7月――。
この時期、パリは一年のうちで最も慌ただしい季節を迎える。
お世辞にも勤勉とは言えないこの国の国民は、6月ともなるとまるで尻に火が付いたかの如く働き出す。すべてはバカンスシーズンのため、である。
7月半ばのパリ革命記念日には、国内外から観光客が狭いパリにどっと押し寄せ、閉口してしまう程の人口密度になる。
そして翌日、波が引くようにパリから人が一気に流出。地元パリっ子たちが海に、山に、国外に、バカンスへと発つのだ。後に残されるのはゴーストタウンのような静けさの中の観光客。
そしてまた、下旬に開催されるツール・ド・フランスに向けて再び人口が膨らむ。
そんな潮の満ち引きの如く人口流出に振り回されるのは、勤勉な一部のサービス業界だけだ。
そして、人口が超過密になる7月14日、人混みが苦手なはずのあの男がパリに来る。
勤勉なサービス業のひとつ『ネオ・トリアノン』のバーテンダーである俺は、一週間前に知ったその事実に、卒倒しそうな程の幸福感を味わっていた。
今年は忘れられない夏になりそうだ。



『今日のパリはめちゃめちゃ暑いね。午後3時半現在、市内の気温は30度。午前中のパレードは熱中症で倒れた見物客が続々出たって話だ。これから外出しようとしているキミ、帽子をお忘れなく!この暑さ、何とか乗り切って今夜の花火を楽しもうぜ!じゃ、次の曲いってみよう。U2の“With Or Without You”』

無骨な男の甘く熱っぽいラブソングが始まると、キャンディが甲高い声で叫んだ。 「ですって!聞こえた?」 「何がー!?」 「ラジオのDJが外出る時は帽子を被れって」 キャンディがスナック菓子を貪りながら答える。 30分ほど前、キャンディはいきなりこの部屋にやって来た。 つい施錠を忘れたドアからズカズカと踏み込んで来て、ちょうどシャワー上がりの俺と出くわした。 タオルすら巻いていない全裸の俺をしげしげ眺めまわし、フンと鼻を鳴らしてソファに座り、菓子を食べ始めたのだ。 さらに、絶句したままでいると、その粗末なモノをさっさとしまえと言う。 来訪の理由を訊くと「暇だから来た」としか言わない。 「ど?これ」 着替えを終えて寝室から出、キャンディに問う。 「……ジーンズは黒がいい」 「あ、そ」 アドバイスに素直に従い再び寝室に引っ込む。 キャンディのファッションアドバイスは無視すると損だ。 「で?お前、本当は何しに来たのよ」 ジーンズを穿き替えながら声を掛けると、ため息の後に思いのほか優しい声色が返って来た。 「あんたのフヤケ顔を拝みに来たのよ。一週間待ってたんでしょ?よかったじゃん」 同い年で、同じ目線で、軽口を叩きながら、俺の恋愛を見守ってくれる愛しいオカマ。つい口元が綻ぶ。 暖かい気持ちになったなどと、この照れ屋のオカマに悟られないよう、ついふざけてみる。 「おうよ!幸せ過ぎて、俺コワイ!」 寝室の戸口にしな垂れ掛かっておどけて見せれば、狙い通りのリアクション。 「アクセル、あんたウザイ!おまけにキモイ!」 空になった菓子の袋を丸めてぶつけられた。 だが、そんな攻撃は今の俺には通じない。 「なげェ一週間だったなあ。とにかく、先週突然あの人から電話が来て、14日に来るって聞いた時は……なんての?俺ァもう……思わずイキそうになったね」 「……そのまま逝ってしまえばよかったのに」 キャンディの毒舌も今の俺には心地良い励ましに聞こえてしまう。 頬の緩みは一向に治まらない。 キャンディはわざとらしくため息をつくと、冷蔵庫の扉を開けてフリーザーの中を物色し始めた。 「あんな高嶺の花みたいな人、こんなヘボい男のどこが良かったんだか」 ヘボい男と言われた事より、毒舌オカマから自分の好きな人が高嶺の花と評された事が何だか嬉しい。 「恋は理屈じゃないって事よ。……てか、なに勝手に人ん家の冷蔵庫漁ってンだよ!あっ!てめ……俺のアイス!」 取り返す事はすでに手遅れとわかっていても、アイスを咥えて逃げるキャンディを追いかけまわす。 「それよりアクセル、時間はいいの?じ・か・ん!」 逃げながら叫ぶキャンディの言葉に我に返った。途端にテーブルに足を引っ掛けて顔から転ぶ。 「やべェ!」 立ち上がって数歩足を踏み出し、今度はゴミ箱につまずいてゴミと共に倒れ込んだ。 「落ち着きなさい、馬鹿」 俺のシャレにならない無様な様子にさすがに憐れに思ったのか、キャンディは身支度の仕上げを手伝ってくれた。 「お前、今夜はどうすんの?あのロクデナシの彼氏とデート?」 「ちょっと……殺すわよ?」 背後から首にクロムハーツを掛けていた手が、ついでとばかりに首を絞め上げる。 「よし!出るぜ、キャンディ!」 すべての身支度が完了し、鍵を手に立ち上がった。 そして最後のダメ押しのように観葉植物の鉢につまずき、ドアに顔から突っ込んだ。 この馬鹿は……とキャンディはイタそうな顔をして目を覆っていた。 アパートの階段を転びそうになりながら駆け降りる。 外に飛び出すと途端に熱い光線が肌を刺す。 あっちぃ……! 午前中のパレードを見物していた人々が、祭りの余韻を残したまま通りを闊歩していた。 何といってもここはパリの目抜き通り。広くもないエリアにルーブル美術館が、ポンヌフ橋が、フォーラムやポンピドーセンターがある。 急いでいるってのに赤信号に捕まった。ついその場でぴょんぴょんと足踏みしてしまう。 人混みの中をかき分けて、ときおり腕時計に目をやりつつ走る。 地下鉄駅に降り4番線に飛び乗った。 幸いこの駅で下車する乗客が多いらしく、大勢の人間が吐き出された後、シートに座る事が出来た。 向かうは空港。ハリー・ブライアントを出迎えに行く――。 シャルル・ド・ゴール空港――。 名無しの天使と出会って別れた場所。 黙って消えたあの人を追いかけて、出国ぎりぎりで捕まえた。 こちらに手を伸ばして駆け寄ろうとする彼の動きより素早く、飛び込んで行って華奢な身体を力いっぱい抱き締めた。 一度は失った存在。永遠に失うはずだった行きずりの男。だが、奇跡は自分で生み出すものだ。 みっともなく追い縋って、叫んで、呼んで、手を伸ばした。 本当に正しい選択はとか、大人としてあるべき行動はとか、カッコいい男はとか、そんなものはどうでもいい。 腕の中にある、この温かくも愛しい存在以上に大切なものなどあるだろうか。 “なぜ来たんだ”“馬鹿だな”と言われる事を覚悟していたが、彼は何も言わなかった。お互い言葉もなく、ただ暫くの間抱き締め、抱き締められていた。 「ガブリエル……」 金の髪に頬を寄せその名を呼べば、滑稽なほどに声が震えていた。 「ハリーだ……」 肩口で彼が静かに言う。 「本当の名前はハリー・ブライアントだ」 腕を緩めて向き合った。 「うん……俺、待っていたよ」 自分を見上げる端正な顔を手のひらで包み、心を込めて伝える。 「はじめまして、ハリー」 ガブリエルという名ではなくなっても大天使である事に変わりがないハリーは、ああ、と答えた。 プロローグは終わりを告げ、第1章はここから始まる。 「住所はワシントンD.C、職場はペンタゴン、所属は国防情報局という所だ。人の物を盗んだり、探ったり、分析したり、時には武力行使もする。褒められた仕事じゃない。それが私だ。……他に質問は?」 「俺の事、好き?」 すると、ハリーは小さく笑って、コートのポケットからボールペンを取り出した。 「その質問の答えは自分で探してみろよ」 そう言って自分の頬を包んでいた俺の左手を掴み、手の甲に数字を書き始めた。 携帯の電話番号……。 「あまり電話してくるなよ?外国なんだから電話代は高いはずだ。それと私は電話に出られない事が多い。覚えておけ。もうひとつ、時差を考えろ。パリ、ワシントンD.C間は6時間だ」 書き終え、ボールペンをポケットにしまい込み、荷物を持ち上げた。 タイムリミットだ。 手の甲の電話番号をそっと指でなぞる。 ハリーが未来を作ってくれた……。 「どうしよう……俺、幸せ過ぎて死にそうだ……」 背を向けたハリーが振り返って笑う。 「じゃあ死ね」 彼はサヨナラを言わない。“バイバイ”とも“またな”とも、短い簡単な別れの言葉さえ口にしないのだ。 気持ちは自分と同じだと思っていいだろうか。 「ハリー!」 去って行く後ろ姿に向かって叫ぶと彼が振り向く。 「好きだーっ!」 その途端、ハリーは真っ赤になって怒鳴った。 「馬鹿野郎!でかい声で言うな!」 まわりに居た人々が驚いて声の主を振り返る。 自分の怒鳴り声の方がよっぽどでかい声であったなど、この人はたぶん気付いてはいない。 頬杖をついて車窓の外の闇に目を向けたまま、クスッと笑う。 ハリー・ブライアントと過ごした秋の一週間はどれも克明に覚えている。 悪ガキの目をして笑う顔も、黒衣を纏って凶暴なオーラを放つ姿も、心の痛みに慟哭する背中も、どれもが彼を構成する要素であり、自分にとっても大切にしたい真実。 銃を携帯した大天使は、少しだけ自分を大人にした。 あれから8ヶ月。 今日まで一日たりとも彼を想わなかった日はない。 8ヶ月ぶりの再会で、彼はどんな顔をして何て言葉をかけてくれるだろう。 シャルル・ド・ゴール空港第2ターミナル。 ワシントンD.C発のエールフランスが表示板の中で『到着』と点灯されて暫く経つ。 出迎えのために到着口付近に群がる人々よりかなり離れて、俺は柱にもたれて立っていた。 やがて吐き出されて来る乗客たち。 皆一様に長旅の疲れ顔から弾けんばかりの笑顔に変わる。 口々に相手の名前を呼び合う。走り寄って来る子供を抱き上げる父親、友人と見られる若者たちと一人ずつ抱き合う者、恋人に駆け寄って口付けを交わす女性、固い握手をするビジネスマン風の二人の男。 そんな人々の波が一通り収まった時、場が一瞬静まりかえった気がした。 到着口から現れた、目も眩むようなとんでもない美貌。 ラフないでたちにもかかわらず、その姿がノーブルな雰囲気を纏っているのは、スラリとしたプロポーションと美しい身のこなしのせいだろうか。 周囲に居合わせた幾人かの目が釘付けになっているのがわかる。 人の目を集めてしまうほどその気配を晒しているのは、今の彼がまったくの無防備だからだろう。 初めて会った時以上に俺の心臓はうるさく高鳴る。あわあわとうろたえる。 手を上げて合図する必要はない。その人の視線はすぐにこちらを向いたからだ。 この壮絶美人の視線を独占している事に優越感が湧き上がる。 俺のハリー……。 またこうして会えてどれだけ嬉しいか、この人ははたしてちゃんとこの気持ちをわかってくれているのだろうか。 柱にもたれ掛かっていた身を起して、迷わず自分の方にやって来る彼へと、平常心を装って歩み寄って行った。 「何だ?その髭は」 目の前で立ち止まるなり開口一番、挨拶抜き前置きなしのダメ出し。 「あ?似合うでしょ?髭の男は嫌い?」 前にもこんな展開がなかっただろうか……。 俺は最近髭を伸ばしていた。 伸ばしていると言っても顎の部分だけ。フェイスラインを縁取るように形を整えていて、一見して髭面という感じではないが。 いつも飲みに来てくれる女の常連客に、きっと似合うだろうと言われたのがきっかけだ。 いずれにしても長くこのままでいるつもりはない。一目だけでもハリーにこの顔を見せて驚かせるために、今日まで剃らずにいたまでだ。 「……似合い過ぎて、今のお前はどこから見ても立派なチンピラ面だ」 にこりともせずに言われて笑ってしまった。 「何だそりゃ!俺、誉められてンの?けなされてンの?」 そして、まわりから単なる再会の挨拶に見えるように、片腕で緩く減らず口を叩く男の身体を抱いた。 「おかえりハリー……元気だった?」 「まあまあだな」 懐かしい体温、懐かしい匂い、懐かしい二人の挨拶。 8ヶ月という長い時間が一瞬にして溶けていく。 こうやってハリーを抱き締めた事は何度かあった。 ハリーが抱き返してきた事は一度もない。 だが、不思議とそれを寂しいとは感じない。 黙って腕の中に居てくれる。そうする事を許してくれている。 ハリーから貰う幸せはいつもとてもささやかな事だ。 そんな小さな小さな幸せに、自分はいつも泣きたい気持ちになる。 命の限りを尽くしてこの人の笑顔を守りたい、と思う。 だが、さすがに……。 たとえば今、彼にキスをしたとして、たとえそれが頬にでも、ハリーは怒るだろうな。そう考えて苦笑した。 この人の事だから、たぶんグーで殴りかかるだろう。 再会早々、軍隊仕込みの鉄拳は食らいたくない。 名残惜しいが肩を抱き寄せていた腕を解く。 「ごめんな、今日は車借りてこられなかったんだ。今メンテナンスに出してるんだってさ。地下鉄で一緒に帰ろ?」 「ああ、久し振りにパリ名物の地下鉄に乗りたいと思っていたとこだ」 当たり前のように、そんな優しい事を言うハリー。 「わざわざ出迎えなんかよかったのに」 「だあって、早く会いたかったんだもんよ」 自分も会いたかった、などとハリーが言うはずはない。 だが、目の奥に優しい笑みが見えた。それだけで、もう俺は……。 二人で地下鉄乗り場まで歩き出す。 「さっき俺が立っているの、すぐわかった?」 「そりゃあ、こんな派手で図体がでかけりゃ目印みたいなもんだ」 「何だかなあ、俺まるでカカシじゃん!でもま、のっぽに産んでくれた母親に感謝しなけりゃな」 笑い合いながら歩いた。 あの日々のように、同じ歩調で肩を並べて。