昨夜、あれから俺は仕事に戻った。 まったく、自分を褒めてやりたいと思う。 一人になるわけにはいかないと思った。帰って、また一人ベッドの中であの人を思い出し、取り返せない時間を悔いて眠れぬまま朝を迎えるのがオチなのだ。 目を真っ赤にさせて店に戻った俺をオカマたちは唖然と見つめたが、レディ・ジョーは何も言わずいつものようにこき使ってくれた。 閉店後、おごるからメシを食いに行こう、と俺が声をかけると古株のマリーとコニーが付き合ってくれた。 「失恋したんでしょ」 「うるせーなー」 「男心がわかってないのよ、あんたは」 「意味わかんねーし」 「出来の悪い弟を持つと姉たちは心配なのよ」 「はいはい、すみませんね」 俺は二人のオカマに両腕をがっちりホールドされ、ふざけ合いながら朝が近い繁華街を徘徊した。 ありがとうな、という言葉はやはり照れ臭くて言えないまま。 自分の部屋に帰ってベッドにもぐり込んだのは午前の遅い時間。夕方近くなってようやく起き出して、今、足元にはナイロン製の黒いバッグがある。 昨夜はオカマたちと馬鹿みたいに盛り上がって、疲れきって夢も見ずにぐっすり眠った。おかげでガブリエルの事も考えずにすんだ。だが同時に、こいつの事もすっかり忘れていたのだ。 ルカが持ち込んだ迷惑な置き土産。 ファスナーを開いてあらためて中身を確認してみる。 30グラム程の小袋がジップパックに10個入っている。わざわざ量りはしないが、経験上間違いない。ジップパックを出して数えると全部で20袋。 末端価格は相当な額になるはずだ。俺は今の相場で計算してみて思わずぞっとした。 やはり俺が持っているのはヤバい。 取引きした分のほんの一部だと、少しくらい頂いてもバレない程度の量だと、そうルカは言った。それほど大きな取引きだったらしい。 だが、あのゾーイが大人しく騙されるとは思えない。 ヤバい事になる前に何とか手を打たなければ。 俺はルカの携帯に電話した。もう一度奴と話して何か方法を考えなければ。 だが、呼出し音が何回鳴ってもルカは電話に出なかった。 こんな時に何やってんだ?あいつは。 30コール鳴らしても電話は繋がらない。 仕方なく電話を切り、時間をおいてまたかける事にした。 とりあえずヤクを元通りにバッグに戻し、ベッドと窓の隙間にそれを隠す。 店に行く準備をしなければならない。 俺はシャワーを浴び髭を剃った。そしてシャツを羽織ったところで来客を告げるベルの音。 ルカかもしれない。 覗き穴から外を確認しないでドアを開けた。 そこに立っていたのは、俺の胸くらいしかない小さな老人。 「ゾーイ……」 「やあ、久し振りだな。ちょっと邪魔していいかな?」 帰ってください、などと誰が言えよう。胸が早鐘のように鳴る。 ゾーイは二人の男を従えて部屋に入ってきた。 しばらくゾーイの所に顔を出していない俺だが、この二人には見覚えがある。金髪がポールで、ごつい黒人がジャン。しばらく前からボディガードとして、いつもゾーイにくっ付いて行動している男たちだ。 「座らせてもらうよ?膝が痛くてね」 ゾーイは一人掛けソファにゆっくり腰を下ろすと、かぶっていたハンチングを脱いだ。 途端にあらわになるトレードマークの白い髪。 ゾーイは数年前から杖をつくようになっていた。こうして見ると、ただの人の好い小柄な年寄りだ。だが、この老人がこの街を動かし、多くの人間の人生を左右してきたのだ。 俺の所にわざわざ御大自ら出向いて来るって事は、やはりアレしか考えられない。 このジイさんが怖い。足がかすかに震える。どうする? 「お前にちっとばかり訊きたい事があってな」 そう老人は切り出した。 「お前の相棒が昨日から行方がわからんようになってな、連絡もつかないんだが、アクセル、お前は何か知ってるか?」 なんだって? 「行方がわからないって、どういう事だよ!?」 「言葉の通りだ。ルカが姿をくらました」 ルカ……何を考えてるんだ?俺にこんな物押し付けて、お前は一体……。 「正直に言うんだアクセル、奴はどこだね?」 「知らねえよ、こっちが訊きたいくらいだ」 「では質問を変えよう。奴から何か預からなかったかね?」 やはり気付いていた。ゾーイがルカみたいなチンピラに簡単に騙されるはずなどない。 ありのままを言うとルカは殺されるかもしれない。だが、下手な嘘をつくと今度はこっちが危ない。 自分の心臓の音がはっきり聞こえる。手のひらがじわりと汗ばむ。 「おとといの夜、ここにルカが来て……」 ああ、喉がカラカラでうまく声が出せない。 「ちょっと預かってほしいと言われてバッグを置いてった」 「中を確認したか?」 「見てねえよ、開けるなと言われたし」 俺がそう言うと、老人は喉の奥で低い笑い声を上げた。 「そんなはずはないだろう、アクセル。ルカの仕事を知ってりゃ中身が何なのか想像がつくはずだ。お前が見ないはずがない」 「だけど、本当に見てないんだって」 ゾーイの横に居たジャンが身をかがめて、ゾーイさんこいつ何か知ってますよ、と耳打ちした。 「もう一度訊く」 ゾーイがゆっくり言う。 「ルカはどこだ」 「だから知らねえって!さっきも電話したけど出ねえんだよ!」 目の前が暗くなったと思ったら、ポールが俺の前に立ちはだかっていた。 「てめェ!」 という声が聞こえたと思ったら、左のこめかみ辺りに激痛が走り、俺は吹っ飛ばされた。 ゴリッとした硬い感触。畜生……ナニで殴りやがった? 床に倒れ込んだ俺は頭を踏まれた。 「やめるんだ、ポール」 老人の落ち着いた声。 「ゾーイさん、やっぱこいつはルカとグルですよ?」 そして腹を蹴られ、俺はゲボとか言って息が止まる。このまま死ぬんじゃないかと本気で思った。 左の頬に、虫が這っているような感じがする。くすぐるような、ゆっくりとした、気味の悪い……。頭が痛い。 ポールはシャツの胸ぐらを掴んで俺を引きずり起こした。 「ボウヤ、正直に言わないとセーヌ川で水泳やる事になるぜ?足をコンクリートで固めてな」 顎の下に冷たい物を押し当てられたので、片目を開けて見ると銃だった。 銀色に光るリボルバー。 そうか、これで殴られたのかと思い、頬を這うのは虫ではなく血だという事に気が付いた。 「……バッグは返す……持って行けよ……だがルカの居所は……本当に知らねえ……」 ようやく声を出したが、今度は右の頬を殴られた。 口の中を切ったらしい。鉄のような味が口内に広がる。 「こいつ、まだシラを切るつもりか!」 不思議と、もう恐怖は感じなかった。ああ、俺はここで殺されるんだな、と思った。 「返すって言ってるんだから、もういいじゃないか」 その声は唐突に部屋のどこからか聞こえた。 どこかのんびりしたような、呆れているような……低音ボイス。 「ああ?誰だ?てめェは!」 胸ぐらを離され、俺は床に崩れ落ちる。 床を這いつくばって顔を上げ、戸口に立つ低音ボイスの主を見た。 黒いスーツに同色のロングコート。黒衣の天使――。 ガブリエル? まさか、そんなはずはない。 昨夜、俺が酷い目にあわせてしまった人。きっと俺を憎んでいるはずで、もう二度と姿を現さないだろうと思っていた男が、なぜ……? 「誰でもいいだろう、お前の声はうるさ過ぎだ」 「なんだと!?」 「そういえば、臆病な犬ほどでかい声で吠えるよな」 そんな挑発的なセリフで笑うガブリエルに、ポールはもちろんキレた。 リボルバーを彼に向ける。 だがその時には、ガブリエルはタン、というステップでポールの目前まで躍り出ていた。 目にもとまらぬスピードで足が弧を描き、ポールの左側頭部に踵がきれいに入った。 ポールは床に叩きつけられ、一回転したガブリエルの身体に一拍遅れてコートの裾が動きに追いつき身体に巻きつく。 彼はジャンの行動も読んでいた。 ジャンは、相棒が床に倒されると同時に懐に手を入れたのだ。内ポケットの中には、おそらく銃かナイフ。 だがガブリエルは、懐から手を出す時間を与えなかった。 ジャンの目前で大きく跳躍し、大男の頭を真上から手で押さえて顎に膝蹴りを食らわせる。砂利を踏むような嫌な音がかすかに聞こえた。 ジャンは声もなくその場に崩れ落ちた。 強えぇ……。しかも、慣れてやがる。 まったく無駄がなく的確な攻撃。しかもこのスピード。 足だけで屈強な男二人を床に沈めるのにかかった時間はほんの数秒。 まるで映画のようなアクションシーンは、しかしこれで終わったわけではなかった。 先に倒されていたポールが、床を這って飛ばされたリボルバーに手を伸ばしていたのだ。もちろん、ガブリエルはそれを見逃さない。 手が銃に届く寸前、その手を踏みつけた。這いつくばったポールが目の前に立つ男を見上げた時、その男が懐から素早く出してポールの額にぴたりと押し当てた物。 黒いつや消しのオートマティック――ブローニング・ハイパワー。 警察や軍隊で採用されている、つまり玄人が持つ銃だ。俺も商品として扱った事はあるが、一個人が護身用で持つような代物ではない。 しかもあろうことか、消音器まで装着していやがる。つまり、この街の真ん中で撃つ事を前提としているのだ。見せかけなどではない。この人は本気なのだ……。 今、俺の目の前でまさに引き金を引かんばかりの男からは、凶暴な青白いオーラが静かに立ち昇っているのを感じた。 今まで無言で一部始終を見守っていたゾーイが、ここでようやく静かに口を開いた。 「そこまでだ、ブライアント少佐」 少佐!? 少佐と呼ばれた男は、狂気が宿る瞳でゾーイを見た。そして口元に皮肉な笑みを浮かべると、ゾーイから目を逸らさず、ゆっくりとブローニングを額から離した。 今まで恐怖で固まっていたポールの身体が、安堵に弛緩する。 「あんたも人が悪いな……白ふくろう」 「それはお互い様じゃないかね?」 「それはどうかな……。なぜ私にここまでさせる?」 「お前さんがどう出るか、ちょいと見てみたくてな」 「自分の部下だろうが……」 ガブリエルはため息交じりに呆れて言い、銃の安全装置をロックすると、やっとそれを懐に入れた。 つまりゾーイはガブリエルを試すために傍観していたらしい。二人のボディガードを二人とも潰される事が予想できたにもかかわらずにだ。 酷いジジイだ……。 「それに、無抵抗の奴にここまでやるのもいかがなものかと思うけどね」 「まあな、やり過ぎたかもしれんな。一応ポールにやめろとは言ったんだがね」 言ったのは殴られた後だろ、このクソジジイ……と俺は心の中で毒づいた。 「アクセル、お前は本当にルカの居所を知らないんだな?」 「……ああ、本当だ。誓って知らねえよ……」 「それが嘘だったら殺すぞ?」 ジジイは物騒な事をニコニコしながら言うが、俺はこの頃には妙に肝が据わってしまっていたので、どうにでもしてくれ、と答えた。 煙草に火を点けながら俺とゾーイのやり取りを聞いていたガブリエルは、バッグはどこだと訊いてきた。俺が場所を教えると彼は寝室まで取りに行き、戻ってきてゾーイの足元にバッグを放った。 ゾーイは身をかがめ、ファスナーを開けて中を確認する。 「あの野郎……こんなに」 どうやらゾーイにとっては「少しくらい」ではなかったらしい。舌打ちしながらファスナーを閉めると俺に、確かにと言った。 「ところで少佐、今夜はお前さんの所に伺う約束だが、迎えに来てくれたにしては時間がちっと早ェな」 「あんたじゃない、奴に用事があって寄ったまでだ」 彼は煙草を揉み消しながら俺を顎でしゃくった。 「そうかい、そりゃ邪魔したな。さて、帰るとするか。これらを医者に診せなきゃならんようだからな」 取り返す物を取り返し、ルカに関してこれ以上俺をつついても無駄だと悟った老人は引き際が素早い。 老人は杖を頼りに立ち上がり、ボディガードたちに声をかけた。 彼らのダメージは、何とか起き上がれる程度のようだ。むろんゾーイが肩など貸すわけなどなく、彼らは怪我人同士支え合ってどうにか立ち上がった。 「ルカから連絡があったらわしに知らせろ、いいな?」 俺は頷いたが、次の瞬間、不安にかられ思わず叫んだ。 「なあ!ルカを殺さないでくれ!ちゃんと知らせるから……あいつの命だけは助けてやってくれ!」 ゾーイは立ち止り、猛烈に呆れた顔をした。 「顔を血まみれにした奴が人の心配をして……馬鹿かお前は」 誰に血まみれにされたと思ってんだよ……。 「頼むよゾーイ、ルカを殺さないでくれ……」 「殺しゃしねえ、心配するな」 また後でな少佐、とゾーイがドアまで行った時。 「おい、ポール!」 ガブリエルがリボルバーを手にポールを呼んだ。シリンダーを起して弾を全部床にばら撒き、また元に戻して空になったそれをポールに放った。 「忘れ物だ」 ポールは慌ててキャッチすると、蒼ざめた顔でガブリエルを一瞥し、ドアを閉めた。 ゾーイたちは出て行った。 どうやら今回のところは、死神は俺を見逃してくれたらしい。 部屋に二人きりになると、ガブリエルは不機嫌そうに俺を横目で見下ろした。 「お人好し」 「おせっかい」 俺が負けじと言い返すと彼は笑った。 「元気だったか?」 それは俺たちの挨拶。ふざけた言葉遊び。今日はこの人から言ってくれた事がうれしくて、俺は、まあまあかな?と血だらけの顔でおどけて見せた。この人の笑った顔がもっと見たくて。 望む通りの笑顔で彼は、嘘をつけ、と言った。 もう会えないかと思った。 昨夜の出来事を考えれば、今ここにガブリエルが居て俺たちは笑い合っているなんて、信じられない話だ。 あんたは怒ってないの……? それに、どうして俺の部屋を知っているんだろうと考えて、そういえば店の2階に住んでいると話した事を思い出した。 「それにしても結構やられたな」 なぜ、そんなに楽しそうに言うんですか?アナタ……。 彼は、ソファにもたれて床にヘタリ込んでいる俺の前までやって来てしゃがむと、頭に手を置いて傷を調べ始めた。 俺の鼻先にガブリエルの胸がある。黒いコートから、嗅ぎ慣れた鉄の匂いがした……。 「出血のわりに大した事ないようだ。もう少し下だったら目がやばかったけどな。応急手当だけしてやるよ」 ガブリエルが薬箱を取りに行ってる間、俺はレディ・ジョーに少し遅れると電話を入れておいた。後でこの顔を見てたっぷり叱られるだろうが、仕方ない。 「どんな暮らしをしているのかと思っていたが、わりとちゃんとした生活しているんだな」 彼はそう言いながら戻って来た。 濡らしたタオルで顔を拭くと血で真っ赤。だが、出血はもう止まっているようだ。 「ついこの間まで女と住んでいたからな。この薬箱だって彼女が置いていった物だし」 まだ部屋のそこかしこにソフィの影が残る。自分の物は一切残さず、すべてきれいに持って出て行った彼女だが、なぜかここにはまだソフィのまとっていた空気のようなものが漂っている。もしかしたらその空気の名は「思い出」もしくは「未練」というのかもしれない。 「ねえ、俺の顔酷い?客商売なのに、どーしよ……」 「たまには喧嘩のひとつもやるワイルドな男、ってキャッチフレーズで通せ」 真面目な顔で提案されて、俺は大笑いした。大笑いしたとこで消毒液を塗られ、いてーよ!とわめいた。 「……なあ……」 「……んー?」 「夕べ、ごめん……」 傷口に当てるガーゼの用意の手を止める事なく、彼は作業を続けながら穏やかに「うん」とだけ言った。 その手首は、昨夜俺が付けた擦り傷が茶色いアザになっている。 「手首、痛そう……」 「痛くないさ。怪我人がいらん心配するな」 額の傷に薬を付け、ガーゼを当ててテープで貼る。治療終了。 「それに、昨夜傷付いたのはお前の方じゃないか……」 言われて俺は驚いてしまった。 昨夜、ガブリエルが最後に言った“すまなかった”という言葉。 俺に無理やり強姦されそうになったのに、彼の方が罪の意識を感じたのだ。 どうか、そんなふうに思わないでほしい……お願いだから……。 あんたを傷付ける事だけが俺にとっての傷なんだ。 「氷はあるか?」 「え?……あ、どうだろ……」 俺の返事を待たず、さっさと冷蔵庫に向かう。氷は切らしていた事を思い出した。保冷剤もないはずだ。ガブリエルは結局缶ビールを持って戻ってきた。 「あ、ありがと」 「飲むな」 開けようとした俺は慌てて手を止めた。 「氷の代わりだ。少し腫れているからそれで冷やしてろ」 言われた通りに缶ビールを顔に当てる。確かに熱を持って腫れているらしい。冷たくて気持ちがいい。 俺が座るソファの隣にガブリエルが腰を下ろした。 スーツを着てネクタイを締めたガブリエルは知らない男みたいだ。 間近で見るとスーツは黒ではなく濃いグレーだった。よく見ると地模様がストライプの、高そうな生地。たぶん、仕事の時はいつもこんな格好なのだろう。 「スーツ姿……すげーかっこいい……」 「あ?ああ……」 「そんなカッコしてるの見たら、あー年上なんだなあって実感する」 「当たり前だろ、9歳も違うんだ。お前がまだ童貞の頃、私はもう仕事しているんだぞ」 「ど……!?俺の初体験の年なんか知らないくせに……」 「14歳」 ばっさりと言い当てられて、うっと言葉を飲み込んだ。 ちくしょー、どうしてもこの人には勝てねェ! 腹立たしさから俯いて、そのまま呟いた。 「軍人……だったんだね……」 「……そうだ」 ゾーイによってだが、ようやく明かされたこの人の職業。ガブリエルは今度こそ肯定した。 驚かないと言ったら嘘になる。アメリカの軍人で少佐という肩書。俺とは別世界の住人。 美人で可愛いだけではなかったガブリエル。鉄の匂いの染みついたコート、手に馴染みきっていたブローニング、素早く相手を倒す戦闘能力。 訓練だけのものではない。おそらく実戦を何度も経験し、死線を幾度もくぐり抜けてきた人なのだろうと、確信があった。 驚きはしても嫌悪や恐れは不思議とまったくない。 たとえ彼が戦闘のプロだとしても、俺の傷を手当てしてくれる手はこの上もなく優しい。 かけてくれる言葉は俺を救い、真っ直ぐな眼差しは勇気をくれる。 どれもこれも、すべてひっくるめてこの人なのだ。 公務員……確かに。ちょっと特殊だけど嘘ではない。嘘がつけないあんたが愛おしいよ。 「最初から隠そうとしていたわけではないんだ。少なくても空港で会った時はな。名前も職業も訊かれたらちゃんと答えていた」 「そっか……その日のうちに任務を命じられたから伏せなきゃならなくなったんだね?」 「すまない……。本当は、言っても構わないとも思ったんだ。まあ昨夜は、あの状況下で私も意地になったけどな。でも……」 ガブリエルは遠い目をしていた。その目に俺は映っていないが、何か優しいものを見るような目だった。綺麗な横顔がそっと微笑む。 「名前のないただの男でいられた事、うれしかったな。どこで何をやっている何者かなんてお前は追及してこなくて、それがありがたかった。お前の前では素の自分でいられた。ガブリエルって呼ばれる事、結構好きだったよ。私はお前が思っているような天使じゃないけどな」 胸が騒ぐ……。ちょっと待ってくれ。一体これはなんの告白なんだ……? 「私はもうお前とは会わない。今夜はそれを言いに来たんだ」 その紡ぎ出された静かな言葉に、俺は声を失う。 今、なんて言ったの……? 「この部屋を出たら、もう店にもここにも来ない。お前にはいろいろ悪かったと思ってる」 「……あの、夕べの事なら……」 「いや、そうじゃないんだ」 あらためて昨夜の愚行を詫びようとやっと声を出したが、彼はそれを遮った。 「アクセル、よく聞いてほしい」 身体ごと向き直ってガブリエルは俺の目を正面から見つめた。 「私たちは男同士で、お前も私も同性愛者じゃない。しかも私は外国人だ。ずっとお前の傍に居られる人間じゃないんだ。先週まで普通の恋愛をしていたお前が、いつも居ない男を想って生きていくのは幸せな事ではない」 それはこの数日、何度も何度も自分自身に問いかけ、言い聞かせてきた事。どうしても避けては通れない問題と対峙する時が来たのだ。 俺の心に種を蒔いたその人は、急に芽が出て大きく成長してしまった俺の感情を、自らの手で刈り取ろうとしている。花が咲き、実が生って、俺が本当に苦しむ前に。俺をこれ以上傷付けてしまう前に。 「……俺、確かにゲイじゃないよ。うちの店のオカマたちと接していても、ゲイの友達と会っていても、自分は男とはありえねえって思っていた。思っていたはずなのに、なんで?って不思議だった。……で、わかった」 実は、今こうして喋っていて、まさに今この瞬間にわかったのだ。 「性別で振り分けられないくらい、あんたという“人間”が好きになったんだ」 ガブリエルはしばらく言うべき言葉を探して沈黙したが、やがて口を開いた。 「お前の感じている“好き”は別の意味の“好き”だ。まだ若いんだ、ちゃんと女に恋をして家庭を作った方がいい」 「別の意味の“好き”なんかじゃないし勘違いでもねえよ。じゃ、なぜあんたに対して勃つんだよ」 「……」 「……」 「……は?」 気まずい沈黙にイラついて俺は繰り返す。 「だから、勃つんだって!これ、どう説明すんの?俺、あんたに欲情するんだよ。夕べの俺、本気で興奮してたの、あんたも知ってるじゃん……」 途端にガブリエルは赤面して固まった。浴びる程酒を飲んでもまったく顔色が変わらないこの人が、こういう時は赤くなるのが不思議だ。 お前ね……と言ったきりリアクションに困って頭を抱える。もちろん俺の生理的現象の説明など、この人に出来るはずもなく。 「とにかく、お前の気持ちに応える事は出来ない」 まだ目元に赤味を残したまま、俺の顔を直視出来ず彼は呟いた。 「俺の気持ちに応えてくれとは言わないよ。ただ、わかって欲しいだけだ。気の迷いでも勘違いでもなく、あんたが好きなんだよ。男同士で恋愛感情持ってたらもう二度と会えないなんて、俺は納得できねえよ」 「それでも納得しなきゃだめなんだ!」 ガブリエルは顔を上げて声を荒げた。 「私がどういう男なのか、今日わかったろう?国防の名のもとに今まで多くの人間を殺してきたような男だ。命を狙われた事もある。身の安全などまったく保障されない毎日なんだ。こんな危険な人間の近くに居たら、お前まで巻き添えになってしまうかもしれない」 だから、自分の事はもう忘れろ、と……。必死な目をして……。 「ガブリエル、あんたはそれで幸せ?」 俺は無性にこの人殺しが愛おしくなって、彼の頬を手のひらでそっと包んだ。 俺の言葉にも、突然頬に当てられた手にも、ガブリエルは驚いたらしく、言葉を失くして俺を見つめた。 「俺さあ、まだ言いたい事があるんだよ。ずっと言いたいと思ってた……。明日、店が臨時休業なんだ。明日の夜、俺の話聞いて?8時にあの教会前の公園のベンチで待ってる。来てよ」 「……やめろよ。私は行けない」 「来て。あんたが来るまで待ってる」 「行かないと言ってるだろ!諦めるんだ」 こんなに拒絶の言葉を言われているのに。なぜだろう、この人が愛おしくてたまらない。 「時間だ、もう行く」 頬に当てられた手を静かに退け、ガブリエルは立ち上がった。 ゾーイと会うという話を思い出した。アメリカの軍人とパリの裏社会のボスが、一体なんの話をするのかはわからないが。 ガブリエルはドアを開けて俺を振り返った。 「私の言う事、ちゃんと聞けよ?」 「嫌だね」 間髪入れずに答えると、彼は困った顔をし、ため息を残してドアを閉めた。 そのため息を最後にしたくなくて、俺は弾かれたように後を追って部屋を出る。 「ガブリエル!」 彼は階段を降りる途中だった。 「あんたはちっとも俺の事わかっちゃいない!」 階段の手摺に掴まって身を乗り出し、下の男に向って怒鳴った。 「明日の夜だ!日曜日の日没に話をしたあの公園のベンチだぜ!忘れるなよ?あんたが来るまで、たとえ朝になったって、ずっと待ってるからな!」 立ち止まってこちらを見上げていたガブリエルは、やがて無言で降りて行った。 ソフィ……俺に力を貸してくれ……。