自分の中で何かが生まれようとしている――。


熱い水流に顔を打たれながら、俺は胸の疼きを覚えていた。
それは例えば、種子が厚い外皮を破って中から白い小さな芽を出すような感覚。
種子を蒔いたその人は名も知らぬ旅行者。
そんな通りすがりの存在を俺はどうするつもりなのか。
あの人は男なんだぞ……。
そんな自問は何度もしてきた。
“やめておけ”と心の中でサイレンが鳴る。
きっと俺は今のままじゃいられなくなる。
あの人のすべてが欲しくなる。
いずれ俺の前から居なくなる人なのに……。
引き返すなら今だ。
だけど……。
華やぐパリの雑踏の中で周囲から切り離されたような空間に居たあの人。
そんな、ひとりぼっちで凛と立つその姿から目を逸らす事など、なぜ出来よう。
繋いだ手の確かなぬくもりを無かった事にするなど、なぜ出来よう。
心の中で鳴り続けるサイレンをかき消すように、俺はいつまでもシャワーを浴びていた。




これ以上ないというほどの晴天の日曜日。
通りは人や車でごった返している。
約束の時間に10分遅れて俺は待ち合わせのオープンカフェに着いた。
通りに面したちょっとした日陰の席に、彼はこちらを向いて座っている。
新聞を読んでいるせいでまだ俺には気付いていない。
黒いタートルネックのセーターに白いコート。相変わらずの美人っぷりだ。
だが……ああ、またあの感覚。
ほぼ全席埋まっている人混みの中で、またしても彼の姿は周囲から浮いてしまっている。
ひとりぼっちの姿に急に胸が切なくなって、これ以上あの人を一人にさせておきたくなくて、俺は急いで駆け付けた。
俺に気付いて新聞から目を上げた彼は瞬時に顔をしかめた。
「なんだ、そのサングラスは」
開口一番、挨拶抜き前置きなしのダメ出し。
「あ?似合うでしょ?ピンクは嫌い?」
相変わらずのしかめっ面でじっと見つめる彼。
「馬鹿みたいな色がよく似合うな」
「……なんか、誉められてる気がしねェな」
俺は笑ってもうひとつの椅子に座った。
「元気だった?」
「昨日も会ったばかりだぞ?」
「正確には今日だけどね。それまでの間、元気だった?」
「まあまあだ、と言いたいところだが、お前のせいでまだ酒が残っててサイアクだ」
「俺のせいかよ!だからあとは保障しないって言ったじゃん。その割に来るの早いね」
「私はいつも約束の10分前に来る事にしているんだ」
「へー、真面目なんだな」
「お前は不真面目らしいな」
テーブルの上の灰皿を見ると吸殻が三本。そしてエスプレッソらしいコーヒーカップの中身はすでに飲み干されていた。
結構待たせてしまったらしい。俺は本気でちょっと反省した。
「スミマセン……アメあげるから怒んないで?」
ポケットから棒付きキャンディを二本取り出し彼の前に突き出すと、不機嫌な顔が一瞬きょとんとした。
「なんだ、これは」
「こっちがレモン・コーラ、こっちがストロベリー……」
「そうじゃなくて、なんでアメなんだ?」
「それはもちろん、怒っているであろうあんたをあやすために買ったんだよ」
彼は無言で俺を睨み、レモン・コーラを取った。そしてその場でビニールをはがし、口に入れる。
思わず笑ってしまった。酒と煙草の似合うワイルドなクールビューティ。そんな男が小さな棒付きキャンディを口に咥えている。
「なんか……激しく可愛いな、あんた」
「誉められてる気がしないな」
すかさず返されて、また吹き出してしまった。
「さあ、行くぞ。今日はしっかり付き合えよ?」
彼は立ち上がりざまに黒いサングラスをかけた。
かっこ良すぎて頭にきた……。


かつてレ・アールはパリの中心だった。
昔、この街には巨大な中央市場があった。
パリ市民の胃袋を満たす、文字通りの台所だ。まさにレ・アールは人々の生活を支える食文化の中心だったわけだ。
今、中央市場は他の地区に移転してしまい同時に再開発が始まった。
近代建築のショッピングセンターができ、ここは洗練されたお洒落な街へと生まれ変わった。裏通りの売春婦やポン引きや売人たちは少なくなり、やがて世界中から来た観光客が街を闊歩するようになる。
綺麗で健全な街へと生まれ変わったレ・アールだが、それでもまだここには俺が愛してやまないいかがわしさと危うさと頽廃の匂いが息づいている。
ホテルの裏通りで客を物色する夜の女たち、タクシー乗り場で喧嘩を始めるチンピラ、カフェのテーブルの下でさりげなく取引きする売人。
人生の負け犬のくせに、奴らは俯く事なく堂々と生き延びている。
正しい、正しくないの問題ではない。洗練も猥雑も内包した街がパリだ。
俺の隣を歩く男もこんなにファッショナブルじゃないパリに生きていたはずだ。
綺麗な街になったもんだな、と呟くその声色から、気持は俺と同じなのだろうと思った。
だが、そんな俺たちが今歩いている所は皮肉にもファッショナブルなレ・アールを象徴するショッピングセンターの中だ。
彼が面倒がっていた買い物は目的がはっきりしていて、実にてきぱきと進んでいた。
職場の女友達に頼まれたという香水を買ったあとは時計ブランドのショップへ。
ワシントンの自宅を通いで管理してくれている老夫婦に、土産を兼ねて結婚記念日の祝いだと言う。結構値が張るペアウォッチだが、留守がちな自分に代わって昔から家を管理してくれている老夫婦への恩は金では計れないのだそうだ。
最後は花屋に行って花かごを二つ作らせた。ひとつは母親への遅ればせながら誕生日のプレゼント。もうひとつはパリ在住の叔父の妻へ世話になったお礼らしい。
それぞれの配達先を記入し、支払いを済ませ花屋を出た。
混み合ったショッピングセンターをぶらぶらする事がよほど苦手らしく、走るようなスピードで本日の目的その一の買い物はあっという間に終了した。
ホッとした顔で出口に向かう男に声をかけてみる。
「今日は何が一番楽しみ?」
「昼メシと散歩」
即答されて俺は笑った。
「散歩?ジジくせー!」
「悪かったなジジ臭くて」
気を悪くしたふうでもなく、彼は顔をしかめて見せる。
昼メシのリクエストを訊いてみると、シーフードレストランの名前をすぐに挙げた。その店はまだあるかと尋ねられ、自分も今日連れて行きたい店の候補のひとつだと告げる。
観光日和の晴れた日曜日。混んでなきゃいいなと思いつつ、ショッピングセンターから脱出した。


何十年も前から同じ場所で商売しているそのシーフードレストランは、安くてボリュームがあって美味いと評判の家庭的な店だ。
運よく窓際のコーナー席を取る事ができた俺たちは、さして迷う事なく料理を注文した。
聞けば、彼はパリに来るたびにこの店に来ているという。メニューもあまり変更がなく、味も昔から変わらないので、安心して食べたい物を注文出来るのだそうだ。俺のお勧めメニューが彼にとっても好物だと言うのでちょっとうれしい。
先に白ワインが来た。最初の一杯を二つのグラスに注ぐと太ったマダムは、ゆっくり楽しんでと告げて奥に消えた。
乾杯するでもなくグラスに口を付ける。決して高くはないが、すっきりとしてクセのない味。
どうやら彼は辛口が好みのようだ。美味いとも不味いとも言わないが、俺を真っ直ぐ見つめる目が満足である事を語っている。
ああ、この人の目は青いんだ……。
今さら俺は気が付いた。
夜は気が付かなかったが、明るい太陽の光によって今度こそはっきりわかる色。ルカの氷のような薄い青とは違って、深い水の底のような、もしくは夜の空のようなダークな青。
綺麗な目だなぁ……。
彼がもう一口ワインを飲む。
ワインに濡れた唇。やわらかそうだ。厚過ぎず薄過ぎず、形の良いそれ。
どんな感触なんだろう。そして舌はどんな味なんだろう。唇や舌を吸われたら、彼はどんな表情を見せるんだろう。

キス、してェ……!

そこまで思った瞬間、俺は我に返った。
今、俺何考えてた!?こんな真っ昼間に……!
馬鹿な頭からアブナイ妄想を振り払い、芽生えかけた欲望をなんとか封じ込めた。
やべェ……危うく身体が反応するとこだった。
俺がそんな不埒な事を考えていたとも知らずに、彼はワインから酒の話を振ってきた。フランスの酒事情や昨夜飲んだカクテルの話。
「いつからあの店に居る?」
「もう6年かなぁ。実は未成年の頃からあそこで働いてたのよ。もちろん、世間には未成年って事は隠してね」
ここでエスカルゴが運ばれてきた。
専用トングでそれぞれ取り分ける。ここのエスカルゴはニンニクの加減が絶妙なんだよな。
「俺、母親が売春婦でさ、親父って人誰だかわかんねぇの」
彼は手を止めて俺を見た。
別に自慢になるような笑えるような、つまりは大した話ではないのだが、昨夜は彼の方がいろいろ話してくれたので今日は自分から自分の事を話してみたくなったのだ。
「俺の最初の記憶ってのが、安アパートの部屋で一人母親の帰りを待ってるってのだろうな。いっつも腹へって眠れなくてさ、そのうち母親が帰ってくるんだ。男のニオイさせてさ……。あーごめん、メシ時に話す内容じゃないよな」
「いや、構わない。続けろよ」
「母親は俺を食わせるのに手いっぱいで、あまり構ってもらえなかったな。でも学校には行けてたんだぜ?女が自分の身体売った金で子供育てるってすごい事だし、俺はそれだけ守られてたんだよなあ……。でも、そんな事しながら生きるって、やっぱ無理があった」
熱いうちに食いたくて次々エスカルゴを食べる手を止めないまま、俺は話を続けた。
「俺が9歳の時とうとう死んじまった。酔って吐いた物で窒息したんだ」
まあよくある話だよな、と努めて明るく言った。
彼は食べるのをやめ、俺と自分のグラスにワインを注いだ。
「その後は施設で育つんだけどさ、どうしようもない悪ガキだったな。悪い奴らとつるんで、かっぱらいなんて当たり前、おまわりに殴られるなんてしょっちゅう。挙句の果てに街のギャング団みたいなのに入って……。馬鹿みたいだろ?」
俺が笑いかけると彼は目だけで笑った。一言も口を挟まずに黙って話を聞いてくれるのがなんだかありがたかった。
「ここじゃ声を大にして言えないけど、いろんなヤバい物売ってそれで生計立ててたんだ。そんな転落人生のさなかにレディ・ジョーと出会った」
俺の身の上話はおおかたこんなもん、とばかりに一息ついてワインを飲む。
「あの史上最強のオカマに出会ってようやくまっとうな生き方になった。売人生活にもおさらばよ。なんせ矯正の仕方が日々殴る蹴るの愛の暴力なんだからな。ある意味、俺って可哀想かもな」
嘘をついてしまった。
売人稼業から完全に足を洗ったかのように言ってしまった。
本当はまた金を受け取ってしまったのに……。辞めたいと思っている事なんてなんの言い訳にもならない。問題は、実際やっているのかやっていないのかだ。
そんな事、この人には知られたくなくて。
「お前は優しくされてるんだな。レディ・ジョーや店のみんなにも、客にも」
ブイヤベースまだ来ないのかなぁ、と言いかけたところで彼がぽつりと言った。
「え……?厳しくされてる、の間違いじゃね?」
「優しさを知っている人間は他人にも優しく出来るものなんだ」
そう言って彼は俺から視線を外し、窓の外を見た。
外の景色や通り行く歩行者を見る綺麗な横顔。
「俺って優しいってコト……?」
「そうだな……」
「いや、優しいのはあんたの方でしょ。だって……」
「それはお前が私を知らないからだ」
外を見ていたはずの彼の青い瞳には何も映ってない事に気が付いた。

胸が騒ぐ。
今、何を見ているの?
何を考えているの?
たまらない気持になる。
こっちを向いてくれ。
俺を見ろよ!


足元のイチョウの葉っぱを蹴りながら、俺たちは肩を並べて歩いた。
秋色に染まったパリの公園。
だいぶ陽は傾いて、隣を歩く男はポケットに手を入れてゆっくりゆっくり歩く。
どうやら俺はこの人に優しく接しているらしく、彼は俺を優しい人間ととらえている。
それはあんたにとっていい事?
自分自身に対しては“優しい”という評価を否定した男。
自分の事を知らないからそう言えるんだ、と言った。
だったら知りたい。あんた何者?
そんな事、言えるはずないけれど……。
「そういえば気になってたんだけど、空港の二人組、その後どうよ?」
「ああ、その日のうちに捕まった」
「うっそ!あの場はまんまと逃げられたのに?」
「今は携帯電話という不便な物があるからな。おかげで休暇返上で仕事させられる事になった」
「ところで、あんたの仕事って何?」
「私は……公務員だ」
一瞬、口ごもったかと思ったが、意外にあっさり答えてくれた。
「やっぱ堅い仕事だな。そんな感じしてた。でも結構偉い地位みたいね。俺と同じくらいの年なのにスゲェな」
ぴたり、と彼の足が止まった。
「アクセル?」
ものすごく怪訝そうな顔で俺を振り返る。
「はい……?」
なんだろ、なんかマズイ事言ったか?俺……。
「お前、年いくつだ?」
「は?……えっと、23だけど……」
彼は盛大にため息をつき、再び歩き出した。
「私はお前より9歳年上だ」
「はいっ!?」
俺の叫びにも似た、馬鹿みたいに裏返った声に彼はもう一度足を止めた。
「嘘だろマジかよ30過ぎてんの?信じらんねぇ……!!」
「びっくりしただろ、私がオジさんで。でも、その前に見りゃわかるだろう」
それは無理!
「あんた、どう見ても俺と同じくらいの年よ?」
「お前と一緒にしないでくれ」
「ひでぇ〜、でも常識ではフツーそう思うって」
「お前の言う常識だからな……」
「あーもー!ますますひでェっての!」
憎まれ口ばかり叩く男は言葉とは裏腹に楽しそうに笑う。
俺としてはこの人が30だろうが40だろうが構わない。でも、この人は自分より9歳も年下の男と一日過ごしていてうんざりしてはいないだろうか……。
ブラブラと結構歩いて疲れたのか、彼は近くのベンチを指差して少し座ろうと言った。
目の前に教会があるこの公園には、浮浪者がたくさん住みついている。
あの老人も、あのおばさんも、あの若い男も、みんな行き場のない浮浪者だ。だが、あまり悲壮感はない。彼らも人生の負け犬だ。それでも、みんな精一杯生きている。分をわきまえながら人の邪魔にならぬよう、でも媚びへつらう事なく。
あのバイオリンを構えた男もこの公園の住人だ。前から居るのを俺は知っている。そうとは見えない身綺麗な格好で背筋を伸ばし、なかなか見事にバイオリンの小曲を弾いて小銭を稼いでいる。
教会目当ての観光客が遠巻きに集まり、曲が終わると足元のバイオリンケースに小銭を投げていた。
横に座る男が煙草に火を点けた。俺もつられて煙草を咥える。
少し離れたベンチに若い夫婦が1歳くらいの女の子を連れて座っている。
小さな子供が大人しく座っていられるはずもなく、子供は母親の膝から飛び降りると全力で走り始めた。小鳥が子供の関心を誘ったのかもしれない。
ああ危ないな、と思った瞬間、見事に子供は転んだ。
最初、蚊の鳴くような声でぐずっていた子供は、駆け付けた母親に抱き上げられると大声でびーびー泣き出した。
痛かったのではない。安心できる腕に抱かれ安堵する気持ちをぶつけたかったのだ。
俺たちはしばらく無言で、そんな微笑ましい光景を眺めていた。
バイオリニストが次の曲を弾き始めた。
「……あ、聴いた事ある。なんだっけな……」
「『タイスの瞑想曲』だな」
「あんた、なんでも知ってんのね」
「ある修道僧がタイスという娼婦を改心させて神の道に導くんだが、やがて修道僧がタイスに恋をしてしまうって物語だったな」
「なーんだそれ、とんでもない坊さんだな」
「まあ、好きになっちまったものはしょうがないさ」
好キニナッチマッタモノハショウガナイ……。
それをこの人の口から聞く事になるなんてな。
甘い甘いロマンティックな曲をバックに俺はそっと笑った。
「あんた恋人居る?もしくは奥さんとか」
この年齢なら結婚していても不思議ではないのだ。
「いや、両方居ない。お前は?」
そっかフリーなんだなと心の中で呟き、問いに対してはいいや、と首を横に振った。
「空港で初めてあんたと会った時、実はそのほんの数分前に別れた女を見送ったばかりでさ……」
そんなまだ甘苦く疼く話をこの人にしようと思ったのは、バイオリンの甘いメロディのせいか、なごやかな親子連れのせいか、イチョウの金色に彩られた公園が眩し過ぎたせいか。
「一年半一緒に暮らしていた。俺には出来すぎのいい女でさ、堅気のきちんとした女なんだけど、俺がこんなにチャラついてたからたぶん我慢も多かったろうな」
彼は口を挟まず黙って聞いていた。吐き出される煙草の煙が、言葉代りに続きを促す。
「ある日、女が妊娠した……」
俺は沈黙した。続く言葉を考えたくて、ゆっくり煙草を一口吸った。
「正直、うれしい気持ちにはなれなかった。マジで惚れた女との間の子供でも、自分が人の親になるって事が怖かった。こっから逃げ出してぇとも夢なら覚めてくれとも思ったさ。でも堕ろせとは言わなかった。一言も何も言えなかったんだ」
卑怯で、ガキで、人を愛する資格などない俺。
「とにかく俺は現実から目を背けて彼女と向き合おうとしなかった。彼女は一言も俺を責めなかったよ。怒って、責めて、殴ってくれたら俺の気持ちも少しはラクになれたんだけどな。泣きもしなかった。彼女はある日から帰って来なくなった。たぶんその間一人で結論を出したんだろうな。久しぶりに帰ってきた時、腹の子を堕ろした後だった。そして別れを切り出された……」
ふと、これは告解なのだろうかと思った。教会に行かない俺はここでこうして神父でもない男に罪の告白をしている。
どうよ?こんな男、と薄く笑って隣を見れば、男の横顔に笑いはなかった。
「お前たちの間の事は私にはわからないが……」
と彼は前置きをして言葉を続けた。
「腹の子供をどうするかは、最終的に決める権利は女の方にある。産む事が出来るならそれが一番いいんだろうが、彼女はそれを選ばなかったんだろう?誰のせいでもない。まだ親になる覚悟が出来てない男と、それがわかって自分の幸せのために“産まない権利”を行使した女の話だ」
遠くで拍手が起こってしばしの沈黙の後、静かに次の曲が流れてきた。
俺でも知っているバッハの『G線上のアリア』だ。人気のある美しい曲だからメロディに魅かれて人が集まってきたようだ。
「彼女はどうする事が一番いいか自分で考え、別な人生を選んで自分の足で歩いて行ったんだろう?お前も自分の足で歩き出せ」
俺はしばらくの間何も言えず、ただ黙って男の顔を馬鹿みたいに見つめていた。
誰にも、レディ・ジョーにさえ言えなかった話だ。
あれ以来、ずっと自分を責め続けていたが、出会って間もないこの男に俺は一言「赦す」と言われたような気がした。
「俺を赦してくれるの……?」
我ながら可笑しな呟き。俺は一体誰に向かって言ってるのか……。
「アクセル、ちゃんと顔を上げて真っ直ぐ前を見ろよ」
彼は予言者だろうか。それとも……。
風が吹いて足元の落葉がかさかさと音をたてる。
「寒くなってきたな、行くか」
彼は立ち上がった。
「あ……なあ!」
歩き出そうとする男を俺は呼び止めた。
「あんたの名前さ……ほら、考えとくって言ってたやつ」
「ああ?」
「ガブリエルって呼ぶよ。いつか本当の名前教えてくれるまで」
「女の名前じゃないか?」
「いや、男も居るって。てゆーか、これは大天使の名前だ」
大天使ガブリエルは神の言葉を告げる天使だ。マリアに受胎告知したのもガブリエルだ。
「私は天使なんて柄じゃないぞ……。まあ、ハニーよりはマシだがな」
彼は再び前を向いて歩き出した。
凛と伸ばされた背中は華奢なくせに大きく見えて、最後に見たソフィの潔い後ろ姿とだぶった。
「俺、9年後はあんたみたいになりてェ……」
聞かせるつもりじゃなく口から零れた言葉は、しかし彼の耳に届いていた。
俺の呟きに彼はゆっくり振り返る。
風がざあっと吹いて、彼の髪を巻き上げた。
強烈な金色の西日が白いコートの輪郭を消し、金色の髪と溶け合って、逆光の中のその姿に俺は膝が崩れ落ちそうになった。
俺の心はこの男の足元に跪く。

ああ、ガブリエル……。

きっと俺は傷付く――。 


「アクセル……」
天使みたいな男は啓示を下すように言う。
「自分を信じてやれ。他の誰でもなく、お前自身を」


そして、必ずこの人を傷付けるだろう――。