身体が痛い……。 身じろいだ途端、背中に軋むような痛みが走り、思わず呻いて目を開けた。 一人掛けソファにずり落ちそうになって眠っていたらしい。 長い時間無理な姿勢でいたせいで、背中だけでなく肩も首も腰も全身ぎしぎしと痛んだ。 痛む目を擦り辺りを見回すと、自分は戦場のような凄惨な部屋に居た。 「何だ、この地獄絵図は……」 目の前のローテーブルの上に、床に、空になったワインのボトルが十数本。そしてそれ以上のビールの空き缶が散乱している。 灰皿と空き缶におびただしい量の吸殻。食べ尽くされたピザや何かの惣菜の残骸。部屋にこもる酒と食物と煙草の臭い。 人間も居た。目の前のソファにコニーが死体のように眠っている。 昨夜、屋上で花火を見ながら酒盛りをして、花火が終わった後もまだまだ騒ぎ足りない『ネオ・トリアノン』のメンバーたちとこの部屋で再び宴会が始まったのだ。 酒の量が過ぎたのか、疲労からか、非常に目覚めが悪い。 そういえばあいつは? この部屋の主の姿が見当たらない。 立ち上がって寝室に行ってみる。 ドアをそっと開けると、目指す人物がベッドに居た。 「何やってんだ、こいつら……」 呆れてため息をつき、だが同時に可笑しくて笑ってしまった。 アクセルを真ん中に、キャンディとその恋人のセルジュが、両脇からアクセルに縋り付く格好で爆睡している。 三人とも子供のような寝顔で幸せそうだが、目が覚めた時、きっと彼らはこの状態に大騒ぎするだろう。 ドアを静かに閉めたところで遠くから誰かの声がした。 「ハリー……!」 と叫ぶような小声で呼ばれる。 「こっち……!」 声に導かれてキッチンに行くと、食卓テーブルに座って化粧を直しているマリーが居た。 『ネオ・トリアノン』の一番の古株で、レディ・ジョーの片腕となっているホステスだ。他のホステスたちに比べて落ち着いた大人という印象がある。確か自分より3歳ほど年上だと言っていた。 「おはよう、ハリー」 「おはよう……随分元気だな」 時計を見るとまだ7時前だ。 「あなたは『気分はサイテー』って顔しているわ」 頭が痛い、と言うとマリーは軽く笑って頭痛薬を出し、水を手渡してくれた。 「長い時間飛行機に揺られて、パリに着くなりこんなイカれたパーティに付き合っているんだから、頭痛しないわけないわ」 マリーは気の毒そうに微笑むと、慣れた手付きでマスカラを塗り始めた。 「女は毎朝大変だな……」 そう言うと、マリーはびっくりした顔で見上げてきた。 その顔を見てマリーが“女”ではない事を思い出す。 何となくバツが悪くて頭をかくと、マリーは俺ににっこり微笑みかけた。 「あら、嬉しい」 どうにも気恥ずかしくなるような眼差しから目を逸らして話題を変えた。 「ジョジョが居ないけど帰ったのか?」 昨夜は人一倍テンションの高かったジョジョが帰るとは思えないのだが、と訊く。 「風呂場よ」 水音は聞こえてこない。不思議に思って覗きに行ってみると、水のないバスタブの中で丸くなってジョジョが寝ていた。思わず苦笑する。 「当分シャワーは使えないな……」 「きっと暫くは起きないでしょうよ。あたしはお風呂に入りたいから帰るわね」 「送っていく」 立ち上がって、ドアに向かうマリーに声をかけた。 「この時間は昨日の祭りの余韻で浮かれた観光客も居るかもしれない。朝といってもこんな早朝だ。イカれた奴が居たって不思議じゃない」 その時のマリーは笑っているのか泣いているのか、何とも不思議な表情だった。 「優しいハリー……。あたしを淑女みたいに扱ってくれるのね……」 「……新聞を買いに行くついでだよ」 僅かな沈黙に困ってそう付け足した。 「そうだ!時間あるなら途中のカフェでコーヒー飲んでかない?あの子ったらコーヒー豆切らしちゃっているみたいで、どこ探してもないのよ」 時間なんていくらでもある、というより予定など何もない。 思わぬ人物からのモーニングコーヒーの誘いを、断る理由などひとつもなかった。 通りに面したオープンカフェに二人で座った。 この時間、通りを歩く人の姿はまばらだ。だが車の量は意外と多い。荷物を満載した家族連れ。おそらく郊外の田舎にでも行くのだろう。本格的な長いバカンスの始まりだ。 エスプレッソを一口すすり、マルボロに火を点けるとようやく生き返った気分になった。 「あなたとはまだ一回しか会った事がないなんて思えないわ。アクセルのせいね」 「あいつが日頃何を喋っているのか、知るのが恐ろしいな」 するとマリーはクスクス笑い出した。 「はっきり言ってベッタベタよ?こっちが恥ずかしくなるくらい」 「……そりゃ、聞かされる方はとんだ災難だ……」 あの野郎覚えてろよ、とマリーに聞こえない程度に小さく悪態をつく。 「最近、笑える話があったわ」 とマリーは思い出し笑いをしながらそう切り出した。 「あなたから『14日にパリに行く』って電話があった時、あの子携帯を握り締めて『夢だ!夢に違いない!』って大騒ぎ。よせばいいのにレディ・ジョーに『俺を殴ってくれ』って。信じられない事に、レディ・ジョーは拳で殴ったのよ。普通は頬をつねるか軽いビンタよね?アクセルは店の隅まで吹っ飛ばされたわ。『痛ぇじゃねーかクソオカマ!』って怒るアクセルに『痛いなら夢じゃないだろ。よかったじゃないか』ですって。そこであの子ったら『確かにそうだ』って納得するのよ?この馬鹿っぷり信じられる?」 聞いて、さすがに笑った。あの二人の派手な親子愛が目に浮かぶ。 「あたしはね、嬉しいの。あの子が人に対してこんなに真剣になっている姿って初めてだから。見た目はちゃらんぽらんで派手で、軽薄でいいかげんに見えるけど、本当は真面目で優しい男よ。不器用だからいつも誤解されているだけ。あなたは、もうそれを知っているんでしょうけど」 この人は本当にアクセルの事を大事に思っているのだろう、と痛いほどわかった。奴の事を語る時、酷く優しい目になる。 「あいつが優しいのはあなた方に愛されているからだ」 「じゃあ、あなたが優しいのはなぜかしら?」 コーヒーを口に運びかけて思わず手が止まった。 「……さあね。それに私は優しくなどはない……」 そう言うとマリーの顔が悲しそうに曇った。テーブルの上の俺の手を握り、顔を覗き込む。 「あなたが……あたしたちやアクセルに優しくしてくれる半分でも自分に優しくしてあげたらいいのに……」 男である事を放棄し、だからといって女にはなりきれない。そんなふたつの性を併せ持つマリーは“人”として自分よりはるかに懐の深さを持っているような気がした。 マリーはウエイターを呼び止めてレモネードを注文した。 「好き?」と訊かれて嫌いではないので頷くと「ふたつ」と付け加えた。 「朝からたくさんお喋りしたから喉が乾いたわ」 やがて運ばれてきたレモネードの二杯分の代金を「送ってくれたお礼に奢らせて」と言ってマリーはウエイターに支払った。 素直に礼を言ってその好意を受け取る。 こういう物を飲むなんて何年ぶりだろう。 トールグラスの中の明るいレモンイエロー。氷の隙間をぬって気泡が上へ上へと立ち昇って行く。 「フランスのレモネードは炭酸が入っているんだ……」 そんな事も忘れかけていた。アメリカのレモネードに炭酸は入っていない。 パリに住んでいた子供の頃、大好きだった事も思い出した。 ストローを使わず一口飲む。弾ける気泡の刺激と甘酸っぱい味。 「懐かしいな……」 「ハリー、あなたの子供の頃ってご両親に愛されて幸せだったでしょ?」 「そうかもしれない……子供の頃に飲んだレモネードに、いい思い出があるって事は幸せだったからだろう。あなたはどうなんだ?」 マリーはストローをくるくる弄びながら、目の前の物を遠い目で見つめていた。 「両親は早くに亡くなったの。大きくなるまで親戚の家で過ごしたわ。あ、でも不幸じゃなかったわよ?“オカマのマリー”になってから今はもっと幸せ」 「実は私の母の名もマリーというんだ」 そう言うとマリーは、そうなの!?と嬉しそうな顔をし、そしてはにかみながら秘密を打ち明けてくれた。 「……本名はボリスっていうの」 「ボリスか……。いい名前だけどマリーの方が似合っているな」 「あなた、本当に優しい人……」 そんな事をしみじみと言われて返答に困っていると、続けてマリーが口を開いた。 「ハリー、あなたはこのレモネードみたいだわ。キリっとしていてぴりっと刺激的で、酸っぱくって少しほろ苦くて、でも甘くて懐かしいの……。今も、これからも幸せでいて欲しいわ。アクセルのためだからというんじゃなく、あなた自身に幸せでいて欲しいの」 母親と同じ名前を持つこの人は、美人というわけではないが笑顔がとびきり綺麗だと思った。甘くて懐かしいという感覚は俺の方だ。 ありがとう、と言うと、グラスの向こうでその笑顔が炭酸の泡のように弾けた。 すぐそこの角を曲がったとこがアパートだと言うマリーとはカフェで別れた。 俺はそのまま留まり、レモネードを飲みながらウエイターに持って来させた新聞を読んでいた。 何も予定がない休暇の朝。誰にも邪魔されず、ひとりぼっちの時間を贅沢に過ごす。 通りが適度にざわついてきた。車の量がさらに増えてきたようだ。それでも、そんな雑音も屋外ならではで、吹く風と相まって心地いい。 だが、一人贅沢に過ごす気ままな時間は長くは続かなかった。 視線を感じる――。 ピン、と己の気が張りつめた。長年の条件反射。 紙面に顔を伏せたまま意識を目と耳に集中させ、全身の肌で気配を探った。 他の席からも店の奥からも、通り過ぎる車からもビルの窓からも、不穏な空気は感じない。 ただ、少し離れた前方の席に座る男がこっちをじっと見ていた。 こいつ……か――。 顔を上げて正面からその男を見る。 男は俺と目が合うとにっこり笑った。 そして席を立ち、自分のコーヒーカップを持ってこっちに近付いてきた。 「きみ、一人?」 「……」 「ここ、座ってもいいかな?」 男は俺の返事を待たず勝手に隣の椅子に座った。 素早く男をリサーチする。 年は30代半ば、そしてたぶんイギリス人だろう。この男のフランス語は若干の訛りがある。ウオール街辺りに居そうなビジネスマン風。観光か仕事かわからないが、今のこの男の服装は品のいいカジュアルなものだ。 きな臭さは感じない。だが男の目の奥に好色そうな光が見え隠れしていた。 ああ、何だ……。 俺はようやく緊張を解いた。 「何か用か?」 つい憮然となった声色に男が苦笑して、だが嬉しそうに喋り始めた。 「失礼。きみがあまりにも素敵なんでつい見惚れてしまった……許してくれ」 直球なセリフに面食らった。 「私は男なんだが」 「もちろんわかっているよ。女性より美しいハンサム・ガイ」 あやうくレモネードを吹きそうになった――。 どんな国にも、どんな街にだって、必ずこういう輩は居る。 恥ずべき事だが、自分はたまにこんな風に男から声をかけられる。 飲みに行こう、と普通に誘われた事もあれば「そういう」視線だけ送って、声をかける事を躊躇っている奴も居た。尤も、直接行動に出る奴よりじろじろ見られるだけの方が多い。 だが、深夜の繁華街で泥酔した男に「いくら払ったらファックさせてくれるか」と露骨に言われた時は、思わず相手を蹴り倒していた。 目の前の男からは危険な「気」は感じられなかった。血の臭いもしない。 どこかのエージェントでも、同業者でも、ましてや殺し屋などではなさそうだ。 「お前は男が好きなのか?」 「僕は男でも女でも美しい人が好きなんだよ。きみ……凄く綺麗な瞳をしているね……」 これでもかとばかりにスラスラ出てくる気障なセリフが面白い。 「イギリス人か?」 「そうだよ、よくわかるね!?」 「じゃあ英語で話せ。お前のフランス語はわかりづらい」 「ああ、ごめんよ。きみは英語大丈夫なんだね?」 それには答えず質問をぶつけた。 「普通に女が好きなのに、男も好きだというのは一体どうしてだ?それは女を愛する気持ちと本当に同じ意味の感情なのか?それとも男同士特有のセックスが気持ちよくて、それを得たいがための感情なのか?お前はセックス抜きで男を愛せるのか?」 今の時刻は午前8時20分だ。俺は朝っぱらから「セックス」という単語を二度使った。 男は微動だにしないで沈黙している。 今、頭の中で目まぐるしく脳が情報処理に追われているのだろう。辛抱強く待ってやる。 「質問に答える前に、まず言わせてくれる?」 うろたえた調子で、だが真剣な面持ちで、男が両手を上げて言った。 「今の……英語で喋ってくれて助かるよ。フランス語だったらこんな難しい話、絶対理解出来なかった。それと完璧なキングスイングリッシュだったんだけど……。フランス語もネイティブだったし。きみ、一体どこの国の人!?」 男の素朴な疑問には答えず、顎をしゃくって回答を促した。 「えっと、そうだな……。僕は女に対する気持ちと同じ感情で男も愛するよ。なぜだろうな……、魅力的な人には性別は拘らなくなるんだ。男とのセックスは好きだけど、それが目当てじゃないよ。それが目的の奴もたくさん居るだろうけどね。でも、僕は好きな人が嫌がったら無理にそういう行為はしないなあ。本心ではしたいけどね」 男はそこまで言うとコーヒーをあおった。 このナンパ男はもしかしたら結構いい奴なのかもしれない。話の内容がではない。いきなりぶつけられた質問に、下心があるからなのかもしれないが、一応きちんと答えてくれたからだ。 「わかった……。ありがとう」 礼を言うと男は嬉しそうに笑う。 「きみ、綺麗なだけじゃなくて面白いね。ぜひお近づきに食事に誘いたいんだけど」 「私と寝たいのか?」 単刀直入にそう訊くと男は酷く動揺した。 「す、素晴らしく大胆な質問だね……。ええと、それが目的ではないけど。でも、もしそんな事になれたら……う、嬉しいかな」 「悪いが他所をあたってくれ。私はそういうのは無理だ」 お前との話はこれで終わり、とばかりに新聞に目を戻したが、男の手が伸びてきて手首を取られた。強引ではないが強い意志のこもった手だった。 ギロリと睨んだがそいつは怯まなかった。 「無理強いはしない。でも、せめて友達になるチャンスをくれないかな」 必死な眼差しに少し驚いた。そしてため息をつく。 「お前が悪い奴じゃないのは何となくわかる。不躾な質問に答えてくれた事にも感謝する。だが、ほんの僅かでも下心のある男と食事をしたりすると、私の友人が気にするはずなんだ。友達になれるかどうかはわからないが、チャンスというならまた偶然会えたら、その時はコーヒーを飲もう」 「身持ちが堅いんだなあ。ますます魅力的だよ」 男は苦笑した。 「おにーさん、俺のツレをどーするつもり?」 いきなり背後から声が降ってきた。 驚いて振り返ると、やたら長身の男が咥え煙草でニヤニヤ笑って立っている。 ピンクのサングラスにキャスケット、派手な花柄のシャツにじゃらじゃらしたアクセサリー。おまけに若者に流行りらしい顎髭。 お前はどこのチンピラだ……! 「きみ、誰?」 男は突然現れたチンピラにビビっている。 「んー、正義の味方。でもってこの人の、愛人?」 馬鹿か……。 手ェ離してあげてよ、と言われて手首から男の手が離れた。 「お前、何やってんだ?こんなとこで」 「それはこっちのセリフだっつーの!あんたこそこんなとこで何ナンパされてんの!」 やり取りを聞いていた男が少々強気な目で見上げた。 「きみみたいな人が彼の愛人とは思えないよ」 「じゃ、愛人候補。おにーさんこそこの人に何したいワケ?」 「な、な、何って……」 「抜けがけはノン!だぜ?どうしてもって言うなら3P。それ以上は譲れねェ」 「譲らんでいい!行くぞ!」 真っ赤になって凍りついている男を残し、立ち上がってチンピラの襟首を引っ張った。 とんだ正義の味方だ! 「で?お前、何であんな所に居たんだ?」 そう訊くとアクセルは「コレよ」と手の中の包みを持ち上げた。 「コーヒー豆切れてたからさ。俺はいつもあのカフェで買ってるのよ。おかげで面白いモノが見れたぜ」 「いつから居た……?」 「『女性より美しいハンサム・ガイ』ってとこから。笑えたね、あれは」 そんな早くから男とのやり取りを楽しく傍観していたらしい。 「そのあと、早口で英語の会話になったからよくわからなくなったけど、でも『私と寝たいのか?』ってのはよーく聞こえてたぜ?」 アクセルは顔を覗き込んでニヤニヤ笑う。思わず舌打ちした。