ソフィ、以前君から聞いた話を思い出したよ。
日本の茶会での教えだ。
茶会に招いた主も、招かれたお客も、このひとときを一生に一度きりの事と思って相手に対しまごころを尽くして接するように、というものだ。
人生に対しても同様に、一生に一度の出会いだから相手に誠意を持って接しなさい、と。
とても奥の深い教えだと思う。日本人はこの教えをたった4文字で表現しているというが、なんという言葉だったかは憶えていない。
ソフィ、君と出会って別れた事も一生に一度きりの出来事だ。
俺たちは二度と会う事はないだろう。共に暮らした一年半はもう戻っては来ない。
俺は君に対して誠意を尽くせなかった。
新しい命を宿した君から俺は逃げた。堕ろせと言って悪者になりたくなかったし、産んでくれと言う勇気もなかった。ただひたすら逃げたんだ。
その間、君はどんなに孤独だったろう。ごめんな……。
そして、あろうことか君を見送ったその日のうちに、俺は年上の男に恋をした。
別れちまった俺たちだけど、君に悪い、と思った。
出会いと同時にさよならする事が決まっている恋。二人とも傷付くだけだとわかっているのに……。それでも自分を止められなかったよ。あの人は俺のために止めようとしてくれたのに、俺は必死で追いすがったんだ。
大きくて、眩しくて、気高い男だった。少し君に似ていたかもな。
そんな人と出会って、愛して、一緒に過ごした時間は奇跡だった。まさに一生に一度の出来事だ。
彼にとって俺は恋愛の対象ではなかったけど、でも充分だ。あの人がくれたまごころは宝物みたいに思えるから。だから俺は、これからもあの人を愛し続けるだろう。
彼が去って、君の痛みがようやくわかった気がする。
本当にごめん、何もしてやれなくて。幼くて馬鹿な男だった事、許してほしい……。
そして遠い国の空の下から、今の俺を「馬鹿ね」って笑ってくれ。
今、君にとても会いたい――。




パンッ!
乾いた甲高い音と共に色とりどりの球が四方に散った。
俺はキューを構え、1番の球に標準を合わせると苦もなくコーナーポケットに沈める。
もちろん、手球の戻り位置が2番近くに来るよう力加減も考えてだ。
ビリヤードはメンタルなゲームだ。
球に球をぶつけて穴に落とすという単純なゲームは、計算された角度とスピードによって成り立つ。つまり力学の遊びだ。
なおかつ、先々の球の配置をイメージして、自分に有利に進めるためにチェスのように何手も先読みできる頭脳も要求される。
立て続けに球をポケットさせるには、高度のテクニックと集中力が必要なのだ。
心が乱れていては勝負には勝てない。
平常心を培いたくて、ただ無心でありたくて、俺は一人で球を突いている。
今夜はきちんと店で仕事をした。
いつかのように「心ここにあらず」の状態で失敗などせず、何事もなかったかのように会話で客を楽しませ、美味い酒を作った。
そして閉店後、地下で一心不乱に球を突いている。
球突きに熱中しているとレディ・ジョーが入ってきた。
自分は帰るから戸締りを頼む、と声をかけるためだ。だが、少し俺とおしゃべりもしたかったらしい。煙草に火を点けた。
「今のあんたは球突きの練習というより、まるで修行僧の姿みたいだね」
そう言われて俺はキューを置く。少し休憩する事にした。
「いつも修行僧気分よ?ここで俺は人知れず血の滲むような努力をして、日々腕を磨いてるんデス」
カウンターにもたれているレディ・ジョーの隣に立ち、飲みかけのビールをあおった。
「今夜あたり、あのべっぴんさんが来るんじゃないかと思ってたよ……」
唐突に寄こされた言葉は、甘く痛く俺の心を揺らした。
「……行ったよ……あの人」
清々しい声色で言えば、しばしの沈黙の後にそうかい、と返って来た。
帰国日はいつなのかはわからない。怖くて訊けなかった。今はまだフランスに居るのかもしれないし、居ないかもしれない。
ただ確かなのは、ガブリエルは俺から去ったという事だ。
もうじき居なくなる――。そんな揺るぎない予感はガブリエルを抱く前からあった。
朝目覚めて、あの人の姿がない事を認めて、俺は確信した。もう二度と俺の前に現れないだろう、言葉を交わす事も顔を見る事も叶わないだろう、と。
すべては夢から醒めるが如く、静かに霧散したのだ。
あとに残ったものは、たくさんの……。
「あんたはそれでいいんだね?」
「いいも何も、しょうがねえよ。最初からわかっていた事だし」
レディ・ジョーの煙草の煙に誘われて俺も一本咥えて火を点けた。
「自分で起こした“交通事故”は最後まで見届けろとあたしは言ったけど、これが最終結果ってわけだね?」
「だってよ……さよならも言わずに黙って居なくなったんだぜ?これがあの人の答えだろ?」
「あんたが納得してるんならあたしは何も言わないよ」
「納得なんかしてねえ!」
俺は振り向きざまに思わず声を荒げた。驚きもしないレディ・ジョーと目が合った。
「あの人を手放したくねえよ!ずっと傍に居てほしい!毎朝目覚めておはようって言いたい!これが俺の本音だ!でも、あの人は俺には考えられないような世界の人で、たぶんその世界の中でしか生きられないんだ。こんな脳天気な男を愛するなんてとんでもないさ。完全に俺の片思いだよ。だから……これ以上どうにも出来ないだろ……」
とうとう、こんな自分の想いと向き合ってしまった。そうしないように丸一日苦労して感情をコントロールしていたというのに。
「あたしはね、アクセル。出来るとか出来ないとか、こうしろとか言ってるんじゃないよ。逃げるな、と言いたいんだよ。わかるだろ?」
レディ・ジョーはお見通しなのだ。
本音を隠して自分の心から目を逸らして、それで済ませようとしている俺。
そんな俺の気持ちをわかった上で心の扉をこじ開けた。自分自身とカタをつけろと――。
文句を言えなくなった。この、全力熱血オカマ……。
「俺はどこに辿り着くんだろう……」
到底、答えなど出せないような俺の呟きに、しかしレディ・ジョーは即答した。
「時間も人生も常に流れているんだ。そんな中で、辿り着く場所ってのは自分が決めるんだよ。あんたはここでいいのかい?」
「いやだ……」
ここでは、まだだめだ。もっと先まで――。
「あんた、ここでバーをやるかい?」
唐突に言われて驚いた。
「ここオープンさせるの!?また急になんで?」
「上の店とカラーを分けた方がいいと思ってね。カウンターも結構コンスタントに客が入るし、静かに飲めるバーを独立させた方がボックス席にとってもカウンターにとってもいいだろ。ずっと前から考えていた事さ」
「俺に任せてくれるの?」
「あんたしか居ないだろ……。ただし、まだ先の話だよ」
「いつになってもいいよ。やらせてほしい。いい店にしてェよ、ここ」
心底ときめいた。
「頑張って稼ぎな。そして、いつかあたしからここの権利を買い取ったらいい」
そう言われて、二度驚いた。
自分が店を持つ。雇われるのではなく、店舗を所有する。考えた事もない夢物語。
それを現実の話としてレディ・ジョーは俺に提案してきた。おそらく以前から考えていた事じゃないかと思った。
そして唐突だと思っていたこの話は、俺が辿り着きたい場所まで流れて行くための一隻の船なのだ。俺が、ガブリエルへの気持ちも含めて人生に戸惑う今、レディ・ジョーが与える示唆。
「レディ・ジョー、俺……なんて言ったらいいのか」
ありがとうと言うだけじゃ足りないこの想いは、だが言葉が見つからず……。
「言っとくけど、このバーの件は別にあんたのためじゃないからね。これはあたしの経営戦略だ。適任があんただって事さ。引き受けてくれるならありがたいのはあたしの方なんだ。行く行くのここの権利の問題もだよ。この場所は安くはないはずだよ。かなり大金になると思うけど、それでもあんたが買ってくれたらこっちも安心だ」
俺のためじゃなく、それがレディ・ジョーの助けになる事なら、なおさらうれしい。
「あたしに感謝してるなら、まずあのべっぴんさんにぶつかって気持ちにカタをつけな。あとの事はそれからだ」
そこに話は戻るのだ。すべては一本に繋がった話だった。
希望という名のカンフル剤を得た俺は、背筋を伸ばして立ち上がろうと思った。
顔を上げて、真っ直ぐ前を見据えて、自分の人生に立ち向かおう。あの人のように……。




夜の住人が眠りに就こうとし、昼の住人は起きるにはまだ早い、そんな時間。
例の如く、いつもの騒ぎが始まった。
3階は空きフロアになっているせいもあり、4階の怒鳴り合いは2階の俺の部屋まで実によく響く。話している内容までは聞き取れないが、喧嘩している声だというのは間違いない。ここまでならまだいい。いつも問題なのは、キャンディが男を外に追い出し、窓から身を乗り出して外の男と大声で罵り合うという事だ。俺を間に挟んで……。
この日もいつもの展開となった。
少しの沈黙の後、外に出された――たしかセルジュという名の男。そのセルジュが上を見上げて罵り、キャンディが窓を全開にして下に向かって罵り返していた。
このクズ!役立たず!死んじまえ!と叫ぶキャンディ。
くそアマ!なに様だと思ってやがる!クズはお前だ!とやはり叫ぶセルジュ。
「もう二度と来るんじゃないわよ!どこにでも行っちゃいなさいよ!」
そうヒステリックにわめき散らすキャンディに対し、セルジュが言った言葉に俺は一瞬、あれっ!?と耳を疑った。
「そうはいくか、このわからずや!あいにく俺は死ぬほどお前に惚れてんだ!ざまあみろ!」
罵り合いのはずだったが……?気のせいか俺には愛の囁きに聞こえる。かなり乱暴な愛の囁きだが……。
それに対してキャンディの声は聞こえてこない。俺は窓を開けて4階を見上げてみた。キャンディの部屋の窓は全開だが、肝心の奴の姿がない。だが次の瞬間、目の前に現れた光景に俺は驚いた。
アパートの入り口からキャンディが飛び出してきたのだ。夜着にローブ姿、足元はスリッパのままで。そして両手を大きく開いたセルジュの胸の中に、文字通り飛び込んだのだ。
男の首にしがみ付くキャンディ。その身体をきつく抱きしめるセルジュ。
この、今までありえなかった新手の展開を、俺はただ唖然と見つめていた。
ああ……そうだよ、キャンディ。お前の言う通り恋愛なんてカンタンかもな……。
抱きしめて、キスして、愛してると言えばいい、というお前の恋愛哲学は正解だ。
いいんじゃねーの?お前が信じる愛し方でさ……?
愛しい男の肩に顔を埋めていたキャンディがこっちを見上げた。俺と目が合うと、涙に濡れた顔がはにかんだように笑った。まるで少女みたいな笑顔だった。
俺は口の動きだけでのキスを送り、そっと窓を閉めた。
こんな街の片隅で、こんなちっぽけな、だが確かにここに愛がある――。


そして俺のちっぽけな傷心も、思わぬ人物によって意外な流れに飲み込まれていく事になる。




その日、俺は昼の早い時間から『ネオ・トリアノン』に出ていた。
店を一日臨時休業にしてまで行った死んだ恋人の墓参り先で、レディ・ジョーは食器類を大量に買い付けてきた。その荷物が今日届いた。
今まで使っていた食器やグラスがだいぶ古くなったので、総入れ替えをするのだ。確かに割れてはいなくてもカクテルグラスは細かな傷が結構付いている。磁器の皿などは、実はひそかに欠けている物もある。しかも全体的に不足気味だ。
「あんたのせいだよ」
レディ・ジョーにチクリと言われる。
「今まであんたに何十枚の皿を割られたことか……」
というわけで……。入れ替え作業を、好意で駆けつけてくれたマリーにも手伝ってもらって3人でやっていた。
3時をまわったのでコーヒーを淹れて一息ついていた時だった。
ドアが開いて客が一人入ってきた。
準備中のプレートは出してあるがドアにロックはしていない。シャッターを途中まで下ろして営業していない事は明らかなはずだが、客は承知で入ってきたとしか思えない。
「あーすみません、まだ開店じゃ……」
言いかけて息を飲んだ。びっくりした。
「ゾーイ……?」
「ちっと早かったか……。いいかね?」
思わずレディ・ジョーを見た。経営者の頷く姿を確認して、俺はゾーイにカウンター席を勧める。ゾーイは紳士らしく帽子を脱いでレディ・ジョーに会釈をしてから座った。
幸い作業は大方終わっていた。
「めずらしいね、一人?」
「そんなわけないだろう」
ここからは見えないが、店の外ではボディガードが車で待機しているのだろう。
「何か飲む?ウイスキー?ビール?」
「わしは下戸だ。酒は飲めねえ。コーヒーをくれるか?」
長い付き合いだが、ゾーイが酒が苦手とは、今初めて知った。
ほんの少しブランデーが入ってもいいか、と訊ねると大丈夫だと言うので早速準備を始める。
「男前が上がったんじゃないか?」
ゾーイが自分の額を指先でトントンと叩く。
この前ポールに殴られた傷の事を言ってるらしい。俺は額の絆創膏に手をやり、おかげ様でと答えた。傷はもうほとんど痛まない。
「そっちこそ、あの二人は大丈夫なのかい?」
ガブリエルにやられた二人のボディガードの事だ。
「ポールは頚椎の捻挫、ジャンは顎を骨折だ。まだ入院している」
絶句……。一瞬で二人とも病院送りかよ……。
「あんたが悪いんじゃん……。なんで止めなかったんだよ」
「止めただろう、殺される前に」
そんな恐ろしい事を、この年寄りは軽い調子で言う。
「少佐は……ああいう連中は、銃を抜く時は撃つ時だ。警察と違って威嚇なんかしねえ。まあ、殺しはしないと思うがな」
だから、なぜ笑いながら言うんだ……このジイさんは……。
ゾーイがポケットからジタンを出したのを見て、目の前に灰皿を置いた。
「ルカは……見つかった?」
行方不明の俺の悪友。あれから何度も電話をした。今では電源が入ってない状態だ。奴の行きつけの店にも行ってみたが、ルカの足取りはわからないままだ。
「いや……お前の所にも連絡無しか……」
一番考えられるのは、裏切りに対するゾーイの怒りを恐れて逃げ回っている事だ。
ルカの背後に他の組織の影は感じられなかった。あちこちにいい顔して渡り歩くような男ではない。二人でうまく儲けようぜ、という誘いだったのだ。誰かに殺されるとは考えにくい。
「パリに居ないのかも」
「それはないだろう、あいつはこの街以外では生きていけない男だ。とはいえ、一人にしておけばろくな事にはならんな」
以前、お前の夢はなんだ、とルカに訊いた事がある。
その時、奴は俺の商品の44マグナムを弄んでいたが、それを自分のこめかみに当ててこう言った。
『自分の頭を吹っ飛ばしてみてェ……』
頭がスイカのように粉々になる瞬間、どんな感じがするのかやってみたいのだと言う。
バンッ!!と大きな声を出して、そして悪魔のように高笑いをしたのだ。
あの笑いは、自分の甘美な妄想に酔ってなのか、それとも驚く俺の顔が可笑しかったのか。つまり、奴はそういう男なのだ。
「そんな顔するな、アクセル……。ルカは必ず探し出してやる。まあ、殺しはしないがお灸くらい据えなきゃな」
自分の頭をぶち抜く事を夢見る狂人は、このいかがわしく猥雑な街に飲み込まれて跡形もなく消えるのだろうか。そしてこの街は、いつものようにそんな負け犬の屍を苗床にし、また毒々しくも艶やかな花を咲かせるのだろうか。
それを止められるのは、おそらくこの老人しか居ないのだが……。
俺は丁寧に淹れたコーヒーをカップに注ぎ、カップの縁に渡した専用スプーンに角砂糖を置き、ブランデーを注ぐ。そしてマッチで火を点けると角砂糖は青白い炎を上げた。
ゾーイが驚きに目を見開く。
「なんだ?これは」
「カフェ・ロワイヤル。もうスプーン沈めてもいいよ」
言われた通りにゾーイはスプーンをコーヒーに入れ、静かにかき混ぜると一口すすった。
「……美味いじゃないか」
「気に入ってくれた?」
「ああ。それに面白いな。もう一回火ィ点けるとこやってみてくれ」
「おかわりしてくれたらね」
可笑しくて笑ってしまった。子供みたいに目を輝かせてコーヒーを観察する老人。
「頼みがあるんだ、ゾーイ」
俺は意を決してそう切り出した。
「俺をあんたンとこの仕事から外してほしい」
途端に猛禽の眼差しで射貫かれた。鋭い眼光に思わず怯む。
だが撤回するつもりはない。
「ガキの頃から世話になってて、今さら辞めたいだなんて勝手な事だとは思っている。でも、売人稼業はもうごめんなんだ。俺はこんな死神みたいな事がしたいわけじゃなくて、ただ……美味い酒を作って、美味いと言って飲んでくれるお客の顔が見たいんだ」
「この仕事が好きか……?」
そう問いかけるゾーイの眼光には凄味が宿っているが、なぜか俺はもう怖いとは思わなかった。覚悟は出来ている。腕の一本も折られるかもしれない。顔に傷を付けられるかもしれない。だが、それと引き換えに自由が得られるなら、喜んでそれらを受けるつもりだ。
「そのコーヒー……あんたが『美味い』と言ってくれた。その時、俺がどんなにうれしかったか、たぶんあんたには理解出来ないと思うけど、俺の幸せってこういう事なんだ」
ゾーイは笑っていた。俯いて、肩を揺らして。
「安い幸せだな」
「うん……安くて、でも金では手に入らない宝物だ」
「頭がいいくせに馬鹿と言われるのはな、つまりお前のそういう所だ。お人好しで不器用。そんな奴はウチの仕事に向かないな」
「ゾーイ……?」
「お前とルカを拾った頃、お前たちはいつも一緒だった。いつも何かを探していて飢えた目をしていた。お前たちが並んで歩いている姿はな、まるで連れ立って狩りに行く動物みたいだったな。ガキのくせに刹那主義の子チンピラ二匹。こいつらは若くしてパリのゴミ溜めの中で死ぬんだろうと思っていた。わしはそんな死に様、望んじゃいないがな……」
老人は遠い目をして、俺に聞かせるというより独り言のように語った。
「アクセル、この世から麻薬は無くならねえ。人間は一度覚えちまった快楽の素を決して手放さない。どんな時代になったってヤクを欲しがる人間がいる以上、それを売る人間は求められるのさ。銃にしたって同じだ。求められる以上、わしは人間の欲望につけ込んで稼がせてもらう。悪魔の所業と言われてもな」
何十年も悪魔の商人として生きてきた老人は、今なぜこうも優しげな目なのか。
「ルカはともかく、お前の居場所はわしの傍じゃない。幸いわしが抱えている売人はお前だけじゃない。アクセル」
「はい……」
「お前はクビだ。売人はいくらでも居る。だが、わしはバーテンダーの知り合いはおらん。そういう意味では貴重な存在だな。またわしにこういうやつ作れ」
「あんたに飲ませてやりたい美味い物はまだまだたくさんあるよ。俺が作るのは酒だけじゃないから」
俺は茫然とした気持でゾーイを見つめた。
皺だらけのその手は血で真っ赤なはずなのに、触れると温かい。猛禽のような目は視線だけで心臓が止まりそうなのに、瞳の奥は優しい。
俺はずいぶん長い間この人に育てられた。レディ・ジョーとはまた違う、もう一人の育ての親。レディ・ジョーに会うずっと前から、俺が思っている以上に俺はこの老人に大切に育まれて大きくなったのだ。今まで気付かずにいたけれど……。
「ごめんよ、ゾーイ……本当にごめん……」
不覚にも熱いものがこみ上げて来て、声がうまく出ない。
「そんな泣きそうな顔するな、馬鹿。出来の悪い孫から手が離れてやっとせいせいした」
そう言ってゾーイは笑った。
俺は出来の悪い手下じゃなくて、超出来の悪い孫だったんだ。
カウンターに置いたジタンが手付かずだった事を思い出し、ゾーイは一本抜いて咥えた。すかさず俺はマッチで火を点ける。
「実はな、今日はルカの消息の件でも、お前の顔を見に来たわけでもない。別の話をしに来たんだ」
甘い香りの紫煙を吐き出し、老人はそんな意外な事を言った。
「年寄りの長い話に付き合うか?」
「いいよ。どんな話?」
「いつも真っ直ぐに立つ、強くて孤独な男の話だ」
俺はハッとして手を止め、ゾーイの顔を正面から見た。
そんな男を――俺は一人だけ知っていた。