「もう何年も前の話だ」 ゾーイは目を細めて記憶をたぐる。 「パリ在住のアメリカ陸軍中将が何かの功績で勲章を授与された。その記念パーティの夜だったな……。たしかリッツかどこかだったと思う。……ああ、その中将はわしの上得意でな、もちろん表の商売のだ。もう何十年もの付き合いだ。わしもパーティに招待されていた」 ホテル・リッツはここからそう遠くない1区内の名門ホテルだ。 俺のテリトリー内の、だが決して足を踏み込めないような別世界の話。 ゾーイの表の商売のひとつにナイトクラブの経営がある。俺にはよくわからないが、ゾーイの顧客はそうそうたる面々らしい。政界、経済界、芸能界の、世間でよく知られた人々。そう考えると大したジジイだ。 「パーティには知った顔がたくさん来ててな。中将を祝うというよりも、わしにとっては不義理にならないよう、名士の皆さんに挨拶して回る方が大切だった。そんな人混みの中にあの男が居た」 そこまで言うと、ゾーイはそっと思い出し笑いをした。 「不思議な若造だった……。話しかけられては愛想よく受け答えしていたが、人に囲まれていても妙に周りから浮いちまっている。すこぶる器量のいい奴だったから、どうしても男女問わず人が寄ってくる。女たちからはちやほやされていたな。だが、そんな中でも奴は浮いていた。孤独の影をまとっていた、という方が合っているかもしれん。不思議な感覚だ」 聞いていて俺の脈は速くなっていった。ゾーイが感じたその感覚……。 「パーティも半ばになって、わしは夜風に当たりたくてテラスに出た。そこに先客が居た。あの若造だ。煙草を吸ってぼんやり通りを眺めていた。横顔に“退屈”という字が貼り付いてたな。『つまらなさそうだな』と話しかけると『パーティは大嫌いだ』と返事が返ってきた。礼儀も遠慮もない言い方だったが、なぜかわしに向けられたのは愛想笑いではなく適当に力を抜いた穏やかな笑みだったな。たぶんこれがこの男の素顔なんだと思った。自分の空間にわしが居る事を許した、そんな雰囲気だった。生意気な青二才なんだが、妙に好感がわいてな、わしらは少し話をした」 「あんたが初対面の人間に興味持つなんてめずらしいね。どんな話をしたの?」 「たわいもない話ばかりだ。なにせ、そいつは会話でわしを楽しませようなんて気遣いは皆無だったからな。こっちも、そんなぬるい雰囲気が居心地良かった。……それがハリー・ブライアントとの出会いだ」 ハリー・ブライアント……。今、初めて耳にするガブリエルの本当の名前。 綺麗な名前、と思った。聞きなれない名前なのに、なぜか違和感はなかった。 本当の名を知る事によって、俺の想い人がこの世に実在する人間なんだと実感する。 「あの人……ハリーっていうんだ……」 「ああ!?」 思わず零した呟きにゾーイが呆れた顔で反応する。 「今、初めて知ったのか?」 「うん……」 「名前も教えてくれないって事は、お前……少佐に嫌われてたんじゃないのか?」 ゾーイはそんな言葉で俺にとどめを刺しまくる。勘弁してほしい……。 「少佐は自分の事はほとんど喋らないから、わしが知っている彼のプロフィールは、アメリカ陸軍の知人が教えてくれたものだ」 そんなふうに前置きしてゾーイが語り出した事は、『ガブリエルは何者なのか』という当初からの疑問に対する回答だった。 「ペンタゴンの中に国防情報局という機関がある。少佐はそこで精鋭チームを率いているそうだ。少佐自らスパイ活動をしているかどうかわからないが、いずれにしても諜報の専門家だ。国防総省に身を置いている時点であの男は超エリートってこった」 こんな話はもちろん知らなかっただろう?と冷ややかな目で問われて、俺はついスミマセンと言ってしまった。 なんで俺が謝るんだ?いろいろ事情があったんだよ、ジジイ!と、心の中で悪態をつく。声に出して言う度胸はもちろんナイ。 「ついでに言うと、あの人は元々事務方じゃない。昔は特殊部隊に在籍していたそうだ。見た目はあんなやさ男だが、その気になったら人間の首をへし折るのに3秒とかからないでやってのける、そういう男だ」 スパイ活動、諜報、特殊部隊……俺には別世界の単語ばかりだ。 思えばガブリエルは俺に何も教えてはくれなかった。 天使のようなガブリエルの正体が、ハリー・ブライアントという非情な軍人だったとして、それがなんだというのだろう。むしろハリー・ブライアントの核になっているものが俺の知っているガブリエルの部分ではないのだろうか。 泣きそうな顔でやっと口に出した彼の痛みが、俺の腕の中で身悶え上気した肌が、不意に流れた一筋の涙が、偽りのはずはなく幻でもない。 そして、それらを知る人間がこの世で俺以外に誰が居るというのか。 「おかわりをくれるかね?」 ゾーイはカフェ・ロワイヤルがいたくお気に召したらしい。 空になったカップを下げ、新たにコーヒーを準備する。 「パリでの任務について何か聞いているか?」 「いんや、何も」 「聞きたいか?」 「許されるのならね」 「話してやるが、そのかわり聞いたらすぐに忘れろ。少佐のためにもだ、いいな?」 「わかった……」 本当は俺が知ってはいけないのだろう。知ったところで何も影響はないはずだが。だが、ガブリエルは何も言わなかった。それが彼の意思なのだろう。おそらく俺のためにだ。関係ないようでいても余計な事は知らない方が俺の安全に繋がると、そう思っていたに違いない。 だが、俺にとって身近な存在であるゾーイがなぜアメリカ軍と関係があるのか、それだけが知りたかった。 「わしは今、ベル・ビル地区のアラブ人組織と取引きをしている。連中から質のいいヘロインを安く買ってるんだ。その取引きはとある元アメリカ軍人を仲介して行っているが、元々そのアメリカ軍人が持ちかけたビジネスだった。だが、こいつは曲者だった。中東のスパイだったんだ。国防情報局パリ支局はその元アメリカ軍人を捕らえたい、少佐は少佐で以前から中東のテロ組織を追っていた。裏の社会にはさらにその裏があったって事だ。わしが麻薬密売組織と思っていた連中の本業は中東テロ組織の一部だったんだからな」 俺の身近な所で身近な人間が、こんなスパイ映画みたいな事件に関わっているとは嘘みたいな話だ。もっとも俺自身も犯罪映画のキャストの一人だったわけだが。 「先週の土曜日だ。突然久しぶりに少佐が現れたと思ったら、協力を依頼された。あの人に何かを依頼されたなど初めてだったな。まあ、それで一肌脱ぐ事になったわけだ」 「テロリストは許せないけど、でもよく依頼を受けたね。アラブ人たちはあんたの顧客なわけでしょ?」 「確かにな。顧客の信頼はわしの財産だ。だがな、奴らが潰れればベル・ビルという地区はわしのものだ」 ニヤリと笑うゾーイの顔を見て、ああこのジジイは商人だったなと思い出した。 「少佐もはっきりわしに言った。ベル・ビルはあんたが取れとな。あの地区は元々ヤクに関する仕切りが脆弱な街だ。今の組織が無くなって空白にしておくと新たな抗争が起きる。力のある者が抑えないと一般の住人にとっても恐ろしくて住めない街になっちまう。ウチにしてみたらシマを拡大させるめったにないチャンスだ」 裏社会のゾーイに効果的な甘い蜜を差し出すガブリエルは、ゾーイと同じく裏の人間だ。マフィアとの交渉なんてお手のものなのだろう。 丁寧にじっくり淹れたコーヒーをカップに注ぎ、ゾーイによく見えるようにして先程のファイヤー・パフォーマンスをやる。別にショーではなく、アルコールをとばしているだけなのだが。 だが、ゾーイは立ち上がって目の前の炎をうれしそうに見入っている。 スプーンをコーヒーに沈めかき回し、一口飲んで笑顔を浮かべた。 「どこまで話したっけかな?」 「ベル・ビルはあんたのものになるってとこまでだよ」 「ああ、そうだった。だが協力する気になった理由はあと二つある」 ゾーイは一端話を切ってジタンをもう一本取り出した。咥えた煙草の先に俺はまたマッチの火を寄せた。 深々と一口煙を吸い込み、吐き出しながら言葉を続けた。 「少佐は子供の頃、一時ベル・ビルに住んでいたらしい。近所のアラブ人たちに可愛がられたそうだ。今のベル・ビルには知った人間はもう居なくなったそうだがな。だいぶ前に本人からそんな話を聞いた。あの街も、あの民族も、少佐にとっては優しい記憶の一部のはずだ。今の任務は皮肉な巡り合わせだ。本人は一言も何も言わないが、少佐の胸中を思うと手を貸してやりたくなった」 わしらしくもない感傷だな、とゾーイは笑う。 「もうひとつの理由は?」 「わしもテロリズムは許せない。ヘロインの密売で得た利益はパキスタン経由でアフガニスタンに流れ、山岳武力組織の活動資金になっているんだ。わしが払った金が無差別殺人の資金になるなんざ、夢見が悪いだろう?」 いずれの理由もゾーイらしい。徹底して商売人、だが情に厚い。 「そういえば、ひとつ教えてよ」 俺は急にルカから最初に聞いた話を思い出した。 「俺とあの人が一緒に街を歩いているところを車の中から見かけたんでしょ?その時あんた、不機嫌だったってルカから聞いたんだ。どうして不機嫌だったの?」 言われても、ゾーイはピンとこないようだった。 「なんで俺がブライアントと一緒に居るのか、ってあんたが不機嫌になったと聞いたぜ?」 ああ、そんな事かとゾーイはつまらなさそうに呟いた。 「少佐のヤツ、この一件にお前まで巻き込むつもりなのかと思ったからだ」 つまり、俺の身を案じてくれたのだ……。俺が想像していた事とは根本的には正反対の理由。俺が何かをしでかす心配ではなく、危険な目に合わせられる事への心配。ゾーイの想いを知ってなんだかうれしかった。 「でもまあ、あの少佐がお前みたいな役立たずを任務に使うわけないしな」 一言多くてさっきのうれしさは二割減だ。ジジイ……。まあ、もっともな話なんだが。 「この件はこれからだ。着手にはまだ時間がかかる。わしは今後も少佐と接触を続けるだろう。いずれにしてもお前には関係のない話だ。少佐のやっている事、理解できたか?」 「ああ……」 「じゃあ忘れろ」 「わかった、忘れる」 「よし……」 ガブリエル、ごめんな。あんたの仕事の話、聞いちまった。知ったらあんた怒るだろうな。聞いた事はすべて忘れる……。だから許してくれよな? 忘れる……。ゾーイに約束すると共に、心の中で今は居ないガブリエルにも誓った。 俺に出来る事はそれくらいしかない。 ふと思い出して店の隅に目をやる。俺たちから離れた所でレディ・ジョーが食器の梱包材を片付けていた。今の話が聞こえなかったはずはない。おそらく口止めは不要だろう。レディ・ジョーはたとえ何があっても他言はしない。ゾーイもそれがわかっているからこそこの場であんな話が出来たのだろう。 ところでマリーは? レディ・ジョーにマリーの行方を問うと、今夜の店の買い出しに行かせたと答えが返ってきた。 客商売歴が長いマリーも決して他言するような人間ではない。 このタイミングで買い物に出たのは、自分で席を外すためだったかもしれないし、レディ・ジョーの人払い策かもしれない。 「アクセル」 ゾーイに呼ばれて視線を戻すと、真摯な眼差しが俺を真っ直ぐ見つめていた。 「これからする話はよく聞くといい。お前に伝えるべきか迷ったが、やはり言っておく」 おそらく、今日それを言うためにここに来たのだと思った。 いつものゾーイらしくない。たぶん、言葉通り迷ったのだろう。 「少佐からお前の事を頼まれた」 コーヒーを一口飲み、しばらく沈黙した後、ゾーイは言葉を続けた。 「少佐たちと依頼の件で最後に打ち合わせをした後、二人だけで話があると言われてわしはパリ支局の中庭に連れ出された。『アクセルを自由にしてやってほしい』とあの人はわしにそう言った。アクセル自身が辞めたいと言ってきたら、その時は解放してやってほしいと……」 「それって、いつの話……?」 「お前のアパートに乗り込んで一悶着あった日の夜だ」 確かにあの時、ゾーイはガブリエルの所に行く約束があると言っていた。 「それで……あんたはその時、なんて答えたの?」 ゾーイは笑い出した。さも可笑しそうに肩を揺らした。 「わかった、と答えたさ。お前を解放しろと言う時の少佐のおっかなかったこと……。断るなんて答えたら、飛びかかってナイフで喉笛かき切らんばかりの殺気だった。心からのお願いに殺意を込められたのは初めてだ。このわしがな」 ガブリエルはすべてを見通していたのだと思う。 俺が売人を続ける事をどう感じ、どうしたいか、どういう決断をするか。 夜の公園で、この商売から足を洗う決意を語った。だが、それより前にガブリエルは俺の心を読んでいたのだ。 「だがな、わしは少佐に言われなくてもお前をクビにしただろうな。あの人がおっかなかったからお前を解放したわけじゃない。以前から考えていた事だ。お前はまっとうな生活を送った方がいいとな。わしはお前が一言『辞めたい』と言ってくるのを待っていたのかもしれん」 俺は己の臆病さを思い知った。運命は常に優しく手を差し伸べていて、俺はそれに気付かずに怯えて逃げてばかりだったのだ。 「少佐はもうひとつ頼みがあると言った。頼み事ばかりで申し訳ないと詫びた後に『今後アクセルの力になってほしい』とな。自分は傍に居る事が出来ないから、奴に何かあったら力を貸してやってくれ、そう言ったんだ。この話はお前には言うなと口止めされたんだがな。だから聞かなかった事にしろ。だが忘れるな」 ガブリエルの心……。こんなに俺を心配してくれる人。 俺から去りたくて去るわけじゃない。こんなに後ろ髪引かれるようにして、誰かに託して、何度も振り返りながら、あの人は消えたのだ。 そんな優しい気持ちに報いる事はとうとう出来なかった……。 「『そんなにあいつが大切なのか?』とわしは訊いた。少佐はわしを見て迷わず『そうだ』と答えた。それで重ねて訊いた。『愛なのか?』と……。さすがに即答はしなかったな。しばらく黙って考えていたが、やがて真っ直ぐわしの目を見ながら『そうだ』ときっぱり言いきりやがった。恐れ入ったよ……」 ちょっと、待ってくれ……。 待ってくれ……待ってくれ!頼むから待ってくれ! 「迷いの無い真っ直ぐな目で見つめてこられて、わしはこの人には敵わないと思った」 俺は全身から力が抜けて崩れ落ちそうになった。カウンターにしがみ付き、かろうじて身体を支えた。 『愛なのか?』 『そうだ』 その時の二人の会話が俺の頭の中で何度も繰り返される。 今、初めて知らされたガブリエルの想い――。 ここへ来い、とゾーイに言われてよろよろとカウンターを出て隣に座った。 「アクセル、少佐は強い。あの人は自分が誰なのか知っている。自分の強さも、脆さも、痛みも、厳しさも、すべてわかった上で受け入れて歩き出す。お前への愛に気付いたあの瞬間、どう思ったろうな。だが、逃げずにその感情も受け入れた。だから強いんだ」 ゾーイは、茫然とする俺の頭を撫でた。目の前に居るはずのこの老人の顔がぼやけて見えなくなってきた。 「わしに協力を依頼する立場上、本当は弱味を晒したくなかっただろう。ましてや、野郎が野郎に惚れたなんて話だ。正直わしには理解出来ねえ。だが、少佐はそうまでしてお前の事をわしに託したかったんだろうよ」 まばたきを忘れた俺の目から涙が溢れた。 涙は幾筋も頬を伝って顎から膝にポタポタと落ちた。 最後の朝、まだ眠る俺を残して部屋を出る時、一人静かにドアを閉める瞬間、ガブリエルはどんな気持ちだっただろう。 あの人を抱いた時、その慣れてない身体に初めての経験なのだという事はわかっていた。いくら自分の身体を“こんな身体”と思っていても、どうでもいい相手に好きに弄ばせるだろうか。野郎に身体を開かされるのだ。痛みも恥ずかしさも伴うそれは同情や気まぐれで受けられる行為ではなかったはずだ。 ガブリエルを愛撫しながら好きでたまらないと俺が言った時、自分もそうだと、本当は俺に言ってやりたかったに違いない。 だが、言ったところでどうにも出来ないのだと、俺がつらい思いをするだけだと、そう判断したのだろう。言えない言葉の代わりに、だからあんなにも身体を与えたのだ。 俺には決して本心を悟られぬよう想いを封印して消える事を選んだ。最後に見た涙の理由。 その時、彼はどんな気持ちで……!! それに比べて、俺の愛なんていかに口先だけのものだったか思い知らされた。 どうして、なんで、俺は、馬鹿な俺は、大馬鹿野郎の俺は、気付けなかったんだろう! 「ゾーイ……俺はなんっにもわかっちゃいなかった……あの人の事……何ひとつ見えてなかったんだ……!」 あの時も、あの時も、あの時も……! 「あの人には随分世話になったんじゃないか?」 「はい……」 「ちゃんと礼は言ったのか?」 「何も言ってねえ……」 「この馬鹿……」 そしてゾーイは皺だらけの温かい指で俺の頬の涙を拭った。まるで小さな孫にするような優しい仕草で。だが、ゾーイを困らせるつもりはないが、拭った後から新たに涙が頬を濡らしていく。 「泣きやまないガキにはアメ玉が必要か?」 苦笑いと共にそんな事を言われて、俺は、意味わかんねえと答えた。 「ひとついい事を教えてやる。少佐には唯一致命的な欠点がある。それは物事の全部を自分の中に取り込んでしまうという所だ。自分の感情だけじゃない。相手の苦しみすら受け入れて、そのまま持って行きやがる。強いから出来る事だ。だがな、そのままにしておけば、いつか必ずあの人は壊れる。たぶん、なんの自覚もないんだろう……。誰かと分かち合うという事を知らないんだ。あの人に孤独の影を感じるのはそのせいだと、わしは思う」 「一人で抱え込むより二人で半分こする方がうまくいくのにね。負担も半分、いや、それ以下だよね……」 「お前もそう思うなら、それを教えてやりなさい。わしが言っても、たぶん伝わらん」 だけど、もう遅いんだ、ゾーイ……。ガブリエルは去ったのだから。 「今夜の便で帰国すると言っていた」 「……」 「……」 「……はい?」 「5時半だったか、6時半だったか忘れちまった。ワシントン行きだ」 俺の頭の中は真っ白だ。息をする事も、まばたきをする事も忘れた。自分のまぶたの存在も忘れていた。固まる俺を長い時間見守っていたゾーイにも呆れる。 何秒続いたかわからない長いフリーズ状態の後、突然、俺の頭は目まぐるしく動き出した。 「今、何時ッ!?」 俺の声はほとんど悲鳴だった。 自分の腕時計に目をやる。が、ブレスレットに埋もれていて時計が見えない。 「4時23分だよ――」 店の隅からレディ・ジョーの声が飛んできた。 ここから空港まで車で40分はかかる。ああ、5時半なのかよ、6時半なのかよ! 時刻表を調べる時間など無い。とっくに間に合わないか、ぎりぎり間に合わないか、奇跡的に間に合うか……そのどれかだ。 「レディ・ジョー、お願いだ!明日はタダ働きするから、今日は休ませてクダサイ……」 床にひれ伏す勢いで哀願すると、盛大にハナで笑われた。 「わがままなバーテンダーだねえ。金曜の夜に休むたぁ、いい度胸じゃないの。明日から覚悟は出来てるんだろうね……」 「ありがとう!ついでにもうひとつ……」 俺が最後まで言い終わらぬうちに、顔面目がけて金属の塊が投げつけられた。ぶつかったら絶対怪我をしたであろうその塊を両手で受け止める。 プジョーのキー……。 「言っとくけどね、ぶつけたら修理代じゃなくて新車代金を請求するからね!」 地獄の大王みたいな顔をして無慈悲な事を言うオカマ。そんなふうに照れるレディ・ジョーに心の底から感謝した。 派手なシャツの上にブルゾンを羽織ると、俺はゾーイを振り返った。 「なんで俺に教えてくれたの?」 ゾーイは小さく笑ってジタンを咥え、今度は自分で火を点けた。 「さあて、な……。時間外サービスへの礼って事にしておけ」 食えない老人はそんな言葉でとぼけた。 「あの人、あんたの事を祖父だと思って大事にしろって言ってた……」 ゾーイは、今度は声を上げて笑い、そして真顔で言った。 「少佐はな、わしが畏敬の念を覚えた数少ない人間の一人だ。うんと年下の若造にそう感じるのも癪だがな……。だが、あの人を見習って敢えてこの気持ちを受け入れよう。お前がわしに孝行してくれると言うのなら、またこの砂糖に火ィ点けるやつ飲ませろ。それで充分だ……」 「そんなのいくらでも……」 「さっさと行け」 「ゾーイ!」 「なんだ」 「ありがとう……」 俺が肩越しに振り返って呟くと、ゾーイは横を向いたまま、しっしっ、と手を振った。 俺は店を飛び出した。 ガブリエルを追う!