいね」 「ちょうどね、さっきの客でジン使いきったから新しいボトル開けるとこなんだよね」 マティーニはドライジンとベルモットだけの究極のカクテルだ。シンプルだからこそバーテンダーとしての腕を試される。 美味い、と言ってほしい。こんな俺でもきちんと仕事しているんだって思われたい。 支度にかかりながら、俺はつい忘れかけていた肝心な事を思い出した。 「そうだ!まだ名前言ってなかったな。俺、アクセル」 よろしくと言って差し出した手を、彼は例の硬い右手で握り返した。 「あんたは?」 だが返事はない。 俺の目を見つめて口を動かしかけたが、困ったような顔をしてまた口をつぐんだ。 「……お前の、好きに呼べばいい」 は!?なんで?ワケありなのか? この人、やっぱり犯罪者なのだろうか。それとも記憶喪失?いやいや、まさか。お前になんか教えてやらねぇよ、って事なんだろうか。でも教えたくても言えなくて困っているって顔だった。 きっと何か理由があるのだろう。それならそれでかまわない。 名前より大切なのは、この人がここに居るって事なのだ。 「名無しのアメリカ人かい、困ったね……。じゃ、ハニーはどう?」 「やめてくれ」 「ビューティー」 「絶対やだ」 「男っぽくミスター・アメリカ!」 「……私をおちょくってるだろ」 「好きに呼べって言ったくせに」 俺が笑い出すと、彼は怒ったふりをやめて何やら安心したように微笑んだ。 名前は何か考えておくと言って、とりあえずマティーニの準備に戻った。 その間、彼は後ろのボックス席をさりげなく観察している。 「オカマ・バー、初めて?」 「ああ……でも雰囲気は普通のバーと変わらないな。みんな結構美人だし」 「みんな家族みたいなものなんだ。凶暴な姉たちに囲まれて暮らしているみたいだよ。実際、俺この店の2階に住んでいるしさ。……はい、お待たせ」 最後にオリーブを飾ってグラスをそっと目の前に滑らせた。 彼は透明な液体をしばし眺め、口を付ける。 「なかなかいい」 「ホント?よかった」 俺は心底うれしかった。 毎夜、疾走するかの如く過ぎ去るパリの時間は、今夜はとてもゆっくり流れていく。 彼は俺にも飲み物を勧めてくれ、礼を言ってビールを御馳走になった。 カウンターを挟んで俺たちは飲みながらいろんな話をした。 その人は名前以外の事をぽつぽつと語ってくれた。 パリには大学の先生をやっているフランス国籍の母親が住んでいて、今回の休暇の目的は母親に会うためだという事。アメリカ人でありながらネィティブなフランス語を話すのは、生まれてすぐフランスに渡り10年間パリに住んでいたためだという事。パリには叔父さんも住んでいて、今夜は夜中まで一緒に酒を飲んでいたという事。パリ滞在中はやはりマッチにメモしてあった高級ホテルに泊まっているが、他は予約が取れず仕方なくだったという事。 そんなふうにこの人の事を少しずつ知るにつれ、次第に彼が他人に思えなくなっていく。 俺たちはずっと昔から友達で、週末にはよく一緒に酒を飲む間柄なんじゃないかと思えてくる。明日も、来週も、来月も、この人と一緒にこうして酒を飲んでいたい。 「あんた、このあとまだ時間ある?」 「ホテルに帰って寝るだけだが?」 「俺とビリヤードで勝負してくんね?」 さっきからずっと考えていた事だ。 彼は、唐突だなと言って少し考え、俺の申し出を受けてくれた。 閉店が近い。ボックス席の客が帰り支度を始めた。 「ラストオーダーだけど、もう一杯何か飲む?」 「それじゃ、ジン・ベースで何か別なものを」 この人は半端じゃなくいけるクチと見た。 「酔っぱらう覚悟はあるかい?」 ある、と言う彼に俺は何も言わず簡単なカクテルを作って目の前に置いた。 「これは?」 「ドッグス・ノーズ。材料はドライジンとビール、以上。美味いぜ?でもそのあとは保障しない」 彼は泡の立ったロンググラスを持ち上げ、眺め、匂いを嗅いで一口飲んだ。 「……美味い……美味いけど、きくなコレ!」 俺が作った最終兵器にさすがの飲兵衛も綺麗な顔をしかめた。 そうだろ?さあ、酔っぱらったあんたを見せてみな。 レディ・ジョーの許可を得て、俺たちは連れ立って階段を降りて行った。 手には缶ビール二本。 ドアを開けると中はちょうどいい暖かさ。 彼は物珍しそうに部屋を見回している。 「空き店舗にしておくのがもったいないな」 「だろ?上の店が忙しすぎてこっちまで手が回らないらしい。だから今は俺専用のアソビ場。嫌な事があるとよくここに来て球突いてんのよ」 思えば関係者以外この店に人を連れて来たのは彼が初めてだ。 「今日あったのか?」 「え……?」 「嫌な事。室内が暖められているって事は、私が来る前から一人で来るつもりだったからだろう?」 なんて人だ、読まれている。 この人が来たおかげですっかり忘れていたけど、それまでは最低な自分に最低な気分だった。 「嫌な事なんてあるわけないじゃない。それどころか、あんたが来てくれてサイコーな気分よ?」 動揺を悟られたくなくて、わざとおどけて見せた。 うまく誤魔化されてくれただろうか。いや、たぶん悟られている。かすかに微笑んで彼はそれ以上何も言わないが、俺はそう感じた。 ぼんやりしていると名前を呼ばれて驚いた。 「どうした?勝負するんだろう?」 「ああ、もちろん!」 もちろんだ。そして負けない。 俺たちはキューを選び、まずビールを開け煙草に火を点けた。 ゲームはナインボール。テキサス・エクスプレス・ルールでいく。そして勝負は一回のみ。 バンキングを行って先攻後攻を決める。近差だったが俺が先攻だ。 「俺が勝ったら……」 的球を菱形に組み、俺は言った。 「明日、俺とデートして」 ビールを持っていた手が止まり、彼はゆっくり振り返った。 沈黙。驚いているのか、呆れているのか。 彼の視線は痛いものがあった。だが、俺も引く気はない。 やがて彼の目元がやわらぎ、クスッと笑われた。 「中学生みたいな事言うんだな、アクセル」 「なんとでも言えよ。で、あんたは?」 咥え煙草の横顔は少し考え込んでいたが。 「思いつかないな。勝ったら考えよう」 「ずりーな、それ。俺に出来る事にしてよ?」 「さあ……どうだかな?」 ニヤリと笑って正面から俺の目を睨みコートを脱ぐ。飄々とした口ぶりとは裏腹に、その目は火のような色をしていた。 先攻の俺はキューを構えた。 「ちなみに俺、強いぜ?」 ブレイク。パンッ!と10個の球が弾けた。 7番と2番が対角のコーナーポケットに落ちる。 サイドポケットのいい位置に1番があった。テーブルを回って強めにショット。難なくポケットさせる。 3番に当てたいが、ちょうど8番が邪魔な位置にあった。直接狙わずクッションを利用したが当てるのが精一杯だった。 彼のショットの番。 キューを構える彼を見て俺は思った。 姿や顔立ちが綺麗なばかりじゃないのだ。身のこなしが美しい。さりげない動作にも、いや、立っているだけで凛とした空気をまとっている。セーターの袖を肘までまくって、その腕は細いくせに男っぽい筋肉質。 かっこいい奴だな。と、見惚れている間に8番をポケットされた。 手球が戻ってきたのは3番の近く。簡単にそれを落とす。そしてまた戻った手球は4番の好位置。 この人、実は高いテクニックを持っている……。手球の戻り位置まで計算してショットしているのだ。 だが、4番はほんのわずかポケットの角に嫌われてそこに留まった。 俺に順番が回ってきたが、突然とある事を思い出した。 「あんた、全然酔ってないの?」 「は?」 「俺が知る限り、あんた今夜はワインとコニャックをたらふく飲んで……って、その前に酒を腹いっぱい飲むってのもどうよ?……で、かなりアルコール度数高いはずのジン・ベースのカクテル二杯も飲んで、今またビールだろ?それで、ふらつきもしないの?どうなってんの?」 「酔ってるさ」 「どこが!?」 「少し眠いな」 それだけデスカ……? 「そんな事よりさっさとやれ」 釈然としない思いでゲームに戻った。 かろうじて踏みとどまっている4番にこつんと当て落とした。だがそのまま手球も落としてしまった。痛恨のミスだ。動揺しているのか? 彼の番。 手球を拾い上げて5番と30センチほどの距離に置く。かすらせるような角度で、だが力強いショットをした。意外な方向に向かった5番はワンクッションで9番に当たり、勢いを失わない的球は9番を道連れにコーナーポケットに落ちていった。 えっ?落ちたのか?俺の負け……? 「終了だ。私の勝ちだったな」 彼は落した球を拾うと、唖然とする俺に向かって高く放り上げた。 両手で受け止めたそれ。確認するまでもなく9の数字。 勝ちたかった。プライドなんかじゃなく、今度こそしっかり捕まえるために……。 「いいゲームだった」 「見せ場無しだったな、俺……」 「お前、上手いよ。4番のミスショットは焦りが出たせいだな」 「絶対勝つ自信あったのに、あんた上手すぎ!」 彼が球を片付け始めたので慌ててそれを手伝った。 「で?勝ってから考えるって言ってたけど、決まった?」 「ああ……明日、私に付き合え」 えっ? 「久しぶりにレ・アールに来たら街がすっかり様変わりしていてよくわからん。明日この辺を案内しろ」 「あの、それって……」 「それから昼メシに付き合え。あと買い物もだ。買い物が面倒なんだよな……」 一緒に街を歩いて、食事をしたり買い物をしたりってのをデートと言わずなんと言う。 あんたって人は……。 「ね、抱きしめてもい?」 「だめだ」 「ケチ」 俺は肩を震わせて笑った。笑っているのになぜか泣きたい気持ちでいっぱいだった。 ああ……こんな可笑しな気持ち。これってマズイんじゃないのか? 「笑うなよ……勝った気がしないだろうが」 まったく、この人には敵わない。