午前9時、快晴。
俺は何か月ぶりかで、部屋中の窓を開けて空気を入れ替えた。
途端に室内に流れ込む冷たい空気。だが気持ちがいい。
この時期は大気が安定しているらしく、いい天気が続いている。だが、日増しに秋は深まって、確実に冬の気配が忍び寄る。
もう何週間かすればシャンゼリゼ通りは電飾に覆われ、光の洪水となる。クリスマスシーズンの始まりだ。
今朝がた、例の如く4階のキャンディと路上の恋人の喧嘩で叩き起こされた。
上下の怒鳴り合いに挟まれて起こされる人間の事など、奴らはもちろん考えるはずはない。毎度、俺は起き抜けの痛む喉で「てめえらいい加減にしろ」もしくは「うるせえオカマ」というセリフを力いっぱい叫ばされている。
今日も中途半端な時間に起こされ、声を嗄らして怒鳴るハメになったのだが、めずらしい事に気分は悪くなかった。
だからだろう、久し振りに窓を開けて部屋の中を掃除しようと思い立ったのだ。


昨夜、俺はガブリエルにフラれた。
そう、間違いなくフラれたのだ。突然の別れ話。
もう会わないと、忘れてほしいと、気持ちに応える事は出来ないと、そうはっきり告げられたのだ。

でもガブリエル、あんたの本心はどこ?

別れなければならない理由を懸命に話すあの人を、俺はたまらなく愛おしいと思った。
彼はおそらく自分では気が付いてないだろう。その理由がすべて俺のためである事を。
「会いたくない」ではなく「会えない」。「行きたくない」ではなく「行けない」。
自分の気持ちは常に後回しで、俺のための最善を考えようとする。
自分自身が望む事はとうとう一言も言わなかった。そんな事にも気付いてないはずだ。
別れる以前に、俺たちは恋人同士なんかじゃない。たまたま縁あって何度か話をしているにすぎない行きずりの男二人。そっと居なくなる事も出来たはずなのに、律儀に別れを告げに来てくれた。
どこまでも優しいあの人にとって俺という存在は負担かもしれない。
それでも俺はそのまま何も知らなかった事には出来なかった。
冷たい目をしてためらわずに人間の骨を砕いたガブリエル。
その肉体の強さと、非情な自分の行動に躊躇しない精神力。
それらと引き換えにどれほど傷付き多くのものを失ったか。
あの真っ直ぐに伸ばされた背中は、実は傷だらけなのだろう……。
俺はそれに気付いてしまった。




部屋中すみずみまで掃除機をかけ、床をモップがけし、埃の目立つ所は水拭きした。バスルームとキッチンも丁寧に磨く。
見違えるほどピカピカになった自分の部屋を見渡して、フラれ男のやけくそパワーはすごいもんだ、と馬鹿な事を考えて自分を笑った。
今夜、あの公園でガブリエルを待つ。一方的な待ち合わせ。さぞや迷惑だったろう。来てくれる可能性は極めて低い。最初から玉砕は覚悟の上だ。
つまり、一心不乱に掃除する事によって余計な事を考えたくなかったのだ。
カラ元気でも、勢いだけでもいい。今日は気持ちも身体も立ち止まりたくはない。
大量のゴミを出し、ベッドのシーツを取り替え、観葉植物に水をやって窓を閉める。
最後に山のような洗濯物を抱えて部屋を後にした。


ちょうど昼時だったので途中の総菜屋でバケットサンドと諸々を買い、近くのコインランドリーに向かった。
中に入ると先客が一人。雑誌を読みながら何かを食っているオカマ。
「キャンディじゃん」
あら奇遇、と言って手招きするキャンディの隣に座った。
「何買ってきたのよ?」
「お前は何食ってんだ?」
挨拶もそこそこにお互いに相手の食べ物を漁る。
「『La Maman』のシナモンロールじゃん!いつ行っても品切れなのによく買えたな!」
「食べる?まだあるわよ」
近所でも評判の洋菓子店のそれを気前よく手渡してくれたので、俺はお返しにフィッシュフライを、好きなだけ食えと差し出した。
コインランドリーのテーブルの上は、あっという間に食べ物でいっぱいになる。他に客が居なくて良かった。
「ちょっと、ピクニックじゃないのよ」
「何が悲しくてオカマとこんな所でピクニックしなきゃならないんだか」
俺たちは二人して腹を抱えて笑った。
キャンディは俺と同い年のせいか本当の兄弟のような関係だ。
近所迷惑な例の痴話喧嘩がなければ、こいつはもっといい奴なのだ。
洗濯物と洗剤をセットしてテーブルに戻り、ピクニックの続きが始まる。
「お前さあ、なんで喧嘩ばかりしてるのにまだあの男と付き合うの?」
食べる手を休めずそんなふうに切り出した。
こいつらの喧嘩の内容など知らないし、知りたいとも思わない。ただ、嫌でも聞こえてくる二人の怒鳴り合いから察するに、お互いヤキモチを妬き合っているようだ。
店で男たちからちやほやされるキャンディを恋人は責め、キャンディはキャンディで自分が居ない夜の間、恋人の動向を疑う。そしてお互い相手の事を「愛が足りない」とわめき散らす。
つまり他人にしてみれば、ものすごくくだらない喧嘩だ。
「セルジュはあれでいい所あるのよ」
迷惑行為の相方はセルジュという名らしい。初めて知った。
「何よりあたしを愛してくれてるわ」
「そういう自覚があるなら喧嘩すんなよ。でもって奴を外に追い出すな。こっちはうるさくてかなわないんだよ!」
「仕方ないでしょ?愛ってそういうものよ」
と、こいつはぬかしやがった。
つまり、こいつらは愛情確認の手段として喧嘩をやっているのだ。
これはもう、諦めろという事だ。二人の愛は、俺の忍耐の上に成り立っているのだ。俺は絶望する以前に馬鹿馬鹿しくなって身体中から力が抜けた。
「お前ね……贅沢なんだよ。いつも傍に居て愛してくれてるんだろ?他に何を望むのよ」
キャンディは食べる手を止め、俺を見た。
「アクセル……あんた、つらい恋をしてるのね……あの金髪の男の人でしょ?」
言われて、今度は俺が手を止めた。
「馬鹿、そんなんじゃねえよ……」
怪しくうろたえる俺に、キャンディは何年の付き合いだと思ってるのよ、と言った。
お見通しらしい……。
「……仕方ないだろ。住む国も住む世界も違う。あの人は大き過ぎて俺の手には負えないよ」
「愛があれば大体の障害は乗り越えられるわよ」
「じゃ、余計無理だ。向こうはこれっぽっちの恋愛感情も持ってないからな」
「あんたの気持はちゃんと伝わっているのかしら?」
さあ、どうだろうな……。たぶん、本当には伝わってないのだろう。
だから伝えたいのだ。“好きだ”という言葉だけではなく。
「アクセル、愛があれば、よ!」
愛があれば……。まるで恋する女子高生が言いそうなセリフ。
人生にも恋愛にも楽観的で、おとぎ話に出てくる呪文みたいに聞こえる。
だが、案外そういうものかもしれない。
大人たちは愛や人生を難しい理屈で飾りたてようとするけど、そのわりに人は結構あっけなく恋に落ちる。そして、この愛があればこの先の人生など台無しになったって構わない、なんて思考に行き着いたりする。
こいつの言う通りかもしれないな。
「なんか、お前にかかっちゃ恋愛なんてカンタンなものだな」
「あら、カンタンよ?抱きしめて、キスして『愛してる』って言えばいいのよ」
けろっ、と言ってのけてキャンディはフィッシュフライにかぶり付く。
馬鹿か?と言おうとした俺は、なぜかそんな悪態がつけなかった。
このオカマの恋の手口はあまりにも単純で、だが不思議と深い。
俺はいつになく本気で問いかけた。
「それで相手の愛を手に入れたとして、それでも別れなければならないとしたら?」
「それこそカンタンな事だわ」
キャンディは最後のひとつのフィッシュフライを俺の口に押し込んだ。
「繋いだ手を離さなければいいのよ」
キャンディの笑顔は胸が痛くなるほど優しかった。




夜、久し振りにゆっくり風呂に浸かり、買っておいた惣菜で簡単に夕食を済ませると、余裕を持って部屋を出た。
一歩外に出ると冷たい空気が肌を刺す。吐く息が白い。
「うわ、さみい!」
夜の待ち合わせに屋外を指定したのは馬鹿としか言いようがない。
俺は途中のコンビニに寄って温かい缶コーヒーと煙草を買った。
何時間ベンチに座る事になるか見当も付かないが、かなり長時間だろう。
たぶん、ガブリエルは来ない。
行かない、と二度きっぱり言ったのだ。だから彼はおそらく来ない。
それでも俺は待ちたいのだ。


この公園に夜来るのは初めてだ。
もっとも、健全な市民は夜の公園などには来ないものだが。
レ・アール中心部のオアシス。
だが、このオアシスは昼夜を問わずいつも賑わっている。
浮浪者たちが当たり前に住み着いているのだ。幾つもテントが見える。
昼間の観光客と入れ替わりに夜はカップルが多く訪れる。闇に紛れて愛を確かめ合う男女、もしくはゲイの男たちがそこかしこに見える。
すぐ近くのベンチで抱き合って濃厚なキスをしている男女を尻目に、ひとりぼっちの俺は缶コーヒーを開けた。
煙草を咥えてジッポで火を点ける。上を向いて煙を吐き出すと、それはゆっくり闇に広がっていった。
風が無くてなによりだ。この気温で風が吹いていたらさすがの俺も寒さでもたなかったかもしれない。
煙を吐いた後も仰いだままで夜空を見ていた。
ただの闇と思っていたが、それは不思議な青だった。繁華街上空の明るい青から、遠くなるにしたがって濃くなっていくグラデーション。俺の頭上は暗い青。
あの人の瞳の青……。
浮浪者の老人が一人、俺に近寄って来た。
煙草を一本わけてくれないかと言われ迷わず差し出してやる。その場で咥えたのでついでに火を点けてやった。老人は丁寧な言い回しで礼を言うと去って行った。
こういう連中に施しは禁物だと言う人も居るが、俺は煙草ぐらい快くやる事にしている。施しというつもりはないが、同じ街に住む同じパリっ子同士なのだ。それに今の俺はこの老人と大差はない。違いは煙草を持っているか、持っていないかだけだ。
8時はとうに過ぎている。待ち人は現れない。
いつも約束の10分前には来るのだと言っていた、真面目で律義なガブリエル。
これは約束などではない。相手の拒否を無視して俺が勝手にやっている自己満足にすぎない。
決して来ないあの人を待ち続ける事は、不幸なんかじゃなくむしろ幸せだと感じていた。
だめな事はだめだと、出来ない事は出来ないと、はっきり言うガブリエル。
最後まで彼は俺に対して誠実であり続けてくれた。その厳しくも真摯な思いやりに心から礼を言いたい。
冷たい夜の空気で頭を冷やしながら、そんな事をひたすら思うと胸の中が暖かかった。


「こら!」
突然、頭上から怒鳴り声が降ってきた。
いつの間にか自分の内側にトリップしていた俺は、飛び上がらんばかりに驚いて声の方を見上げた。
すぐ傍らにガブリエルの幻が見える。
「よりによって何でこんな寒い夜に公園なんかで……」
そんな文句を言う幻はいやにリアルで、ヤクをやっているわけじゃないのにこんなに鮮明な幻覚を見る理由を俺は真剣に考えた。
「アクセル?」
考えても理由はわからない。幻でないなら、これは……。
「おいって!しっかりしろ!」
また怒鳴られて今度こそ意識がはっきりした。
目の前に居るのは幻でも何でもない、現実のガブリエル。
「ガブリエル……本当にあんたなの……?」
「幽霊に見えるか?」
「はは……元気だった?」
「……微妙だ!」
ええ?あ……微妙……なのかい……?そういえば不機嫌そうだ。
「でも、来てくれたんだ……」
「来てやったよ。なんか腹が立つけどな」
「行かないって言ってたじゃん……」
今想い続けていた人が、幻でも幽霊でもなくここに来てくれて、こうして会話をしているなんてうれしくて泣きそうだ。
ガブリエルは俺の隣に腰を下ろし、煙草を取り出して一本咥えた。
「たまたま通りかかっただけだ」
嘘つきめ――。俺は声に出さずに笑った。
隣に座った途端ふわりと香ったシャンプーの匂い。髪はまだ乾ききってないようだ。しかもコートの下は急いで羽織ってきたような黒のシャツ一枚。
風呂上りにこんな軽装で、あのホテルからここまでわざわざ“たまたま”通りかかったと。まったく……。意地っ張りで、負けず嫌いで、年上のくせに可愛い男……。
時計を見て驚いた。11時をまわっている。
「来てくれてうれしいよ。でも大遅刻だぜ?」
怒るかも、と思ったがガブリエルは笑った。
「お前は8時からずっとか?」
「いんや、7時50分からだよ。約束の時間の10分前に来る事にしたんでね」
「誰の影響か知らないが、いい心掛けだな」
彼はニヤリと笑った。
「傷、どうなんだ?」
「ああ、おかげ様で大した事ねえよ。絆創膏でじゅうぶんみたい」
今朝ガーゼから絆創膏に貼り替えた額に手をやって答えた。
昨夜、遅れて店に出た俺の顔を見て、実は大騒ぎされた。
ドアにぶつけた、と言ったのだが信じてもらえなかった。それもそのはずだ。右の頬も殴られていたのだ。左の額の他に右の頬骨のアザ。どう見ても殴られた以外には考えられない顔。
オカマたちは俺を取り囲んで、いい年して喧嘩しやがってだの、客商売という自覚はないのかだの、さんざん説教を垂れ続けた。
俺は面倒になって、ガブリエルのアドバイス通りに胸を張って宣言した。つまり「たまには喧嘩のひとつもやるワイルドな男というキャッチフレーズで通す」というやつだ。
オカマたちはそれで全員黙ってしまった。呆れられたのだと思う。
いずれにしても今回の事は自業自得というやつだ。
「俺、裏稼業から足を洗う」
「……ああ」
「信じてくんないかもしれないけど、ルカにはずっと辞めるって言い続けてたんだ。でもなんだかんだ言いくるめられてズルズルやってた。報酬受け取るたびに、ああまたやっちまったって。汚れた金を手にするたびに自分の手も汚れていくのを感じるのに……」
考えてみれば、誰にもこんな商売の話は出来なかったのだから、ルカ以外に辞めるという話も誰にもした事はなかったのだ。
「実はさ、肝心のゾーイに辞めたいって話してないのよ。卑怯だよな?簡単に辞めさせてくれるとは思えなくて……。怖かったんだ。ガキの頃からの恩も感じてたし。でも今度こそゾーイにちゃんと話すよ。半殺しになっても構わねえよ」
ふふ、と小さくガブリエルが笑った。煙草を咥えたのでジッポの火を差し出し、自分もそれにならった。
「白ふくろうはそこまではしないさ。確かに残酷な所もあるが、情が無いわけじゃない」
「怖いとは思わない?あんたは昔からゾーイの事知ってるんだっけ」
「お前の方が知っているはずだがな。お前が怖がるのは白ふくろうの一面にすぎない。きちんと筋を通して誠意を持って話せばわかってくれるはずだ。なぜお前に目をかけてくれていたのか考えてみるんだな。情の深い年寄りだ。祖父のつもりで大事にしたらいい」
この人の言葉はいつも俺に勇気をくれる。曖昧な言葉は使わない。単純でわかりやすくて具体的だ。
「わかった。怖がらずゾーイにきちんと話す。そして二度と売人はやらねえ。あんたを証人に誓うよ」
「ああ。もともとお前にこんな商売は向かないんだ。こんな、不器用なお人好し」
けなしているように見せかけた励ましの言葉。
言葉が宝石のような輝きを持つ――。
俺は一体、何個の宝石をこの人から貰ったんだろう。
「あんた、なんでそんなに優しいの……?」
笑いを含まない俺の低い呟きに、煙草を持つガブリエルの手が止まった。
「今夜、なんで来てくれたの……?」
無言の男に返事を促さず、コーヒーの空き缶に煙草を揉み消すと立ち上がった。
「少し歩かね?じっと座ってると寒いでしょ」
数歩歩いて振り返ると、ガブリエルも煙草を揉み消して立ち上がった。


どこへというあてはなく、並んで歩いた。
前に進む事を目的としない歩みは、まるでふざけるようなスローテンポ。
頭上を見上げれば、濃紺の空に黒い木々の梢。その隙間から銀色の星が見え隠れしている。どんなに暗い場所にも色彩はあるのだ。
隣を歩く男も星明りに照らされて白いコートや金色の髪が淡く発光しているようだ。
青白い顔。たぶん今、この人に触れたら氷のように冷たいだろう。
「そんな薄着して……風邪ひくよ?」
許されるものなら抱き寄せて自分の熱を分け与えたいが、そんな望みは叶うはずがない。
「大急ぎで駆けつけてくれたんでしょ?」
「……」
不服そうに睨まれた。が、悪いが俺は確信している。
「本当は俺がずっと待ってるって事、すごく気にかけてたんじゃね?あの馬鹿、本当に朝まで待つんだろうなってさ」
少しの沈黙の後彼は、当たり前だろう、と意外な事を言った。
「来るつもりはなかった……。もう会わないと言ったろう」
「でも来てくれた。なあ、自惚れるなって言われそうなんだけどさ、俺あんたに結構想われているなって感じるのよ。いや、もちろん俺の気持ちと同じなんて図々しい事は思わないけど」
「……本当に自惚れだな」
そんな予想通りの意地っ張りな返答に思わず笑ってしまった。
「ほんの数日の付き合いしかないけどさ、いっつもいっつも、俺を気にかけてくれて、味方になってくれて、守ってくれて……。もう会わないって理由も全部俺のためなの、あんた自分で気付いてた?」
俺に言われてガブリエルの視線が思い返そうとして揺れる。自覚なし決定のようだ。
「あんた自身の本心はどこ?」
「……言ってる意味がわからない」
「俺が邪魔?」
「ああ……邪魔だ」
「嘘だ」
静かに、だが厳しさを含んだ口調で言い放って俺は立ち止り、ガブリエルに向き合った。驚いた青い瞳を正面から見つめる。
「ちょっとおかしな話をするけど、意味わからなくても聞いてくれる?」
ガブリエルの理解力がどうこうではない。俺があれをちゃんと説明出来るか自信がないのだ。
「あんたに付けたガブリエルって名前。顔や姿があまりにも綺麗で天使みたいだったから、って理由なんだけどさ、それだけじゃないんだ」
正面から見つめられれば視線に逃げ場はないのだろう。彼は黙って俺を見つめ返して聞いていた。
「初めて空港の喫煙所で会った時、実は俺その前からあんたを見ていた。人混みの中で壁際に立つ姿がさ、周りからえらく浮いているのよ。信じられない光景だけど、あんたの身体を取り囲む空気が……歪んで見えるっていうか……風が吹く速度もズレてるんだ。なんて言ったらいいか……あんたの周りだけ異空間になってるみたいでさ。錯覚……なんだろうな。科学じゃ説明出来ない現象だもんな。今でも説明つかねえよ。ただ、カフェでのあんたも同じ状態だったぜ」
話しながら俺は混乱している。自分でも頭がおかしい奴の戯言みたいだと思う。こんな話を黙って聞いてくれるガブリエルはよほど人間が出来ているのだろう。
でも今、伝えずにはいられないんだ。
「あんたという人は、群衆に紛れる程ひとりぼっちなんだ。どこにも、誰とも、溶け込まない。まるでそこに居ないかのようだ。空港でのあんたは、間違って来てしまった迷子の天使みたいだった」
茶化されるかと思った。だが、彼は酷く驚いた顔になり、そして俯き……まいったな、と小さく笑った。
「人は一人じゃ生きていけないだろ?俺は店のオカマたちや、あんたや、ゾーイにだって助けられ救われているんだ。でも、あんたは……?」
俺はガブリエルの肩を両手でしっかり掴み、悲しげなブルーの瞳を覗き込んだ。
「誰があんたを救うの……?」
冷たい肩……。やっぱりこんなに冷え切って。
彼の唇が震えている。寒いのか、それとも……。
「そんな事は……今まで誰にも……言われた事など……」
まばたきすら忘れて、答えを探すように彼は俺を見上げて呟いた。
「本当は誰かに傍に居てほしいくせに、あんたは誰も寄せ付けない。ひとりぼっちは寂しくねえの?痛みも口に出さないで……」
ガブリエルの両手をそっと取り、手のひらを開かせる。
不自然な程硬い感触だった手のひらは、血まめが幾つも出来ていた。
親指の付け根に、指の腹に、両手共だ。日常的に銃を握る者の手。
毎日射撃の練習もしているのだろう。この様子だと、俺が商品に出来ない程の大型の銃器も扱っているはずだ。
たぶん、この手はもう元通りには治らないだろう。
「……こんなになるまで……」
可哀想な手のひらを見つめながら、俺は酷く悲しい気持ちで呟いた。
「痛いでしょ?」
古い血まめが治りきらないうちに新しいものが出来ているのだ。
「手、だけじゃないよな……?あんた……傷だらけじゃん。どうしてひとりぼっちで我慢するの……?」
壮絶に美しくて強い、だけどボロボロの可哀想な天使。
「声に出して言えよ、『痛い』って……。ちゃんと受け止めるから!」
ガブリエルは茫然と目を見開き言葉を失う。そして、笑おうとして……失敗した。
笑顔を諦めた顔がみるみる泣き出しそうになって、唇を噛んだ。
子供の泣き顔のようなその人に胸がズキリと痛む。
そして――。

「……痛い……」

やっと、そしておそらく初めて言葉に出来たのだろう。
小さな声だが、すがるような目で俺にそう訴えた。

ああ、神様……
俺はもう限界です――

俺は目の前の美しい人を力いっぱい抱きしめた。
急激に胸にせり上がってきたこの気持ちをなんと名付けたらいいのか。
“切なさ”なのか、“愛おしさ”なのか。はたしてそんなぬるいものなのか。痛みを伴うその感情に突き動かされて、ただガブリエルの細い身体を折れんばかりにかき抱く。
「あんたを……大事にしてぇなあ……」
思わず口を突いてそんな言葉が漏れた。
俺は腕を緩め、やわらかく抱き直した。ガブリエルは俺を抱き返してはくれないが、腕の中に身をゆだねてくれている。
本当に冷たい身体。俺の熱が少しは伝わっているだろうか。
「あんたが好きだ……」
「……知っている」
「夜が明けるまででいい……あんたの全部を俺にちょうだい」
ガブリエルが静かに身を起こし、俺を見上げた。
「今度は俺、途中で止められないと思うけど」
フッ、と笑われた。
「もの好きだなあ、お前は」
「そんな事ないよ?」
「こんな男のどこがいいんだか」
「うーん……全部」
「さっきから黙っていれば勝手な事ばっかり……」
「……ごめん……」
「人の気も知らないで」
「あんたの気持はマジうれしいよ」
「馬鹿だな……」
「よく言われる」
「大馬鹿野郎……」
「認めるから……もう黙って……」
まだ何か言いたげに開かれた唇を自分の唇で塞ぐ。
あんなに触れたいと願ったガブリエルの唇に何度も浅く口付ける。ふと、顔を離して薄く目を開ければ、目を閉じて受け入れてくれる端正な顔。俺の唾液に濡れた唇が俺を待つ。
たまらない気持ちになって激しく唇を重ね、口内を貪った。
ガブリエルの舌を捕え、夢中でそれを味わいながら、俺は「その時」がもうそこまで来ているのだと感じていた。


行くぜ?――振り向きざまにそう声をかけて俺たちは歩き出した。
目的を持った歩みは速いペースで進む。
どこへとも言わず、どこに?とも問われなかった。
ガブリエルは一歩遅れてついて来る。俺はもう一度振り向き、右手を差し出した。後ろの男はその手と俺の顔を交互に見つめ、ためらいがちに手を取った。
握った冷たい手を、自分の手ごとコートのポケットにしまい込む。
俺たちは肩を並べ、アパートの部屋に着くまで一言も喋らなかった。